桜井 元 氏について 桜井氏の園芸場はもともと合田弘一氏の持ち物であった

 


『世田谷の園芸を築き上げた人々』湯尾敬治 城南園芸柏研究会 1970


桜井 元 氏について


世田谷の園芸家の中でも異色ある植物学者。桜井元先生は、下野毛、六郷用水のほとりに自然のままに繁茂する樹木や草花、加えてまねかざる雑草までが思う存分生え茂っている中に、奥さんとお二人で静かに暮しておられる。

先生は少年の頃から植物を愛し、植物を無二の友とし常に自然の中に自己の生甲斐を感じ、自然を離れての自己は考えられないという程の徹底した自然人であると思われる。従ってそのお住いも見栄や誇張のない質素なもので、そこに先生の人柄が偲ばれるのであった。

先生の厳父は専修大学の理事であり、漢学者であった学生の頃、医学を志望され、第一高等学校に籍をおかれたが、二年の時健康を害し休学、鎌倉塔の辻に療養生活を余儀なくされたのであった。中学時代より山歩きを好み、奥日光の山々をはじめ「白根」などに山草を探り自分の庭に植えて楽しんで居られた。

高等学校時代、日本アルプスの槍ケ岳、穂高岳などを踏破、或る夏、上高地に一週間の山小屋生活を送って、大自然の霊気に浸り、高山植物を観察、採取をも試みたのであった。所がそれが禍いしてか発病、これが先生の人生に大きな転機をもたらした原因でもあったと思われる。

桜井先生は明治二十七年の生れ、その頃の東京は未だ武蔵野の面影も豊かで、上野の山からは下谷、江戸川方面に続く田圃が一望され、山の手方面には畑地が連らなり有名な大久保の植木も盛んに栽培されていたのである。平垣な町並みの中を鉄道が一本走っているという静かな都であった。それから七十有余年の歳月が、今日の過密都市を造り上げ「文化」という仮面の下に先生のみならず、我々自然を愛する人間にとって、全く住みにくい土地と変ってしまったわけである。

学業半ばにして病魔に冒され。鎌倉の地に移られた先生は、「花と共に生きる」ことによって健康をとり戻す覚悟を決め、当時そこにあった扇州園主の好意によって気儘に見学や作業の手伝を許され、ここではじめて園芸の本質にふれることが出来たのであった。当時扇州園では、シクラメン、カルセオ、プリムラ、其の他の草花の外、メロンなども栽培していたそうである。これは大正中期の事で、先生が二十五、六才の頃であった。温暖で空気のきれいな土地での花作りは先生の健康を日一日と快方に向わせていった。そして園芸の仕事に或る程度の自信を覚えた頃、丁度、温室の売りものがあり扇州園の世話でそれを買うことにした。先生の園芸ほ、草花を作って売るというより、採種を目的とした経営に興味があったので、その方向に計画をすすめて行ったのである。

最初、カルセオラリヤを栽培した。百鉢から二百鉢位の時は、管理や交配も完全に出来、種子も自信のもてるものが採れ、従ってそれが非常に好評で忽ち売れてしまっだ。「よしこの調子ならもっとやっても大丈夫」と大いに意欲を燃やし、今度は一千鉢近い数を栽培した所、管理が行き届かず、不良品が出来て大失敗であったと述懐されている。その後、福羽苺や、メロン、冬咲きベコニヤ(グロワード・ローレン)など)を栽培、精養軒や千疋屋に卸していた。先生の園芸は営利第一主義のものではなく、どこまでも研究を目的とし、それも楽しく無理をしないで作業を進めて行くという趣味的要素が多分に含まれていた。そうすることによって健康を快復させることが第一目的であったわけである。

大正十二年、関東大地震の際は、鎌倉におられたが、震源地であった当地の被害は大きく殆んどの建物が倒壊した。民家など二、三米も移動して倒れたものもあった位の激しさで、僅かに寺や、陛下の御控所などが残った程であった。附近には松方公爵、島津公爵などの別邸、山階宮の邸もあったが、何れも倒壊し宮さんの奥さんがその下敷きとなって逝去されたそうである。先生はこの宮さんとご懇意であり、大変花作りを好まれた奥さんのために時折講義や実地指導をされたという。

