横浜の「ガーデン山」にその名を残す横浜ガーデン主と伴田家との関係

 



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横浜の「ガーデン山」にその名を残す横浜ガーデン主、大澤幸次郎氏は、日本で最初の花のセリ市場として関東大震災直後に開場した高級園芸市場の理事長を務めた伴田(ともだ)四郎氏の叔父(四郎の父、六之助の弟)であった。四郎氏は日本の園芸界でたいへんに貢献された人物として知られる。横浜ガーデンは幸次郎氏の子息、幸雄氏が引き継いだ。日本ダリア会会員、石井勇義らとともに園芸文化協会の設立にも尽力されたという。

●伴田家の五男は、俳優、友田恭助である。「文学座」を立ち上げた人物として日本の演劇界にその名を残している。日中戦争で出征し戦死した。永島四郎氏が「文学座」の葬儀の花をつくっている。

*ガーデン山、「横浜ガーデン」について 当時はたいへんに大きな植物園、遊園地だったようだ。カタログも充実していて、最新の花の種苗を販売していたという。
*はまれぽサイトから「ガーデン山」と「横浜ガーデン」について
*写真が語る沿線のサイトから(幸次郎夫妻の写真あり)

※六之助の長男六郎も高田商会のロンドン支店勤務経験があり、富裕な知識階層の人物であった。
※六之助の次男、伴田二郎は明治21年生、中央家禽協會理事、伴田養鷄場主 (『人事興信録』)『実際園芸』に養鶏に関する記事を二回書いている。「2-6」「3-1」


伴田四郎氏の肖像
『有栖川宮記念厚生資金選奨録』 第2輯
高松宮家 編 高松宮 昭和8至9年 から

伴田四郎氏の弟は、友田恭助の名前で演劇界に大きな跡を記した友田五郎氏である。友田恭助氏は日中戦争の最前線に送られ上海の壮絶なクリーク戦で命を落とした。葬儀に際して、永島四郎氏は文学座からの献花を製作している。



*大澤幸次郎 横浜ガーデン主 証券業で大成した資産家 長男は大澤幸雄 幸次郎は、大阪府平民伴田六三郎(日本橋で実業家を営む)の次男で大澤家を引き継いて財を成した。六三郎の長男である六之助(幸次郎の兄)の四男が伴田四郎。五男は新劇の俳優で友田恭助(本名、伴田五郎)は築地座、文学座を立ち上げた人、1937年、中国上海で戦死。

*「資生堂ギャラリー七十五年史-1919~1994」(資生堂企業文化部企画1995)によると、幸次郎の弟の伴田幸雄と秀雄が大澤家の養子になったと書かれているが実子かもしれない。大澤幸雄氏は日本ダリア会会員。

*伴田四郎 ともだしろう 高級園芸市場理事長、温室メロンの先駆的生産を行っていた伴田農園主

伴田四郎、湯浅四郎(大日本園芸組合組合長、東京農産商会)、田中四郎(富士見農園)の三人の「四郎さん」は、温室組合の「三四郎」と呼ばれていたという。

伴田氏と高級園芸市場のことを小西銀次郎さん(三田・花銀)が「東京花一代記」に書き残している。銀次郎さんは初めてのセリは大正13年の春だとしている。「日比谷の焼け跡の一角に、20坪くらいのバラックが10軒ほど建てられました。そのうち1軒に、日本で最初の競り制度による生花市場が生まれました。これが高級園芸市場です。」

伴田四郎さん自身が書いた記録(「実際園芸」昭和4年2月号)によると、これ以前の大正12年12月20日に高級園芸市場組合が創立。母体となったのは東京温室組合で、有力なメンバーには、品川の烏丸農園、六郷の友田農園(※原文ママ)、等々力の富士見農園、生産者でもあり、有楽町に種苗店も開いていた東京農産商会など。市場の創設にあたっては「温室組合の三四郎」、伴田農園の伴田四郎氏、東京農産商会の湯浅四郎氏、富士見農園の田中四郎氏らが中心となった(「東京花一代記」)。

*花の卸売市場は横浜生花卸売市場が大正5年につくられたという(『復刻ダイジェスト版 実際園芸 1926-1936」p218植村) 他の花問屋と同様、セリは行われていなかったと思われる。



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