小原流三世家元、小原豊雲氏の戦後最初のいけばな展 「窓花展」とその後の活動について

『花道周辺』小原豊雲 河原書店 1950年 から


 戦後の日本の花は、まだ焼跡がそのまま残っているような昭和20年、9月、小原豊雲氏の神戸大丸百貨店のショーウインドウを使った「窓花展」から始まった。
進駐軍による占領がいよいよ始まろうとするときに、人々に勇気を与えたいと願って花をいけたという。戦争で疲弊しきった人々はどのように受けとめただろうか。結果は、朝日新聞などでも取り上げられたこともあり、大きな反響があったという。人々は花を欲していた。
 
参照

 豊雲氏はその後も、活発に動き、戦後いけばな界の再スタートを強力に進めた。こうした活動もあってか、戦後のいけばなは、関西から動き出し、やがて関東へと再生していった。戦後の新しい時代を映し出すような前衛いけばなの表現も、ほぼ同じ時期に胎動し、関西が先行して花展等で同傾向の多くの作品が制作、発表されていく。1945年から1950年あたりまでが関西、その後、勅使河原蒼風らを中心に東京でも前衛いけばなが一世を風靡するようになっていった。
 
 小原豊雲氏が関西、とくに神戸に拠点があったということは大きい。ここで戦後進駐軍の夫人たちにいけばなを教えている。そこでは、いけばなの本質的な内容を平易なことばにして教える必要があった。そのなかで客観的に日本の文化を見る視点が形成されている。
小原豊雲氏の「一歩離れてみる」姿勢は、自分たちの流派の方向性について、他の流派の家元たちに展覧会の審査員をやってもらうという革新的な姿勢にも表れている。自らの流派の力を測ると同時に、いま、日本のいけばなリーダーたちがどのような傾向の花を評価しているのかも、冷静に見つめている。非凡な才能を持った人であった。

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 六陵会以前

 終戦後、進駐軍が神戸に上陸してくるといふ時である。私は自ら思いたって、神戸大丸のウインドに花を入れて見ようと思った。敗戦のあとのまざまざとしてゐる時で、大丸のウインドは空襲でこわされ、その一つの所だけが遺っていた。それを利用し、花台に焼跡のコンクリートの壁のこわれたのを使い、ヒマワリとフレローデンドロンと云ふ芋の葉みたいなものと蓮の枯れた実を用いた。それをフランスグラスの花器に入れ、今の花台の上に飾ったのである。
 時恰も十月で、色づく秋よりも、敗戦日本の身に迫る寒さが漸次ひし/\と感ぜられる時であったが、いよ/\進駐軍が上陸するというのは、当時の心持から云ふと、最も戦慄すべき事であった。それを受容れる神戸市民の心に訴へて、今の花を生けたのだが、それは市民に何かの慰安を与へる心持からであった。
 その時にヒマワリを用いたのだが、これは、強い生活力と、これを現はす花が既に枯れてゐる姿で、私は特にその実の裏を見せてつかった。表を出せば、黒ずんだその姿は、さながらに焼野原のそれの様に思はれるからである。その表面をさけ、裏面に現れてゐる逞しい生活力を示さうとしたのだが、これに交へたフレローデンドロンは、青々とその広い葉をひろげて、明るい希望を現してゐる。それは正に再建の賦とも云ふべきものであった。その時、何と題をつけたか、今思い出すと「窓花展」とかいたと思ふ。挿花と窓花とが音逋であるからであるが、壊れ遺った一つの陳列窓を利用している意味も勿論その中に加っている。作品は二回生け直したが、二同目にはイチヂクの幹が焼夷弾で焼けて、油がかゝつてゐるのを用いた。それに枯蓮をつかい、ハツ手の葉を用い、その下に彼岸花の赤いのを花だけいれた。これは仲仲好評であった。
 その後に、二科の井上覚造君の焼跡の風景をかいた素描をかゝげたのだが、この挿花の背景に、初め今は故人となった中山岩太氏の、写真で焼跡の風景を写したのを用いた。恐らく、花道面で終戦後の仕事として、早く眼をつけてやったのはそれが初めであらう。当時は、未だ花をいける心持にまでなっていなかった時であったから、朝日新聞かなんかもこれを記事にかいてくれた。それに力を入れてやったのが、京都の三芸展である。
 三芸展というのは、洋画と陶芸といけ花の芸を共に見せる展覧会のことで、当時の終戦後の社会では、いけ花だけを引離して展覧会をやれる実情ではなかった。それで三者が一体になってやることになったのだが、そのうちの陶芸は宇野氏、洋画は井上君であった。これにより、花道が新しく認識される反響を見ようとしたのだが、その結果は成功で、見ず知らずの人が心から喜んでくれた。それで、これならと思って、次に単独でいけ花だけの展覧会をやる自信がついた。

