園芸の神さまと呼ばれた東園教員(嘱託)、石川保太郎先生の教え残したこと  関東大震災後のバラックでみた空き缶の草花 東園の被災者慰問隊を実施

 『世田谷の園芸を築き上げた人々』湯尾敬治 城南園芸柏研究会 1970


石川保太郎 先生


私(著者:湯尾敬治氏)が園芸学校(※東京府立園芸学校)を取上げた理由のいま一つは、園芸の神様と評される石川先生の存在を重要視したからである。先生の名声は園芸を業としているもの、或は趣味として楽しんでいる人、その何れにも知れ亘っており、わが世田谷園芸にとっても深い関係をもっておられるのであった。そこで私は先生の長い園芸遍歴の上に築かれた園芸観に接し、それを皆さんに紹介したいと思い、この項を設けた次第である。

石川先生が園芸学校に来られたのは大正三年であり、その前二年間程、女子高等師範学校に勤務されていた。そこでは教材植物栽培を担当されており、当時の教授、安井博士の知遇を得て、系統的に植物学を学ばれたそうである。時に年令二十二才。

※当時はまだ博士号を取得していないが、女子高等師範に助教授として在籍していた保井コノ女史ではないだろうか(保井コノは日本で始めて博士号をとった女性研究者)

たまたま園芸学校から「是非こちらへ来てほしい」と懇望され、不安の中にも又別の希望も抱いて赴任されたのであった。実は先生の園芸の道に入られたのは更に五年程前にさかのぼる。十七才の頃今の御殿山華壇、竹内真一氏の厳父、嘉吉氏の園芸場であった。その頃は小石川坂下町にあり、一般草花の鉢物を生産し、同時に販売も兼ねており、当時としては企業的経営といえる園芸家であった。先生はここで働きながら語学の勉強のため、個人教授を受け、(夜学)なお、ひまを見ては、支那の園芸原書を読んで植物の本質を理解することに努力された。「よく漢文書が読めましたね」とおききした所「何回も読み返しておれば大体の意味は分って来る」とのお答えであった。読書百遍意自ら通ず、という言葉を裏書きするものでもあり、私は只々敬服するのみであった。

石川先生の菊栽培に関する知識と技術は、共に高く評価されているが、これは園芸学校に来られてから、当時の秋香会長、中山恒三郎(つねさぶろう)先生の指導が大きな力となっているようである。中山先生は講師として時々学校に来られて、お話しや実地指導をされていたのであった。盆栽の技術は御殿山華壇におられた当時から勉強されており、本格的には学校で培養をはじめてから、所謂、石川流とも云える盆栽の仕立方が出来上ったものと思われる。

さて話しを園芸学校赴任当時に戻すことにする。当時の校長は第二代目、鈴木武太郎先生であり、農場助手としては、第一期卒業生の早川(※源蔵)、山田(※正吾)、石田(文三郎)の諸氏が働いておられた由、盆栽は二、三十鉢程で作業と云っても、これと思うようなまとまったものは見当らず、二、三日で嫌になってしまったそうである。

或る日、自分の荷物を風呂敷にまとめ、無断で家に帰るべく玄関前を通った所を山田氏に見つけられ、「どうしたんだ。様子がおかしい」ということで理由を尋ねられたので、「仕事が面白くないからやめたい」と答えた。山田氏は、「そう短気を起さず、辛抱しなさい。そのうちに仕事もたくさん出来るから」とさとされた。そこで又気を取り直し学校に止まることにしたそうである。

とやかくしているうちに、盆栽の数もふえ他の先生方との交りも深くなり、少しずつ落付きも出て来た。一方栽培管理にも興味が湧いてきたので、この分なら大丈夫だと自らも納得されたようであった。当時、花卉の講師として盧貞吉先生がおられ、洋蘭をはじめ、一般草花の講義と実習指導をされた。石川先生を非常に可愛がられ、色々と親切に指導して下さった。その頃は盆栽部も花卉部も一しょであり、従って先生は両方を管理する立場にあったわけである。菊栽培は先きにも述べた中山先生の指導により、品種も毎年新しいものを入れ、江戸菊は秋香会の方から苗の分譲を受け、次第と本格的な菊作りとなって来たのである。

