横浜市周辺、港南地区の花づくり 笹下地域を中心に 鈴木清吉と薫花園など

『港町百花繚乱』2008 から



横浜の花づくりの歴史 港南区 笹下地域 鈴木清吉、薫花園

大正一四(1925)年 戸部 横浜生花卸売市場の開設(震災の2年後)。

昭和六(1931)年 上大岡 港南花市場の誕生。

笹下の東福寺に昭和40年、「花塚」建立 港南生花商組合

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『港南の歴史 区制10周年記念』港南の歴史発刊実行委員会 1979年


花の生産と販売


 「畑は道一杯に芳香を放って果しなく続いたまるで絵の様な素晴らしい風景でした」。これは昭和二年六月、日下小学校附設実業補習学校教諭として赴任した今井ウタの感想である。

 明治四五年(一九一二)編纂された久良岐郡大岡川村「郷土誌」は、花の栽培についてつぎのように記している。「生業 一般二農業ニ従事スレトモ横浜市二接近セルヲ以テ諸種ノ業務二従事スルモノ漸ク多キニ至レリ、殊二農業者ハ各自ニ小規模ノ蔬菜園芸ヲナシ又花卉類ヲ栽植シ日々婦女子ヲシテ少許宛ヲ龍二入レテ背負ハセ横浜市中ニ行商セシム、其数少クモ毎日二・三拾人ヲ下ラズ、多キトキハ百人以上ニ達ス、土人之ヲ背負𡏱(しょいびく(※土へんに累))卜称シ各戸其収益少ナカラズ。物産 馬鈴薯・蔬菜類 草花類 百合 パイスケ 笟(*たがという漢字だが、笊ざるでは?) 植木を産ス。」※パイスケは天秤棒で担ぐ一対のかご=バスケットという言葉が語源

 また「横浜市史稿」は「裾からげの地味な着物に、色襟をはづかし気に覗かせ姉さん冠りの手拭も鄙びやかに、藁草履を穿き、背負った龍の中には野菜物を充たし、季節々々の色花を莚包みとした荷藁も軽ろげにお花お花と呼び歩く、素朴な田舎娘と、小魚類を板台に入れ、𡏱籠(びくかご)に乗せて背負ひ、無雑作な束ね髪に筒袖姿甲斐々々しく、戸口々々をめぐり歩く年増女とは、開港頃から明治に亘り其中期頃を全盛として可成り長い間、横浜市中の景観に和やかな色彩を投げたふたつの点景であった。花売娘は、港一里余程の陽恵みに潤された、大岡、笹下、日野、田中、栗木等の部落の丘や山懐ろに、四季とりどりに咲く僚爛の草花と畑幸の品々とを籠荷にして、市中を売り歩く娘さん達である。年増、老婆も交っては居るが、大方は花恥かしい乙女が多い。町人はこれをお花やさんと呼んでいる。」と当時の風俗をのべている。

 「神奈川県花卉業界沿革史(※神奈川県花き業界沿革史)」によれば今井ウタの赴任する以前の日下村の花の生産推移は本頁の表のようにまとめられている。

 横浜の開港とそれにともなう市街地の形成は、日本風の伝統的な仏花・神花に加えて西洋風の草花の需要をひきおこした。やがて港南の地に花の栽培がはじまるとはいえ、それはまず行商という形で花とのかかわりを持ち始めた。武川勘次郎は明治四四年(一九一一)生れだが、三代にわたる行商で、小学校卒業の頃、三浦半島に足繁く花を買いにいったという。往復とも自転車であった。大正になって花つくり農家が増えたとは言え、主流はやはり行商であった。

 「横浜の花屋は蒲田の人が花を卸に来てその荷を買って商売した。ですから横浜の花屋は蒲田の出の人とそれから川崎の市の坪の出の人が多いんです。その当時は横浜では花をつくっている人もいないし、皆庭に咲いている花を買ってきた。それからだんだんと横浜附近でも作るようになった。私が商売をやるようになってから夏のものになると、岡村から磯子の方で間に合うようになったが、お盆の花は殆んど岡村や磯子の辺で間にあったものです」。懐旧座談会での青山庄太郎の談話である。

 栽培のはじまりをたどると、金子喜一(よしかず)の祖父国松は明治二○年代には花木類を中心に栽培をはじめ花屋との交渉を持っていたという。栽培といっても山や畑に植えてある花木類を花屋が来て主に生花の材料として切っていく程度であったらしい。生花をたしなむ家庭がまだ限られていた時代でもあったし、多分行商の花売りの話しを頼りに花屋が訪ねてきたものであろう。求めに応じて花木類を増やしていった。武川勘次郎宅の山椿の古木は秋から春まで花をつけるが、野毛の花屋が秋になるとまとめて買いつけていった。このように自然や野生のもの、農家の庭先きにあるものが対象にされたのである。花木類は鈴木滋の祖父清吉もつくっており、縁日に出す植木類を商人が朝早く来て掘りおこし、根巻きをして荷車で運んでいった。

