明治後期から昭和をかけぬけた市場人、佐藤春吉氏の自伝。市場の成り立ちや戦後の混乱期等、知られざる事実が数多く語られている重要資料。

日本生花市場協会・協会長、東京園芸市場社長 佐藤春吉氏

東京園芸市場の住所は、台東区東上野2-18-20

もとは、現在の秋葉原駅がある場所、

東京中央青果卸売市場、神田分場の中にあった


江戸時代からの花木(花と枝もの)の里、赤山で生まれた明治後期の少年が努力の末に園芸市場の社長になるお話。明治後期から昭和をかけぬけた市場人、佐藤春吉氏の自伝。市場の成り立ちや戦後の混乱期等、知られざる事実が数多く語られている重要資料。

植木の里・安行が話題になることが多いが、こちらは赤山の少年。フラワーデザインのパイオニア、長野松代生まれの永島四郎氏とは一歳違いの同世代。

終戦後、日本を占領した米軍に対し、日本政府は無料で花を提供したという。東京で焼け残っていた花市場は下谷市場だけで、ここを拠点に花を手配していた。


『私の歩んだ道』③ 北小路 健 著 産業研究所 昭和38(1963)年


※文章の中に、現在では不適当と考えられる言葉が使用されていますが、当時の状況を知るためにそのまま記載します。


花の懸け橋として   佐藤春吉(さとう・はるきち)



街に溢れる花


街には花が溢れている、などという文句は、すこし、キザっぽいものかもしれぬが、私には、商売柄か、うかつに見過ごせぬことなのだ。

まったく、このごろの街には、百花が美しい姿態を競い、馥郁たる香りをただよわせていることに、いまさらながら驚かざるをえない。

公園はむろん、商店のショー・ウインドーのガラスの中、喫茶店のドアごしに、プラットフォームの柱に添う花瓶、はては、麗人の胸元のアクセントとなる一輪まで、数えあげたらきりがない。 

花は、平和のシンボルといえよう。北海道の札幌の大通りは、北の都らしく闊達に区分され、広い面積をもち、中心部には花園があり、行人の足をとめる、という。

が、私の知っている北海道は、ひどく憂鬱なものであった。戦時中、私たち、花卉を扱う業者は、勤労奉仕隊として編成、夕張を中心に三鉱へ割り当てられ、強制労働につかせられた、苦しい記憶があるからなのだ。毎日、暗い地底の切羽(きりば)へもぐりこんで、先山(さきやま)をやった。

受持ち区域を終わらぬうちは、何時になろうが、地上へもどることは許されない。俘虜として狩り出された三国人たちと、黒い汗を流しながらの日々を、過ごしたのだった。


※佐藤氏は明治29(1896)年に生まれているので、50歳手前という年齢で、東京から北海道の炭鉱へ送られるというのはどういうことであったのだろうか。


しかし、その北海道は、この上なく、自然の美に恵まれた風土でもある。私は、北の都が、昔に倍して余裕を取りもどしたことに、暗い戦時中を思い浮かべながらも、喜ばずにはいられない。

これらのことからも、私が生業としているところの花が、世の中に、明かるさ、晴れがましさ、生きる喜び、などをばらまいていると考える時、胸を張って、自己の仕事を誇りたいと思うのだ。

たとえば、明日にも処刑されるかもしれない死刑囚にとって、一輪の花が、いかほど、慰めになるであろうかは、想像に余りあるところだ。また、病床に身を横たえている長わずらいの人にとっても――。その他、学校、公会堂、ホテルといったふうに、花はいたるところで、数知れぬ人たちに、生の喜びをわかち与えているにちがいない、と思う時、私は、この仕事にいっそうの生き甲斐を感ずる。


荷車を引いて一〇里の往復


私の生家は埼玉県川口市大字石神で、農業を営んでいたが、子供の時から花に囲まれて生育した。というのは、家で花を栽培していたからに外ならない。

※石神は、植木で有名な安行、花木の特産地・赤山地域に隣接している。赤山および神根で生産される花や枝ものは江戸時代から「赤山物」としてよく知られていた。現在、東北道と外環道が交差するジャンクション(川口料金所)のある地域。


