江戸時代から人々の生活を支えた東京、江東区、砂町(すなまち) 都市化で変わりゆく産地の状況とホウレンソウ栽培の実際 昭和12年
野菜作りのコツを聴く
蔬菜地、砂町の沿革と
特産 菠薐草(ホウレンソウ)の栽培
東京砂町 近藤金太郎
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″菠薐草の栽培″は一寸考えると何でもない事のようであるが、本当によい物を作りにくい時期に出すという事には非常なる苦心を要するもので、例えば、真夏に風味のよい、軟なものを出すという事は仲々苦心を要することであるが、ここに菠薐草の栽培法を公開された近藤金太郎氏は、その道の名人で、殊に作りにくい夏の菠薐草では同氏の右に出るものはないと言われ、千葉高等園芸学校の江口教授なども、その技術に嘆賞されていると伺っており、同教授の御推薦に依り、その秘法の一端を発表させて頂いたものである。(編者)
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園芸地砂町の沿革
近年に至り急激なる都市膨脹の傾向は、従来からの農家をして自然他業へ転向する者が、増加して来たのは、時代の趨勢とはいえ、何とも言えぬ、寂寞を感じている次第である。
現在では僅々五十八戸が伝統をよく守り、この砂町にあって、都会地園芸に従事している次第である。
当砂町は砂村と称して、東京市場に於ては促成物の出産地として古い歴史と定評のあった事は、園芸界では有名な事であるが、現在の蔬菜栽培地としての砂町は、東京市の東端で、荒川放水路が東京湾に注ぐ右岸、即ち、葛西橋付近一帯の地をいうので、その沿革を尋ねると、約四百年前、相模国の人、砂村新四郎がここに居た関係で、砂村という様になったと言われ、その後当地方で、野菜が作られる様になり、万治年間(紀元二三一八‐二三二〇※西暦1658-60)徳川家綱将軍の時代以降は盛んに作られる様になったと伝えられている。が、天保元年(※1830)の頃、今から約百年前に関西方面に始って、次第に促成栽培の法が広まり、この砂村にも行われる様になったと言われている。どうして、この砂村に促成栽培が行われる様になったかというと、天保初年、砂村の吉野久三氏が京都を見物中に京都に於て、促成栽培法を見て帰って始めたのが、そもそもの始まりだと伝えられている。
早作りの始りは、大根で有名な聖護院が、元祖で、天保元年のある日、伊勢屋利八氏及び田中屋喜兵衛氏の両人が和歌山地方を旅行中、床を作って栽培していたのにヒントを得、初めて床の下に藁を敷きつめて、少しく温度を上げさせ、周りに藁囲いをし、太陽熱を利用し、夜間は蓆(むしろ)や菰(こも)を覆うて、保温に努める時は、相当露地より早く収穫出来るという事を知り、早速その方法を行い、また伊勢屋利八氏は、加茂川の石を床の上に列べて、温度を高める方法を考え出したというが、之は今の石垣栽培と同じ様な考えからであった。その次に促成に用うる、油障子の利用は田中金蔵という人が、苗に雨合羽を用いたところが、生育が非常に早く、且つ良好であったので油障子を作って、促成に用いたと言われている。
この油障子が用いられる様になってからは、早期播種が可能となって、一月中旬に播種した胡瓜が四月中旬には収穫が出来たし、また一月上中旬に播いた茄子が四月下旬から、五月上旬に収穫出来たとの事で、之等は今日でも相当成績のあがっている物である。以上の様にして、次第に促成が盛んになり、不時の蔬菜として、非常に珍重されていた。当時の促成ものの価格は大変高く、例えば、促成茄子の目方が、銀の目方と同値で取引され、特に粋(すい)を好む者が多く、茄子の花しぼり(はなしぼり)と言って花が落ちて顆(つぶ)が、大豆位の大きさのものを特に賞美したり、その贅沢さは迚もお話しにならぬものがあったと伝えられている。そこで幕府は人心の堕落を虞(おそ)れ、促成物の栽培及び販売禁止令を出したとさえ言われている。之が天保十三年である。当時の禁止令を左に掲げて見よう。
