花市場ができた当時の状況 高級園芸市場の理事長をつとめた伴田四郎氏のはなし
セリをする花市場(イチバ)というのは、いまは、当たり前だけど、今から99年前は、こういうシステムがなかった。だから、花の流通は、切り出し屋(仲買)がいて、問屋がいて、花屋がいて、そういう人が栽培者をコントロールしていた。
大正時代になると、
アメリカで花の仕事を経験していた人たちが帰ってきた。排日運動が始まっていた。自分のアメリカでの将来に見切りをつけた人もいただろう。日本はヨーロッパを混乱させた第一次世界大戦のお陰で景気がよかった。そこに、関東大震災が起きた。花なんか売れないとみんな思った。でも、そうじゃなかった。困難なときほど、人は花を求める。これは、歴史が証明する。困難なときほど、人は花を求める。そういうタイミングで日本では生産者がオークション形式の公正な花市場をつくった。高級園芸市場である。
その当時のことを、仕掛人が自ら語っている。
生産者にとって公正なイチバができたことで、今まで疑心暗鬼だった人たちが花をつくりはじめた。そして、儲かった。これで、大正時代の後期から日本の花産業は本当のスタートを切ることになる。
東京市 蒲田区六郷町 伴田四郎 ともだ・しろう
花卉栽培及花卉市場 大日本園芸組合副理事長
明治二十六年(※1893年)十一月東京市、日本橋区に生る。大正四年三月東京帝国大学農学部農学実科を修業し、翌五年九月現住所に温室及フレーム等の施設をなし、爾来地方に副業的園芸栽培の指導奨励を行い、大に成績を挙ぐ。大正十二年十二月高級園芸市場設立せられ、該生産者自ら市場を経営し、需要供給の円滑と、品質の向上とを図ることとなるや、選ばれて其の理事長となり、日夜業務に精励して、従来難事と認められたる生産者の市場経営に成功し、現在東京市に於ける有力なる花卉市場として推称せらるるに至れり。なお荏原園芸組合副組合長、大日本園芸組合副組合長、東京府園芸組合連合会副会長の任に当り、其の他多数の同業団体に関係し、園芸発達のためにつくすところ少なからず。(『有栖川宮記念厚生資金選奨録、第2輯』 高松宮家 編 高松宮 昭和8至9年)
※ 関東大震災の直後である、大正12年12月20日に高級園芸市場組合が創立。母体となったのは東京温室組合で、有力なメンバーには、品川の烏丸農園、六郷の伴田農園、等々力の富士見農園、生産者でもあり、有楽町に種苗店も開いていた東京農産商会など。市場の創設にあたっては「温室組合の三四郎」、伴田農園の伴田四郎氏、東京農産商会の湯浅四郎氏、富士見農園の田中四郎氏(等々力)らが中心となった(「東京花一代記」富士見農園の温室写真あり、大倉財閥経営と記されている)。
※伴田氏とその一族に関する情報
横浜の「ガーデン山」に名を残す「横浜ガーデン」のオーナー大澤氏は、実の兄であった。大澤氏は実業界でも成功し園芸でも大きな仕事を遺された。
四郎の弟、五郎は、「文学座」を立ち上げた友田恭助(本名は伴田五郎)である。
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■ 花卉市場の発達 (『日本園芸発達史』 日本園芸中央会 昭和18年 朝倉書店)
伴田四郎
次は花卉市場の事であるが、花卉市場の生れたのは極く最近のものであって大正十二年の関東地方の大震災の副産物と云ってもよい位のものである。
大震災前までは花卉生産者は都会近郊の者は近接小売業者に販売するか又は仲買業者又は問屋業者に販売していたものである。然し此の取引は勘定合って銭足らずであった。即ちカーネーションを一本二十五銭と値を決定して取引をしたとしても最後の勘定の時に金三百五十円になったとすると小売又は問屋は此の金三百五十円を全部支払わず精々よく払って金三百円、悪くすると金二百円位しか支払わなかったものである。問屋業者も小売業者に掛売をしていて最後の勘定に於ては常に全金額の支払いを受けた事はなかったのである。それ程花屋の勘定と云ふものはルーズのものであった。右の外に切出し屋と云って露地又は温室の花卉栽培者に切り出しに来る仲買がある。之は始めの内は精密に計算をしているが段々顔なじみとなると今日は持合せがないから半金を払うとか此次に来る時に払うとか云って常に栽培者は仲買に貸金のあったものである。又栽培者も売り方の上手な人は高く売れるし幾ら栽培は上手であっても売り方の下手な人は安く買われると云う状態であった。地方の生産者は送り荷によってとか手紙によっても取引して居た為めに花屋から輸送中に腐敗したから半金しか支払えないとか初はよく売れたが後の半分は他方面から多数の出荷があった為めに売行きが思わしくなかったとか云って満足に支払を受けた事がなかったのであった。
