執筆中の前田曙山 ダンディな人であったという。 『私の大衆文壇史 』(青蛙選書) 萱原宏一 青蛙房 1972から ※文中で、前田曙山が、『園芸之友』(1905~1912年ごろ)を主宰したと記してしまいました。いくつもの資料で同様のことが記されていますが、全集や、実際の当時の『園芸の友』などを確認してもその事実が確認できません。『明治園芸史』1915 の前田自身が書いた「明治年間花卉園芸私考」のなかでも『園芸の友』に触れていますが、自身が手掛けたとは一切言及していません。 前田曙山はこの時代、向島花壇として知られた東京園芸株式会社の役員をしていて佐々木文一とともに、文学仲間の丸岡九華(久之助)を専務取締役に招いたりと、中心的な立場にありました。その後、会社は隅田川の洪水などで大きな被害を受けるなど経営難に陥っており経営陣の内紛もあって明治42年には解散しています(九華は一カ月あまりで退任)。こうしたことを考えると、日本園芸研究会が主催している園芸雑誌『園芸之友』を「主宰」していた、ということは考えられません。ここであらためて記事の内容についてお詫びいたします。 前田曙山は、明治後期から大正、昭和にかけての園芸ブームを牽引した最大の功労者の一人。若い頃から大衆小説の人気作家となり、生涯にわたって作品を書き続けた。後期の作品はいくつもの映画の原作となり、多くの人に愛された。 曙山は、登山家や写真家としても日本の先駆けであり、その名を残している。 植物学でも牧野富太郎に師事してよく学び、高山植物の採集や栽培にも力を入れた。東京・向島の大きな園芸会社の役員を務め、わかりやすい言葉で植物や栽培することの楽しさを伝える『園芸文庫』14巻や『高山植物叢書』などを表した。高山植物の栽培はブームとなり、それらの花をモチーフにした小物が流行したという。 明治後期には 『園芸之友』という雑誌を主宰し 、園芸文学、園芸小説というジャンルをつくり、物語を読むことで自然と園芸知識が身につくようなものを世に送り出している。 前田曙山が記した「明治年間花卉園芸私考」(『明治園芸史』 p505~ 日本園芸研究会編 1915)は、明治期の花卉産業の貴重な記録となっている。 以下、曙山の全仕事の概要がわかる資料をここにテキストとして記録する。 ひとつ、曙山の誕生日は明治4年11月21日であるが...