横浜の「ガーデン山」にその名を残す横浜ガーデン主と伴田家との関係
*大澤幸次郎 横浜ガーデン主 証券業で大成した資産家 長男は大澤幸雄 幸次郎は、大阪府平民伴田六三郎(日本橋で実業家を営む)の次男で大澤家を引き継いて財を成した。六三郎の長男である六之助(幸次郎の兄)の四男が伴田四郎。五男は新劇の俳優で友田恭助(本名、伴田五郎)は築地座、文学座を立ち上げた人、1937年、中国上海で戦死。
*「資生堂ギャラリー七十五年史-1919~1994」(資生堂企業文化部企画1995)によると、幸次郎の弟の伴田幸雄と秀雄が大澤家の養子になったと書かれているが実子かもしれない。大澤幸雄氏は日本ダリア会会員。
*伴田四郎 ともだしろう 高級園芸市場理事長、温室メロンの先駆的生産を行っていた伴田農園主
伴田四郎、湯浅四郎(大日本園芸組合組合長、東京農産商会)、田中四郎(富士見農園)の三人の「四郎さん」は、温室組合の「三四郎」と呼ばれていたという。
伴田氏と高級園芸市場のことを小西銀次郎さん(三田・花銀)が「東京花一代記」に書き残している。銀次郎さんは初めてのセリは大正13年の春だとしている。「日比谷の焼け跡の一角に、20坪くらいのバラックが10軒ほど建てられました。そのうち1軒に、日本で最初の競り制度による生花市場が生まれました。これが高級園芸市場です。」
伴田四郎さん自身が書いた記録(「実際園芸」昭和4年2月号)によると、これ以前の大正12年12月20日に高級園芸市場組合が創立。母体となったのは東京温室組合で、有力なメンバーには、品川の烏丸農園、六郷の友田農園(※原文ママ)、等々力の富士見農園、生産者でもあり、有楽町に種苗店も開いていた東京農産商会など。市場の創設にあたっては「温室組合の三四郎」、伴田農園の伴田四郎氏、東京農産商会の湯浅四郎氏、富士見農園の田中四郎氏らが中心となった(「東京花一代記」)。
*花の卸売市場は横浜生花卸売市場が大正5年につくられたという(『復刻ダイジェスト版 実際園芸 1926-1936」p218植村) 他の花問屋と同様、セリは行われていなかったと思われる。