明治二十九(※1896)年三月十五日、男四、女一のきょうだいの三男として、呱々の声をあげ、神根村尋常四年、鳩谷高小四年の計八年を終えると、家業の手伝いについた。

高等科の修業中、日光拝観のための、修学旅行にも参加できぬような経済事情が起き、子供の身ながら、いろいろ考えさせられた。

ある時、花見のおり、隅田川堤、鹿浜の桜狩りにでかけ、あわせて、上野の動物園見学を計画したことがあった。

六名の学友と、舟で、千住大橋まで出、そこから上野への道を聞き聞き、歩いているうちに、すっかり、くたびれ、上野駅に着いたものの、動物園どころではない。切符代を、各人から集めて、ひとまず赤羽までもどり、荒川岸で、たまたま見つけた馬車に、くたびれきった下級生を乗せ、鳩ヶ谷の親戚へ泊るように指示した。

あとの五人が、重い足をひきずっていると、ぱったり、先生に逢った。先生方が、帰りのおそいのを案じているという。やむなく、学校へたちよると、

「よかった、よかった、なにごともなくて……」

ということばに送られ、ほっと、家路に着いたわけである。

翌日、原因を調べられたあげく、無断他出を責められて、一週間というもの休み時間中、立たされてしまった。それ以来、子供心にも非を悟って名誉挽回を期し、その年、優等生の賞状を得るまでに努力したのである。

卒業は十五歳の時(※明治三四年頃)であったが、農業のかたわら、キュウリ、インゲン、ヤツガシラ、ショウガなどを、うずたかく荷車へ積んで、東京の神田や千住の青物市場へ運ぶ役目もやらされた。

当時は、いまのように、トラック、オート三輪などあるわけではなし、荷馬車、荷車が頼りだったのである。

いまでも、記憶になまなましいが、小さなからだで、埼玉から東京まで五里、六里、往復では一〇里、一二里の道程を、荷を五〇貫(187.5kg)の余も積んで、エイコラ、エイコラ引いていっては、もどってくる。

一日では往き復りができず、午後に出かけて東京に一泊し、朝、荷車をひいて帰ってくる

いまでも忘れられないのは、青物市場へ行った帰り路、帝大前をよこぎり、いまの追分あたりへ出ると、左が中仙道、まっすぐ出て、日光街道へ向かう細道へ出る。すると、前方から、巨大な、(当時は、正直そう感じた)馬車がこちらへ向かってくる。どうしても、狭くてかわせないので、広いところまで引いていって、馬車の通過を待ったものだ。

いまなら、トラックで、瞬く間に集荷、運送するものを、そんな手間暇かけた方法をとったことが、なつかしくさえ回想されるのである。

それまで、生家では、庭木、植木をそだてるほか、軟化栽培によるショウガ、ミョウガなども手がけていたのだが、中間地帯ともいうべき土地柄なので、

「こんご、なにを、重点的に栽培して行ったらいいか」

と、兄弟三人ひたいをあつめて相談の結果、

「消耗品である切り花が、将来性もあり、いちばんいいのじゃないか」

ということになって、その後は、切り花の生産に力をそそぐことになった。


妻の内助にはげまされ


その後、私は、切り花の温室栽培における技術修得の意味もあって、日暮里にあったひぐらし花壇(※「ひぐらし花壇」は不明。日暮里は植木屋があつまる染井駒込地域にも近く、「ばら新」など洋花生産の先進地でもあった。)という温室屋へ見習いに入った。

築地の精養軒(※当時の最高級フレンチレストラン。鴎外の短編「普請中」にも出てくる)の、テーブル装飾を請負っているほどの店で、切り花というものを勉強するには、有益なものがすくなくなかった。

私は、そこで、基礎的な勉強をコツコツやり、ずいぶん、得るところがあった。

まもなく、徴兵で、国府台(こうのだい)の野砲十七連隊へ入隊することになった。大正五年のことである。三年間の軍隊生活は、精神面に、肉体面に、練磨されるものがすくなくなかった。二年目に上等兵、三年目に下土勤務上等兵、除隊のときには、下士適認証を与えられた。

除隊後、一年間は、実家で生産の手伝いをやったが、

「生産をするには、なんといっても、消費面がわからなくてはダメだ」

という考えから、芝区の柴井町(新橋駅近く)へ売店を開設したが、間口二間、奥行八間ほどの店であった。

この間、大正十一(※一九二二、震災の前年)年、二十八歳のおり、妻と結ばれるにいたったが、妻の内助の功が、今日の私を築くのに、あずかって力があったと、ふかく感謝の念をもっている。妻が、切り花の加工を、ほとんど引き受けてくれたので、安んじて卸販売にしたがうことができたわけだ。

