狛江時代の大場蘭園、大場守一氏の回顧 1970年、シンビジュームの切花が高価だった頃に聞いたおはなし
『世田谷の園芸を築き上げた人々』湯尾敬治 城南園芸柏研究会 1970
洋蘭の大場守一氏
大場氏は世田谷、目黒と、地域を別にしてにいるのであったが、昔から世田谷に縁が深く、園芸談議ともなれば常に話題に上る人物であったので、ここでその人となりを記させて頂くことにした。 ※著者は湯尾敬治氏
三月二十七日の夕刻、私は自転車で狛江の大場蘭園をお訪ねした。道路は自動車で混雑し而も不慣れな道を行ったため、意外と時間を費し、お約束より三十分もおくれてしまった。
折よくご子息が在園され、一通りの見学と説明をして頂くことが出来た。大型シンビが咲き誇っており、スワロー宝塚、スワローバレイシヤ、ロザンナピンクなど、色とりどりに特色を発輝し、我が世の春を欧歌しているかに見えた。この中で、ロザンナピンクなどは戦後輸入されたものであったが、一株八万円もしたものだそうである。シンビジュームは、過去、イギリスで盛んに栽培改良されたのであったが、現在はアメリカの大量生産が巾を利かせているそうである。
わが国の洋蘭栽培は、大正時代まで殆んど趣味家の間で行われていたに過ぎなかったが、昭和に入ってから園芸家の間にも、その専業者が現われ、その普及も急速に進んできたのであった。特に戦後、西欧文化の浸透によって、洋蘭の需要も急増し、従って栽培量も増加して来たわけである。一方趣味家の洋蘭熱も高まり、この方面の需要も無視出来ないという。特にシンビの場合、性質も非常に強く、低温(八度C~十度C)で充分開花するので、最近の生産量は夥しく、この調子では数年のうちに、シクラメン並みの価格で、一般大衆に利用されるようになるのではないかとのお話であった。小型シンビは既に一般化し、高級花ではなくなって来ている。大型シンビは切花としての利用度も高く、気品ある風格はあらゆる花卉装飾に適しており、今後益々その需要は増加するであろう。四国、岡山、浜松、神奈川、の各地では、その気象条件を利用して、大量生産が行われており、四国の或る蘭園では七、八百坪の温室(ビニールハウスを含む)で、シンビを栽培し僅か二人の労力で管理しているそうである。一坪に大体十五鉢(六寸鉢~七寸鉢)入るとして、七百坪では一万以上の鉢数があり、一鉢二本半切れたとしても、二万六千本の切花が得られるわけである。地元産のものは五百円は堅いそうであるから、地方のものでも三百円以上には取引きされるので約八百万位の収益を得られる勘定になる。今後、暖地園芸の花形として、切花市場を賑わすことであろう。
最近、関東以北の地域にまで、この栽培が拡がり、冷涼地なるが故の早期花芽分化により、暮出しに間に合うそうであった。
こうした状況の中で、東京の蘭専業者は地方ものとの競争は避け、その経営内容を多様化し、趣味家を含めて庭先き販売に限定する、苗生産は地方に任せ、開花株のみを自園に集めておき、需要に応じて取引きすることが得策であろうとの事であった。大場氏の所では生産の五〇%は趣味家或は同業者間の取引であり、あとは生花商、鉢物商などの販売となっているそうである。ここでは、各種類の苗販売も営んでいる関係上、メリクロン苗も扱い、新品種の試作育成にも力を入れている。シンビの外に、シペリビジューム、カトレヤ、胡蝶らん、などの新品種も集められており、百三十坪の温室にこれらの洋蘭が咲き誇っていた。天窓開閉は全自動であり、出来るだけ省力化しておられ、研究生を含めて三人の労力で、栽培と営業面とを合理的にやっておられるのである。
温室の見学を終えて、園主守一氏の別宅に伺ったのは午后七時頃であった。何十年振りかでお会いしたわけであったが、非常に健康そうなご様子に、私も安心してお話をきく事が出来たのである。前もってお断わしておくが、大場氏0お話は非常に多岐にわたっており、興味深いものであり、私も出来るだけ多くの事柄をメモするよう努めたのであったが、いざそれをまとめようと思うと中々容易でなかったのである(メモそのものが粗雑であったせいもある)。従ってここに記述する内容も、その進め方が前後したり、結び付きに間違いのある部分もあることも予期されるので、大場氏に対し、又、これを読まれる方々にもお詑びしておく次第である。
