日比谷公園のガーデンビューローと伊藤東一氏~幻の園芸文化協会『園芸文化』創刊号1948

 

『草花栽培の手引』(鹿島書店 1951)の表紙と扉。日比谷ガーデンビューロー編


園芸家、伊藤東一氏の「著作」となっている、『草花栽培の手引』(鹿島書店 1951)の表紙カバーを見ると、日比谷ガーデンビューロー編、伊藤東一「述」となっていた。伊藤氏が話したことを挿絵を入れながら編集して出版したということである。奥付には伊藤氏の住所が書かれていた(東京都大田区田園調布6丁目44番4号)。

扉のところに、伊藤氏の写真が掲載されていた。そこには、表紙カバーに大きく写し出された口紅水仙が伊藤氏が実生から作出した新品種であることが記されている。

*永島四郎氏も伊藤氏のスイセンを使っただろうか。

https://ainomono.blogspot.com/2022/02/1956.html

○歌人、埴科史郎(永島四郎)の歌集『北風南風』から

伊藤東一君を憶ふ (昭和30年)

病みながら指図してアマリリスの交配をせしめし君の心をぞ思ふ

ピンクダホデル作出の歴史の如くにてアマリリス交配の結果見ざりき

*伊藤東一氏は昭和30年(1955)7月19日に逝去

http://kisosanrin1901.org/2721-2/



日比谷のガーデンビューローは、戦後の園芸文化を広げるために公園関係者と各種園芸団体が協力して日比谷公園内に設置した施設で、現在も同公園内に存在する。伊藤東一氏は、園芸文化協会の理事としてここに深く携わっていた。そのことが同協会の機関誌『園芸文化』創刊号に詳しく記載されている。


●園芸文化協会『園芸文化』第一号(*進駐軍により発禁となった幻の創刊号)

園芸文化協会の機関『園芸文化』の創刊号は、昭和23年8月に発行されたが、長い間、所在不明となっていた。これが2014年、記念すべき創立70周年に合わせたかのように国立国会図書館に所蔵されていることがわかり、復刻された。

*園芸文化協会のサイト(創刊号の一部が掲載されている)

http://www.engeibunka.or.jp/about_us_E.html


園芸文化協会は、戦禍が厳しくなる昭和18(2013)年11月中旬に小石川植物園で創立総会が開かれ、翌19年3月に文部省の認可を受け社団法人園芸文化協会として事業をスタートした。英国の王立園芸協会をモデルに園芸の振興をはかることが大きな目的だったが、現実には、食糧増産と戦禍のために失われる可能性がある貴重な園芸品種を全国規模で調査し至急、保存のための対策を立てることが急務であり最大の問題であった。創刊号には昭和18年から終戦までの活動が事業経過報告として記載されている。誠文堂新光社の雑誌『実際園芸』の主幹、石井勇義氏はツバキやツツジなどの「古い文献」や江戸時代以来の主要な「園芸品種」を残すために奔走していたようすがひしひしと感じられる。このときの活動の多くは報われなかったかもしれないが、遺されたものは、現在、日本人にとって、たいへんに貴重な財産として伝えられている。


    

園芸文化協会の機関誌『園芸文化』創刊号1948年

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● 会報発刊に際して 社団法人園芸文化協会長 島津忠重


天恵の気候風土と、植物を愛好する国民性に依り、我国の園芸は既に徳川時代から、優れた歩みを続け、サクラ、ツバキ、キク、ハナショウブ、ボタン、サクラソウ等の優良品種が数多作出されて居るのは申すまでもなく、之に加うるに欧米から次々に導入された品種も独特の技術に依って、異常な発達を遂げて来て居り、世界の水準を凌駕するものも少からず栽培されていたのであるが、それにも関わらず、之を統一して組織立て、科学的に進歩発達させ普及させる機関が全く欠けて居り、何等見るべきものがない状態であって常に遺憾に思っていたのである。

自分は大正十年と昭和四年の二回渡米して、約三年宛滞在していたが、その渡英中は幸い英国園芸協会(Royal Horticultural Society)の役員に推薦されていたので、審にその組織を知る事が出来たが、その規模が大きく内容の優れているのに驚異の眼を見はった事であった。