当時は、サカキがたいへん売れ、どうかすると、日に一〇俵も捌いてしまう。妻が主力になって、夜明かしでサカキづくりをする。枝葉を切りとり、神棚にまつるに手ごろの大きさにして一対につくる。これは、仙台屋敷あたり(※汐留)をお得意にしてのことだったが、サカキの花をつくる。たいへんな仕事であった。しかし、妻の手先は、ますます熟練度を増し、生産量もみるみる上昇してきたから、注文に追いつき、やってゆけた。

仏花も、よく売れたものである。しかし、盆をあてこんで作っていたのが、しこみがあまり早すぎて、売れなくて弱ったというふうな、苦しい経験もないわけではない。

卸の面まで力が伸びたのは、兄が、切り花の生産面に力をそそいでいたせいもある。仕入れが潤沢で、品種を豊かにもっているから、いつのまにか、余力が生じた、といっていいかもしれない。しかし、やがて、兄だけでは仕人れも追いつかなくなり、新たに、仕入れ先をふやさなければならなくなった。


火の粉の雨


だが、いいことばかりはつづかぬもので、一年八か月ほど経った時、例の関東大震災に見舞われることになるが、その間、店を譲渡してもらい、営業権を獲得して、なお、二、五〇〇円ほどの蓄えをもつにいたった。

大震災では、たちまち、火の手におそわれ、火勢から判断して、品川方面へ向かって逃げだした。

火の粉が、ちょうど、桜の花びらでも散りしくように、一町もの間を、おおいつくしているのである。大八車に家財道具を満載して、増上寺へ向かって避難しようとしていたが、仙台屋敷の方向より風にあおられた火の粉の雨に、身の危険を感じ、妻と店の小僧を芝公園に退去させて、私ひとりで車を引き、火の粉のなかを突き進んだ。

赤い雨の中心部へ入ってゆくと、火の粉にからだ中がたたかれ、にっちもさっちもゆかなくなる。頬に火の粉が吹きつけてきて、痛さをさえ感じるのだ。

よほど、逃げてもどろうかと思ったが、最後の五分間、まったくの話、精神力というやつの支えで、車の柄をはなさず、ついに、火の粉の海を泳ぎぎったのである。

これは、軍隊で三年間、みっちり鍛えられたことも、ずいぶん役立ったように思う。忍耐心養う点では、軍隊というところほど、便利なところはなかったようだ。

その夜、三人は、赤穂浪士で名だたる高輪の泉岳寺境内ヘー泊し、夜を明かした。それから、三日間、三田の、焼け残った花茂分店(※現在の三田ハナモ=東京生花)へ厄介になり、ひとりで埼玉県の実家へたどりつくことができた。その時、上野の松坂屋附近は焼けており、銀座通りの電線の下には、死体がころがっているという惨状だった。

その日のうちに、三田の花茂分店に帰り、屋外に家族ともども寝た。食糧不足のおりとて翌日、埼玉から食糧をリヤカーではこび、旧隣家にも分けたりした。避難民は、芝公園に集結していたが、食物はたいへんな貴重品だったわけだ。

翌日自転車にのって、深川の親戚をたずね、無事、避難したのを見届けることができたが途中、被服廠あとの死人の山や、河水の中の惨怛たるさまは、地獄を思わせるものがあった。しかし、洋館建ての堅牢な建物は、被害をまぬがれていた。焼け跡の人の集まるところに、朝鮮人暴動のデマがとんだりして、おおくの人を動揺させたものである。

まもなく、小石川区駕籠町(文京区本駒込)のセトモノ屋のあとをひきとって、店舗を花屋に改装した。間口二間、奥行一〇間ほどの店だった。

芝の柴井町時代からの知り合いで、花月食堂など丸ビル方面にまで出入りしている、生花のお師匠さんがいたが、そのお力添えで、立て直しに拍車がかかった。

震災直後は、「花より団子」のたとえどおり、一般的に、花の売れ行きはよくない。が、亡くなられた方々の霊前に供える花が、飛ぶように売れるようなことから、いくぶん、忙しくなってきた。


