早川源蔵氏について 東京府立園芸学校の第一期卒業生、高級園芸市場設立に関わり、日本の花卉産業、東洋ラン栽培にその名を残した

 

『世田谷の園芸を築き上げた人々』湯尾敬治 城南園芸柏研究会 1970


『農村を更生する人々』第一輯(農業学校長協会 編 昭和8:1933)


東洋蘭の早川源蔵氏


広いお庭に無数の盆栽が並べられ、その一つ一つに早川氏の深い思出が包まれており、どれ一つ取上げて見ても、皆ご自慢のもの許りであった。実生四十年という山もみぢ、石川先生(※都立園芸高校管理者、園芸の神様と呼ばれた石川保太郎氏)にすすめられて日比谷で買ったというとうかえでの巨木、えぞ松、五葉松、雲仙つつじ、山歩きの折、採取されたという山草に至るまで、手際よく植栽されている。少しも気取らない盆栽の仕立方は、石川先生の影響であろうか。

針金かけをしないで自然の姿を表現しようとする手法。これは東洋蘭の中に造物主の神技を発見した氏にとっては、当然の事であり徒らな技功は自然を冒涜するものであり、天の意志に反するものである。……こう理解しておられるような気がしたのであった。今日、早川氏をお訪ねしたのは盆栽を観賞するためではなく、今日まで歩んで来られたあらましを、お聞きすることか目的であったのである。

氏は明治四十三年、府立園芸学校第一期生として卒業され、杉浦(英夫)、榎本(一郎)、太田(清太郎)の諸氏と同期であり、わが世田谷園芸としては最も深い関係をもち、その初期開拓者として自他共に認めるものであった。園芸学校卒業後、直ちに母校の助手となり三ヶ年間、野菜部に属し、松本(※修介)先生の下で指導を受けられたのであった。本校も当時、未開墾の土地が多く、毎日人夫が来て圃場作りをやっていた。氏は、野菜栽培の傍、これら人夫の世話役も仰せつかり、帳簿記帳、賃金支払いまでやったのである。当時開墾していたのは、今の盆栽場あたりから、花卉のフレームのある所であり、雑草の生い茂った荒地であった。雑木林や、草地は到る所にあり、畑と田圃が無限に広がっていて、武蔵野そのものであったわけである。有名な盧貞吉先生もおられ、露地草花を担当されていたという。

花卉部主任は本田(※本多副添)先生で、助手に直井さん、粕谷さんなどがおられたそうである。

大正二年十二月、一年志願兵(幹部候補生)として、近衛野砲十三連隊に入隊された。任期は一年であり、而も少尉の肩書きを与えられたので当時はさっそうたる将校さんであった。除隊後直ちにフレーム二十框を作り、キウリの促成栽培をはじめた。世間では木框のフレームか多かったが、氏は耐久性を考慮して錬瓦作りとし、縦、積みの十間ものであり、すべての作業に便利であった。弦巻の榎本一郎氏は、これを見習って作り替え、更にピッ卜型へと進んで来たのであった。

当時目黒に栗山兼吉さん、五本木には京極さんなど、促成栽培の研究者がいたが、お互いにその技術は発表しなかったそうである。たまたま教えをこう人が来ても固く門を閉じて出て来なかったという。仕方なく隣りの家の大木によじ登ってそこから、作業している所を盗み見したのであった。苦労して発見した技術は他人には教えないという昔のせまい了見であったように思われる。

早川氏のキウリ栽培は十二月から翌年三月までを収獲期とした。これ以後は静岡ものか出廻るので市価も安くなり儲らないのであった。三月中、下旬から茄子栽培に移り五、六月まで収獲する。この外、芽ざんしょう、みつ葉、葉じそ、などのつま物栽培も行い(苗の播種床利用)集約的経営に力を注いだのであった。

こうして生産された野菜は手にさげて(キウリならみかん箱四個)品川の八ツ山まで歩き、そこから市電に乗って神田市場の伊セ長まで運んだのである。早朝のこととて市電の動いていない時は、人力車に乗ったがそれでも充分儲ったと云うから(一本十銭位)大した意気込みであったようである。山手線が開通してからは五反田まで歩きそこから国電で神田まで運んだわけである。

氏はキウリ栽培を得意とした。得意としたということは、自らの技術を発見し、他の人より優れたものが生産されたということである。十二月から三月といえば厳寒の候であるため、地温が低下し易い(醸熱材料は落葉、馬屎、長わら)そこで他の人より二、三割増量して踏込みをした。或る場合には必要温度の二十七度~三十度、以上に昇ることがあったがその時は水を注入して適温に下げる。こうすることによって、平均地温を持続させ、質のよいキウリが収獲出来るのであった。茄子はより温度を必要とするので、春になってからの方が、地温保持、栽培管理共冬期よりは楽であり、光線も充分となるので光沢のある品か得られるのであった。

