明治時代、日本のプラントハンター、ラン栽培のエキスパート、横浜植木会社の宝とまで呼ばれた水谷岩次郎氏による温室植物栽培漫談 ロベの原産地を探しにアジアの奥地を訪ねる話ほか

『実際園芸』第6巻1号  昭和4年1月号


花卉園芸 温室植物栽培漫談

横浜植木株式会社温室主任  水田岩次郎


何れの事業に於ても、隠れたる権威者があるものですが、ここに園芸の方面では、花卉の温室栽培に最も多くの経験を有せられている者は横浜植木会社の温室主任水田老でありましょう。植木会社の温室を見る度に、私はいつも、あの垢ぬけのした栽培ぶりと、いかにも整頓しているさまには、何時も驚かされて居りますが、それは水田主任の業績を物語るものであります。同氏は明治二十年来の温室栽培家で、技術家として優れたばかりでなく、園芸植物についての知識がいかにも豊富な方で、印度や南洋に蘭や椰子類の探集や研究に行かれた事が五回にも及んでいる位で、全く花卉栽培界の生字引であります。植物会社が西洋花卉輸入の門戸であるだけに、どんな変った植物でも、一度はキット水田主任の手にかかったわけで、それを聞いただけでも、同氏がいかに豊富なな知識を有せらるるかが窺われます。それで本誌は今月から毎号同氏の経験談を発表する事にしました。牧野先生の植物漫談と共に、読者諸君から多大の歓迎をうける事と信じます。今回は全体の話ですが、次回からは栽培談に移ります。(石井)


◇ 私が温室栽培を初めた頃


私が温室栽培を始めましたのは十六歳ぐらいの時で、明治の二十年頃からでありまして、その前からほかの植木類を取扱っておったのでありますが、四十年も前の事であり、日記のようなものもありませんから、記憶も判然とせず、年代もしかと覚えておらず、前後したような事もあるかも知れません。しかし大体その時分の記憶を辿ってお話し致しますと、その時分は植木会社が温室を建てる前で、当時温室を持っておったものは、二三の西洋人があっただけで、御苑でもまだ温室の設備がありませんでした。

西洋人で一番初めに温室を建てたのは、横浜山手二百四十番のデンステル(デンスデンと呼ばれておりました)という独逸人で、この方は洋蘭を専門に栽培して居りました。その頃私は普通の植木を主として取扱っでおりました故、たいして気にも止めて見もしませんでしだが、このデンスデルの栽培しか蘭を後になって御苑で全部お買上げになったのであります。それから二十年頃、汽船会社に務めて居ったマンレイ氏が山の手の九十番に温室を建てて居りましだ。今一軒は山の手十九番に、キリンビール会社の社長ゼームスという人が、小さい温室を持っておって洋蘭や新らしい草花を作っておりました。

商売人としては、山の手二十八番でボーマー商会のボーマーという独逸人が、最初に温室を建てられた人で、この人は外国から珍らしい植物を日本へ輸入したり、日本の植物を海外へ輪出しておりました。この人の温室は後に植木会社で買入れたのですが、二十四坪のものと十八坪のものとあって、相当に広いものでありました。そしてこの人の商売は切花専門で、その花は横浜在留の西洋人が買ったものでありました。

明治十五年頃、植木会社(こちら)の最初の社長になられた鈴木卯兵衛氏が、三間に十二間三十六坪の温室を造り、二十三年に植木会社が創立されまして六十坪の温室は、現在門を入って突当りの温室がある所へ建てられたのでした。


◇ 当時の温室の構造


その頃の温室は骨組が今日のものより太かったのですが、向きや勾配等はそんなに変わりはありませんでした。温室の腰はレンガで積んで腰にも横窓を設けたものが多く、温室の中に黒ボクを積んで、アヂアンタム等を飾りに植え込んだものがありました。硝子は現今のように大型のものを用いなかったので、小型で垂木の数が多く、今日のものよりも淡暗い(うすぐらい)ものでありました。天窓は突上げ式のものが多く、ボイラーは震災前迄会社におりました、ヒチング会社の甲形(かぶとがた)のものや、それを太田鉄工所で真似て造ったもの等が用いられておりました。その他ベンチの構造とか、パイプの引き方、床(とこ)の叩き等は殆ど今日の温室と大差ないものでありました。

フレームもその当時外国人が使っておりましたが、煉瓦製が多く、木框(きわく)はあまり見当たりませんようでありました。

その当時栽培された温室植物には、プリムラ・シネンシス、グロキシニア、マーガレット、ヴイオレット、フユーシア、ゼラニユーム、ユーチアリス等がありました。デンスデール氏の作られた蘭が、日本で作られた洋蘭の初まりでありまして、酒井伯や大隈伯がその後栽培を初められたのであります。如露(じょろ)は日本在来の銅の打出しものが多く使われ、アボールポンプとかサクサスポンプ等は未だ用いられておりませんでした。