 小原流いけ花指導展を神戸と大阪の大丸でやる様になったのは、さうした次第を経てからのことであるが、それを「生花教室」と銘うってやった。特に教室と名をつけたのは、平易に初歩の解説をする為で、この時の方法をいうと、指導の内容を画板にかいて張り、そこに云はれてゐることと、実際の作品とをリボンでつないで示す仕方である
 何分にも終戦後の社会で、月謝を払って花を習ふ余裕のない人が多く、一寸床の間に花をおきたいと思っても、戦争中に種々の方面に徴用されていて、その教養が空白になっている。それで、今の生花教室を見て、ノートに鉛筆で所々を筆記すれば、間に合いの花はいけられる。その様な便利を世の人が得る様にと思って、この方法を考へたのだが、従来は、さう云うことを公開しなかったのに、不易に公開したのが人気を得て、押すな押すなの好況であった。特に大阪でやった時は非常に当った。これと共に、小原流の普通の作品を展示したので、それらを見れば、花というものがよくわかり、非常に親切な感を与へた。これが終戦後にうった第二の手である。
 その第三の手は、小原流の流内教授者の作品を大丸を会場として展示し、それを関西諸流の家元に審査して貰ったことである。流の花を他流の家元にみて貰ふのは、云はゞ第三者の眼でみての公平な批評をうることで、客觀的に自らを顧る資料を得ることである。その時、何流派の家元は、どの花がよいとして投票したかゞ明らかに判る様にした。その結果により小原流の家元から賞状を出すことにしたのである。
 これにより、自流の花について、客観的な批判が得られたのみでなく、戦後の花道界の嗜好がわかった。それに関係したのは十人の家元であるが、恐らく一流派の花を潔く他流に批判を求めたのは小原流が初めであらう。今までの花道界の風としては、自流の花を他にのぞかせない態度があったが、今は裸になって見て貰ひ、批判の封象としたのであって、今までの封建社会的なものから、民主主義社会に移るものとして、花道界に大きなセンセイシヨンを惹き起した。

