東京・銀座の資生堂にはかつて「花部」がありました
私の父(※信義)は、私が中学を卒業する頃から肺の病で長い療養生活を送っていた。 療養先の逗子の別荘では、文学書を読み、園芸好きの別荘番と草花いじりや遠浅の海岸で渡り蟹をとったりして過ごしていたようである。
その後、資生堂の初代社長である兄(※信三)が、花部を設けて父を主任とした。療養生活の後で普通の勤めは無理だろうという配慮からだろう。昭和の初めの頃である。
※東京府立農事試験場講習所の大正6年入場の講習生名簿に福原信義の名前があるので、しっかりと学ばれて仕事をされていたことがうかがえます。
※資生堂の創始者は信三、信義らの父親、有信(千葉県館山市出身)で、株式会社資生堂の初代社長が信三。実業家であり写真家としても優れた作品を残した。
「おいしい料理ときれいな花」という兄の理想の実現にもうってつけであり、花部は資生堂パーラーの入口に置かれたこともあったようだ。
部といっても、主任以下2、3人の小さな世帯であったと思われるが、事務室もあり入口には看板がかけられていた。当時宋朝体をもとにして完成間近だった資生堂書体を使い、黒地に金文字で入れたシンプルな看板だ。
父は自ら青山の高級生花市場(※青山ではなく銀座。高級園芸市場は資生堂から数ブロックしか離れていません)や多摩川の温室村の園芸家たちから良質の切花を仕入れに行ったりしていたが、折からの不況もあり、売れ行きはもう一つだったようだ。 そうこうしているうちに、健康を完全に回復した父は、本社の会計主任として給与計算などの仕事を誠実にこなした。
※他の記事では、店の前が水でいつも滑りやすくなるのでクレームが多く、営業しにくくなったとも記されています。
こんなわけで、私の半分は花屋の息子であり、半分は文学青年であった父の影響を受けて育った。その原点がこの看板なのだから、私にとってはかけがえのない宝物なのである。
『石垣』日本商工会議所のビジネス情報誌 19 (5)/ (231) 日本商工会議所 1999-08


