合田弘一氏 渋谷の興農園、坂田商会で種苗商を経験、独立して「国際園芸」を立ち上げた 第一園芸や富士園芸の設立にも関わる
国際園芸 合田弘一氏
国道二四六号線のはげしい騒音を避けるように、太子堂の住宅に囲まれた一角を営業所として、国際園芸KKがあった。小規模ながら整備された温室の中に、カトレヤの花が電照に明るく映し出されていた。
現社長、合田弘之氏はニ代目であり、先代は弘一氏であった。昭和十年頃、ここに居を構えて園芸種苗の取引をはじめられたのであった。その以前は草花栽培や、二、三の園芸種苗会社に勤務されたこともあったが、青年期の人生を或る意味の、人生道場として生きて来られたようである。
先代弘一氏は東京生れであり、青山学院高等部(今の英文科)を卒業され、一時東洋汽船に勤務されたのであったが、体があまり丈夫でなかったので、母堂の心遣いもあって僅かの年月でやめたそうである。その後、大正十年頃、下野毛六郷用水のほとり(現在桜井元氏のおられる場所)に温室を建てて自営の道に入った。元来花好きであり、中学時代から内外の花の種子を買入れて、その栽培を楽しんでおられたそうである。下野毛では温室も四、五十坪あり、スイトピーを栽培した。東京での栽培者では最も早かったのではないかと、弘之氏は云われる。露地ではカーネーションなど栽培して生産園芸に励んだのであったが、それは決して生やさしいものではなかった。高等教育を受けたインテリイには想像もつかなかった重労働もあったと思うし、収入の点でも決して予期した程のものが得られない事もある。単に花好きである事のみで解決出来ない多くの難関が横たわっていたのであった。歯を食いしばって園芸業を続けている時、当時渋谷にあった興農園で手伝ってほしいと要望され、仕事の都合をつけてはそこの種苗販売の仕事を手伝っていた。二、三年たった頃、坂田商会から招聘され、外国取引や仕事を任されることになった。興農園時代とは違って、毎日の仕事も忙しく、とても農園をもち続けることは不可能になって来た。そこで栽培を中止して、坂田商会の仕事に全力をあげる覚悟を決められた。ここには七、八年勤務されたのであったが、こうして園芸商としての経営技術を修得されたものと思われる。商人らしくない温和な性格であったが、植物に対する理解の深さと、誠実な人柄、更に語学に優れていたことが、今日の国際園芸を築き上げる基となったと思われる。
昭和十年頃、坂田商会を辞し、現在の地に営業所を設けて、園芸種苗卸をはじめられた。通信販売はもとより、栽培業者の外、タキイ種苗との取引きもあり、業績も順調に伸びて来た。この頃から外国種苗の取引きも行っており、洋蘭も小温室を建てて栽培していたのであった。
こうして下野毛時代に経験した実際の園芸知識に加えての園芸商としての実力は取引関係の信用をつけることとなり、着々とその基盤を築きつつあったのである。併し、大東亜戦勃発のため、花作りは禁止され、従って種苗商としては成り立たなくなってしまった。尚、農業生産に必要な種苗にも統制が加えられ、当時農林省所轄になる種子統制組合があった。折よくそこの事務官として採用されることとなり、適材適所の好職場を得て、あの混乱した危機を切り抜けられたのである。昭和二十年頃、ジャワに農業技術者(?)として派遺されることになったが、その年の八月終戦となったため、ジャワ行きの中止になったことは幸いであったと云えよう。
昭和二十二年、藤田久氏などの計画になる富士園芸株式会社を大崎に設立。合田氏をはじめ、早川(※源蔵)、海老沢(※寅助、府立園芸学校一期卒)の諸氏が幹部となり、戸越農園の石田(※孝四郎)氏を相談役として、新しい時代の園芸種苗会社を発足したのであった。戦後はアメリカの占領政策の中で、インフレ的な傾向ではあったが、花の需要も伸び、従って種苗の売れ行きもよくなって来た。富士園芸の業績も決してわるくはなかったのであるが、資金面では決して豊富とは云えなかったようである。
昭和二十七年、戸越農園の親会社である三井不動産より声がかかり、合同して種苗会社を経営しようじゃないかということになった。三井資本と合併すれば、思い切った種苗生産や販売の出来るであろうことに希望を抱いて、藤田氏を除く全員が新らしく発足した第一園芸株式会社に重役として参加したのであった。国際園芸の現社長、弘之氏もこの頃から父君と共に第一園芸に勤務、外国貿易部で球根の輸出を担当していたのである。
弘之氏も青山学院の出身であり、専門は土木工学、卒業後一時、鹿島建設に勤務していたのであったが、園芸関係にも興味があったので、父君と同じ仕事をするようになったものと考えられる。
新時代の園芸は急速に発展の道をたどり、第一園芸KKの業績もわるい筈はなかったのであるが、何か我々園芸業者には分らない、モヤのようなものが漂っていたのである。昭和三十三年、氏は第一園芸を退くこととなり、早川、海老沢の両氏も間もなく退社してしまったのであった。