こうした生活の中で一旦健康は快復されたので、東京に帰られたが矢張り都会の生活は思わしくなく、再び療養生活を続けなければならなかった。前後約八年間の闘病生活によく堪えられて来た事は精神力であり、その精神を支えたもの、それは植物であり花であった。更に徹底した健康管理が今日なお、園芸界のために色々な形で尽力されながら、健康を保持されている基となっているものと思われる。

昭和十年頃、現在の地に移られたが、ここは世田谷太子堂の「国際園芸」の創立者、合田弘一氏の園芸場であった。ここで現存の五十坪の温室を利用して、採種を目的とした園芸の経営をはじめられた。幸い病は影をひそめ、毎日の作業にも希望が湧き、漸次温室を増し園丁さんも二人雇って内容の充実につとめた。最終的には百五十坪とし、鉢物と露地の切花を栽培したのであった。

この頃は、日本内地には採種業者は少なく先生の園芸場で採種されたものは引っ張り凧であった。その理由としては欧米の優良種子を輸入、それを試作し、その中から更に健全毋木を選別、交配したものであるから、種子の品質は絶対信用のもてるものであったからであろう。当時の栽培種目は主として桜草、カルセオラリヤ、冬咲きベゴニヤ、或はガーベラ、高砂百合、エピヒラム(※クジャクサボテン)などである。中でもエピヒラムの交配種には珍らしいものが出来、戦時中、小石川植物園に預けておいたが、当時の混乱期にその保存も困難であり、次第に消滅してしまったそうである。ガーベラの八重咲き「日本」は先生の作出であった。これらの種子は、ヤマト種苗、横浜植木、興農園など外地はフランスのビルモン(※ビルモラン)、伊太利のヘルプなど一流の種苗商と取引きしたのである。

第二次大戦中は、大切な植物の保存に苦心されながら食糧生産に全力を注ぎ、各地から色々な種子を取りよせて試作した。トーモロコシ、豆類、野菜の種子など、栽培して見ると、その土地柄によって、各々違った性質をもっており、非常に興味深いものであった由……。

併し、こうした家庭菜園のみでは生活は支えられず農作業の傍ら、大東学園、橘女子学園、東京商業などの理科講師を勤め、東急電鉄の嘱托をも兼ねながら、敗戦の混乱期を過ごされたのである。幸い健康に恵まれ、体力以上の労働を続けてきたわけであったが、現在生きている事の意義を感じ、更に生き抜いて行かねばならないという強い生命力は先生の肉体と精神を、更に強固にしたものと思える。

漸く世情も落ちつき、再び草花相手の生活に戻りたいと思ったが、その頃は既に社会の様相は一変していた。物の考え方、人情、激流のような都市の膨張、これらの外的条件と先生の年令とは「園芸」という仕事に戻ることを拒んだ。純粋に生きようとすればする程「現代」に抵抗を感じ専ら、物を考え、読書し、自然への郷愁の中に自ら生きる道を発見し、多年研究して来た園芸の知識、経験を後進に伝えるため、著書や講演などを続けておられる。先生の園芸は独学であり、強いてその指導者といえば、ヤマト農園の牛尾氏、東京園芸の田代氏であったといわれる。扇州園主もその一人であった事は勿論であろうか、元来、学究肌の先生は系統的に「植物」について勉強され、実践を通して園芸を学ばれたわけであった。特に園芸植物の原種に興味をもたれ、これらの保存に非常な熱意をもっておられた。従って原種植物が年と共に消滅して行くことを嘆かれる。新しいものの生れることも、古いものがあってこそであり、それを保存し育てることも園芸家としての勤めではなかろうかと、いわれる半ばあきらめ、半ば希望をつなぐ先生の心情は、原種植物によせる愛情の深さを物語るものであった。

最後に「先生の人生観は」とおききした所「漁夫生涯竹一竿」と答えられた。これには説明を省こう。先生の純粋性を象徴する言葉であり、それが社会の汚れたものとの妥協を排し、七十有余年の間、植物を無二の友とし、終始一貫孤塁を守って、今日悠々自適の人生を送っておられるのである。

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