大正十二年、突如として襲った大地震は、東京市の大半を灰燼に帰し、十万余の人命を奪うと共に、緑も花も消え失せ荒廃の土地と化してしまった。先生が或る日、所用のため市内を歩いていた所、バラックの入口に空缶の中に挿してある名も知れぬ雑草の花を見つけた食べるもの、着るものもない生死の極限にさまよいながら、なおも自然を求め、植物に深い親しみをもつ心情に深い感動を覚えたそうである。これが人間の本能であり、自然とは切り離すことの出来ない人生であることは分っていながら、改めてこうした場面に接する時、新らたな感激を呼び起すのであった。

その年の秋、本校卒業生と学校とが協力して被災者慰問を計画した。たくさんの切花や鉢物を車に積んで市内の被災者に配って歩いた。この温い贈物を受けた人々はどんなに喜んだことか。先生は心の底から花作りとしての満足感と、その価値に対し、ゆるぎなき確信を持たれたのであった。この大震災を契機として東京の園芸は新たな発展期に入ったのである。

園芸学校に於ても安田(※勲)先生の花卉、石川先生の盆栽と菊、両者共前進のための研究段階に入り、大輪菊は勿論、江戸菊、小菊などの品種改良に力を入れ、数年にして各種の新品種が生れたのであった。小菊では丁字咲きの優秀品種を作り出し、現在各地で栽培されているものの中には、先生の作出した品種が多く見られるのである。神代の衣、黄金丸、東園の雪、東園の光、洗心、椿姫、桜衣、など皆さん悉知のものである。江戸菊で現在残されてにいるものには、猩々、白拍子、酔美人、天津乙女、滝の白糸、延年の舞、筆染川、藤娘、落葉篭、などがあり、何れも愛好家の賞賛して止まない品種である(この中には戦後発表されたものもある)。こうして先生の植物に寄せる愛情と研究心は年と共に深まり、限りなき美の探究へと没入して行った。

昭和十六年、大東亜戦に端を発した第二次世界大戦は、園芸に携っていた人達を、食糧生産への転換を余儀なくした。本校もその例外ではなく、花畑は勿論、運動場まで堀り起して甘藷を植えたのであった。こうした状態の中にあって先生は、次の時代に備えて密かに宿根草や、菊の苗木、盆栽用の親木など、畑の隅や小陰にかくし植えて保存を図った。長年育て上げた盆栽の処置には一層苦心され、何とか空襲の被害から守ろうと努力された。とに角、形だけでも戦争がおわるまで残しておきたいものと、執念に等しい愛情でこれらのものを保護して来た甲斐あって終戦後、逸早く一般草花や、菊、盆栽なども復活出来たのであった。この事は園芸学校にとっては何よりも貴重な所産であり、教育の面にも大きな貢献をもたらした事になったのである。

戦後は専ら盆栽と菊作りに精魂を打込み、唐楓の実生や取木、真柏の挿木による繁殖、菊は大輪種の外、懸崖作りを大量に栽培し、江戸菊、小菊の玉作りなど若い人に負けない程の意欲を燃やして栽培に熱中された。

先生の懸崖菊はその形が独特であり、一般に見られるような棚作り手法は用いず、自然の姿をとらえて変化を起させ、流動感を呼び起すよう心を配った。私達は石川流と呼んでその真似をしようとするが、中々思うような感じを出せない。当時、進駐軍将校とその随員が学校参観に来た折、爛慢として咲き誇る菊を見て、正に世界一であると賞讃したそうである。

石川先生は園芸学校在任中に幾多の表彰を受けられているが、その主なるものを挙げて見たい。昭和十五年、園芸功労者として、社団法人日本園芸協会から表彰される。同年勤続三十年の功績を讃えて閑院宮より木盃を贈られた。昭和二十九年、東京都産業教育七十周年記念に、文部大臣より教育功労者として表彰される。更に三十九年、産業教育功労者として勲七等青色桐葉賞を授与された。