その為生産者の会合の時は常に青物市場の如き花卉市場が欲しいものであると云う事を希望されて居た。生産者の内で野口秀(※=佳伸)・岩本熊吉両氏が前後して米国に行かれ桑港などの花卉市場を見物して来ての話を聞いて益々花卉市場の設立を生産者は希望してゐたのであったが前述の様に全部の生産者が花屋に貸金のある為めにそれまでも棒引きして市場取引に改革する事は出来なかったのであった。所が幸か不幸か関東の大震災が大正十二年九月一日に起って東京の下町全部は灰燼に期してしまって花を観賞する所でなく明日の食糧にも困却した状態となった。そこで大日本園芸組合では緊急役員会を招集して今後の組合員の対策につき協議を開いた。組合員は全国にあるがその内此の惨害を受けた者は東京及横浜の人が主たるもので他の地方の人はそれ程でもない。東京、横浜の人でも通信販売業者は関東のみが販路でないから関東地方以外の地を対手(たいしゅ)として取引は出来る、露地栽培業者は花卉が売れなければ蔬菜に変更する事が出来る、然し温室業者は花卉が売れないと云って蔬菜の促成をやってもやはり売れ口はよくないであろう。そこで永年の懸案であった花卉市場を設立してはどうだかと云う話になって、何れ売れない花なら棄る積りで花卉市場で売って見たら又永年取引関係の貸金も取れぬであろうから生花商に対する遠慮もいらぬからここで温室業者を中心として花市場を建設する事になり烏丸伯爵を組合長として不肖理事長となり高級園芸市場組合を大正十二年十二月二十日に開設したのであった。温室業者を中心とした市場であったために出荷品は全部温室栽培品のみであった。
※花だけではなくメロンも扱っている。これが高額のセリ値になっため、以後も、取り扱われ、注目される。
今までの取引は生産者も小売商も問屋にリードされていたのであったが市場取引になってからは売手も買手も問屋にリードされる事なく公明に価格表示されて取引されるために順次出荷者も増加し購入者も門前市をなす状態となった。そのために問屋側には温室栽培品の出荷がなく露地物のみとなったため問屋業者の害もかなりあったが問屋側も反省して大正十三年十四年と漸次問屋業を花市場に改革しその後逐年増加して昭和の初め頃には千住生花市場日本橋生花市場東京生花市場の開設を見、今日に於ては左表數十ヶ所の花市場が生れたものである。東京に引き続き横浜に開設され神戸がその次で大阪、広島、福岡、京都と出来て来た。名古屋は一番遅れて出来たがここは其の市場と異り相対取引と競売取引との両方を採用している。
主要都市に於ける花卉市揚(昭和十四年現在)
(東 京)
豊島区池袋五ノ一六二 池袋生花市場
豊島区巣鴨町三ノ二○ 巣鴨生花市場
豊島区巣鴨町七ノ一八〇九 大塚生花市場
神田区鎌倉町八ノ二 神田生花市場
日本橋区馬喰町四ノ五ノ三 日本橋生花市場
本所区緑町二ノ十ノ三 本所生花市場
本所区小梅町一ノ九ノ八 東京生花市場
本所区緑町三ノ一九 緑生花市場
京橋区銀座西六ノ一 高級園芸市場
本郷区駒込浅嘉町 駒込生花市場
蒲田区本蒲田三ノ二ノ二 京浜生花市場
芝区三田四国町 芝生花市場
四谷区永住町三 新宿生花市場
渋谷区神宮通一ノ九 渋谷生花市場
渋谷区猿楽町一 氷川生花市場
渋谷区幡谷原町八三三 幡ヶ谷生花市場
荏原区戸越町四七九 大崎生花市場
大森区新井宿一ノ二四〇八 大森園芸市場
大森区大森五ノ二五 蒲田生花市場
足立区本木町三ノ四二六 東北生花市場
下谷区金杉一一二二 下谷生花市場
杉並区高円寺二ノ一 城西花卉市場
荒川区南千住町 千住生花市場
世川谷区世田谷三ノ二○七七 世田谷生花市場
瀧野川区瀧野川一二一 飛鳥山生花市場
荒川区三河島五ノ三〇四 荒川生花市場
王子区岩淵町三〇〇 赤羽生花市場
目黒区上目黒六ノ一三 目黒生花市場
城東区亀戸町七ノ二八三 亀戸生花市場
淀橋区西大久保三ノ七 淀橋生花市場
八王子市上野町三一 八王子花卉市場
埼玉県大宮市植木町七二八 大宮生花市場
横浜市中区戸部町四ノ一五二 横浜生花卸売市場
横浜市中区上大岡町三八 横浜園芸組合生花市場
横浜市鶴見区市場町一七二六 見染生花市場
横浜市中区大久保町一〇六 港南生花市場
横浜市中区山吹丁一ノ一 金港生花市場
横浜市磯子区森町六〇五 森生花市場
横須賀市若松町五八 横須賀中央生花市場
川崎市中原町小川中一九一 川崎花卉植木市場
神奈川県平塚市 平塚生花市場
(以上関東生花市場組合員)
(名古屋)
名古屋市中区門前町 生花市場
(京 都)
京都市烏丸通松原上ル東入角 京都花市場株式会社
京都市上京区長者町通西洞院角 京都高級園芸市場
(大 阪)
大阪市住吉町西長居町 関西高級阪南市場
大阪市北区曽根崎四ノ二三 大日本園芸市場
大阪市大阪中央卸売市場内 大阪園芸市場組合
大阪市南区順慶町一ノ五 大阪花市場株式会社
大阪市住吉区西尾居町七二六 上田生花市場
(神 戸)
神戸市楠町二ノ一七五 神戸高級生花市場株式会社
神戸市楠町三ノ一七六 神戸園芸市場株式会社
神戸市楠町四ノ二六 神戸中央園藝市場
(他都市)
福岡市渡辺通五丁目 福岡花卉園芸市場組合
広島市猿楽町六 広島高級園芸市場
岡山市内山下四二 岡山高級生花市場
呉市郷町九〇 呉生花市場
下関市唐戸町百十銀行前 下関高級園芸市場組合
下関市唐戸町四 下関市農会花卉市場
久留米市野中 久留米花卉市場
福島市大町興銀前 福島生花組合市場
札幌市北四条西二ノ一 札幌花市場
市場取引になった為地元の生産者は云ふに及ばず地方の生産者も自身の生産品の優劣によって価格の高低が決定し以前の様に白身で栽培も販売も両方やらずに栽培一方のみに努力すれば其の結果が売上金として収入して来る状態になったので花卉栽培は急激に増加して震災前と今日とを比較するも量に於て三十倍価格に於て二十倍の付加と見られる様になった。
