ドイツの市民農園「クラインガルテン」は、市民の発案「シュレーベル・ガルテン」から市民運動として始まった。これに行政が参画して市民の権利となっていく
『実際園芸』第13巻6号 昭和7年11月号
※シュレーベル・ガルテンは1830年頃に始まった。ライプチッヒの開業医であったシュレーベル氏は、子供の遊び場を兼ねた菜園を提唱し、ここから都市のクラインガルテンへと展開していったという。これは行政からの、いわば上から降ろされたアイデアではなく、市民運動として生まれ、これをモデルとして行政と結びついていったということが要点となる。ドイツでは1919年、第一次世界大戦の翌年にクラインガルテン法ができた。この法律により、小作者や利用者が保護されるようになり、長期の契約が行政によって保証されるようになったのだという。
※PDFファイル 日本における市民農園の歴史 工藤豊 2009
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/74/643/74_643_2043/_pdf
市民農園「分区園」は1920年代後半から1930年代にかけて欧州の市民農園を例にして数多く紹介された。
1926(大正15)年 大阪市農会により2つの農園が開設される。
1933(昭和8)年 東京市農会により板橋区(現・練馬区)に大泉市民農園、
1935(昭和10)年に渋谷区(広尾)に羽沢分区種苗園が開設されている。(『園藝探偵2』2017参照)
※ベルリンの市民農園 「カルチベ」サイトから 現在の区画はかなり大きい
https://karuchibe.jp/read/3728/
※ロシアのダーチャについて
https://karuchibe.jp/read/11854/
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独逸に於ける
シュレーベル・ガルテン
農学士 高島恭之助
一昨年(※昭和4年頃か)の秋であったと思う、都下の一営利会社は園亭植民地(ラウベンコロニー:Lauben-kolonie )なるものを始めて東京市外国立国分寺(くにたち、こくぶんじ)付近に目論んだ事があった。※Laubenはあずまやの意、休憩施設
独逸では、ベルリンをはじめ、大小の都市の端れの郊外につながる部分には小さな木造の小屋を有する小園が同じような間隔に並んで、一定の区画に各々草花や野菜を作ったりしている。そうして日曜には朝早くより全家族がここに集まって日光と新鮮なる空気を満喫して、喜々として飛び廻っている。とりわけ八月の末にはそこの収穫祭が催され、この時全植民地は無数の旗で飾られ、到るところに提燈が吊され、植民者の間に組織された楽隊は陽気な音楽を吹奏しその祭日中は老若男女の差別無く、皆思い思いの紙の帽子を冠って徹宵舞踏にお祭騒ぎをして楽しむのである。
一体このシュレーベル・ガルテン(Schreber garten )なるものはその起源を前世紀の半頃に発するものであるが、之ば最初シュレーベルという医者が独逸の方々に小園を設けて人々の遊びながら働くようにしようという意図を持ったのに始まる。けれども、シュレーベルはその第一着手としては、そうした小園地に付近一帯の子供を出来るだけ集めるようにし、田園に於ける播種から育成、やがて収穫に至る過程を親しく子供達に示す事によって、大自然と親しましめ、斯くして至上の教育を施そうと努めたのであった。即ち最初に於ては、花卉や流木や、巨大なる樹類の生ずる束縛されない環境にあって生育の歓びにひたろうとするの外他意なかったものである。
然るに、後に至って、その性質にも多少の変化を伴うようになり、意義も広くなって来たので、ついに今日に於てはシュレーベル・ガルテンなるものが独逸人の生活上重要なる役目を持つに至った。この如くして干九百二十一年設立を見たる独逸帝国小園団連合会(Richsverband der Kleingartenverein Deutschland )には今日会員四拾万人以上を算するに至ったのである。