氏は余暇を見て産地見学を行い、技術の修得につとめられた。名古屋のビワ島市場、房州の促成栽培、茨木園部のキウリなど、これらの産地は何れも有名であり、特にビワ島市場は、大阪天満市場、東京神田市場と共に、日本の三大市場として名実共に充実していたのである。特に促成栽培は東海、四国の産地を控えており、その量質共日本一であり、ここの相場が各市場価を左右したそうである。

ある年、三日間も雪が降り続き交通が杜絶した。そのため神田市場へは一本のキウリも出荷されなかった。あわてた神田の伊セ長は早速早川氏の所へ打電し、少しでもよいから出荷してくれといって来た。仕方なく雪の中を神田まで運んでやったと云う。一箱四、五十本入二十円になったというから、大した値である。野菜促成の外、ダリヤを栽培したが当時生花市場はなく、花屋との直接取引きであり、いいなりの値でしか売ることが出来ず、到底ソロバンに合うようなものではなかった。

早川家でも一般作物、野菜などの畑、一町歩程あり、雇人を使って耕作していたので、氏も農繁期には手伝わねばならなかったのである。その頃、フリジヤの促成栽培はあまり見られなかったが、氏の友人で園芸学校の卒業生である新田(※瑞気)氏が小笠原におられ、「どうだフリージヤをフレームで咲かせて見ないか」と云い、石油箱一箱送ってくれた。


※参考 小笠原の園芸とカラジウム

https://karuchibe.jp/read/15645/


早速木箱に植え丹精の結果、一月下旬に開花した。さあどこへもって行って売ろうかと苦労したが、手近かの目黒、花勝へ持って行った。所が「こんな花、正月も過ぎた今となっては必要ないと」にべもなく断わられてしまった。無理に買ってくれと云えば叩かれるので(結局足元を見られたという所である)それもシャクだったから、「それならいい、別の花屋へ行く」といい捨て、日吉坂まで歩いて来た。すると花勝のオヤジがあとから追いかけて来て「どこへ持って行く気か」ときくので飯倉へ行くという

と「まあそういわないで俺の所へおいて行け」とぬかす。とうとう本音を吐いたわけだが、氏としても早く売ってしまいたいので、自分の言い値で買ってもらったそうである。その頃、三銭か五銭であったと思う。その後、六本木の花午(後藤)と取引きするようになり、雇人の小僧さんに一日おき位に届けさせた。所がよく売れると見えて毎日でも持ってきてくれと云って、小僧さんに小遣い銭までくれたそうである。

フリージヤのような珍らしい花はよく売れたが、一般のものは只花屋に奉公してしまうような状態であったのである。これではいつまでだっても花卉園芸は発展しない。何とかして同業者が団結して、花屋に対抗出来る組織を作る必要を感じ、早川氏は勿論、伴田四郎、木村重孝、野口(※秀=佳伸)、大沢(※幸雄)、鴨下(※栄吉)、の諸氏が相談して誕生したのが大日本園芸組合であった。これについては、大沢、伴田の両氏は私財を投げ出して貢献し、その結果が高級園芸市場の開設を見ることになった。最初は有楽町に、フラワーマーケットの名で誕生、しばらくして、花午(※ゴトウ花店、後藤午之助)の世話で西銀座に移った、と云われる(※大正12年12月に始まる「高級園芸市場」のこと)。このような純然たる生産者の市場価格は業者の生産意欲を盛り上げ、年を追って出荷量、売上高とも増加して来たのであった。

これに刺激されてか、芝、日本橋、神田などに市場が生れ、お互いが競走して集荷策を講ずる状態に発展してきた。こうした機運に際し、深沢方面や温室村に花卉栽培が起り、世田谷に華麗な園芸が興って来たのであった。

早川氏もこの頃、温室四十坪を造りスイトピーの栽培をはじめた。其の後漸次温室を増設し、最終的には百八十坪までに規模を拡張し、洋菊の温室栽培を含めて、最も充実した経営の時代であった。当時栽培した洋菊は早生のユナカをはじめ、中生のサングロー、ターナー、晩生のノーイングなどであり、中でもユナカは駒場ばら園がアメリカから輸入したもので早川氏が最初の栽培者であったそうである。

追て、昭和十四年頃従来の切花生産をやめ、洋蘭と東洋蘭に切り替えた。このことは一般切花の生産増加に比較して、需要は伸びず市価が低迷していた。そこで思い切った転換を行ったのであった。カトレヤ、シンビジュームなど相当量栽培し、東洋蘭は支那原産の一茎九花を小型トラック一台分(大カゴに入れて七個位)上海から発送させた。丁度二、二六事件の起った時(※昭和11年)であり、東京は大雪に見舞われ、加えてあの大事件発生である。市内の交通は杜絶し、早川氏の東洋蘭も箱崎の倉庫からの出庫不可能の状態であった。併し一日も早く荷ほどきをしなくてはならんので、何とかして出庫し届けてほしいと係員に懇願した。幸い当日の夕方までに氏の家に届けられ一安心したそうである。