 いっぽう鈴木清吉は明治二四年(一八九一)に設立された横浜植木株式会社の社員にもなりながら輸出用の百合の球根を栽培し、自分の畑だけでは足りず、近くの農家に委託もした。花はつまんでまい、純粋に球根だけをふとらせるものだった。明治二二年(一八八九)生れの宮川万太郎も若い頃、鈴木清吉を通じ、石川の地蔵坂上にあった会社(※桜道のボーマー商会)の委託を受け、百合の球根の栽培をはじめたが、できた球根の選別が厳しく、やかましかったのでしばらくしてやめた。

 明治四二年(一九〇九)に死んだ国松のあとを継いだ金子経治は、一時試みた養鶏を機熟せずとみてやめ花木栽培に専念することになった。しかし、花木類では限度があり畑も荒れるし、たまたま花屋が来て外人の眺めるのに適したヒヤシンス、チューリップ、水仙等一連の洋花の需要がたかまっているようすを聞き、切り花に転換していった。大正七~八年の頃である。けだし「郷土誌」の指摘するような「横浜ノ如キー大市場ニ近ク蔬菜、花卉、果物等の販路ハ尤モ便利ニシテ且温和ナル気候ト諸種ノ土質トハ共ニ相矣テ天與ノ園芸地ト云フヲ得ヘシ故ニコレラノ露地栽培ヲ奨励発達セシムルハ土地ノ発展上最大急務ノコト、云フベシ、加之尚進ンデハ温床又ハ温室栽培等ノ如キ集約的高等園芸ノ漸次発達セシメンコトモ希望セリ」という気運に乗ったのであろう。経治は効率よい生産を考えフレーム栽培を始め、斜度を変えたりいろいろ工夫した。つくった花は東京・横浜の市場にも出した。鈴木清吉の薫花園も大正八~九年には切り花専門になり、フレームだけでなく、石炭をたく温室でカーネーションをつくった。露地栽培のバラは元街の西洋花屋が朝早く提灯をつけて買いに来た。大正期には他に森、荻久保等花を専業とする農家が出現した。

 花つくりは附近の農家にも普及し、昭和初期、斉木スミは「野菜を売りにいく時、いっしょに花を持っていった。売るくらいは四季の花を自分の家でつくることができた。多い時は市場にも出し、久保橋の市場に出したこともあった」。専業農家は数軒を数えるしかなかったが、農家の副業として、あたり一面花匂ふ里になったのである。

 明治一四年(一八八一)神奈川で最初の生花問屋「花七」を開いた岩見七五郎の子精一は、さらにそれを発展させ、大正一四年戸部に当時全国でも珍らしい横浜生花卸売市場を開設した。農家の娘が売り歩いた頃とは比較にならない流通上の大発展がおきたのである。昭和六年には上大岡にも港南花市場が誕生した。金子、鈴木、森らの専業農家は、拡大された流通市場の中で特殊性を出すのに懸命の努力をした。オランダやアメリカから直接カタログを取り寄せ、球根類の栽培にとりくんだ。金子のカラーや菊、鈴木の芍薬等は名だたるものであった。オランダから直輸入したチューリップの球根は、ふやしかたも覚えブローカーを通じて新潟に売った。沖積層の土壌と寒さがこの附近よりも適しているのではないかと試験的にやらせたものだが、これが今日有名な新潟のチューリップ栽培の礎となったのである。

 また流通機構が整備されたとは言え、店を構えるよりいくらかでも安く売るということで、行商はこの地の人によっていぜんとして続けられていた。

 花はつくったり売ったりするだけではなかった。「大正六年、私の一七歳頃、徳恩寺の長尾先生の家に売りに行ったんです。すると先生がお花を売るには生け花ができなければお花は売れませんよと言われて、二年ばかり習いに行った」という亀井鶴吉のように、後日生花の師匠として笠原銀之助、金子富次らが輩出し、徳恩寺の流れをくんだ小室古流がこの地にひろまるもとになった。金子喜一(よしかず)は、東京や横浜の花道会の家元や師匠たちが花の出生を求めてたびたび訪れた時、その場で活けて互いに批評しあう光景に接し、花を活ける立場にたって花つくりをしなければならないと心がけるようになったという。

 しかし、戦争が花つくりに決定的な打撃を与えた。副業農家はまだしも、農家とはいえ米麦や野菜をつくったこともない専業農家に対して、花つくりの全面禁止、経営面積に応じた食糧供出が割り当てられたのである。花つくりは非国民とののしられ、球根類は田の中に埋めてくさらせてしまった。断腸のおもいだった。大根をつくって持っていっても細くて小さいので皆んなに馬鹿にされ、穀類も、いけないことは承知しつつも他の農家から買って供出しなければ割り当てを完納できなかった。

 しかし、「一球はどうしても残しておきたいと木の根っこにこっそり埋めた父経治の苦心の創出になる『レマニー・ロゼア』というピンクのカラーはいまでも芽を出している。だいじにしたい」と金子喜一。「『七福神』とか『みゆき』とか創出した洋芍はなんとか残しておきたいと、ないしょで見つからぬようにつくっていた」と鈴木滋。心血を注いだ花への愛着は絶ちきれないようだ。

 刑期を終え、晴れて笹下の刑務所を去る人がある日突然訪れ。所内からかいまみた美しい花が、受刑中の心をいかになごませてくれたかはかり知れないものがあった。お礼を一言申しあげてこの地を去りたかったとあいさつし静かに帰っていったという。

 この地には、いまでも花にかかわる人が多い。

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