日本初のフラワーデザインと花鉢の展覧会か?大正7年2月、東洋園芸株式会社と高島屋呉服店の共同イベント開催

 日本で最初にいけばなの展覧会がデパートで開催されたのは、1912(明治45)年7月、大阪・三越呉服店での、いけばな小原流(2世家元・小原光雲)であった、とされています(「第一回小原式盛花大会」小原流史上巻年表1996から)。

これを皮切りに、大正から昭和にかけて、他の流派も百貨店とコラボして(場の提供と集客目的)、展覧会を開催するようになります。

記事は、新しくできた園芸会社がデパートでイベントを行った、ということを伝えています。三枝守富(さえぐさもりとみ)は、大隈重信の義兄(妻の兄)です。

フラワーデザインと花鉢やグリーンを並べる展覧会としては、このイベントが初なのではないかと推察します。

アメリカのボストンで10年以上園芸研究に携わった恩地剛が帰国して、中心となって会社を立ち上げて間もない時期で、意欲的に取り組まれたイベントであったと想像します。

あらためて、1917年暮れに会社設立 → 1918年早春にこのイベントという時間の短さは、かなり重要だと思います。東洋園芸は、会社を作ってからじっくり顧客を開拓したというより、設立時点ですでに人脈・顧客・事業構想が相当できあがっていた感じがします。

大隈重信らの出資、三枝守富のような人物が社長、そして恩地が園芸の実務・技術を担う。さらに政財界上層のイベント装飾や葬儀装花を引き受けていく。これなら設立直後から大きな仕事を動かせたのも納得できます。

しかも恩地は、アメリカで長く園芸・造園の世界を見て帰ってきた人物です。そう考えると、このイベントも単なる「開店記念」ではなく、東洋園芸とはこういう新しい園芸事業をやる会社なのだ、と東京の上流層に一気に見せる旗揚げ興行みたいな性格があったのかもしれません。

会社設立から数か月で、もう外に向かって動いている。「勢い」という言葉がまさに合います。

※高島屋呉服店は、この当時、京橋(京橋区南伝馬町)にあった。関東大震災で焼失し、現在の日本橋高島屋SCの位置に移転。

記事は『実業の日本』1918年3月号(第21巻6号)



園芸は今日までは殆んど隠居の手すさびか、病人が保養がてらの遊び事のように思われていた。けれども、その色彩に於て気品に於て、吾人の眼を娯しましめ、吾人の生活に健康と慰安とを与えること決して少なくないという見地から、園芸を社会的に広く世間に紹介し、座敷の装飾りに、店前装飾に、また衣裳との配合に、如何の効果を齎(もた)らすかを見せる為、三枝守富(さえぐさ・もりとみ)氏を社長に、恩地剛(おんち・ごう)氏を取締役兼技師長に、新たに新宿終点に設けられた東洋園芸株式会社と高島屋呉服店とが協力して、本月上旬、高島屋にその展覧会をを開いた。日本に於ける殆んど最初の試みであるが、頗る有益に興味あることに思われた。なお、東洋園芸会社に於ては一般草花の種子、販売苗木等を確実廉価に販売する。


※関西に拠点を持つ高島屋の東京進出は、明治33年(1900年)に京橋区西紺屋町で東京店を開店したことに始まり、その後、京橋区南伝馬町を経て、昭和8年(1933年)に現在の東京都中央区日本橋(日本橋髙島屋S.C.)の位置へ移転・開店しました。




朝日新聞 大正6年12月29日 1917年


東洋園芸創立
 東洋園芸株式会社は愈(いよいよ)設立せられ社長に三枝守富 常務に福田定次郎 取締役に湯谷磋一郎 牟田口淳介氏等就任し 顧問には大隈侯及び松村(任三)、新渡戸(稲造)、白井(光太郎:しらい・みつたろう)、三好(学)、三宅(おそらく驥一:きいち)の諸博士 相談役に牟田口元学(げんがく)氏を推し 湯谷氏主事を兼ね 十余年間米国東部にて実地研究したる恩田(※恩地)氏技師長を兼ね 海外貿易を大目的となし 併せて園芸一切の需要に応ずべき差当り新宿電車終点元東京園芸社を改造して本社兼売店として業務を開始したり
東京園芸社 広告 
『日本基督教徒名鑑:一名・日本之基督教一覧』中外興信所 大正3(1914)年
渡米経験のある福田定次(ジョウジ)・紀子(トシコ)夫妻が経営だが、主に紀子が店舗は切り盛りしていた。紀子の死去ののち整理改造して東洋園芸株式会社の店舗、本部となっている。

『開拓者』 17(6) 日本基督教青年会同盟 1922-06





このブログの人気の投稿

風流一生涯 西川一草亭のこと

「ガク割れ」カーネーション split galyx を手直しするクリップ 【Baur carnation Clip】【staples】について

将軍に付き従い室町文化をリードした「同朋衆」とはどんな人たちだったのか 同朋衆と時宗