結核患者と園芸 昭和19年2月号 『農業世界』39(2)-1944-02

 


結核患者と園芸  昭和19年2月号 農業世界39(2)-1944-02

※白衣の勇士 戦地で国のために戦い負傷した軍人として、当時の日本では「白衣の勇士」と美称され、国民による慰問や支援の対象とされた


闘病生活者の手記

"結核と園芸”

歩崎悠哉


これから書かうとする事は、園芸をする事によって結核が直ってしまった、と謂ふ過去の事ではない。目下園芸の道に入らんよする途上、発熱したり、或は自己の労力が常人の何十分の一しか発揮出来ぬ悩みに苦心をし、又はたしてこの病で園芸が可能かどうか、若し之が世にあ る或自叙伝の一形態をなすとするなら、このー文はその第一頁に相当するわけである。これから身をもって体験してゆく、即ち結核を従来の病床生活より希望も明るき天地の変化と共にくらし、しかも太陽や暖かな土の匂ひや柔らかな雨に生産をいとなみつつ生きんとするのだ。その日月が連続するなら、それは更に一頁、一頁の本論へ、そして幸(こう)にして或程度の年月を生きぬく事が出来たなら、それは遂には完成されるところの終止符が打てるわけとなるだらう。

 十数年前の最初の吐血は、トマト畠の土に点々とたらした。そのトマト畠は、その春上京中母の看病に帰省して疲れた体と、長い都会の生活に急に土への親しみが増して、廃屋を取りこわした跡を耕して初めて作った畠であった。

 重病の母には秘めていなければならず、私はその後連続している血痰をみながら、平気をよそうていなければならなかった。療養生活そして最悪のものであらう。然し乍ら母は死んでしまひ、そして又私も母の希望で入社した会社を止めざるを得なくなった。

 だが独り者で、その上兄のある私は充分に休養する余地もあった。それよりも何よりの事は、半都会地の地域としては、ふんだんに太陽を裸に浴びられ、新鮮な食物と広々とした眺めは、たちまちにして体重をふやしていったのだった。そして自然と興味は昆虫や植物に向けられ、母の百ヶ日に集まった人々からは、トカゲや蟻の生活或は盆栽の鉢を熱心にみつめる私を変人あつかひにされる様になっていた。

 その以前、サツキ作りでは地方名人あつかひにされた叔父は、本業の養魚に失敗し、又肉体の要求からサツキの新種培養等に全力を打込んで、やはり、“結核と園芸”とを結びつけて、十数年をその生活に生きて幸福な生涯を終わった。

 然し私は若いので盆栽を夜枕元に並べて寢たり或は草花を作り、いつも園芸と結核の将来をその中に見出すことはしなかった。道草を食っている気持ちよりなかった。実際健康の回復を待って再び勤めたい希望のみであった。

 だから当時の流行の石井勇義氏の園芸書、或は各方面からのカタログ等は、その内容よりもむしろ色彩の美と完備した設備の想像に日をくらし、作るものはあまりいい出来栄のものはなかったのであった。  それに結核は、はげしい労働のあとには必ず甚だしい疲労と血痰とを伴なった。最初の吐血後二貫目も太り、シャベルや鋤 を持って自由に土を動かしていて、それでいてその労働が四、五日も続くと、きまって熱が出てその様な状態になる。当時、病にも認識が少く、朝にシャベルを持っては夕べにカルシユウム注射をなし、昆虫の驚異に、或は又悠久の自然科学に・・・ただ結核特有の物事に永続出来ぬ肉体的血管は、長年月の研究対象或は将来の為、と謂う一つ物事をなし得る境地がなんと欠乏していた事だらう。それ等に精神力によって解決し得る事なのだが。書物によってのみにては、そして又、短い経験に於てはそれが・・・私の場合には特に掴めなかった。 だから、桃栗三年、ときいただけで、三年先の桃の実を楽しむる事は出来ない。まして柿の八年は、どうして庭前に植えて将来を楽しむ心境を得られたであらうか。春蒔いて秋にとれ、秋に蒔いて春に花咲く短い生命を愛し・・・だが又その反面、数十年の盆栽を愛する気持が・・・毎日の気持が将来に殆どつながりがない。

 それでいて、他の人が苗木を植え、いつの間にか実の成り出した果樹を眺めて驚き羨やみ、後悔したり、そして無力の労力を精限りつかひはたして又出血をくりかへす。

 だが私にも、ただ太陽に親しみ読書に熱中し、老人の如く寝るのが楽しみの生活がゆるされない年齢がせまってきていた。然し、以上の様な統一のなききままな生活とは言へ、或期間の自然と生活はかなりの体力をつけていたのであった。私はその余力で再び勤めをする事は可能であらうと考へた。私はそして再び郷里の某所に勤務する事にした。

 出張は楽しい。村から村へ、又、山里にこれはまた科学の電動そのままの天体観測所、油絵に春と名のあったそのままの桃の花盛り、私は仲間の人々よりも疲労する体を極度の休養制をとって、どうにか勤めている事が出来た。然し稀有の大水害に市街は水底に没する惨害の日、任務の性質上第一線に活躍した結果私は倒れた。そして退職せねばならなかった。

 そして半年、寢たままの生活がはじまった。私は書物によってのみ床上の生活をくりかへしていたのであった。そして太陽が柔らかく氷をとかし、暖かな枯草の陰には雑草が生々と芽を出してくるのをみると、体の回復と相待ち草や木のなつかしみが湧いてくるのである。