植木会社で温室を拵える前に、初代の社長が自分の宅に十坪ぐらいの小温室を持っておられましたが前にお話ししましたデンスデール氏がが、御苑に蘭をおさめます時、東京には温室の設備がなくて寒いので直ぐ持って行くことが出来ないので一冬の間社長の温室へその蘭を置いて福羽逸人氏が御苑からやって来られて、一冬の間蘭をお守りしておられた事もございました。

当時、温室を建てるのは、日本の大工でありますが、最初はボーマー氏やデンスデール氏が設計したものを見て、それを真似てその通りに建てたものであって、植木会社で造ったものも、全然同じ寸法ですべてを真似て作ったものでありました。


◇ その頃渡来した植物 


その頃、植木会社で珍らしいと思いましたのはカクタスダーリアで、当時皆が喜んだもので、バラも三種か五種で、世界の図、帝競べ(みかどくらべ・西王母)、桜鏡、朝日の空、星月夜等の名がつけられ珍重されました。

べゴニア・クロワードローレン(※ベゴニア・グロワー・ド・ローレイン)は、会社の支配人がアメリカから最初一打(ダース)程仕入れたのでありますが、一二年間は良く出来なかったのでありました。所が御苑の福羽さんがアメリカの種苗会社のカタログを見られて、それを求め度いと植木会社へ註文して来られたので、その植物なら取寄せないでも会社にあるとお知らせました所、早速(さっそく)飛んで来られました。そして温室に残っておった三四本のものを福羽さんが持って返られましたが、それが今日のようにどこでも作られるようになったのであります。

温室植物の種子は、植木会社が創立されますと直ぐ、米国のオークランドに支店が設けられましたから、会社ではそこから種子か輸入したのでありますが、ボーマー氏やデンスデール氏は直接海外から取寄せられたものらしく考えられます。その頃ボーマー氏の温室では、カルセオラリアが七寸鉢で素晴しい見事に咲いておったものでありました。

私が最初に手掛けたものは、マーガレット、シネラリア、ヴイオレット等で、サイクラメンは今のように種子でなく球(きゅう)で取寄せられたものでありました。切花ではコリウスのシリフイラスと呼ばれる紫色のもの、夕霧草、ジョネスター、宿根のジプソフィラ等が旺(さか)んに作られておりましたが、これは今はあまり見受けられないようであります。アスターも切花用として相当に作られ、カラー、ウォールフラワー、パンジイ、蔓物のラッパヂリア、ステフノーザス・フロリバンダ、ライラック等も沢山見受けられました。

洋蘭はカトレヤのハイブリッドとデンドロビウムが多く、その他メキシコ性のレリヤ、エピデンドラム等が作られ、シプリペヂウムも相当に作られておりました。


温室の梁や垂木が太いのが古い時代の温室の特徴。大正期の鉄骨温室との大きな違い。
ラン類を栽培する鉢には側面に穴があけられている。



◇ 当時の栽培法


明治二十年頃、私が見た所では蘭は大抵吊るしてあったもので、鉢は大きな鉢でも横には隙(すか)し穴があったものでありますから、私共は蘭は吊さなければならぬものと思っておりましたし、鉢には側面の隙しのない鉢には、態々(わざわざ)鋏で穴を穿けたりしたもので、水苔は内地にもあったものですが、オスマンダは見当たりませんでした。その他の温室植物でも、外人は赤い桟付の鉢を用いておりましたが、日本では黒い瓦鉢を用いましたが、植木会社では赤い西洋鉢を見本として、東京の向島宇田川に、西洋式の鉢を造らせました。御苑でもそれを植木会社から買上げておられましたが、その後直接註文されるようになりました。

繁殖室も今日のカッテングベッドと殆ど大差ない立派なものかありまして、砂は何れもシルバーサンドという白い砂を用いましたもので、当時はシルバーサンドでなければならないように考えられ、朝鮮から取寄せたもので、配合土にもシルバーサンドを必ず用いたものであります。

肥料は馬糞を主として用いたものでありまして、これも外人のするのを見慣ったのでありますが、その後人糞も用いられました。バラ等を植える時には。根本に馬糞を盛ったものでありました。培養土を拵えるには、西洋人は馬糞を一年位堆積して、よく腐熟して土に化したものを用いたものでありますが、その頃は腐葉土というものは知られて居りませんでした。それで塵芥に馬糞とシルバーサンドを混合して、配合土を拵えたものであります。最初軽い土が良いと思ったものが、後になって重い土が良いことが解ったりして、配合を全然変更したものもあります。