震災直後の花の価格は生産者に於ては何れ売れぬであらうと云ふ見地から栽培を手控へたが復興の景気と云ふか花の需要は著しく増加し供給の少い為めにカーネーションなどは以前十二月一月二月の三ヶ月は一本二十五銭が普通相場であったのが一本五十銭に売れる様な景気でバラ等も一本二円に売れた事があった。大正十二年の終りから十三年にかけての高相場の影響を受けて温室栽培業者が十三年の秋から十四年十五年に渡って急増して東京の温室村と云ふ様な名所が出来たのも花卉市場の設立された爲の副産物である。
花卉市場も今までの如く自然的放任にせす生鮮食料品の如く中央市場法に依って取り締るべきものであると思ふ。
花は生活必需品ではないなどと云ふのは野蛮人か人造人間の云ふ事で苟(いやしく)も文明人である以上花なくて人生が渡られぬものではない。今日に於ては花は生活の必需品である事を強調して此項を終る。
『東京市農業者青年幹部講習会講義録第1回』 東京市農会 1933 昭和8年
■ 花卉栽培及花卉市場
大日本園芸組合副組合長 伴田四郎
花の栽培と云ふことは、一つ宛申上げますと迚も一時間や二時間で申上げられるものでありません。従って栽培の方は概念的のお話を申上げて、一つ一つに付ては書物に依って御研究になるなり、或は色々の花卉の栽培に付ての雑誌がありますから、さう云ふもので知識を得られれば宜しからうかと思ひます。私の申上げるのは栽培法と花の市場のこと、所請花の取引のことと混ぜて申上げるので、何処から何処までが栽培で、何処から何処までが取引だと云ふやうな区別がありません。全部総括的に話しますので前後左右するかも知れませんが、其の辺は宜しく御含みの上御聴取りを願ひたいと思ひます。
花を作ると云ふことは極ぐ昔からやって居たには違ひないのでありますが、大古は花を態々(わざわざ)作ると云ふやうなことはやらなかった。唯野原に自然に生へて居る花を採取して、それを見て楽しむ、都会生活が始ってからは、野原に遠くなり、勢ひ草花にも恵まれなくなる。そこで野山に咲いて居る花を都会人が欲しがる、それに依って花屋と云ふ商売が生れたのだらう思ひます。所が人間の欲には際限がないもので、野山の花はざらにある、そう云ふ自然の花よりもっとよい花が欲しいと云ふので、人工栽培を始めた。野原のものでも人工栽培をやれば、肥料其他に依って花が大きくなり、色彩などでも白いのを赤くするとか、或は品種の改良、品種の蒐集、或は日本になく外国にあるものの輸入などが始って、段々と花の栽培と云ふことが発達したのであります。それでも慊(あきた)らず。牡丹は必ず五月に咲くのを、五月に咲かしたのでは面白くないから四月に咲かす。四月でも面白くないから二月に咲かす、それにはさう云ふ方法を以てしたら宜しいか、勢ひ硝子の部屋を造って温める、所謂促成栽培である。速く造って品物を出すと云ふことが発達して、目下ありますやうな温室園芸と云ふやうなものも発達した訳であります。
震災前までは殆ど温室園芸と云ふものは、極く小部分の人がやって居ただけで、只今の様に大勢の人がやると云ふ仕事ではなかった。明治四十四年頃には、温室園芸と云ふものは華族とか、金持の道楽に、装飾的に置く温室、或は農科大学、或は植物園、或は農事試験場などが、唯珍らしい種類の保存上温室を持って居ると云ふやうなものに過ぎなかったのであります。それが段々発達致しまして、震災後には温室園芸に限らず、普通の花の栽培も非常に発達したのであります。それはどう云ふ訳で発達したかと言ひますと、震災前は取引の方法が栽培者と仲買人と問屋と小売屋と云ふやうな状態で、栽培者は仲買人の手を経て問屋に売る、或は仲買人の手を経ずに直接に問屋に売る。又一歩進んで温室園芸業者は有力なる小売業者と直接に取引をすると云ふやうな状態であった。併し花屋と云ふものは水物商売でありまして、直に品物が痛んでしまふ。それで早く処分してしまはなければならない、さう云ふ水物商売の関係上花屋と云ふものは、何時も相当に買っては呉れますが愈々勘定を貰ふとなると、百五十円の勘定が八十円呉れればよい方で、百円呉れる者は殆どない、後の七十円は棒に振らなければならないと云ふやうな具合で栽培者は花屋に殺されて居た。
又問屋と云ふものは、栽培者から直接に或はブローカーの手を経て何か来ても、それを小売業者に売捌いて、二百円の勘定の時に二百円(※を)小売業者がそっくり問屋に払って呉れれば宜しいのですが、問屋業者と小売業者は親分子分の関係で、元は問屋の番頭であったと云ふやうな人達が売場と云ふ名義で花屋の店を持つのでありますから、問屋の親爺は横暴でありまして、花屋にあれを持って行け、之を持って行けと云って、無理に押付けて売るものがあります。要らぬ、売れないもの迄も問屋が(※から)売付けられるのでありますから、月に三百円の勘定になって、三百円を支払っては自分の生活にならぬ。それで百五十円に負けて貰って其の勘定の鳧(ケリ)を付ける。又仲買で以て栽培者に直接買ひに行く者は、始めの中は栽培者の家に行って非常に其の品物を褒める。現金で非常に高く買って呉れる、そこで栽培者は、直接小売業者や問屋に売るよりは、仲買に来て呉れる者に売った方が得だと云ふことになって、それに売る。一回、二回、三回は現金を置いて行きますが、五回、六回になると、一寸(ちょっと)五円しか持って来ませんから残金は貸して下さいと云ふので貸してやる。次に又買ひに来る、前の残金を持って来て呉れるかと思ふと、品物を持って帰る時になって、此の間の残金に一寸都合が悪いので今日のも御拝借願ひたいと言ふ。又次に来ると五円なり十円なり売る。段々前の貸金が欲しくて金を貸込んでしまふ。其の中に来なくなってしまふ。家も分らなければ名前も分らぬと云ふやうなものが往々にしてある。さう云ふ仲買人が多かった。
