戦前ではめずらしい共同出荷の実態 市場に収穫物を運ぶとはどういうことだったか。 東京・深沢出荷組合、出荷係り 木ノ内政五郎氏のはなし

 

『世田谷の園芸を築き上げた人々』湯尾敬治 城南園芸柏研究会 1970

※世田谷区深沢地区は、地区内に府立園芸学校が所在することからここを中心にして周辺に発展していった。盛時には23人の園芸家がおり、それぞれが日本の園芸界の指導的な立場を担うような人達だった。このような園芸家の集積地だったがゆえに、共同出荷は機能し重要な役割を担っていた。

※玉川温室村の共同輸送では、市場へのルート上に近い生産者の荷も、途中で一緒に載せてもらうような請け負い仕事もしていたという。(「世田谷の園芸を…」から)


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深沢の出荷組合

深沢の園芸は早くから出荷組合を作って、共同出荷を行い労力の節減を計っていた。昭和三年、七月、木ノ内政五郎氏を出荷係りとして雇い、月給三十円を支給した。リヤカーによる運搬であったが、午後の時間が空いていたので、各組合員の作業の手伝いをして十五円の賃金を得る事が出来た。促成野菜の出荷期には夕荷として午後からの運搬があったので、それは出来なかったが、とに角一ヶ月四十五円の収入は当時としては高給の方であった。大工が一日の日当一円二十銭であったから比較して見ればよく分る。

※木ノ内政五郎氏は自分でもガーベラその他を栽培していたようだ(p24)

併し出荷係りの労働は並大低のものではなかった。荷の少ない時は自転車で間に合ったから楽であったが、切花の最盛期には、リヤカーに山程の荷が集った。道路は今のような舗装はしてなく悪路が多かった。各個人々々の荷は左程多くなかったが、組合員の数が多かったので、市場の選択もまちまちで、三ヶ所乃至四ヶ所の市場へ廻ることもあった。芝生花市場、高級園芸市場、日本橋、神田、渋谷など、それも開市までに運び込まねばならんので一通りの苦労でなかったようである。野菜の方は、トマト茄子は、神田青果市場(河定)、メロンは、高級園芸市場へ出荷していた。

この深沢出荷組合には、野毛地区の、桜井元氏、中井、合田(※弘一)の諸氏も参加していたので、その数は十五、六名であり、これだけの園芸家の生産物をよく、リヤカーの出荷で間に合ったであろうかと、疑問をもたれる方もあると思うが、組合員の経営規模は、青木(※茂)、中井両氏を除いては何れも小規模であったため、それに一日おき二日おきの出荷者もあったので何とか処理出来たのであった。

組合費は売上げ金の1割とし、毎月集金し、その中から木ノ内氏に支払っていた。試みに当時の切花、其の他の市価を氏の記憶の中から拾って見よう。

スイトピー 二銭~三銭、

ガーベラ 二銭、

ヒメ百合 十二銭、

ストック 十銭~二十銭、

フリジヤ ニ銭、

ダリヤ 一銭~二銭、

洋菊 二十銭~五十銭、

トマト ー〆目 二円、

メロン 二円五十銭。

温室坪数は、青木氏、中井氏は各々百五十坪位、あとの諸氏は五十坪、三十坪、中には二十坪しかもっていない人もあった。

この組合も、大東亜戦発生と共に、生産量も減少し、戦争の激化と共に召集された人もあって(木内氏も終戦の年一月頃召集される)解散の止むなきに至った。

木ノ内氏は静岡県人、非常に実直で深沢の園芸家には愛されていた。仕事は人の二倍もする位の実行派である反面、大の愛酒家でもあった。「酒なくて何の人生か」という部類であったが、人に負けない行動力が今日、水道業として四、五人の若者を使う程に成功した基であろう。

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