日本のカーネーション生産とバラ生産の歴史の最初のページに必ず登場する「長田 傳」という人物の名前は「おさだ」か「ながた」か?という問題

 日本の園芸史にその名を残す「長田 傳」という人物について、

「ながた」なのか「おさだ」なのか、ずっと分からず、

先輩にお聞きしても、「分からない」という解答だった。

たぶん、あまりにも有名で、当時の人は「ふりがな」を必要としなかったのだと思われる。

しかし、この最重要人物の名前が分からないというのは、どうも落ち着かない。

それでずっと調べていたのだが、やっとわかった。

本日、『実際園芸』第2巻1号(1927〈昭和2〉年1月号=大正16年1月1日発行と表紙に印刷されている)に、長田氏が寄稿されていて、

そこに「おさだ」というふりがながあった。

このような事例を見ると、『実際園芸』の最初期の刊号には、執筆者の名前にルビを入れて紹介していたのかもしれない。その後幾度も寄稿された人の最初の原稿をみることが大切なのかもしれない。

※ 昭和前期の長田農園の住所は、東京府荏原郡馬込村天沼10番地(北馬込2丁目付近=馬込駅近く)にあった(『園芸人名録』昭和3年)。のちに世田谷区の砧に移転している。

 

この記事には、以下の長田氏の経歴についての記述がある。
長田氏は、
東京農大を出て渡米し、18年間、アメリカで花卉の温室栽培にたずさわり、
「バラの栽培では日本人の長田氏におよぶものはない」と称賛されていたという。


※『全国著名園芸家総覧』 大阪興信社営業所 昭和二年 における長田農園の記載
長田農園 長田傳 温室栽培 荏原郡馬込村大字天沼一〇


第11巻第5号の表紙 長田農園で栽培された「コモンウエルス」



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