栽培者が又問屋に持って行っても百五十円の勘定が八十円しか貰へない。小売業者に持って行っても満足に勘定を支払って呉れないと云ふので、昔は温室一坪に付いて六十円や七十円、腕の良い人は百二十円も収益を挙げて居りましたが、勘定をうまく取らぬと一坪三十円か四十円位しか挙らぬと云ふやうな、栽培者としては非常に悲愴な状態でありました。
それから相場でありますが、もと私共温室業者は月に一回宛寄合って色々栽培上の研究などをやって居る時に、フリージャが咲き始めると「俺の所は三銭だが、お前の所は幾らだ」「俺の所は五銭だ」「お前は腕が良いなあ」「腕が良いのぢゃない、花屋が違ふからだ」と云ふやうに、うまく売らぬと花屋に舐められてしまふ。良いものは必ず五銭に売れて、悪いものが三銭に売れるならば宜しいが、悪いものを五銭に売ると云ふ人も、良い品を三銭に売ると云ふ人もあると云ふやうに、相場が一定して居ない。是は何とかして青物見たいに市場取引にして、毎日一箇所に集めて買手が審査員になって、悪いものは安く良いものは高く売れるやうにしたら宜しい、勘定もきちんと貰ひたいと云ふのが、震災前の私共栽培者の長年の希望であった。其の栽培者の中に三月ばかり亜米利加の桑港まで見て来た人が、桑港では非常に花の栽培をやって居る。日本人が栽培して、売る人は外国人であるが、日本人がフラワー・マーケットを経営して居る。其の方法は是丈の品物を売るとすると、マーケットを管理する管理人が一人居るだけである。後は栽培者全部が美しい品物を持って来て、日本の青物市場の様に競売せずに、卓子の上に生産品を並べて花屋と栽培者とが相対取引をして居るが、皆現金を貰ひ、中には顔を知って居れば貸してもやる、市場は唯場所を貸してやるだけで、全然売買には市場の当事者は携はらない。それで思ふやうに其曰其日の景気に依って、昨日カーネーションを五銭に売ったが、今日は七銭に売らと云ふやうな方法で処分して居る。非常に羨ましい。外国に行ってる日本人でさへフラワー・マーケットを拵へて、問屋に舐められず、仲買に舐められずに売って居るのに、日本では問屋や仲買に舐められて非常に口惜しいから、何とか改良しなくてはならぬ。
又もう一人は亜米利加から欧羅巴に廻って大分長いこと見て来たのでありますが、此の人も前と同様に亜米利加の制度の非常に良いことを話された。愈々やらうぢゃないかと言っても、お互に長年小売業者や問屋と取引を、やって居る関係上貸金がある。少ない者でも二、三百円、多い者は二、三千円の貸がある。何時も其の貸を捨ててまで花屋と手を切って、全然別な方法で自分の生産品を処分しようと云ふことが出来ないで中々フラワー・マーケットと云ふものが出来なかった。所が幸か不幸か大震災がやって来て、御承知の通り焼け野ヶ原となり、残ったのは山の手方面だけで下町は全部なくなってしまった。其の時吾々が寄りまして、今後の対抗策に付いてどう云ふ方法を立てたら宜しいかと云ふやうなことを研究した。温室で花を作った所で、焼野ヶ原で死骸がごろごろして居るのに花などと云ふ贅沢品は売れないだらう、それかと言って蔬菜を作っても亦売れないだらう、またまた今更温室を打ち壊す訳にも行かず、今まで色々と蒐集したカーネーションの品種であるとか、メロンの品種であるとか云ふのも、温室を経営しなければ保存する事が出来ぬ。作った所で、二束三文にも売れぬだらうと云ふやうなことで、それでは捨てる積りで吾々が永年希望して居るフラワー・マーケットを造らうぢゃないかと云ふことになった。
それは大正十二年の震災後秋から冬に掛けて漸次に始めたが、先づ露地栽培者を集めることは骨だから、温室業者を順々に説いて歩いて、捨てる積りで吾々が是から拵へる花の市場に出して貰ひたいと言ふて、大正十二年の十二月二十日高級園芸市場と云ふ名前の下に温室業者を組合員として花市場を拵へた。それで私がそこの管理人――番頭と云ふものにされて、先づ場所を借りて全部の花屋に通知を出した。今まで直接取引をしたが、今後は斯う云ふ市場を立てたから、此の市場に依って取引をして貰ひたいと云って、花屋を寄せて、さあ幾らと愈々竸売を始めた。其の時にも亜米利加式に卓子で売ってはどうかと云ふこともありましたが、俺の所は生産品は少ししかないから競売をやって貰ひたい、委託販売にして貰ひたいと云ふ希望がありましたので、卓子式を止めてヤッチャバ式の竸売を始めたのであります。私も競売をやった経験はなし、以前に少し夜店へでも出てバナナでも売ったり猿又を売って居た経験があれば良かったのですが、さう云ふ経験がないので、非常に恥しい思ひをして、さあ幾らと云様に競売をやったのですけれども、花屋の顔が鬼見たいに見えて、声が慄へて巧く行かなかった。所が案外物事は案ずるよりは生むが易しと申しませうか。