 その時の十人の家元の中から既成作家でない人をピックアップしたのが六陵会のメンバーである。六陵会の会員は、既に功成り名遂げた人ではなく、これから働きかけてゆく有望な花道人に登場して貰ったのであって、その人たちと手を組んで、六陵会七星会とあの様な展覧会を開いたのである。この七星会は、六陵会のメンバーに京都の桑原專溪氏を加へたものである。会場は六陵会は松阪屋、七星会は阪急であった。その二つの会が併せて四回の展覧会を行うた。これは、花道界初めての最もエネルギッシュな展覧会となった。皆が戦後の花道界に、どう云ふ作品を作らんならんかを考へ、それを身をもって発表したのである。それを一年間に四回やったのは、空前絶後の努力であった。
 それは、全国の花道家に非常に大きな刺激を与へ、自分から云うのはおこがましいが、戦後の花道家をふるい立たせる事になった。この時恰も文部省の檜垣芸術課長の呼びかけがあり、東京の勅使河原氏と私が対談して、この七星会の展覧会を見るために、檜垣氏が下阪し、その席上で、文部省の意向をのべて、花道日展を開かんとする機運にまでなったのである。その様な結果にまで発展したのは、私心なく花道の興隆を図らうとする志が自ら実を結んだのに外ならない。幸ひそれに対する諸氏の激励があり、今春の関東のそれに続いて、今秋は関西でそれが開かれる事になった。
 今、以上の事実を通し、更に内容的に事を顧ると、小原流の花を他の家元に審査して貰った時、自然主義的なものがうけた。まんさくと松とを高卓の上にいけた大きな懸崖の花とか、紫陽花をオハグロ鉢に入れたものなどが高点を得たのだが、その紫陽花は、時恰も秋の季節であったので、そのスガレを入れたのである。秋の佗びしさを語ってゐる様なもので、さうした主題をもってゐる花である。モダーンなハイカラなものよりも、かう云うものが喜ばれた。
 又、六陵会七星会の作品を通して見ると、河村萬葉庵氏は、幻想といふ主題で、ススキの穂のみをたばねて大きな壺に入れ、それにタラの花を配した。最初の六陵会の時であるが、その時私は、枇杷と柏の大きな枝の色づいたのを用い、それに松を配し、大輪・中輪・小輪の菊を四五十本、これらを連作として用いた。小判形水盤四面の連作である。詰り豪華な絵巻物を見る様な感じのものである。
 それは、桃山の障屏画の行き方に応じたものであるが、この時、中山さんはモダンな作品を示した。赤白緑の色彩のハーモニーをねらふ新しいものであった。その外、旅の夢といふ主題で、菊地不識氏は、極くしぶい作品を出した。この旅の夢といふのは、「旅に出て夢は枯野をかけめぐる」の芭蕉の句意によるもので、芭蕉の奧の細道を思はすものであった。新井・阪本両氏は自然の客観描写的作品であったが、嘗つてないメンバーの組織が、どう云うことをやるのかは、非常な人気をもって期待された。それで、六陵会から七星会への大勢が生れたのである。
 それを思うと、従来の形式には大衆が惓きているのがわかる。そこに意欲的な展示形式が示されたので、これが喜ばれたのであるが、さう思うのは強ちうぬぼれでもあるまい。
 この六陵会・七星会の活動を通じて今考ると、河村氏の如是我観がよかった。あれなどは、花道人として、前人が語り得なかったものを、その力で表現している。非常に唯心的なものであった。
 私が、これらの会に示した態度は終始一貰してゐる。一番初めは障屏画に見る様な季節の草木の面白さを求めたが、二回目には、図案風でなく、自然主義的な作品を試みた。孟宗に柿の枝を用い、それに鉄線花、アザミを使用し、六月の梅雨空への連想を現はさうとした。これが、第一回の七星会の作で、第二回の時には焼跡の窯場の佗しい姿を現した。宇野氏の窯からその材料を得たのであるが、青い釉のかゝった大きい壺に藤蔓を主としてその他の枯れたものを入れ、ヒマワリの大きい実を裏をむけて入れた。これは、神戸に進駐軍が上陸してくる時に、大丸の陳列窓に入れた時と同じようなヒマワリの実である。その時には、焼跡に立上る再建の心があったが、今は破片が散ばってゐる窯場の佗しさが主題である。
 第四回に当る六陵会の展覧会には、藤蔓と蓮の実のぬけた空洞の表面に金粉を塗ったものを左に、他に二つの作品を配列したが、この藤蔓と、蓮の実の枯れたのに金粉を塗ったのは、古い仏などの、荘厳で物静かな力を考へるクラシックからきている。その金はハナヤカなものを感じさせるよりも、物静かに深く沈んだ心を現している。むかし、室町の時代に、能の衣裳をつくる時には、下を黒地、又は赤地にし、その上に金をおいたというが、その様に、私も黒い枯れた実の上に、僅かに金粉を塗ったのである。
 大体、私の作品には二つの流れがあって、立華形式を新しい構成の意識から表現したものと、どこまでも、自然の風致を連想するものを絵画的手法でゆくのと二つになってゐる。季節環境に感じて、その何れかゞ示されてゆくのであるが、更にもう一つの傾向は、大阪大丸の個展でやった前衛的なものである。他の芸術の面における前衛的シュールなものの水準線にまでには及ばないと思うが、そう云う前衛的なものにも歩を踏みいれて、将来には、前に挙げた二つの傾向と併せ、この三つが性格になるのではないかと思っている。
 京都における四耕会の陶芸にマッチさせたものなどは、この前衛的なもので、六陵会の作品の一部や、枯蓮や藤蔓を用いるのは、一つの前衛的なものと云へるであらう。
 この三つの傾向を六陵会の最後には示したのである。


進駐軍の婦人とお花

 神戸にゐる進駐軍の婦人が私の所に花を習ひにくる。月に二回で二時から四時までときめてゐるが、定刻になるとジープが留る音がしてペチヤクチヤ話し乍らやってくる。稽古は自宅の畳の部屋でするのだが、座ってと云うよりも、実際は座れないから、太い脚を投げ出してやっている。椅子のある部屋よりも其方が面白いらしい。お茶の方だと座らなければならないが、そんな面倒な作法を彼女等は好まぬ。
 花の事を説明するにも、従来の術語を翻訳して解説してもわからない。それよりも、実際の生活に関係させて云うとよく納得する。又、ダリヤとかカーネーションなど彼地にある草木を用ゐると、どうも感心しない。さう云ふものの美しさなら自分等の方が上手に出すと云うのだ。彼女等がワンダフルと云うのは、日本の風土に適した植物を、季節や自然に合して生けたものだ。それで、どうしても日本の特質に触れた美を示さなければならない。
 その人々が私の生けた水物の盛花をヂイット見ていた。どうお思ひになりますと問うと「魚がはねた様です」という。よく聴くと、花型の中に籠(こも)ってゐるものが、恰度、魚のはねた心持に当るのだという。これは私にとっては可成り面白い言葉であった。日本の芸術には、よし小さいものであっても、さうした気合が這入ってゐる。
 又、この人々は、決められた時間のうちは熱心にやってゐるが、定刻がくると、さっさと周囲を片付けて帰ってゆく。日本人だと興がわけば、時間を顧みないが、その辺が違つてゐる。