◇ 木物の促成と南京正月


チューリップやヒヤシンスはあまり輸入されておりませんでした。アマリリスは酒井邸の温室で見たのが最初でありました。植木会社の温室は二十一年に六十坪のものが、今の所に建てられ、それが大正六年に暴風で倒れましたので。再び同じ型のものが建て直され、それが大正十二年の震災で崩れ、今日の百坪の温室になったのであります。

二十二年頃から店開きをして、牡丹や藤、ツツジ等木物(きもの)の促成を盛んに行ったものでありますが、当時の促成法は今日とは少し変つておりました。温室のパイプの上に板を置き其の周囲を莚で囲いまして、夜昼共シリンヂを行ったものでありますので、それで結構花が咲いたものであります。尤も花が開き初めてからは、棚の上に載せて色づけをするために、日光に当てたりしたものであります。当時は横浜は在住する支那人が非常に多かったもので、支那の正月にはクリスマスと同じ位花の需要があったもので、藤を南京正月(十二月)に咲かせて出すために随分骨を折ったものであります。支那人向には藤、牡丹、芍薬、椿、沈丁花、桜、梅等が作られ、中でも沈丁花、梅、牡丹が一番良く売れたものであります。


◇ 南洋へ洋蘭採取


南洋へは今回共五回渡航しました。最初に行きましたのは、明治三十二年の事で、今から三十六年前であります。何分古い事であり日記等をつけて置いたらよろしかったでしょうが、それもないので、確(しか)として記憶がない所もありますが、その時は香港からシャムに行き、それからシンガポールに行きました。その時に参りました用は、当時フェニックス・ロベリニイが流行しておりましたので、それをシャムに自生しているかどうかを見つけに行ったのでありますが、結局見付からず、洋蘭や椰子類を買い入れて帰りました。

今年で五回目になりますが、今年の事が一番記憶が新しいので今度の旅行のお話しから申上げますが、毎年同じ所へ行くのでありますが、今年はマニラの方迄足を延しました。それは、バンダ・サンデリアナの自生地でありますから、その自生状態を見に行ったのであります。上陸しますと、土地の人が里で採収したものを栽培して居りましたので、この土地にある事が知れましたので、宿屋の主人に頼んで案内人を探して貰い、三人で行って自生しているのを見ましたが、これは五十尺も百尺もある高い樹の、中途の枝についているもので、仲々軽々しく採取は出来ません。自生地は地面は一面に山苔が生い茂っており、巨木が昼でも暗いくらいに繁茂しておって、非常に湿気の多い所で、高い所に花が咲いておりました。私が行きましたのは、丁度二月の末でありましたが、花はところどころに咲いておりました。併し天然自生のものは、花色もあんまり鮮麗でなく、却って里で作られてあるものの方が花の色が鮮かで、茎も短かく形がつまっておりました


◇ 洋蘭の自生状態


バンダはどの木にも付いておりますが、沢山マンゴーの樹に着生しているのを二三本見受けました。樹の枝に着生しているのでも、枝の上側にあるものと、下側にあるものは種類によって違いますが、バンダは主に枝の上側にあり、デンドロビウムやファレノプシスの類は枝の下向きの方に着生しているものが多いのであります。一本の樹には大抵一種のものが着生しているのが普通でありまして、一本の樹に各種の木がついていることは少ないものであります。また種類は山によって異っているもので、一つの山には大抵一品種が集っております。例えばファレノプシス・ルデマニアナ等がそれで、これはアマビリスとシンセリアナとの自然交配種だといわれておりますが、花は淡い色でありました。

マニラではルドンに一晩泊りまして、タカオに船が着きました時、船の中で船取締りをしておった人と懇意になり、この人はフィリッピン人ですが、種々(いろいろ)便宜が得られました。宿屋に行ってそこで種々(いろいろ)その人に尋ね、島の情況を聞きに行く所も方々知れました。今度私共が行きました時は、神奈川県で何か新しい方面の商売を見付けるために、マニラ麻の研究に行ったのでそのために、タバオ市から二十里離れた所のマニア麻の大会社に行きました。そこへ寄ってからサンデリアナのある所へ行ったのであります。全島はマニラ麻栽培のために開墾されているために、無用の樹が刈り取られ、マンゴー等必要な樹だけ残されているので、自然状態に大分思われているのであります。

里で栽培されているものは、木の枝を切ってそのまま付けてあるものは、樹の枯れるに従って蘭が元気がなくなる様で、ココナットを破って、その中に植付けたものや、チークの材で格子を作り、ヘゴにつけたもの等は非常に元気よく繁茂しております。それ故洋蘭を買入れますにも、一度里に栽培したものを買った方がよろしいので、その方が形もよく、花も沢山ついております。

以上は極大略でありますが、そのほかの詳しいことについては、今後いろいろの温室植物の栽培法をお話する際に、いろいろ植物の自生状態を述べるときに、それぞれ述べることとしましょう。

 

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