震災前まではカーネーション一本二十五銭と云ふのが通り相場であった。所が一般の温室業者は売れないだらうと云ふので、百坪持って居る人は三十坪しか作らぬと云ふやうに栽培面積を非常に縮小した為に、生産品が非常に少なくなった。それから買手の方は震災後の空景気と言ひませうか、非常に復興する時期でありますので景気が好くなった。丁度震災で死んだ人の百箇日だとか、一周忌だとか云ふやうなことに打付かって、仏様に供へる花も非常に能く売れるし、或は婚礼又は色々の披露に用ふ花が多い。供給が少くて需要が多いのでありますから、勢ひ価格が撥ね上ってしまった。其の上昔は一流の花屋でなければ、蘭、カーネーション等西洋のものを扱ふことが出来なかったが、市場になったので二流、三流の花屋でも金さへ出せば買へる、即ち花屋の取引が自由になった。同時に花屋が非常に多くなった為に、相場が非常に撥ね上った。毎年暮に二十五銭で買って居たカーネーションが一躍五十銭になった。薔薇なども精々四、五十銭に売って居たのが二円までも上った。其の一円の薔薇で面白い話がありますが、四谷の花屋さんが二円の薔薇を買って二円五十銭に売った。お客さんが精々五、六十銭だと思って買って見ると、一本二円五十銭だと云ふので、是は怪しからぬ、暴利取締令に依って警察に届けなければならぬと云ふので早速近所の交番へ届け出た。花屋はお客さんと警官がやって来たから、何事だらうと思って居ると「お前の所はなんでさう云ふやうに暴利をとるのだ、薔薇が一本二円五十銭などと云ふ馬鹿なことがあるか」「いやそれは至当の値です」「本官は至当の値と認めることは出来ない」「でも此の通り市場で二円で買ったものを二円五十銭で売って居るのです」と云ふので、警官が反対にお客さんを撫めて帰したと云ふやうな話がある、さう云ふ馬鹿相場に撥ねてしまった。
それを聞いて問屋階級が非常に憤慨した。小売業者が市場に寄せられては、自分の店は上ったりだ。問屋もぐずぐずして居っては、俺の商売も上ったりだと云ふので、問屋の親爺が市場へ或る日出て来た。其の問屋の親爺は親分で知って居りますから花屋連中は「親方いらっしゃいませ」と云って親方を真中へどっしり座ってもらって、いよいよ始めると目星しいものは三割乃至五割ぐらいの高値で以って外の者に渡さないで問屋が全部買ってしまった。困ったのは外の花屋で、今日の注文に間に合はない。仕方がないから親方の所へ行って「相済みませんが、先程親方が買ったのを私共に分けて下さい」と頼むと「後で届けてやるよ」と言ふから馬鹿に親切だと思って居ると、問屋の店にある不必要な売れない品物をどっさりと届けて来る。是ではどうも仕方がないから今度は問屋以上の相場を出して買ふ、其の為に花の相場と云ふものが小売値段に構はず上ってしまった。問屋も何時までもさう云ふ競争をしては、結局客に倦きられてしまふので、大正十三年に一つ、十四年、十五年には小さいのは二、三人分合同して花の市場が続々出来上がった。約十年になりますが、目下京浜間に三十二軒の花の市場があるのであります。横須賀に二軒、横浜に四軒、後が東京府に二十六軒ある。主なる東京の大きい所を御参考迄に申し上げますと、日本橋生花市場、東京生花市場、芝生花布場、新宿生花市場、千佳生花市場、下谷生花市場、京浜生花市場であります。
私の関係して居ります高級園芸市場と申しますのは、温室業者が組合員でありますので、温室草花が主として出ます。仏様に上げます花とか、床の間に活けます枝のもの即ち松の木だとか、杉の木だとか云ふものは少ないのでありまして、日本花が二分、洋花が八分と云ふやうな状態であります。目下の所では生産者の割合に生花市場が多過ぎるのであります、現在東京に花屋が約二千五百人しか居らぬのに、生花市場三十もあると云ふことは、少し多過ぎる、それは店持ちの花屋のことでありますが、車を流して歩いたり、担いで歩いて居る花屋はこの外に千人位居ります。高級園芸市場で薔薇が一本二円に売れた、カーネーション一本五十銭に売れたと云ふ話を聞いた時代に、亜米利加に排日運動が始った。亜米利加にも長いこと居られぬから、日本で仕事を始めようと云ふ人たちが帰朝して、亜米利加式の温室を造って、亜米利加の栽培を始めた。それから震災後は売れないだらうと思って百坪を四十坪に減じて栽培して居た従来の栽培者も、来年は是非とも百坪を二百坪にし、五十坪を百坪にすると云ふやうに、温室を増設する。又学校を出て方々で見習をやって居た人が温室を建てると云ふ様に、順々に温室業者が殖えて来ました。露地栽培の菊を作る、金盞花を作ると云ふやうな人も、市場取引になりましたので問屋より取引が安定になった。地方の栽培者の品は問屋の取引では、是は珍らしいもので一手に引受けて何処へもやらぬやうにしようと云ふ時は、十銭の価値のものでも、二十銭に仕切をやる、地方の栽培者は喜んで多量に送ると、今度は一銭も呉れない。前のは能く売れたが後のは多過ぎて全部腐ってしまって売れなかったと云ふ通知が来る。さうかと云って問屋も小売人に売って満足に金を貰っていたのではないのであります。然し市場取引では毎日毎日売れた通知が行くし、それを持って行けば金が貰へると云ふので、地方の栽培者がめきめき増えて、只今では一府三県即ち東京、埼玉、千葉、神奈川に約六、七千人の栽培者があります。年額約二百五十万円位市場取引として扱って居るやうであります。ですから生産者の手に入るのが、それの一割引いたものとして、二百二十五万円入るのであります。