椿の一輪

 進駐軍の婦人が、最も興味をもったのは椿の一輪生である。その時以来、何時でも椿を生けよと註文するが、椿の花は常にあるのでないから弱っている。
 その興味をもった理由を説明すると、最初花も莟もある枝をとって、既に咲いた花を剪落す時、「マア可愛ソウニ」と云う表情をする。仲には舌打ちをして嫌がる人もある。その時、私はかう説明するのである。吾々日本人は無意味に花を剪取るのではない。これによって椿というものゝ本性を表現するのである。詰り、椿が自然にある状態をよく見、それを経験していて、その本性に遠いものをカットするのである。それで、剪落された花は痛々しいと云ふ悲しみよりも、自らが犠牲になることによって、椿といふものゝ個性が表現される喜びをもっている。死んでも無駄な死方ではない。これが解らなければ日本のいけ花はわからない。さう云うと感心してベリーグッドであると云い、生けられた花を見てもナイスであると云って見てゐる。
 又、こんな風にも云った。「あなたが花をおとすのは、信頼のおける医者がメスを入れる様だ」と。病人がこれによってよくなると信ずる時の快さが感ぜられるとも云った。それは非常に感銘の深いものらしい。
 今の花を剪落す時に、声を出して驚くのは、満開のものと荅との両方がある時、吾々が惜しみなく、満開の花をムシリ取ることである。それを見ながら声を出して悲鳴をあげる。この人々には、莟のうつくしさと、荅を見てその先を考へる意味がわからない。眼の前にあるものゝみを見、既に開いた花を愛する。然し、日本人には、花になるまでの過程を思ひ、その美しさを想像する心がある。それで、咲いて仕舞へばそれまでと思うのであるが、アメリカの人は、咲いた時から美しいと考へる。詰り、現実主義であるが、日本人は、それまでにある莟みを大切にする。この相異は、日本の自然がもってゐる季節の移りに関係していると思ふ。春から夏となり、夏から秋となるこの季節の移りは、やがて現れるものに常に期待をもってゐるのであるが、季節の移りを持たない人々にはその感じがない。従って線の麗しさとか色彩感とかに多くの心をもつのであるが、日本人はそれと異るものを風土から与へられてゐる。
 この移りを見ようとする者は、椿でも木槿でも、決して疲れたものを用いない。短い時間に生きのいのち(「*生きのいのち」に傍点)を示してゐるのを愛する。又それを生けるのが御馳走である。
 この辺になると、莟の情趣を思うことからも更に発展するが、日本人にとっては、一輪の花に示されている精神は、椿なら椿の個性のみでなく、天地の間にある物のいのち(*「いのち」に傍点)の総てである。
 それについて云ひたいのは茶室の花である。茶席に入った茶人は、花がリリシイとか何とか云ってしきりに感心してゐるが、ぞのリリシサがどこにあるかが一向わかってゐない。今云う様に、生きのいのちが時の馳走としてあるのが第一の感銘であるが、それが実際に生けられた花としては、器の口から第一の葉に至るまでのその際に示されている。茶花だからと云って特に水を見るわけではなく、花入の口から離れて、一葉の葉に至るまでの間をどれだけあけたらよいか、その寸法がピンときいていれば、今云ふリリシイ感じも白然に出る。そこに問題があるので、上に吠いてゐる花が椿であらうが何であらうが、それはあまり問題にならない。
 世間の茶花を見ると、風呂に這入って首だけ出している感じの物や、又臍まで出す程のび上ってゐるのもある。けれども、表(*表千家)の生方宗匠(*自徹斎、生形貴一氏か)の如きは、狂ひのない所に生けてゐる。急所に夕マが当った感じがある。世の茶人は山程あるが、花道人の眼に叶うのが幾人あるかと云ひたい。挿すべき花を可愛がってみていない。見る人も、茶花はかう云うものだと云う風に考へ、何故一輪の花を生けるかと云うことを深く考へてゐないが、実は一輪を生けるのは、先程から云う様に大きな意味が含まれてゐる。
 すべてを一輪に煎じつめ、季節のすべてを代表する心がなければならない。それが、器から出る口の所に思ひを致す理由である。
 本当の茶花は、吾々が花をいれるよりむつかしい。譬へば私に、手も足もくくって、眼だけで「花を挿せ」と云う様なものだ。そう云う訓練がないからいけない。利休以来の、何もなくて一輪の花でと云う心持が没却されているようだ。


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