この年、七十五才となられた先生は、五十年という長い勤務を止められ退職されたのである。たとえ学校をやめられても先生の名は消え去ることはなく、幾千の卒業生、数百の盆栽、この貴重な遺産の中に先生の生命が輝き続けるものと思うのである。

石川先生が六十有余年間、植物と共に生きて来た人生の中から発見されたものは、自然と人間との理解、融和であった。自然に反抗せず、自然の中に溶け込んでそのもの、本質に触れることである。そこから生ずるものは謙虚さと誠実性であった。これらは単なる観念論としてではなく、自らの実践によって体得した尊いものである。

人間関係においても亦、植物に対峙する場合でも常に謙虚に、そして受身の態度で接することを信条としておられる。そのことによって自らが求めている知識ないしは技術は自然に自分の心の中に芽生えて来る、と云われる。盆栽の形を整えるにも決して針金をかけない。剪定のみで樹形を作って行く。庭を作る場合でも徒らに鼓張した表現を好まず、常に自然の教える所に従って施工して行く。こうした人生観乃至は園芸観が先生の円満な人格を築き上げた基をなしていると私は信ずる。現在は千鉢に近い小盆栽を愛育しながら、余生を楽しんでおられるのであった。

住所 世田谷区深沢町七の二四の一 電話七〇一-七七五三


【震災後間もない10月下旬、東園卒業生の力を合わせて花束3000束を被災者に贈る】

下図 『東園の七十年』東京都立園芸高等学校同窓会 1978年から


(前略)

次に、在校生徒の内家族の一部を失ひし人二名、家屋焼失、倒壊等三十三人に有之、職員の中、梅野博次郎氏は鎌倉の実家倒壊後焼失の災に逢はれ、共他の職員農夫小使等自家、親戚等に皆夫々幾分の損害なきは非ざるも、一名の負傷者もなかりし事は幸に有之候。

(中略)

其後学校或は卒業生の一部にては色々の計画致し大体左の如き活動を続け申候。

十月下旬卒業生の一部の発起にて、バラックに傷心せる市民に花を送りて、それを慰問する事となり、花の寄贈を乞ひ卒業生は自己の栽培せる花を持ちより、実習にて花束を作り候に約三千束を得、天長の佳節を期し、貨物自動車に満載し、慰問辞を誌せるビラと共に、山田正吾氏指揮の下に卒業生生徒の大活動となり日比谷、二重橋前広場、府庁前等のバラックを一々訪問して之を贈り候。

又一方此震災の救助に大活躍をなせし米国大使ウッヅ氏を大使館に訪ひ、懸崖の菊三鉢に感謝状を添へて贈り、大使に大いに喜ばれて秘書官より礼状を寄せられ候。

感謝状と礼状は左の如くに御座候。


関東の大震災に際し、閣下並に貴国民の機を得たる厚き御同情に対し、吾等一同感謝に堪えず、鉉に謹んで生徒培養の菊花三鉢を奉呈し、微意を表せんとす。幸に御嘉納あらんことを。

大正十二年十月三十一日

東京府立園芸学校長山本正英

米国大使サイラス、イ、ウッヅ閣下


続いて、日比谷公園に小菊花壇一棟を出品致し候。之れ毎年開かるべかりし(東京)市主催の菊花大会が取止めとなり公園が淋しく且つ殺風景となりしを以て此陳列をなしたる訳に候。またー方生徒は農揚生産物の一部を避難者の間に配給する事数次、些少ながら分相応の活動を続け申候。(以下略)