温室なども亜米利加から帰って来て亜米利加式に造る人が出来ると、段々新設の人が亜米利加式に眞似をする、昔は温室を建てるのには必ず真中へ柱を立てて普通の家屋を建てるやうにして居った。亜米利加から帰って来た者が、安い米松を以て、小さい部屋は温度の変化が急激に来る、カーネーションとか薔薇を作るのには大きくなければならぬ、巾が一間か二間位しかなかったのが、一躍大きな四間、五間と云ふやうなものを造るやうになった。そして昔は坪五十円も掛ったのが、三十円で出来るやうになった。温室は安く出来る。花は高く売れると云ふので、震災前には約千五百坪しか東京府になかったのが、只今では東京府下に二萬五千坪の温室が出来て来るやうになった。今後此の調子に殖えるかと云ふ問題ですが、今の所花が昨年と一昨年安かった為に、今年辺りは温室の増設は割合に少ない。一昨年までは、一割宛殖えて居ましたが、今年辺りは約五分位しか殖えて居らないやうであります。それ等は一般』殼の不景気が祟って居るのでありますが、栽培の方法が変って、小面積で大きな収益を挙げると云ふやうに変って来るだらうと思ひます。
カーネーションなども一本良い時で十五銭、普通は四、五銭から十銭止り位であります。薔薇も先程は二円に売った御話をしましたが、二円などは夢にもありません。良いもので四、五十銭から三十銭、普通のものになりますと、四、五銭と云ふのが薔薇の価格のやうであります。温室栽培と云ふものは、価格が非常に昔より下がりましたが.栽培方法が変って来た。昔は温室を閉め切ってしまって、石炭をがんがん焚いて、寒中でも窓を全部閉切ってしまって、蒸して温室の中にカーネーションを植えて置いた。カーネーションは大きくなりますが、新鮮な空気を吸ふことが出来ないので、軟くなってぐにゃぐにゃになってしまって、花梗がぴんと立って居なかった。花は大きく咲きますが、木が非常に細いので、皆下を向いて咲いて居る。此頃では石炭を焚いて温めたものは売れない。ぴんと立って居らなければならぬ。それには温度を低くしなければならぬ。それには勢ひ石炭が少しで済む、経費を掛けずに花を育てると云ふ方法で大量に作る。昔三十坪に一人の人間を要したものならば、今では百坪に一人の人間で間に合ふ。昔は色々の種類を温室で作る、カーネーションも、薔薇もと種々の物を作る。八百屋見たいになって居りましたが、此の頃では百合を作る者は百合ばかり、薔薇は薔薇ばかり、スヰートピーを作る人はスヰートピーばかりと云ふやうになった。それは市場取引になった関係上さう云ふ単一の栽培をしても売れるのであります。昔はさう云ふ偏ぱ(偏頗=へんぱ)な一種類よりしか作らぬと、一軒の花屋では自分の生産した五百本なり干本を持って行っても消化し切れない。フリージヤも、カーネーションも薔薇も作って行って、初めて其の花屋の店々十分に賑やかにしてやると云ふ方法でやったのでありますが、此の頃ではカーネーションはカーネーションだけ、フリジヤはフリジヤだけを作っても多くの花屋が買ってくれますから単一の栽培をやってもよい。花屋も方々の品物を買って種々の種類を買ふ事が出来るからと云ふやうに、栽培が昔と違って単一でも品物を処分することが出来るやうになった。
又昔は力ーネーションを一本宛竹を立てて縛った。所が此の頃では両方に柱を立てまして、それから針金を引いて、此の針金を横に絲で搦(から)げて線を引く。さうすると四角の桝が出来る。其の中にカーネーションが一株宛植って居るから倒れない。温度を高く上げないで茎を堅く作るので、割合に倒れないから栽培が非常に簡単になった。それから温室が安く出来る。石炭を幾らも焚かぬで済む。人件費も栽培が単一になった為に少しで済むと云ふので、価格は下りましても割合に引合ふらしいのです。昔のやうに坪五、六十円も収入は挙らず、精々一坪の収入が宜い人で二十円、普通十円位しかないやうであります。
それから露地栽培者の方も、昔は温室業者と同様に種々雑多なものを作ったのであります。桔梗を十坪作り、同じく夏菊十坪作り、其の次に秋菊を一畝作ると云ふやうに種々雑多なものを作った。所が市場取引になりましたので、精々一種か二種を作って居るが、十分に自分の生産品が消化出来る、手数を省ける。今日は除草をやればそれで済む、今日は施肥をやればそれでよい、所が行く種類も作ると、今日は菊の結立をやる、それから隣りへ行って除草をする、除草だけでは仕事がないから施肥をやると云ふやうに、人手が余った時には順々に出来ませうが、収穫をして居る時には収穫一方に掛る訳にも行かず、除草もやらなければならぬ、一段歩に五人も六人もの手数が掛る。此の頃の栽培は簡単になって来為に、人件費が少くて済むやうになった。勢ひ大面積に栽培が出来るやうになったのであります。近年蔬菜が悪かった為に此の二、三年蔬菜から花に変る人が殖えて、花も少し食傷時代に打付かるやうであります。昨年及一昨年よりは今年は割合に宜しいやうであります。此の不景気も長年のことではないと思ひますので、もう少し辛抱すれば元に回復するだらうと思ひます。