『野菜物期節ニ至ラザルニ売買スベカラザル旨、前々触(ふれ)達シタル趣モ有之処、近年初物ヲ好ムコト増長シ、特ニ料理屋、茶屋ナドデハ争フテ、隠元、大角豆(ささげ)ノ類、其他芽物卜云ヒ雨障子ニテ被ヒ、塵埃ニテ仕立或ハ室内へ炭団(たどん)ヲ用ヒ養ヒ立テ、年中時候外(じこうがい)ト雖モ売出スコトハ奢侈(しゃし)導クモノトシテ、売出スモノ又不埒(ふらち)ノ至リナレバ、芽物ノ初物卜称フル野菜ノ類ハ決シテ売出シマジキ故ニ、在々ヘモ触(ふれ)達スベケレバ其旨ヲ存シ堅ク売買スベカラズ、若シ背ク者アルニ於テハ吟味ノ上急度咎メ申シ付クベシ』
右の様な禁止令が出てから、約十五、六年間は、大衆的に促成の発達は成さなかったのであるが、然しこの十余年間は、各戸が内密で促成し、密かに販売せられていたことは想像に難くないのであって、反って禁止令のお蔭で、研究が積まれていたかも知れないそうである。時代が移るにつれて、お触れも自ら忘れられ、以前に行われていたより更に更に盛んに促成される様になり、野菜のみならず花木等の早咲も行われるようになって来た、現今から近々二十年前頃までは、苗木等をば下総方面に大量出荷して居り、また蔬菜類は、東京市場に出荷されていたのであるが、当時砂村のみに生産されていた丸茄子は、東京市内の上流の料理屋にのみ主として用いられ茄子は専ら「しぎやき」(ナスのみそ田楽の別称、 江戸での呼称)用としての定評のあったものである。然し現在に於ては、苗木とか顆菜類(※果菜:キュウリ・ナス・トマトなどの食用果実)の促成栽培は行われていない、その原因は大正六年に大海嘯(つなみ)があり促成の器材(きざい)の殆んどを流失して了ったため止むなく、器材を要せない、蔬菜栽培に移らざるを得なかったのである。第二の原因は、農事試験場が主唱して自力更生をはかるために仕事を縮少して、集約的蔬菜栽培を奨励した事と、第三の原因は、当時まだ荒川放水路が出来ず、中川が現在の荒川放水路の東側を流れて居り堤防も極めて小さいもので、舟も自由に通行出来たため、東京市の塵芥を集めて、それで河岸に盛り畑を作って居ったのであるが、放水路が完成してより堤防も大きくなり、また舟より塵芥を自由に上げられなくなったため、各戸では今迄の様に楽に肥沃な塵芥が手に入らなくなった事なども一つの原因であると考えられる。 以上のような原因から砂町に於ける促成栽培が不利となり、それに代って集約的の蔬菜栽培が行われるようになったのである。
※江東区深川江戸資料館 資料館ノート78「促成栽培と名物野菜」(pdfファイル)
※江戸東京野菜 砂村丸茄子の種子発見
http://hirogaretsunagare.blog.fc2.com/blog-category-24.html
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大正時代以後は専ら蔬菜を栽培する様になると共に、都会地の膨脹で農家の数も減じ、最盛期には千五百戸も有った農家が現在では僅か五十八戸となったが、然しこの砂町の蔬菜は東京築地市場に於ては常に最商級品として取引されている事は我々の誇りとするところである。次に当地で古から最も多く産し且つ優品として定評のある菠薐草の栽培を述べて見ようと思う。
特産菠薐草の栽培
秋播蔬菜として最も普通に見受けられる菠薐草は他の秋蔬菜より比較的遅くまで播種出来るために一般には前作として、割合に遅くまで収穫の出来るトマ卜、茄子、里芋等の後作として適当な蔬菜であるが、この砂町に於ては、畑地が比較的町中にある関係上、普通の顆菜類は殆んど栽培されず葉菜類(ようさいるい)のみを前作としている有様である。
然し、今日では数年前と異なり、この菠薐草の栽培が割合に容易であり、気候のかなり寒い所に於ても栽培可能なところから、近年では東京附近としては、千葉県の津田沼方面が盛んになり、特に秋作の菠薐草は優品が出荷されるようになったために今日ではその方にお株を取られた形であるが、しかし、春から夏にかけての菠薐草は当地産のものは断然他を圧して居る有様であり、特に市場が近距離にある関係上、非常に荷傷みの多い夏期に於てさえも、極めて完全な物が出荷されるために、市場に於ての人気が相変らず良好なようである。