生花市場の誕生


小売りは、妻と店の者にまかせ、私は、仕入れと、埼玉で生産された花を、都内の同業者へ卸すことを主とした。

注文品はよかったが、その他のものでは、とかく、文句が出て、受け入れを拒まれることがおおかった。

このころ、アマリリスの花が十文字に咲くことを嫌う店があった。妙なかつぎかたをしたものである。が、温室ものは喜ばれ、量のすくないせいもあって、売れ行きがよかった。

埼玉での温室生産は、弟が受けもち、兄は、徒弟を連れて、梅類、桃類、三朱梅、連翹、白蓮、椿類、柳類、伊吹、などの生花材料から、雪柳、小手毬、紅露、つつじ、その他、かずかずのものの生産増強をはかった。

これに平行して、東北、北海道方面からも、庭木、植木職業者が、切り花の販売のもようをたずねに、おとずれて来たりした。新規開業者との取引きも、ボツボツはじまり、地方の開発にも骨を折った。

のちに、東京市場(※大正十二年暮れの高級園芸市場開場を嚆矢として次々と市場ができた)が開設されるにおよんで、私は、東京農花園を手がけるようになり、地方移出(※いわゆる送り屋か)がはじまって、埼玉花卉の名は全国的に知られることになるのである。その後、戦前だけでも、三〇有余の花市場が生まれるさきがけとなった。

当時の風潮としては、花は、買ってまで飾るものではなく、もらったからさす。庭に咲けば、仏様へ上げる、というようなものであった。

それが、花市場の発展とともに、需用者が急増したのは、おもしろい現象だと思っている。

震災後でも、秋がくれば、花は咲く。しかし、市内の問屋は全焼しているから、扱ってくれる問屋とてない。これでは、せっかく咲き盛った花に対しても申しわけない次第だし、花作りとしての冥利につきるというわけで、生産者が立ち上がった。

大日本園芸組合という、全国的な団体があった。そこの幹部がよりより話し合った結果、組合組織にして。高級園芸市場を設立する運びとなった。

日比谷公園のとなり(※現有楽町ビルの場所で、実際はだいぶ離れている)にあった焼けビルを借りて、市場を開設し、理事長の伴田四郎(※ともだ・しろう、組合長は烏丸光大氏)氏が先頭にたって、せり台に上がり、公正をむねとするせり売りをはしめた。このため、市内の販売業者は、喜んで、買人となり、いっそう盛大になったのである。

年の暮れも迫ったある日、一把の温室テッポウユリが出た。買人二人のせりこみとなり、五〇銭にはじまって、一円一〇銭までも行ったが、とどまるところを知らない。せり代が困った揚句話し合いとし、一円の値で、二人で分けてくれとたのみ、やっと話がついたことがある。一把五本で一〇輪あったから、三本と二本の五輪ずつで分けた。こうして、東京市場のテッポウユリははじめて輪扱いになった、というようないきさつがある。

次ぎのせり見習は、茂野鉱一郎氏にひき継がれ、現在なお、せり代として、第一人者の盛名をほしいままにしている。

市場開設については、問屋業者は、あまり喜ばない。しかし、時代の趨勢から見て、流通の道は、市場以外にない、という声が大になったのである。

同時に、新しい問屋筋が、市場経営へと発展し、戦前、三、〇〇〇有余にのぼった買人も呼応して、この空気は、日増しに強くなった。とくに、温室の生産増強はめざましく、取引きが、販売業者と直結しているため、値の上昇と、消費の増加をもたらしたのである。このため、発展の一路をたどることとなり、中京、関西、中国、九州にまでおよぶことになった。

私もまたこの時、洋花を各地に移出して、いささか、発展に寄与し得た。

花市場の働きは、めざましいものになり、日々成長をたどっていった。

生物(なまもの)における、市場の社会性というか、生産品が需用とマッチした時は、公平な相場ができて、発展を呼ぶわけなのだろう。

私どもの、東京農花園(※自家と赤山を中心とした荷を扱う卸売り会社と思われる)も、同じ大正十二年十一月に生まれた。震災で手痛い目にはあったが、東京に花の枯れないかぎりは、花の命もあり、需用もある。

「生まれたかぎりの花は、われわれのところで、売らなくてはならない」

の気概で、当時の友田(※伴田)理事長が熱心にせる。が、道楽に園芸をやっている人たちもいて、せっかくの相場に、妨害が入ることも珍らしくなかった。

(※暴騰しないように、土倉氏らが独自の値段で売っていたというのはこのことか?上限を決めていた?