大場氏は静岡県人、当時の私立農林学校を卒業(明治四十三年)富士郡にあった鈴木農場に勤務された。ここは約百六十町歩を有する大農場で、果樹園、茶園、乳牛、養鶏など広範な農業経営を行っていた。ここで一年間働き、翌年、出身校の山崎校長と懇意であった辻村常助氏の経営する、辻村農園に招かれたのであった。
辻村氏は当時の花卉園芸界では第一人者であり、独学で、英、仏、独の三ヶ国語を修得し、その園芸技術もこれら三ヶ国のものを参考にし、更に氏独得の栽培技術を発見して来たのである。園芸種苗も輸入し、その種類だけで見ると、現在栽培されている各種の花は大抵扱っていたように思える。ただ、品種の改良や栽培技術の進歩によって今日のものは数段優れていることは勿論であろう。その経営内容も、集約的かつ多様性をもっており、生産部門と販売部門に分け、更に集荷所まで設けて、生産販売の合理化を計り、当時としては最も近代化されたものであったと云えよう(むしろ現代の園芸業者より優れていたように思える)。生産農場は小田原、売店は東京市内に三ヶ所、中継所とも云うべき、育成場は巣鴨に設け、小田原より送られて来たものを一旦、ここに集め栽培管理しながら需要に応じて、各売店に出荷するのであった。(辻村農園のお話しはもっとたくさんおききしたのであったが、昭和四十三年に発行された「東京の花」の中に大場氏の寄稿として、くわしく掲載されているので、参照されたい)。
大場氏はここで、五、六年間栽培と経営を勉強されたのであったが、その後半は農場の仕事よりも、辻村氏の秘書格として、常に相談相手となり、身辺のこまかい用件まで仰せ付っていたようである。
辻村農園は現在の小田原駅のある所であり約二万坪の農場の中に温室三百坪を有し、常に三十人程の園丁が働いていたそうである。ところがここに東海道線の小田原駅が出来ることになり、買収されることになった。さて、その買却価格はいくらであったかきき洩らしたのであったが、とに角二万坪の代金であるから、当時としても何百万円であったろう。その金を銀行に預けに行く大役(?)を大場氏が仰せ付かったのである。その金を銀行まで届ける時の心境は、今も忘れることの出来ない程、不安におびえていたそうである。すれ違う人々は何れも自分をねらっているように思えて、こちらでもにらみ返してやる程であったと述懐されていた。
大場氏の巾の広い園芸知識と技術は、辻村農園時代に基礎付けられたものと思われるが、その後、浜松の松田牧場(花と果樹、畜産)に約二ヶ年働いた。その後、鶴見時代と称して氏の独立につながる、なつかしい土地となったわけであった。当時「芝」に民衆花壇という園芸場(販売をかねる)があり、そこの生産農場が鶴見にあった。氏は主任として招かれ農場全般の運営を任かされた。(大正八年頃)氏の二十六才~二十七才頃であったという。ここで四ヶ年程経過、大正十四年に同じこの土地で独立したのである。農園と云っても小規模なものであり、フレームを利用して草花を少々栽培していたに過ぎない。元々氏の目標は栽培よりも園芸商の経営であったのである。その人柄、性格、そうしたものは商人向きに出来ていたのかも知れない。大場氏が洋蘭を手がけられた最初は、島津公爵のもっていたものが払い下げられた時であり、当時そこの園丁をしていた牛尾氏にすすめられて、カトレヤ、シップなど買ったそうである。金額で二十円か三十円であり、一鉢一円から三円位であったという。その後、千住に園芸を営んでいた通称、ドブ総事、植松氏が売ってくれと云うので、何がしかの利益を含めて全部ゆずってやったという。当時の園芸種苗の取引きでは、代金の三割位払って、あとはいつ払ってくれるか分らない程、悠長なものであったが、洋蘭の場合に不思議と全部支払ってくれたそうである。そこらに洋蘭のもつ魅力があり、売れば、買えば儲かる商品であったのかも知れない。氏の同好者としては、丸エス、磯村、湯浅、円代の諸氏がおられ、佐伯登氏などあとから加った。この時代の洋蘭売買は趣味家相手のものが多く、貴族階級、財界の名士などが多かった。島津、伊集院、大隈、の諸侯、その他所謂、公、侯、伯、子、男爵、と呼称された貴族が居て、何れも立派な観賞温室をもち、観葉植物をはじめ、洋らん、草花などを飾って楽しんでいた。