例えば春秋二回の大品評会には、タイムス始め各新聞に予告は勿論、会期中の報道が大きく取扱はれ、その第一日は、皇帝、皇后を始め皇族方も臨場されて奨励の御言葉等を残して行かれる。午後は会員のみが入場を許され、第二日は高価な入場料を払て一般の人が参観すると云う次第、従て協会そのものは財産も非常にあり、付属の園芸試験場を持ち、協会の大ホールを有し、図書館まで持ていて、会員も数万名に及んでいる。我国では一寸出来そうにもない大規模なもので之故に斯界の進歩発達に大きな貢献が出来てゆくのである。即ちサットンやカーターの種子、サンダーやチャレスウーォスの蘭等、世界の最高峰である種苗が、次々に作り出され海外に迄広く売り出されてゆく原動力の役割をしているとも云い得るのである。

勿論その規模は望むべくもないが、我国にもかかる組織を持った機関が出来て、国内の園芸を組織建て、進歩向上普及に役立つ事が出来たならと深く感じた事であった。

偶々昭和十八年の春に、林*理事長を始め故石原*、大澤*、伴田*の諸君や現在協会の役員をしている人々の間にこの計画が具体的に進められ、社団法人園芸文化協会の設立を見るに至ったが、その後の苛烈な戦禍や終戦後の世相から、会報が発刊される事になったのは、誠に斯界の為慶びに堪えぬ次第である。

資材その他に不自由な今日、理想的な創刊号が出せないのは残念であるが、会員各位も之を諒とされて、二号、三号と更によりよき会報が続刊されてゆく様に、ご協力の程をお願い申し上げる次第である。


*島津忠重 元帝国愛蘭会会長、花卉同好会会長

*林博太郎 元伯爵 第二代帝国愛蘭会会長、旧満州鉄道総裁

*石原助熊 日本園芸会理事長、静岡県興津の園芸試験場の主任技師 西園寺公望「坐漁荘」の土地選定に関わる。西園寺氏の執事に、熊谷八十三(園芸試験場長)を紹介した。 1942.5.1死去。

*大澤幸次郎 横浜ガーデン主 証券業で大成した資産家 長男は大澤幸雄 幸次郎は、大阪府平民伴田六三郎(日本橋で実業家を営む)の次男で大澤家を引き継いて財を成した。六三郎の四男が伴田四郎。五男は新劇の俳優で友田恭助(本名、伴田五郎)は築地座、文学座を立ち上げた人、1937年、中国上海で戦死。

*伴田四郎 ともだしろう 高級園芸市場理事長、伴田農園


●伴田四郎、湯浅四郎(大日本園芸組合組合長、東京農産商会)、田中四郎(富士見農園)は、温室組合の「三四郎」と呼ばれた。(銀次郎さんの花屋一代を参照)伴田氏と高級園芸市場のことを小西銀次郎さんが「東京花一代記」に書き残している。銀次郎さんは初めてのセリは大正13年の春だとしている。「日比谷の焼け跡の一角に、20坪くらいのバラックが10軒ほど建てられました。そのうち1軒に、日本で最初の競り制度による生花市場が生まれました。これが高級園芸市場です。」伴田さんの記録(「実際園芸」昭和4年2月号)によると、これ以前の大正12年12月20日に高級園芸市場組合が創立。母体となったのは東京温室組合で、有力なメンバーには、品川の烏丸農園、六郷の友田農園(※原文ママ)、等々力の富士見農園、生産者でもあり、有楽町に種苗店も開いていた東京農産商会など。市場の創設にあたっては「温室組合の三四郎」、伴田農園の伴田四郎氏、東京農産商会の湯浅四郎氏、富士見農園の田中四郎氏らが中心となった(「東京花一代記」)。


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昭和22年度 ガーデンビューロー報告 理事 伊藤東一


○各地に風水害があったが全国的には豊作となった(*カスリーン台風 9月14日~15日)

○進駐軍の物資援助によって食糧事情も多少やわらぎ花卉園芸に関心を持つ人々も少しずつ増えてきた(*ララ物資が昭和21年の年末に始まり、23年には学校給食も開始された)