「開けたところが花が高い。生産者の土倉さんと加藤さんと伊藤さんの三人が今年はいくらで売ろうときめとそれで押し返す。」)

https://ainomono.blogspot.com/2022/10/99.html


市場が生まれて、生産者にぐあいのいいことは、問屋との顔がなくなって、どんなものをつくっても、いいものは高い値ではけるということだ。関西、中国、四国、北海道、どこへでも捌くことが可能になったわけである。

要するに、従来のような、顔をきかす悪習を断ち切って、品物しだいで、どこへでも売ることができるという、この上ない成果を生み出したということである。


盆栽村で疎開


東京より二、三年おくれて、神戸、横浜にも花市場が生まれた。戦後は、市場同志による花の流通と、農林省の、花卉園芸に対する理解がふえたことなどから、花市場は、いっそうの発展をみた。

今次、大戦のあと、東京で焼け残ったのは、下谷市場だけであった。マッカーサー元師が米軍の最高司令官として荒廃しきった日本本土へ上陸した時、

「アメリカ人は、花好きだから…」

といったとかで、進駐軍将兵をもてなす意味から、日本政府は、下谷市場から、大量な花の買付けをした。そして、駐留軍に対し、何年か、無料サービスをつづけた模様である。

戦争中は、むろん、●(丸に公のマーク=公定価格)であったのだが、本来、花というものは外の品との比較が、たいへんむずかしい。それに、●(丸に公のマーク)は安すぎるので、値があって品がない、という現象を呼んだ。戦後も、 の枠(ママ、マル公の枠?)はありはしたが、当時の東京生花商組合から、農林省に対し、

「花のばあい、●(丸に公のマーク)では、取引き上こまる」

と、抗議したこともあるが、ともかく、いちばん先に●(丸に公のマーク)をはずされたのは、花なのだ。青果物ははずされぬのに、花だけははずされた。そのせいかどうか、急速に、警察から刑務所まで、花で囲まれるようになったのだから、たいへんな変化といえよう。

私どもの、本郷の店が戦災をうけたのは、二十年三月のことで、それを機に、大宮の盆栽村へ疎開した。これは、現在の大宮市にあって、東京の盆栽屋が一〇数人こぞって、ここへ土地を借り、集団盆栽経営地という、変わったプランの土地を作ったのである。

それというのが、国電の発達とともに、列車の停車駅が削減されたのだが、大宮はそのまま残され、その上、急行もとまるというので、朝鮮、北満への発送にはたいへん便利であった。そのため、昭和十二年らい、盆栽村に、荷造り場や住まいを完成していたことによるのである。(※安行・赤山・大宮盆栽村といった関東の花卉生産地のネットワークが見えてくる)

私は、戦火をあびて焼け出されたあと、子供たちのことも考え、この地へ移った。

昭和二十二年のこと、高級園芸市場で、せり代をやっていた、平戸氏という方がやって来られた。

「なんといっても、花卉産業発展のためには、花市場がいい。こんごの花の助長には、市場以外ない」

と感じていたおりでもあり、平戸氏から、

「実は、東京中央園芸市場の株主が一人亡くなったのだが、きみが、肩代わりしてはどうか」という案を示されたので、考えたあげく、お引き受けした。東京中央園芸市場は、現在の東京中央青果卸売市場、神田分場の中にあった。

(※この市場の花卉部の近くに大石寛氏の花店があり、戦後のフラワーデザイナー教育のホットスポットになっていく)


やがて、市場は、青果のほうが多忙になったので、花卉部は解散した。しかしその後、同じような形態のものを、昭和通りをはさんだ反対側へ設け、株式会社東京園芸市場と称して、私は、その社長に就任した。――昭和二十三年九月のことである。

当時、生花市場は、都内に三〇くらいもあった。が、花だけでは、業界の精神面からいって、ひ弱である。そこで、花市場は花市場であっても、他に、種苗、球根、というふうに、各部をつくったが、また、現在の建築様式にも合致するというので、海洋植物関係のものもつけ加えた。(※海洋植物とは観葉植物を指すのではないか?)