斯様にして今やこの小園は単に子供のためというに止まらず家庭の必要物となって来たので、大小如何なる都市にも益々これ無かる可らずとされるようになり、また事実普及発展の過程にある。特に独逸の大都市に於てはシュレーベル・ガルテンなるものがその機関として痛切に緊要が認められ、当局は全力を尽くしてその助成を図っている。なおこれに就いては彼の世界大戦(※第一次)が大にその発展を促成した事を記憶せねばならない。なるほど大戦中は独逸中に花卉というものが姿を没して、あらゆる所に馬鈴薯や蔬菜類を植えはしたがやがて人々は小さくても花卉園を持ちたいと意識するようになり、大戦後には益々その熱を高めたのであった。
現時独逸に於て当局は一切の出願者に対し充分なる土地を提供すべき旨、法規に依って強制されている。而して経済的の支障無きようその税額は至廉(しれん)となっている。なお特に注意すべき事項として、将来は斯の如きシュレーベル・ガルテン植民地(Schreber garten-kolonie )の付属地には一切家屋の建築を禁止すべき見込みである。斯(かく)の如くしてこの園地の自然味を失う事を防止して休養慰安に遺憾無からしめんとするものである。この植民地こそは実に興味ある自然の天地である。連日精神的の骨折りに奔命していた教育者が花卉の愛撫に余念のないその傍らに重苦しい機械と始終にらみっくらしていた労働者が矢張り同じ愛撫の眼を以て自然を友としている場景は、観る者をして「之れなる哉!」の感無くしてはおかない。まことに一度此の植民地の門戸を開く時彼等はそこに一切の社会上の地位をも打ち忘れ、そうして唯花卉と自然とに愛着を持っている人間でしかないのである。
シュレーベル・ガルテンには上記の外になお実用上の目的が存している。即ち、果実、蔬菜、花卉の収穫より得る所の実益もまた少なからぬものであって全く自家の労作に依るものなば経済である。斯様なわけで年々花が見られ新しい生産が得られるので、独逸目下の悲境に拘わらず園を維持して行こうという努力も出るわけである。また規模の如きも大きなものではなく、丁度家庭の必要に充てる位の程度のものであって、まず三百乃至五百平方尺(※27.5~46 m2)を以て足れりとし、事実これ以上大きくては充分な注意が行きわたらない恐れがある。シュレーベル・ガルテンに於てはそこにいる不平等の人々の社会上の相違を度外視しているが、同様政治問題を念頭にはおかない。それで会員の平和を維持するためにこの運動は非政治的のものとしてある。この結果は却って強力の協同となって現れる。斯様にて植物その他、園の必要材料の共同購入が行われ、したがって、雑作もなく而も安価に材料が手に入るのである。また専門家の講演が時々催され或は花卉陳列会を開き、場合によっては、園遊会や子供の会をも催して会員の家族が集って来る。何しろ独逸は急速に工業化しつつあり広い地域にわたって農業的形質を失いつつあるので、斯様な自然に還るの途が必要と認められている。とりわけ、独逸人は次代の国家を負うて立つ者は青年子弟に外ならずとなし、之を教育せんとせば、すべて生ある者を尊ぶの風を養うを要し、之に対し郊外に植物を養い園の労作に従事せしむるは最も適切なるの途なるを考えている。
シュレーベル・ガルテンの用法をいうと、原則として園の所有者は勝手に利用していいわけであるが、唯植民区域の美観を維持するために若干の規則を設けている。植民地は互いに近隣と競争せんと強い野心を持っているものである。そこで垣根に接して小屋が四つまで集まって立つように規則を設けている。この配置は印象がいいし芸術的素養の無いために植民地の美観の害せられる事を防止するに役立っている。また一般に道路は出来るだけ少なくする事に努め、而して全く之を設けないで唯小さな飛石(とびいし)だけにしておく事もしばしば行われる。その石は草地に設けておく。園は狭いので、大樹の植栽を避け、之に反して小灌木の類が好ましいものとせられ、特に、苹果(※リンゴ)、梨、李、桃等の矮性果樹類が用いられる。薔薇はとりわけ好んで方々に植えられ、或は小屋の壁を蔽わしめ、また入口の門に匐わしめ、時に垣根に用い、而して花壇に植えるという風に愛用せられている。斯うした花の簇(※むらが)った光景は実際朗らかな感を与うるものである。(終り)