横浜植木初代社長、「鈴木卯兵衛」氏は「ウノさん」と称されていた 大正二、三年頃ボイラーの火夫を経験していた松崎直枝氏の回想

 


鈴木卯兵衛 1839-1910


『最新温室園芸 建て方・暖房・栽培』 石井勇義/編 1935年7月 金正堂 から


ルイス・ベーマー(ボーマー) 1843 - 1896


 横浜で一番早いのは明治十年頃に山手の二十八番に、ボーマー商会が五十坪の温室を作った。此商会では種苗を商売にして居たので、当時福車(フクシャ)、天竺葵(ゼラニウム)、ユーチヤリス、ヴバールヂア等が盛んに作られて、眼もさめるばかりに植木会社の水田氏などはよく此所に行っては、何かと名称或はその作り方等種々教わったものであるそうである。而して此人は福羽子爵から「朝日の波」と云う大菊広弁赤覆輪で径六寸もあるものを貰い受けて、米国、英国に送りて万円を儲けたりと林脩已氏が云われた。

 それと前後して山手二百四十番ヂンスデール氏が三十坪の温室を新築した。此方は外ど蘭類が専門であって日本渡来の蘭類の歴史を調査する人があるならば此ヂンスデール氏を除外してはならない。現に新宿御苑の蘭の如きも、二十三年に福羽子爵が欧州旅行から帰られて、此処から求められたと云う事であるし、また現在小石川植物園に残されて居る蘭の内でも、ここから購入したものがあるしまた、ウツボカヅラも確かにここから入れられた歴史が明らかである。

 而して明治十五年には横浜植木会社の鈴木卯兵衛氏(最初の社長で、当時ウノサンと称して初めて植木組と云うのを組織して、後更らに進んで今日の株式会社に進歩発展し、今日の植木会社の基礎は全く此人の力で築かれたものである)が、三間に十二間の三十六坪の温室を作られて、東西に長く東側にボイラー室を作り仕事場兼用として、ボイラーはヒッチング会社のカブト型ををしたものであったが、此ものは後年植木会社が組織せられてから会社の方に購入せられて、その後大正十二年迄約四十年も使用せられて居たそうであるが、自分が同会社に働いて火夫の役目にも従ったのは、大正二、三年だから、ボイラーは筆者自身にも手にかけた事があるなつかしいものであったのである。

(中略)

 二十四年に横浜山手四十四番ジェムス氏(キリンビール社長)邸に二十坪のものが出来上った。このジェムス氏が日本に初めてカクタスダリアを輸入して開花せしめたのを、各人皆競って此れが入手を希望したが頑としてその需(もと)めに応じないので、遂に出入の職人か何かが糞いまいましい野郎だとばかり、その芽を何時の間にか失敬して、それを今度は植木会社(横浜植木)で買人れて会社は反ってそれが為めに大儲をしたと云う話である。此温室もその後レーダー氏が引継ぎ増築して蘭を作って居ったが此れも震災の為めに失われてしまった。

(以下略)


※『横浜植木株式会社百年史』1993 によると、鈴木卯兵衛氏の植木屋は久良岐郡中村21番地にあり、また『日本園芸界のパイオニアたち」椎野昌宏2017には屋号は「山手中村小花園」とある(出典資料不明)。ここの温室が横浜植木が会社となるときに購入されたということである。

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