以上の様な状態で、砂町に於ては、自然一作を良くとると言う方針で各戸が経営を続けているのである。
種子の予措(よそ)と播き方
菠薐草の発芽を斉一(せいいつ)にする事は非常に収量を増加し、且つ、良品を得られる故、私は秋より冬にかけて栽培する時には、必ず催芽して播き付けるのであるが、春播きのものは芽出しを行わず、
そのまま播種するようにしている。催芽の方法は、一日水に浸して置き、翌日一日は水を切って莚上で軽く日乾してその晩、水でしっとり、しめらせて、播くのである。この方法を行うと、非常に結果が良好である。
次に播種量はその時期に依って異なるが、秋作では、反当(たんあたり)乾いた核種子で一斗五升(十坪で五合の割)を標準としているが、春播きの場合は之より約五割増し位の程度でよいようである。
畦作りは砂町に於ては、他地方と異なり、六尺の平畦を作り之に縦に六列に條播するのであるがこの平畦を作る数日前に、前年より堆積して置いた、東京市中の塵芥のよく腐熟したもの坪当(つぼあたり)十五貫位を瓦や、硝子片等の危険物を除去して、よく之を柄鍬(えくわ)で鋤込んで置くのである。播種したなら約五分位覆土をなし、その上を鍬で軽く圧(お)しつけて置き、余り土が乾いている時には灌水して置けば、大抵五日から七日位で発芽して来る。
砂町附近は、沖積土であるために、地味が肥えて居り、塵芥を鋤込むだけで基肥は施して居らない事は他の地方と異なるところである。
間引、追肥その他の手入
発芽して本葉二枚が出た頃に間引をする、これは勿論密(あつ)いところを間引くのであるが大体距離を一寸位とする。
追肥は間引後十日おいて第一回の追肥として、人糞尿を約五倍に希釈して反当(たんあたり)三十荷を施すのである。
本葉五枚の時に第二回の追肥として、第一回より更に濃いものを、同量施すのであるが、冬期は夏期より濃厚な肥料を施し、また成育につれても同様、次第に追肥の濃いものを施す様にするのを、施肥法の原則としている。
この様にして約五十乃至六十日経過すれば収穫期に入るのであるが、晩秋より初夏にかけて、絶えず収穫を得るためには、一度経験をしたものなら、大体分って来るのであるが、気候の状態即ち降霜、寒暖の如何に依って異なるが、大体二十日隔き位に播種すればよい様である。化学肥料を施せば良いと言われている節もあるが、現在は全然施して居らないのであるが、決して、他より劣るようなものは出来ないのである。
菠薐草には割合に病虫害が少ないので、ほとんど薬剤は用いられないのであるが、唯、春先から初夏にかけて、べと病が発生する時があるので、この予防として、八匁の銅石鹸液を、一、二回撒布する事があるが、撒布する時期としては、無風の日の早朝を選ぶのがよく.この時噴霧器の口先を葉に近けると、葉を傷める虞れがあるので、必ず二尺位離してかける様にしている。
出荷の方法
秋から冬にかけてのものと、春から夏にかけてのものとは大分価格が異なり、大抵冬物は夏物の半値乃至三分一位で取引されている様である。
収穫したものは、根を切って清水(せいすい)を以て洗い一握り二十株内外を一束とし、これを二十束まとめて大きい束とするのであるが、この束には上下なく皆同様な束とするため、市場に於ては、今日まで常に、リヤーカーの上で一束を手に取って値段を仕切る有様で他地方の如く、一度車より下して後に値を切るのとは、市場に於ける信用に於て大差があるといえよう。夏物は百-二百束を竹籠に詰めて、専ら東京築地青果市場に出しているが、現在では、この夏物が断然市場に於て群を抜いている状態で、値段も良く小束が二銭位であり冬物の小束八厘と比較すればかなりの開きがある。
収量は大体坪、二束半(小束五十束)内外収穫出来るから冬作では反当百二十円。夏作では反当四百五十円位の売上高となるから、蔬菜としては収入が少い方ではない。大体の生産費は売上高の三分一と見て二百九十円見当である。