アメリカでいけばなを広めた功労者、山本とも子の足跡
【米国で強制収容所から解放された日本人を安全な場所へ動かして定住させようという計画と実行】
アリゾナ州リバーズ、ギラ川強制収容所。サンフランシスコ元PTA会長、現運河婦人クラブ(収容所内の婦人クラブ)代表の山本夫人がエレノア・ルーズベルト夫人に花束を贈呈する。日付 1943年4月23日 Wikimedia Commonsから
華道家、山本とも子の場合
※カリフォルニア州サンフランシスコからアイオワ州デモインへ
AIしらべ
1. 西海岸での敵意と危険
1942年の強制立ち退き後、西海岸(日系人の多いカリフォルニア・オレゴン・ワシントン州)は「軍事的に危険地域」とされ、日系人は収容所へ送られました。
1944年12月、最高裁判決や大統領命令により収容解除が認められると、徐々に西海岸に戻る人も出ましたが、戦争はまだ終結していませんでした。
帰還した人々は 石を投げられる、雇用拒否される、店で買い物を断られるなどの被害を受けた記録が多数残っています。とくに日米開戦で家族を失った人々の感情が強く、日系人差別は根深かったのです。
※セーフウェーだけは、日本人を差別せず食料品、日用品を売ってくれたという。
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2. 内陸都市での「再定住」
そのため WRA は「内陸部での resettlement(再定住)」を強く奨励しました。
シカゴ、デトロイト、デンバー、**デモイン(アイオワ州)**などは、比較的安全かつ受け入れ態勢がある場所とされました。
デモインは中西部の保守的な町でしたが、Better Homes and Gardens(Meredith Publishing)や地元ガーデンクラブといった文化人ネットワークがあり、教育・文化活動に日系人が溶け込みやすい環境でした。
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3. 山本とも子の場合
山本とも子は収容所を経て、デモインに再定住。
これは「西海岸に戻るよりも安全」という当時の判断に沿ったものです。
さらに、Fae Huttenlocher(BHG 副編集長、Founders Garden Club の重鎮)のような強力な支援者がいたため、地域での受け入れは特別に良好でした。
茶室を拠点に華道・茶道を紹介する活動は、日系文化を「危険な敵性」ではなく「高貴な芸術」として地域社会に浸透させる役割を果たしました。
●山本とも子の足跡 (生年不明~1966)
1. 西海岸での生活(戦前)
山本とも子は 日本で、皇室で花をいけ、教えていたという書いてあるものがいくつもありますが、詳細は不明。1911年に渡米(息子は1916年に生まれている)。
サンフランシスコ在住でした。
PTA会長経験などの記録があり、地元日本人社会・米国社会双方で活動していました 。
息子 Verlin(ヴァーリン)は1910年代にサンフランシスコで誕生し、後年の訃報でも「San Francisco born」とされます 。
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2. 収容と「茶室」の移送
1942年、日系人収容でアリゾナ州 Gila River へ送られ、Canal Women’s Club のリーダーを務めています 。
この時点で、収容前に自分の茶室をFae(Forest) Huttenlocher邸へ送っていたことが、日米協会(JASI)の記録に残っています 。
Fae は Better Homes and Gardens 編集幹部であり、またデモインの園芸・文化活動の名士でした。
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3. 1943–45年:デモイン再定住
1943~45年の間に、山本一家(とも子・息子ヴァーリン一家)はデモインへ再定住。
1945年3月のWRA写真では、**「San Francisco と Gila River から来て Des Moines に定住」**と明記されています 。
地元紙・回想録では、Fae の邸宅に同居あるいは強く庇護されていたことが書かれており、少なくとも戦後初期は Huttenlocher 家が生活基盤を提供していたと見られます 。
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まとめ
戦前からFae Huttenlocher(フェイ・ハッテンロッハー有名な女性副編集長)と交流があり、茶室をデモインへ移して託すほどの信頼関係。
※戦後、山本に頼んで、毎月、いけばなの連載ページを企画していた。
山本家にあった茶室は、丁寧に分解梱包され、収容前に茶室をハッテンロッハーの邸宅に移送 → 収容後、山本家はデモインへ再定住 → Huttenlocher家での庇護・滞在という流れが、史料の断片をつなげると浮かび上がります。
その後は、ガーデンクラブやBHG編集部とのネットワークを活かし、華道・茶道を地域に広める拠点となりました。