九州、福岡から「オキナワ」という海外輸出先への積み出し始まる 昭和32年9月の日本航空定期便の初便から
『花卉』1(春から夏の花作り)博友社園芸日本編集部 編 博友社 1957年 から
※今年は沖縄の本土復帰60年の節目の年であった。1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還された。沖縄は、現在でも花をたくさん使う習慣の強い県民性が見られるように、返還以前も現地での生産があり、また本土から花が送られていたようだ。
※日本航空は、戦後の昭和26年8月に設立され、10月より営業を開始している。それまでは、那覇空港など空港は米軍に占有され民間の利用ができなかった。JALの「羽田―沖縄便」は、福岡便より2年早い1954年2月に就航した。ホノルル(ハワイ)経由サンフランシスコ便に次いで、2番目の国際航空路線だった。那覇空港が工事中の54年11月までは嘉手納基地を離発着していたという。
※この記事では北九州からキクの定期的な「輸出」を振興しようという動きがあったことを記録している。沖縄地元の花生産の状況や日本の他の産地との競争、コストと利益の兼ね合い、といったことが検討される。沖縄の地元での生産と供給は、台風の影響が大きいことを要点にあげている。
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キクの海外輸出の見通し
福岡県花卉園芸農業協同組合 横竹正助
沖縄向けの輸出は昨年(※昭和31/1956年)九月、日本航空が沖縄航路開設と同時に始めた。
沖縄の切花消費は一般民衆と米軍関係者 (日本人)で約七割五分、PXや米軍関係 (外人)で約二割五分の消費があるとの調査報告を受けた。
第一回の輸出は九月十三日の日本航空沖縄初便にて積出した。時期的に早咲き菊の出廻り期であるためほとんどの出荷は菊の切花であった。注文も大中小輪の菊で、少量のカーネーション。枝物類も積んだ。福岡板付空港よりの沖縄便は毎週月曜日と金曜日の二回で、毎便切花の輸出を行った。
一回の積出の量は瓩(※キログラム)数にして二五〇瓩内外、個数にして一〇乃至一五個、本数にして約三○○○本内外、金額は一〇〇弗乃至一五〇弗程度で、取引方法はチェック送金よりFOB取引を行っている。積出に際しては厳密なる植物検査を受けねばならない。病虫害にかかったもの、あるいは虫の付着している物は絶対不許可になる。輸出であるので税関に通関手続きをして、詳細な検査を受け許可を得て積出す。
温度が内地の八月下旬か九月上旬の暑さで、花持が悪いのが欠点と考えた。そのため大きな花屋とかPXの売店などでは一坪か二坪近い冷蔵庫に菊の花を貯蔵してあった。花は皆内地産の一級品である。販売面を一巡した私は沖縄の生産地を見て廻った。台風に三十一年度は四回も見舞われて、南部地方は平野で青いものはほとんどない悲惨な状態であった。中部にも草花類はなかった。北部地方は山あり川ありで、農作物も豊富で内地とあまり変りない風景で、菊など小輪物が二畝とか三畝位転々と作ってあるのを見た。那覇市附近には、小中、輪菊が方々に見られた。金魚草、ストックなども作られていた。矢車草や金箋花の苗もあった。小輪菊は十二月頃には相当に出廻るとの話しであった。
沖縄の四、五月は雨期で六月より十月までは真夏で台風期、十一月より三月までが草花の生産期となるのではないかと思う。したがって切花輸出の期間は雨期より台風期で、一回台風に見舞われるとすべての草花は皆無となるとの話である。沖縄輸出に限らずいずれの所に輸出を企画するにしても、輸入国の技術の進歩と増産もさることながら、内地としては不断の努力により、技術の向上はもとより、生産費を切下げ、より優秀品を作りて、競争に打勝つ気力が欲しいと考える。
輸出に対する販売価格も徒に安値競争におちいることなく、生産費と、利潤を適宜に考慮し、同業者相携えて外貨獲得のため大同団結の組織を作りたいと考える。