失明の園芸家  石井勇義  『実際園芸』第18巻1号 昭和10年

参考: 戦後:島原の盲目の園芸家、宮崎康平氏(さだまさしの恩人)『農耕と園芸』

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失明の園芸家  石井生(※石井勇義)


 園芸界殊に花卉園芸界に於て、品種などについて真の生字引と言われる人は今日でも決して多くないが、しかし絶無ではない。花梅の品種を枝で見分けるとか、山茶(※サザンカ)の品種を葉で鑑別するとかといふ人が夫々あるが、盲目で花を鑑賞した人はそう沢山はなかったと思うが、自分の見聞したのに三名ほどあるのでここに紹介する事にする。

 古い人としては盲人で朝顔を作り、著書まで残して居られる人で、それは先年名古屋の蔵書家、村野時哉老をお訪ねしたところ四六判大の朝顔の一冊の版本を示され、これは盲人で朝顔を作り観賞した人の著されたものであると教えられた。拝見すると安永四年、谷崎公尚の著されたもので、塙保己一の跋(ばつ)がある珍らしいものであった。思うに、著者は相当の年齢までは眼明きで朝顔を作られ中途より失明されたのではないかと思われるが何にしても、あの書物を出すことに面倒であった時代に培養書を出されたという事を聞いて見ればよほどその途の達人であった事が窺われる。

 次は熊本花菖蒲の培養家であった中村翁である。今日まで熊本花菖蒲が発達したるは同翁の功績に俟つものであるとの事であったが、翁は二十歳前後に失明されたとか。その以前から花菖蒲に趣味をもって居られたし、色彩とか花型といふ様なことについても一通りの観念は頭に入って居られたせいもあろうが、晩年には殊に神技に達せられ、或時四十余種の花菖蒲の根株を全部サッサト鑑別して同好者を驚嘆させたという事を聞いたが、また時には培養家を巡って葉を指頭で触って見て、これは肥料が不足しているとか、少し徒長の気味であるとか、いう様に到底眼明の常人の及ばぬところまで指図をして行かれるの に、当時の培養家は何れも驚かれた由であった。それであるから花の審査とか、陳列という事に関しても非常にするどい鑑識をもって居られ、あれだけに肥後花菖蒲を発達させたのだと言われている。それで花時は眼は見えなくとも花容を手で触れる事に依って「ああ実によい出来である」とか、「弁の伸びが誠によい」とかいう様に花に対して見入って居られるという事であったし、また出来の悪い花に対しては遠慮なしに欠点をあげて批評するという具合で、全く、花菖蒲に対しては、行くところまで行って居たということであるが、園芸もそこまで行かなければならないと思う。

 今一つはこれは最近の話であるが、愛知県内一ノ宮市の金稜辺(※シンビジュームの仲間)の培養家森氏で、氏は失明されてからも培養に当って居られ、灌水などの毎日の管理から品種の鑑別取引などにも、常人の及ばぬ手腕を示されている由であるが、こうした方の事を思うと植物に親しむの途は全くここ迄達しなければならないと思う。ハッキリとそのものが認識されて居り、真にその植物を愛するの域に達して居るならば、明を失っても尚その境地に入ることが出来ると思う。明ある者の大いに心すべきであると考えて述べた次第である。

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