こうして折角投資した蘭栽培も、昭和十六年に発生した大東亜戦、更に進展して第二次大戦となり、最早蘭の世話どころの騒ぎではなくなって来たのである。業者間でも温室の解体売却がはじまり、不安の毎日が続いた。氏も温室取りこわしを決意、その前に洋蘭の処分をしなければならなかった。そこで各地の大学や農学校に寄贈することとし、北海道大学(植物園)、秋田高等学校植物研究室、大阪府立園芸学校、東京府立園芸学校、農業大学などに配分したそうである。当時大阪園芸の校長は仙田(※清吾)先生であり、東京の園芸学校に居られた事もあるので、丁重なお礼の手紙を頂いたそうで、それを私に見せて下さったが中々の名筆で且美文であった。東洋蘭だけは残しておきたいと思い、防空壕の中や、軒下などで保護しておき、終戦後、これを土台として東洋蘭専門の園芸に移ったのである。現在は小温室四棟の中に各種の蘭約六七〇種保有しており、現在山口大学の田原教授の研究の下に実生実験中のものもあり、新種発生も近い段階に来ているそうである。氏の東洋蘭を品種別にすると、支那春蘭一一五、一茎九花八〇、日本春蘭一三〇、寒らん二三〇、秋らん七〇、芳才らん二〇、糸らん三〇、となっている。これだけの種類をもっている人も稀であり、趣味家としては指導的立場にある。東洋蘭の会の理事として益々増加する愛好家のよき相談相手となっておられるのであった。

氏はこれまで数多くの蘭を集めたが、無理をしたものは一つもなく、何れも自然のうちに集って来たという。人徳のしからしむる所と思われるが、愛蘭家の共通心情が、求める者との仲立ちとなり、利害を抜きにした取引きが生ずるもののように思われた。

この辺で早川氏の東洋蘭に対する考え方について記して見ることにする。先ずその企業性に関しては現在の所その価値は乏しいが趣味園芸の素材としては最高であろう……と。それはなぜであろうか、第一に大衆性がない、繁殖率が少ない、実生は困難である。山取りも限界に来ている。つまり希少価値的存在であり、大量生産に向いていないと云うことのようである。中には日本春蘭のように山野に無限に自生しているものもあるが、駄物では趣味的価値は少ない。このようなわけで現在では愛好家同志の取引きにおわり、園芸市場にはあまり姿を見せない。出荷すればそれなりの相場が出るのであるが、数が続かないのであった。只、関西の業者には営利的に扱っているガラ物もあるが、投機性があり危険であると云う。氏としては金儲けのための東洋蘭栽培はその価値がないので誰にもすすめないと云われる。

東洋蘭の真価は、幽遠清楚な花姿と香り、風雅にして変化に富む草姿である。更に鉢を吟味して植栽すれば、三者一体となっていよいよその観賞価値が高められて来る。更に東洋蘭の特長は、花のない時期でも美しく、全体を構成する葉組みは、立葉、垂葉、中垂葉、よれ葉、露受葉と称され、これらが互いに組合わされて千変万化の妙を発揮しているのである。この技術は造物主のみによって作出されるものであり、人工的にはいかんとも成し難いものであった。強いて云えば、その品種に適った栽培管理をすれば、より美しい姿のものを生み出すことが出来る、と云うことであろう。尚、その栽培法をお尋ねした所「東洋蘭には栽培法はない」と極言される。

なぜならば、各々の自生地は各種各様でありその土地の気候風土に適した栽培環境を与えることは殆んど不可能に近い。都市と云う殊更の不適地で、たとえ植土を吟味した所でとても蘭のお気に入るような環境は作り出されないのが通常であると云う。従って自慢の出来るようなものを作るには自分自身でその栽培法を発見しなければならず、いかに先輩からその栽培法をきかせてもらっても、決して美しい蘭は生れて来ないであろう……と。東洋蘭愛好家の中でも一応ベテラン級になっている人は何れもお山の大将的気風を持っていることは、こうした苦心をして、何れも独特の技術をもっているからである。更に「東洋蘭と人生」に関してその感想をおききした所、「この植物に潜む東洋的思想を感知し、それを愛し育てているうちに、自己の東洋人としての自覚を再認識する。花と葉と、更に陶芸家の手による鉢に植えられている時、三者一体となった中から発生する幽玄の雰囲気は、自らも悟りの境地に入っだような感を起させてくれる……と。このように語られるのであった。

この外、赤坂の名女将お鯉さんの話し(大沢幸次郎と桂太郎と張合った事)や陶芸家平安香山や岩崎厳彦の逸話などたくさんの面白いお話しをお聞きしたのであるが紙面の都合上省かせて頂くことにする。

早川氏も既に七十五才の老令でありながら、尚赫灼としておられ、若者を凌ぐ元気さで庭に並べられる無数の盆栽の世話と、数百の蘭の管理で毎日多忙の毎日を送っておられるのであった。無心に近い心境で、東洋蘭と対峠している時が氏の一番幸わせな時間であるように思われるのであった。


住所 世田谷区東玉川一の二九の一四 電七二〇-二五四六

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