植物の心を知った人·石川保太郎先生『東園の七十年』東京都立園芸高等学校同窓会 1978年から

本科三十四期昭和十八年十二月卒 現教諭 浅野 湜

石川先生のご在職は実に五十三年の長きにわたる。その晚年十年間、助手としてご指導を受けた私が、折にふれて拝聴した先生ご自身の思出話を、いろいろとりまとめてご紹介したい。
「植木屋の息子に生まれたが、高い所が嫌いなので、盆栽を志し、麴町の小学校を出るとすぐ、盆栽修行のため御殿山華壇に入った。
昔の盆栽家は幅が広かった。温室をもって西洋草花も作るし、江戸時代の園芸書も読めば漢籍も座右におく。御殿山華壇の主人武内嘉吉氏もそういう人だったから、それらを借りて夜晚くまで読みふけり、幅のある勉強ができた。
同業者に苔香園の木部(※米吉)翁がいたが、主人の使いで参上する私などにも分けへだてなく技術を教えてくれた。御殿山華壇や苔香園で修業した仲間たちが、大正昭和の盆栽隆盛の基をつくったのは当然のことだ。おかげで私もいい知人をたくさん持った。御殿山華壇をやめ、一年足らず東京女高師の園丁をした後、東園の園丁として採用されたのは明治四十四年十一月のことである。(昭和三年から授業嘱託)
最初の日、弁当を持って出勤したが、盆栽が少ししかないから、二、三時間で仕事がなくなった。帰りかけたら呼びとめられ一日中勤務するのだといわれ、それからは盆栽をふやすことに努めて、一日中仕事があるようにした。
菊の大家の中山恒三郎(※つねさぶろう)先生が、週に一、二回、二人引きの人力車で神奈川県下から来校されていた。この中山先生から菊の自然交配のコツを直接教えていただいたのが何よりためになった。このおかげで菊の新品種を次々と作り出すことができた。江戸菊の白鳥の湖·白頭山·椿島·延年の舞などは今でも多く栽培されている。
会心の作は何といって小菊の神代の衣だ。これが実生畑の中で咲いているのを見つけた時は、思わず膝をたたいて、これだ、遂にやった!と有頂天になったものだ。(これは農林登録になった)。」
以下は、先生のご指導を受けた私の感銘などである。
先生はロぐせのように「先生になるよりも日本一の園丁になれ」といわれた。寒い冬の朝でも先生は霜柱の立つ畑の真中に三時間以上も立ったままでご指導くださる。正直いってたいへん辛かったが、四十近くも若い私が弱音を吐くわけにはいかないから、がんばってお話をきき続けた。先生は弟子がメモをとるのを嫌われ、頭の中にたたきこむようにくり返し語られたものだ。傍から見たらまたお説教くってるとみえたかもしれない。
自分の跡をつぐ者がこんなに未熟ではと焦っておられたと思う。それが特訓につぐ特訓となったのだが、先生が学校を去られてからも、何かにつけて参上してはご指導を仰いだものである。ご退職後る時々来校されたが、ここが悪い、あすこは······とお叱りをうけそうでビクビクしながら、少しでも多く教えていただこうとついてまわったことも忘れられない。先生の跡をついで盆栽の管理をするようになってから、次々と疑問がわいて、どうしてもっとよく教わっておかなかったかと悔んだことも数知れない。しかし一方、別にこれはこうせよと教えられなかったかわり、何気なく話されたことの中に珠玉の示唆があったことも事実である。「植物の性質をよく知り、それを利用させて貫うのだ。人間の我儘であちらに向けたりこちらを切ったりするのでなく、植物を生かして使うことだ」と、先生はいつも言っておられた。他の先生方が「あんなゃり方でどうする、針金もかけずにうまくいくか」と思って見ていると、ちゃんとまとまるのであったが、それはこの言葉どおりのやり方をされたからである。
先生の実力と活躍は広く世間に認められ、昭和十五年には花卉園芸教育の功労者として日本園芸会から、昭和二十九年十月には東京都産業教育七十周年記念会から、表彰された。また四十年に天皇·皇后両陛下が本校にご来校の際には、天皇から親しくお言葉をかけられた。
昭和三十八年三月末日をもって園芸学校を退職されてから、はじめて自分の家に盆栽を栽培するようになり、約十年間、次男利夫氏(本科三十五期生)の奥さんやお孫さんを相手に、平和な余生を楽しまれた。
昭和四十八年四月十九日、八十四歳の生涯をおだやかに閉じられた。
(筆者は母校の盆栽担当教諭)

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