次に温室の分布を申しますと、温室の一番多いのは旧荏原郡であって、東京府の約十分の七は此処にあります。後の十分の三の中、足立と南葛が同じ位、其の次が豊多摩、北豊島、三多摩と云ふやうな状態であります。はっきりしたことは分りませんが人間の数で言ひますと、旧荏原郡が約百人、足立郡が六十人、旧葛飾郡が七十人、豊多摩が四十人、北豊島が十五人位、三多摩が二十五人位であります。
荏原でも一番多いのは荏原那東調布町、俗称温室村で、此処に約三十軒あります。只今では大森区田園調布四丁目でありますが、約一万坪、三百坪平均のものがあります。此処には土着の人は一人もなく、全部移住民で資本階級に属する人達である。此の温室村以外の、駒沢方面なきは土着民と移住民が半分宛であるが、足立、南葛方面は殆ど土着の人ばかりで移住民は殆どない。豊多摩、北豊島は土着の人と移住民と半分宛。三多摩に行くと、北多摩には大分移住民が居るが、他は殆ど土着の人であります。それから荏原郡以外は殆ど副業であって、専業としてやって居る人が少ない。農業の片手間に三十坪或は五十坪の土地を利用して。水田の暇な冬の時期に温室を作って、副業的に幾らかの収入を挙げると云ふやうに、集約的な、危険率の少ない農業経営を営んで居ります。
所が荏原方面は、農業の専門学校を出た人、園芸学校を出た人、中には早稲田の文科を出たが自分の趣味から温室園芸をやらうと云ふやうな、所謂インテリ階級の人が大分多いので、自然此の方面の温室園芸は副業的でなく専門的であります。隨(したがっ)て是等の人の営む所の温室には雇人を容れて仕事をするので家族的労働ではない。反対に南葛。足立方面は殆ど家族的労働で、親父が先になって温室に水をやれば息子やお内儀さんは草取をすると云ふ風であります。
それから是は温床の話でありますが、温室の毛の生へたやうなもので、フレームがありますが、是は高台地方に多かったが、一遍温室を作るとフレームが面倒になって、段々温室に変ってしまひます。現在フレームの多いのは足立と南葛であります。南葛は御承知の通り鉢物の供給地であって、シネラリヤ、プリムラ、パンジー、デーヂー、金魚草の鉢物等東京の夜店へ能く出ます。其の鉢物は全部フレームに依って作られる物と、フレームで栽培して後温室で育てる物があります。足立方面はフレームを利用して苺を大分作って居りますが、此のフレーム苺は元は北多摩、豊多摩に多かったが只今は余り出ません。フレーム苺は全都足立の生産と言ってよい位であります。
次に露地の栽培で一番広面積に作られるのは菊であります。菊を一番余計作って居るのは南葛飾郡、今の江戸川区と葛飾区であります。それからダリヤは震災前は殆ど切花としての需要はなかったが、此の頃はダリヤはなくてならぬ花となりました。ダリヤの産地として挙ぐべきは、矢張り駒沢から世田ヶ谷方面或は豊多摩郡の高台地方であります。南葛、足立もダリヤを少量生産するが春のダリヤだりけで秋には出ない。其の外グラヂオラス或は色々の物がありますが、露地で栽培する物は年中転々として変ります、今年グラヂオラスが流行ったから来年もやらうとか、今年は安かったから来年は止めようと云ふやうな状態で、何処で幾ら穫れたか其の統計が巧く取れません。唯此の外の枝物、ソナレ、柾。朝鮮槇などの青い枝の物は三多摩地方即ち北多摩、南多摩、西多摩の地方に此の頃大分殖えて来ました。是等の物は、今年は相場が安ければ来年まで待って収穫することが出来、又ずっと大きくなれば庭木として売ることも出来るので、収入は大して良くはないでせうが、草花よりは価格が安定して危険率は少ないのであります。
近県から入る花卉類に付いて申しますと、温室物は大抵東京として、他府県から入る物は、神奈川県、静岡県、埼玉県の一部であります。神奈川県で温室の一番多いのは旧久良岐郡、今の横浜市中区の一部と久良岐郡であります。久良岐郡の富岡、それから中区の杉田、笹下、日野などでは大分菊の露地栽培をやって居ります。又三浦郡の西浦村では温室、フレーム、露地何れも盛んで、割合に半促成栽培で有名な所であります(※桜井元氏は病気療養中にこの地で温室を譲り受け西浦村秋谷で種苗の生産を始めた)。其の外、藤沢、ニノ宮辺りに温室が点々としてありますが、此の辺では花を作らずにメロンを作って居ります。神奈川県はメロンの生産地としては中々有利の位置にあって、それだけ又メロンの生産用として有名であります。それから露地栽培の多いのは橘樹郡及び都築郡であります。此の辺は「かきつ」の生産地として昔から有名であります。叉菊、グラヂオラスなどを作って居ります。此処は多摩川の沿岸で、東京府の温室村の向ふの所で、東京府と言ってもよい位の所であります。
静岡県で一番温室の多いのは静岡市で、七、八人で五千坪近い温室を持って居る。此処では主に薔薇を作って居ります。其の次に花の温室の多いのは清水産でありますが、最近では温室が大分殖えて来ましたが、まだ大した数にはなりません。それから浜名郡の浜松在に約一万坪ばかりの温室があります。此処では主に胡瓜を作り、胡瓜の後作はメロンを作る。併し此処の胡瓜は土佐物に圧倒され、メロンも栽培方法が悪い為に余り良い物はない。最近大いに目覚めて花の栽培に変るだらうとの噂があるが、若し花い栽培が盛んになったとすると東京では一大脅戚である。浜名郡では温室の外に切花の露地栽培が非常に盛んであって、静岡県としては唯一の切花の生産地であります。
