※資料(コピー)は、「東園」=東京都立園芸高等学校卒業の江越忠氏から提供していただいた。江越氏とは、その先輩に当たる松田一良先生を通じて紹介していただいたのだが、このとき、江越氏からは、『世田ヶ谷の園芸を築き上げた人々』(城南園芸柏研究会)昭和45(1970)も複写させていただいた。あらためてお礼を申し上げたい。
※資料のサイズはB5版で、もとは「わら半紙」に「ガリ版刷り」したものであったと思われる。講師は第一園芸の永島四郎を筆頭に恵泉女学園短大の岡見義男、山口美智子、井上(結婚して宇佐)節子先生方、元新宿御苑に奉職し都立園芸高校の教師をされていた森川肇氏、会長は日活国際ホテルの笠原貞男氏、幹事にはのちに恵泉の講師となった第一園芸の山内(恵泉の農専一回生、結婚して中林)久江氏、高島屋園芸部時代の松田一良氏、学生代表江越氏の名前が見える。
※永島、笠原氏のように千葉大の系統、恵泉女学園の系統、東京農大(江尻光一氏関連)の系統、都立園芸高等学校の系統が見られ、主要な花店、種苗会社やデパート、ホテルの園芸部、花き装飾に関わる若い人たちが参加しているようすがみてとれる。左側の手書きのメモは江越氏によるもので、都立園芸高校の卒業年が記されており、卒業し就職してすぐの若者が参加していることがわかる。のちに日本を代表する育種家となる千葉大時代の吉池貞蔵氏の名前も見える。総勢30数名のグループであった。このような若者たちがそれぞれ学び、経験を重ねながら時代を支えていたのだ。
※恵泉関係では、のちに卒業生で始めた恵泉園芸センターにおいて1963(昭和38)年から「スタディグループ」(スタディコースとも)を立ち上げ、店舗経営と一般向けのレッスンを開始した。
※森川肇氏について 『実際園芸』第15巻6号 p442 森川肇氏
宮内省技手、新宿御苑にありて花卉栽培温室を担当しておられる。東京府園芸学校出身にて久しく御苑にあり一方、盛花等についても深い御経験をもっておられる方である。
下図はFDCのジュニアクラブについて
講師等が書かれたチラシのようなものだと思われる。
永島氏がめざす日本の新しい花卉装飾は、いけばなを基礎として色彩に重点をおいた日本ならではのデザインであった。この方向性は残念ながらはっきりとした成果を見いだすことなく終わった。昭和37年以降は、アメリカのジオメトリックなデザインスタイルへと大きく変化していった。
取りまとめ役を担っている渡辺孝吉郎氏は、
花の資材を扱う会社「渡辺孝商店」の社長。
このときは、第一園芸の社員であったようだ。
永島四郎氏の追悼文集『花露記』の制作でも中心となっていた。
広告は東京都生花商連合協同組合
『組合員名簿』昭和44年9月(「花すけ」さん提供)から


FDCの会報が50年ぶりに見つかる
(月刊『フローリスト』2016年5月号のために書いた連載記事「花のクロノロジー」の原稿から)
「フラワーデコレーターズクラブFDC」は、永島さんをメインに、様々な先生を講師とし
て行われた花の勉強会だ。青山生花市場を会場に行なわれていた、ということは3月号ですでに述べた。FDCでの講義録は「Bulletin(小冊子)」という会報にまとめられ、定期的に配布されていた。武田和子さん(当時は三浦さん)がまとめ、謄写版用のロウ原紙に鉄筆で文字を書き入れた。文字だけでなくカットもふんだんに入れられ、和子さんのほかに江尻光一さんも描いている。和子さんは永島先生がいつも話していた「静かなる花を生けんと思う」というイメージに合った、落ち着いて上品なカットを合わせたかった。そのため、和子さんの友人で東京芸大で油画を学んだ真野惇子(マノアツコ)さんのお宅まで通って内容に合わせて挿絵を描いてもらった。当時の和子さんは上中里にあった農林省農業技術研究所病理昆虫部技官で、ガリ版刷りの原稿は駒込の印刷所などに持ち込んで校正し印刷を頼んでいた。会長の江尻さんからは、職場にたびたび電話があり、会報の内容について話し合った。みなさん手弁当で勉強や仕事の空いた時間を使って真摯に取り組んでいた。熱気があった。何もないところから作っていくのだという強い気持ちがあったという。もはや見ることはできないとあきらめていたが、その50年前の幻の会報が出てきた。3冊保管されていることがわかった。今年に入ってからすぐのことだ。現在、群馬県にお住まいの花岡喜重さんが3冊の「Bulletin」を大切に保管してくださっていた。花岡喜重さんは、1931年長野県生まれ。千葉大学園芸学部総合農学科卒業後、61年から群馬県農業試験場勤務。91年から00年 群馬県フラワー協会(ぐんまフラワーパークに勤務された)。昭和31年から36年にかけて、千葉大在学中に勉強会参加。
「Bulletin」創刊号の、渡辺孝吉郎氏(当時、第一園芸生花部)の原稿によると、FDCは、
昭和30年2月に発起人会が開かれ、同年3月に5人の先生の援助により第一回目の講習会を開いた。永島先生の他に、先月号で紹介した宇佐節子先生(当時は井上姓)も関わっている。その後、毎月4回(講義を中心にほぼ毎週)、翌年の昭和31年からは、講義と実習とし第一と第三水曜日午後6時30分からとなった。記録では毎回35名前後が参加している。江尻光一さん(東京農大出身)のほか千葉大園芸学部の生徒や卒業生のほか、花屋さんらも勉強に来ていた。会の中心は江尻さんだったが、毎回いろんな人が参加していて、武田和子さんも面識のない人も多かったという。会報の創刊号では、誠文堂新光社からの著作もある松田一良氏のお名前も発見できた。松田氏は商業空間のインナーガーデンやショーガーデンのパイオニアとして知られ数多くの仕事をされた。さらに驚いたのは、永島さんの子ども時代のことが書かれた小文だ。そこには、父親が長野県で初の製糸事業の創業メンバーとして深く関わっていたということが書かれていた。永島さんは真田の本拠があった松代町の生まれだから、国内初の民間蒸気製糸工場「六工社」(明治6年創業)だと思われる。まさに永島さんは日本の近代史の一脈を生きた人だった。次号では、もう少しこのあたりのことに触れて、あと2回ほどで永島四郎さんの残した業績についてまとめたい。