第一園芸を去った合田氏は早速、現在の地に国際園芸株式会社を設立、洋蘭に重点をおいた園芸商として新発足した。この頃は国内の状勢も安定して来ており、園芸界にも新風の吹き込んで来た時代である。特に洋蘭に関しては専門家も趣味家も注目しはじめたのであった。そこで氏は外国種の輸入、栽培、繁殖、販売と、一貫した経営の上に過去の実蹟をあます所なく発揮して、わが国の洋蘭界に君臨したのである。その業蹟は年々上昇し、その将来に大きな期待が持たれるようになった矢先、父君弘一氏は心筋硬塞のため急逝されたのであった。下野毛時代より深沢の青木(※茂)氏と懇意でもあり、青木氏が館山に移られてからも交際を続けており、時折釣りなどして楽しんでおられたそうである。昭和三十九年の正月、館山に釣りに行き、そこに造ってあった住いで、(将来はここで生活する考えで、小さな温室も建ててあったという)病魔に襲われたのであった。時に齢、六十四才、予期しない父君の急逝に、誰にも想像出来ない悲歎の中で、弘之氏は自己に負わされた責任の重大さを、強く自覚されたのであった。
※青木茂 作家 三太物語
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その後の国際園芸の経営は、内需と外需の取引きの充実を図ると同時に、栽培部門にも力を注ぎ、神奈川県伊勢原に農場をもったのである。太子堂の営業所は販売品の陳列場とし、約四十坪の温室に各種の洋蘭が並べてあり、趣味家や、生花商などの需要に応えている。伊勢原農場に百三十坪の温室があり、管理者一人をおいて、実験場をかねた生産方式をとっておられるようであった。尚、メリクロンによる育苗も行っており、特にシンビの場合、昭和四十年頃より農業大学の三浦次郎先生の研究室に委託しており、現在は年間、十万本程の苗が生産されていると云う。
メリクロン培養は各々専門化することが、企業としては合理的であり、育苗は、育苗として独立する方が有利であるという。現在、洋らんの苗生産は世界的に過剰になっているそうで、アメリカなどでは生産抑制をしているとか、日本では生産規模が小さいので、それ程過剰ではないが、取引単価は安くなって来ている。メリクロン苗はフラスコから出して三年位で開花するが、苗として売買する価格は、シンビで百円から二百円位だと云う(新品種は別)。カトレヤは開花までに四年位かかるので、それだけ高いことになろう。
一九六三年、アメリカで催うされた、世界蘭大会に合田氏も出席、各国の状態について、その概略を知ることが出来たそうである。その経営規模に関しては到底及びもつかないが、生産技術、及び品質の点では少しもひけを取るものではないと、自信の程を語っておられた。過去に於て洋蘭の盛んであったのはイギリスであり、大正時代は多くこの地から輸入されていた。従って、その頃の新宿御苑のものなどは、イギリス乃至フランスの品種が多く、栽培法も現在の方法と違っているように思われる。これが世界大戦の際、イギリスの業者は、技術者と共に蘭をアメリカに疎開させた。それがアメリカに定着して、現在の発展をもたらした要因となっている、ということであった。何と云ってもアメリカは大量生産の国であり、蘭の場合も世界第一位で、イギリス、フランスがこれに次ぎ、お互いに新品種の作出に懸命であり、こうした中でも実用的品種で、大衆性のあるものに期待をかけているというお話しであった。
国際園芸での取引内容は、狛江の大場(※守一)氏の場合と同じく、栽培業者、生花商五、趣味家五の割合であり、フラワーデザインの流行が洋蘭の需要を高めているとも云われている。結婚式が華麗なものになるつれて、この花のもつ意義も益々深められて来たようである。シクラメンが既に大衆のものとして、定着している現在、その上を行くものとして、当然、洋蘭が登場してくるわけであり、国民所得が増大するにつれて、贈答用にはこの花の需要が高まるものと思う。
この事実に関連して、周年開花の研究が実際家の手によって行われているそうである。併し、蘭の揚合、短日長日に対する感度も不明瞭であり、自然開花期も品種によって一様ではなく、原種の種類によって各種各様の個性をもっているため、この周年開花の問題は今後の課題として、注目に値するものであろう。これが解決されることによって、洋蘭の需要は倍加され、同時に企業としての安定性も確定するものと思われる。
尚、参考までに合田氏のお話しによる原産地を紹介すると、シンビやシッブは中部印度に多く見られ、東南アジヤに胡蝶らんの類が生育しているそうである。カトレヤ類は、メキシコ、コスタリカ、南米、ビルマ、フイリッピン、ボルネオなど各地に自生しており、各種類共、それぞれの生育地の環境によって性質も違っているのであった。これらの改良品種はアメリカに最も多く、輸入品種のうち人気のあるものは、「色もの」に集中しており、鮮明な色合いのものが、鉢物としても切花としても需要が多いそうである。
洋蘭業者の集りである。日本洋蘭農業協同組合は既に二十年近い歴史をもっており、現組合長は第一園芸の石田(※孝四郎)氏であり、副会長は大場守一氏が就任されている、会員数二百名位、入会金五万円、尚、賦課金として三千円~五千円徴集しているという。事業としては三越での展示会、即売会、或は交換会などを催うしている。こうして洋蘭の真価を大衆にも認識させることに努めると同時に業者と趣味家との交流を密にするための役割りも果しているのであった。この他、洋蘭の栽培に関して色々とくわしく説明して頂き、私としては得る所大であったわけであるが、ここでは栽培法を紹介するのが目的ではないので省かして頂くこととする。
最後に、幾多の苦難を乗越えて、今日の国際園芸を築き上げた合田氏の前途が、明るく、且、雄大であることを望んでこの項をおわりとしたい。
住所 世田谷区太子堂二の一の一〇 電話四二一-一〇五五