これらの人々を対象とした営業も、当時としてはそれなりの価値はあったようである。勿論、一流生花商や園芸家との取引きも大切であったし、園芸市も開かれていたので業者間の取引きも盛んであった。もちつ、もたれつの相互信頼の上に園芸商の経営が存続されて来たように思える。
現在の狛江町に移って来られたのは、昭和八年頃であり、どうにか洋らんのみで生活を維持出来るようになったのは、昭和十五年頃であったと云われる。こうして苦難の道を歩み続け、漸く希望が見出された時、第二次大戦となり、石炭も使えなくなって、洋蘭栽培は不可能になってしまった。仕方なく、耐寒性のシュロ竹や観音竹を作ったが、それも思うようには売れず、結局、所轄の警察官にただで上げてしまった。その頃、日本鉱業株式会社の社長であった島田(※利吉)氏が農産会社の設立を計画、その候補地の選定を大場氏に依頼して来た。名古屋までの二等車の切符をもらい、意気暢々として出かけたのであったが、その方面には適地はなく、静岡の韮山に決定したのであった。現在富士見ランド(※伊豆富士見ランド、1999年閉鎖)のある斜面の続きで、約三十町歩の畑を作り、陸稲や甘藷を栽培した。陸稲六十俵程収穫していたのであったが、資金統制令によって、朝鮮銀行に預けてあった約三百万円の金が使用不可能になってしまった。このため漸く軌道にのって来た農場も、運営困難に陥ってしまったことは、当事者ならずとも、残念というより大きな損害であったと思う。
昭和十九年末、ご子息が召集され、横須賀情報部隊に入隊した。その後教育兵として部隊に残り、他の同僚は満州孫呉に派遣されたのであった。上等兵に昇進した頃憲兵志願をすすめられ、中野憲兵隊に入隊したのである。ここでの訓練を終えて実務に就くことになった時は二百名であったが、そのうち十名だけ残り、あとは朝鮮に派遣されたのである。併しその輸送船が敵の襲撃に会って沈没し、百余名の若き生命が失われたのであった。ご子息は内地に残留してにいたため、その難を免れたことは、不幸中の幸いであったと云えよう。終戦は浜松の憲兵隊で迎え、無事復員出来たことは、今日の大場蘭園を考える時、何事にもかえ難い、大きな福運であったように思えるのである。戦後、大場氏の活動ははなばなしく、同業者と相計り、日本オーキッド有限会社を作り、更に、日本蘭業協同組合に組織を替え、洋蘭生産並びにその取引きの上に大きな貢献をしたのであった。
現在はご子息に栽培面と販売を任かせ、氏は同業者間のおつき合い、渉外関係のお仕事を受け持ち、至極、平穏な生活を送っておられる様子であった。既に七十七才位と思われるが、お話しもしっかりしており今後の園芸界によせる抱負も大きく、まだまだの気慨を感ぜられたのである。大場氏は、六十年という長い園芸遍歴の中で、いかに「花」というものが人間生活に必要なものであるか、という事を強く感得された事であろう、更にこれを生産する人、種苗供給者、又は販売する人、共に「花」を仲介者として生きて来た仲間であると云う。連帯感も深く刻み込まれておられると思う。氏に云わせると「長い放浪の人生であった」との事であったが、この放浪と見えた人生の中で、体得し経験された集積が、今日の大場蘭園の姿と内容であろうと私は思うのであった。
なお、氏のお話しの中で、大正時代、世田谷の「花」を築き上げた多くの園芸家の名を挙げ、その外貌についてお話しがあったが、これは別項で記述することにして、ここでは省くことにする。
住所北多摩郡狛江町東覚三七九
電話四一六-二〇一九