千葉県には温室、フレームは殆どなく、主に露地栽培であります。安房郡は昔から水仙の本場で、野生の水仙が至る所に生えて居る、山の傾斜地でありますから水田が雛段の様に作ってありますが、其の附近に必ず水仙が野生して居ります。其処に金盞花を作り、矢車草を作ると云ふやうにして、只今では、二、三十種の物を作るやうになりました。冬の間の東京の仏様の花の生産地として、千葉県の安房郡は能く知られて居ります。其の外君津郡とか、山武郡、東葛飾郡などは余り大したことはない。東葛飾郡は植木、枝物の産地であります。
埼玉県には温室が非常に少なく、全部で僅か二、三千坪位しかない。東京に近い所で北足立郡、南埼玉郡などが主たる生産地であって、北足立郡の安行村と云ふ所では枝物が相当出来ます。其の外川越、入間郡辺りにも出来ますがまだ東京の市場を左右する程の生産ではありません。
最近長野県に花卉栽培が大分発達して来ましたが、長野県は元来非常に高地で、夏は非常に涼しく、花の生育に恵まれて居ります。カーネーションなど相当出ます。又秋菊は寒さを食ふと早く咲きますから、東京より寒さの早く来る長野県は秋菊の生産地として有名になるでせう。山梨県からは殆ど生産なく、新潟県からチューリップの球根の副産物として切花が相当に出ます。東京より寒いので、東京のチューリップが終った時分に送り出して、相当の収益を挙げて居ります。
愛知県は東京と大阪の間にありますが、寧ろ大阪に近いので、東京を目的としては作って居ないが、東京で見る上等な葉牡丹に皆愛知県から来る物と思ってよい。京都からは何も来ない。奈良からは菊が少し位来ます。大阪は日本第二大都会として、又中々花の生産地としては有名であります。段々に取引も市場取引に変って来て、最近では中央市場の一部を借りて、中央市場内高級園芸市場とか云ふ名称を付して切花の取引をやって居ります。
大阪と神戸との間には花の生産地が非常に多く、東京と横浜の関係に於けるが如く、荷物の輸送が便利でありますから、他府県にも相当出して居ります。大阪に於ても南河内郡、泉北郡など一番花の栽培が多い所であります。昔は関西には温室は殆どなかったが、最近兵庫県に温室が段々出来るやうになりました。併しカーネーションなどは未だ東京から荷を仰いで居ます。泉北郡の郷莊村桑原と云ふ所は、全村挙って花の栽培をやって居りますが、水仙、黄房水仙、イキシヤの産地で有名であります。
将来花卉需要者の傾向と云ふことに付いては、絶えず需要者の嗜好が変化するからはっきり断言することは出来ない。是から先カーネーションが流行るか、水仙が流行るか一寸分り兼ねます、併し何を作っても一番良い物を作ると云ふ事が必要であります。幾ら生産過剰の時でも.大部分のカーネーションが一銭位の時でも良い物でさへあれば一本五銭にも六銭にも売れます。生産過剩豈恐るるに足らんやである。要は自分の腕である。自分の腕さへ良ければ何も心配する必要はない。けれども今年カーネーションを作ったが、非常に悪かったから来年は薔薇にするとか、スウヰートピーにすると云ふやうであってはなりません。カーネーション栽培は少くとも三年、五年と修業しなければ本当に良い物は出来ない、自分はカーネーションで今後身を立てようと思ったら一意それに向って、兎に角其の道の模範たるべく努力する必要があります。
温室栽培者の模範たるべき人と言ってまだ特に挙ぐべき人はありません。非常に経営方法が良いかと思うと、人物が甚だ悪く、転んでも只超きず、人が見て居なければ隣の物を掻払ふと云ふやうな人があって、本当に模範たるべき人は一人二人位しかないやうである。温室栽培に従事して居る人は、売れなけれぱ親父の臍繰を絞ったり、銀行から預金を引下げたりする人達が多く、本当に収支償ってやって居る人は三人か四人位しかありません。殆ど食込んで居るやうであります。是は移住民なるが為であります。自分の土地でないから高い地代を払ひ、家族労働でないから高い労賃を出して人を雇はなければならぬからであります。唯南葛、足立方面は前述した通り土着の人が多く、副業的にやって居りますので高い地代も要らず、又家族的労働であるから労銀も要らず、割合に収支計算がとれるのであります。
最後に一言申上げて置きたいのは、昔は花屋と直接の取引であったので、腕が強くなければ幾ら良い花でも売れなかった。品物が悪くても、腕の強い者、鼻柱の強い者は花屋を脅し付けて売込んだ。花を作るのに五の力、売るのに五の力が要ったのでありますが、今では売るのに一の力、作るのに九の力があればよいのであります。専業或は庭の一部を利用しての副業でも、一生懸命やることが必要であります。菊を作るならば本当に菊の心になってやって世話をするのがよい。それなのに本には斯う書いてあるからと言って、雨が降らうが曇であらうが、一日必ず二度水をやらなければならぬと云ふやうに、菊が水を欲しがつてゐない時でも水をやる様なことであってはなりません。菊がどう云ふことを希望して居るか、肥料が欲しいと云ふ顔をして居れば肥料をやり、咽喉が乾いて居るやうであったら水をやる、斯う云ふ風にしてやって行つたならば、菊なら菊、グラジオラスならグラヂオラス、スウヰートピーならスウヰートピーの本当の栽培方法、所謂「こつ」が修得されます。此の「こつ」を知らなかったならば本当に良い物は作ることが出来ません。