○公園(*日比谷公園か)の花壇も美しく彩られるようになり花卉園芸団体の活動も始まった

○日比谷では公園関係者や園芸諸団体の協力によりガーデンビューロー(*「園芸斡旋所」と表記)を開設し昭和22年の春から活動を開始した

○このガーデンビューローの理事である園芸家、伊藤東一氏は22年度と23年度の活動報告を『園芸文化』第一号にて公開している。日比谷公園を拠点として、戦後の園芸家が集まり、再生に向けてうごきだしている様子がうかがえる。


この報告からいくつかメモをしていきたい。

1、東京都花卉園芸協会創立協議会の第7回目の会議を開く(4月6~17日)

2、花卉デザイナークラブというグループが存在し、そこと共催でスイセンの陳列会実施

3、日本ダリヤ会の役員会を4回開催

4、盆景協会設立および展覧会の打ち合わせ会(昭和23年2月、3月)

5、新憲法発布記念花卉品評会

6、サクラソウ、ボタン、シャクヤク、ラン(蘭業組合と共催)、甘藷・トマト、キクなどの陳列会を企画

7,日本園芸組合理事会、都民緊急食糧増産協議会、日比谷公園花壇打ち合わせ会などが行われる

8、日本赤十字社による「花の日」のイベントを計画実施(11月17日の赤十字記念日に)

9、東京都花卉協同組合設立相談会(昭和23年1月、3月)

これらのほかに、家庭園芸会や学校園芸部、会社の厚生部などと菜園及び花壇の相談会を十数回も開いていた。

10、指導と相談について

 (1)日比谷ガーデンビューローでは、「毎日少ない日は十数件、多い日は百数十件の相談」があり、できる限り懇切丁寧に対応してきたが、園芸の常として時期的にまた施設の時間的な関係で集中してしまうので、「徹底を欠く事もあるかと思いました」、と記している。

 (2)個別相談以外に、ときどきテーマを決めて栽培その他の相談に乗る会を開いた。

 (3)昭和22年4月17日には「コサージの作り方のお話」というテーマがあり、講師は「鈴木」とあるが、どのような人物かは不明。(*バラの鈴木省三氏ではないか?)同日はスイセンの話もあり、こちらは伊藤とあるので、伊藤東一氏だろう。

 (4)その他、5月シャクヤク、ナス、トマト、カボチャの作り方、6月甘藷栽培、七月ダリヤ(講師は北海道吉田ダリヤ園主)、9月は29日に「園芸に関して水害対策研究会を開く」とあり、カスリーン台風後の対処策を検討したと想像される。

11、品評会および展示会開催

 (1)日比谷公園陳列場にて、品評会および展示会を「盛大に催したく熱心に努力しましたが、何分(なにぶん)にも花の種類が少くなったのと趣味の栽培家も苦境にあり戦前の盛大さに達する事は容易な事ではありませんが、幸い各位のご協力を得て次の催を得たのは幸です」。

 (2)スイセン(花卉デザイナークラブと共催、スイセンを主としたデザインの展示)

*永島四郎氏は園芸文化協会にも深く関わっていたが、この時代は千葉県下、大須賀村でピーナツバターの製造に専心していたのでこの花卉デザイナークラブがどのようなグループであったか不明。)

 (3)サクラ(梅桜の会と共催)、サクラソウ、ラン(蘭業組合と共催)、シャクヤク、ダリヤ、菊花(秋香会、重陽会、風龍会の協賛)

*まだアサガオの展示はなかったのか。不明。

12、新品種の紹介や種苗の頒布会実施、日比谷公園の花壇に協力。新品種の紹介は、小石川植物園や千葉農業専門学校(*千葉大学園芸学部)、その他の団体組合員によって新品種の紹介が行われた。種苗の頒布会には、日本農林種苗株式会社、北海道農産種苗株式会社、タキイ種苗株式会社、東京種苗株式会社、横浜植木株式会社、帝国種苗殖産株式会社、ヤマト種苗農具株式会社、サカタ種苗株式会社、果実協会、その他各種園芸団体に協力を得て行われた。

13、公園の花壇は戦時中、食糧増産のため畑になっていたが、戦後急速に復旧が行われた。

14、植物の見本園となるような陳列用の花壇を整備、種苗の無料配布なども数回行い、学校や病院から喜ばれた。

15、10月に水害で罹災した江戸川東京都農事試験場で、各地より種苗の提供を受け種苗育成地の回復作業が実施された。




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