 生くる事、それは雑草の強さがなくてはならない。その気持が出ただけで元気が出てくる。しかし長期間の療養があらゆる障害を押しのけ、あらゆるものにこだわらず左右されずに続けられる・・・時間・・・精神・・・余裕・・・そのとき見出されるなら問題は少ないのであるが、或回復の状態が続くと完成にはまだほど遠いうちにいつの間にか常人変わらぬ社会に顔を出し、そして生活に闘はねばならなくなるのだ。それでもいいのだ。だが、それには病人の各自の心境が実に千差萬別であり、しかもそのどれをとってみても、病気と社会生活に敢然と闘へる心境をかまへているものは、若い者には、甚だ少ないといふ事が最も危険な事なのだ。病気を真に理解し、しかも糧を得るにさしつかへのない生活をする、といふ事は仲々むづかしい事なのだから、多くはそのいづれかに二分せねばならない。共に敢然にすすめる事が出来ない。それは心の持ち様一つに大きな解決点が残され、そして良き指導と自らの経験によって生きる途が残されているのだが、それを知る事は若いうちは難事なのだ。

 そして又、その両方とも精神力によって結び得たとして進んでも、結果は期待に反する事もあるのだから、多くの本によって書きしるされた病論を完全に理解する、といふ事は、結局自らがサトル事以外にはないのかも知れない。又、闘病論には各人の持つ趣味を捨て(それは或場合には希望を捨てる)ねばならぬ事さへ書いてある。

 それは消毒液の匂と、白い医師の上衣をのみ連想されるところの冷たい病院の廊下や、しみのついた病室、それが少しづつでも希望の持てる闘病論になったのは近年の事だ。

 私はそして同時に両方を掴んだ気持ちで再三生活戦線へ飛出した。そして赴任の地に新家庭を移した日、喀血した。春の雪が降っていた。私の血はその雪の上に散った。だが、この勤めは、私にとっては正に生きるか死ぬかの道であった。退職は無一文の私にとっては死以外にはない。私は吐血で血痰に変わり、それが白色の痰に変わるのも働きつつすごさねばならなかった。

 だがそれも責任ある地位につくに至って、疲労は翌日に翌日にと積り、ここでまた十ヶ月もの休職をしなければならなかった。五年半の前後の勤務中、三回の発病と約二年の病床生活、もうこれではどこの会社でも考へざるを得ないだらう。私は生活の為、最後の立上りをした。そして僅か三ヶ月で又しても倒れ、昨年の冬退職した。この決戦の折何と不甲斐ない事だらうか。連日七度五、六分に昇る。私の肺には穴が開(あ)いている。私の奉公袋には遺言状が密封されてある。然しこれはお召にあずかる前に死ぬのではないか、と何度も考へた事である。

 が、昨夏ことの外の暑い日に私は新聞紙上で内部疾患の白衣の勇士の農場経営進出を知った。又、或外国医師の自伝を読んで、非常に希望が湧いてきた。今迄は勤め以外には頭が向いてなかった。私はいつの間にか退職金で土地を捜し出した。そしてそれと同時に、桃、栗、柿やその外の栗樹の苗木を四、五十取寄せた。

 私の今住んでいる家は、かつてサツキ作りの名人の叔父の家である。一家死滅したその家(うち)に、兄が家を継ぐ迄住んでいる事が出来る、それはまだ種々の都合で五、六年の間があらう。二五〇坪の荒れはてた廃園は、そう決心した昨夏から草むしりは妻や私がした。或時は七度七、八分に昇る。熱が下る迄休む。従弟の中学生に勤労奉仕をたのむ。妻から百姓の兄がくる。畠に模様替へをたのむ。不用の庭園木は薪に作る。

 或時は庭師が回診にきて下さったが、私が梨の苗木を植えているのをみて、私からシャベルを取り、穴を掘りなほして植えてくれた。勿論若い十年前の様な急な回復はやってこない。然も、肺にはいつの間にか穴があいている。私の生命は昨夏殆どうしなひかけていた。噂には、私はすでに点鬼録にのっているとまで言はれた位である。

 だが、白衣の勇士の進出を知った。私の昔の一番の趣味だった園芸によって奉公の道が開けるなら・・・私は改めて園芸書を読み直した。冬中私は作物の冬眠中。私も出来るだけ安静を保つ為床についている。そして庭園を改造した畠に蒔くハトムギ、陸稲、白菜、玉蜀黍、等々の作物の予定表を絵図面に書き、或は果樹苗木の庭木との交代、その下草に苺、又、熱が出て床につけばそこから眺めちれる地点に花ものなど配し、肥料と生活のたしと毛皮のお役にするやう、兎はすでに昨秋より七羽をかっている。今年は兎を中心に経営し、やがて土地が買へれば、この経験を生かして結核の患者の為、一捨石となってみたい。

 “結核と園芸”それは真に生きる物の道で、けっして生やさしいものではなからう。

 前にも書いた様に、園芸には第一の労力の根本不足がある。又下手をすればそれこそ再起不可能に落入り、生命をたつ事になるかも知れない。然し医師良き指導と、自らの胸に湧く限りない希望が、若き日の無知識と異なり、最新の注意をもってすれば幾分なりとも生産といふ最微力ではあるが国家の意図する方に進むうれしさがこみ上げてくるのである。

 春の事がまだ残っている。然し日当りのいい廊下には、草の芽が鉢のへりよりも伸びてきた。私は結核の方から言へば重傷であらう。なぜなら少し働けば七度七、八分にも上る。然し以前の様な無気力ではない。これでも生き抜かうと思ふ。明るく。新芽の様に。


付記

この記事を読んで思ひ起こすことは、本誌三十一巻六号で特集した。“農村結核”の記事だ。結核患者はその頃からふへてこそおれ、決して減ってはいないであらう。乞ふ併読を。

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