八丈・奄美大島を踏査


海洋植物、球根関係では、八丈島・奄美大島のことがある。昭和三十年九月、奄美大島が、日本へ移管された(※日本国の主権回復から一年遅れて、昭和二八年一二月に本土復帰)ということから、県庁の方が見えられ、

「換金できるものは、金にかえたい」

とのことで、現地におもむき、県庁の車で視察したところ、ヤシ、ソテツ、テッポウユリなど、たいへん有望に思えた。

「生産、販売、両面の指導も、よろしくたのむ……」

との希望も出たのでさしあたって、

「ソテツの苗が、房州、関西方面にむくと思われる。お出しなさい」とアドヴァイスし、また、こちら側で買付け輸送もおこなった。戦前ほどでないにしても、こうして、奄美大島からの集荷も可能になった。

しかし、球根は、やはり、日本では、新潟産が最良のものに思われる。

小須戸町(※現在は新潟市秋葉区)の木村広花園と話し合って、新潟の花を、生産者に斡旋する路線をつくった。また、冷凍会社と話し合いして、チューリップ、アイリスなどの温度処理をはじめ、処理されたものを、房州、伊豆、埼玉などの生産者に分配する道も切り拓いた。

参考までに、市場で、もっとも人気のある花を示してみると、キク、カーネーション、チューリップ、ユリ、その他という順序になる。

東京における出荷地としては、静岡、埼玉、干葉、長野、神奈川、愛知、東京などが主なところである。

消費者としては、一般家庭が圧倒的で、六五%、営業用が、テーブル装飾などをふくめて、三〇~三五%ということになろうか。


懸け橋として花に生きる


花を扱うものには、生産者の農民、それに、小売り屋、問屋、花市場とあるわけだが、いまは、市場がいちばん勢力があるように思われる。私じしんとしては、花だけでなく、植木なども手がけたいと望んでいるが、それにしても、花市場も近代化の必要に迫られている折から、今年あたりは、欧米先進国の視察をしてきたいと思っている。

私は、昭和二十七年から、日本生花市場協会の協会長を二期、組合長を二期、勤めさせていただいてきた。

よく、私個人の発展の因をたずねられるが、これには、「努力」と答えるより外はない。震災前後の年末の多忙期は、二時間か、三時間しか寝ないこともあった。人手は、多いときで三人ぐらいだったと覚えている。 

市場で買い付けしても、品物の配達を、手をこまぬいて待っているようではダメだ、という考えから、昭和三年にオート三輪を購入した。次ぎに、ダットサンも入れたが、花屋では早いほうだった。卸と、輸送設備への投資、これは、車の両輪のようなものといえよう。

それと、地方への宣伝ということで、年に二、三回は、地方回りもしたものである。ムダのない通路をつくることが大切だと考えている。

私が、わずかにせよ、業界に果たした功績、ということになれば、拳げるほどのことではないが、八丈島と奄美大島の開発ということになろうか。

これは、たまたま東京園芸市場として踏査したものであるが、そのため、ソテツやヤシが各地へ行きわたることになったのは、事実のようだ。

また、従来の種目を越え、ショウブ、種苗、海洋植物なども扱って、多角経営にふみきったことが、先鞭をつけたといえるかもしれない。今後の進み方として、一つの示唆になればと考えている。

それと、公共性ということを忘れては、業者の発展もないわけで、それを常に念頭におく必要があろう。

また、私は、花市場の、日曜の週休制にもふみきった。そして、東花連、関協組の一六市場の協同で、日曜市場を経営するにいたった。

しかし花卉商売というのは、しょせん、零細企業の域を脱してはいない。業界の特殊性を、じゅうぶん考慮し、生産、販売の面を処理してゆかなければ、今後の発展は望めない。と考えている。

とくに、東京の業者は、資産の蓄積がよくない。家があり、いくらか預金がある、という程度なのだ。これは、震災や戦争のせいもあるが、大阪の業者は、長者番付へ二名も入っているということと対比して、反省する余地がある。まだ、問屋から、小売り屋へ卸している、といった癖が抜けていないのは困りものだ。

だから、常日ごろ、「経費の節減」と「公正明朗」をモットーにし、農民と業者の懸け橋として、身を粉にして尽くす、ということを念願にしている。――私が、生産者の出であることから、とくに強調したくなることかもしれない。

 花で飾られた街を見ることが、楽しくてたまらないような男なのだから、私は、花を扱うことに、生き甲斐を感じている点では、人後に落ちぬと自負してもよかろう。


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