帝国愛蘭会の有名人、神木氏(銀行家)とお定さんの熱心さ 伊集院氏の回想
『実際園芸』第18巻第3号 1935年3月号
※文中に出てくる神木氏については、横浜植木の資料(元社員による座談会)によると、
神木氏とは、「神木治三郎という方、神木銀行の頭取をなすった方が会社で一番のお得意だった。東京の浅草花川戸に神木銀行というのがあった。ご住居は今の浅草橋駅付近で場所柄2階に温室があった。」
※東上線沿線の情報誌サイトから 神木氏について
https://www.tojoshinbun.com/oi/
明治から今日まで
趣味園芸界の回顧談
帝国愛蘭会会員 伊集院兼知
前号に於ては、私の記憶に残っている、明治三十年前後に於ける我国の趣味園芸家のお話しをしたが、次に更に進んで私が実際に見た当時の園芸家の話しをして見たいと思うが、先づ横浜方面からその話しを進めて見よう。
◇ 横浜に於ける園芸家
横浜で先づ思い出すのは二十八番のボーマ商会である。横浜の地蔵坂を登り切って、直ぐに左の方へ方へとだらだら坂を降りて行くと、約一町位して右側に、二十八番のボーマの店があった。ボーマ氏は独逸人で、我国から百合球根とかその他日本産の園芸植物を盛んに輸出して居り、同時に外国から蘭であるとか、或はその他の園芸植物を輸入し販売して居られたのである。此処は坂の途中であって、右側に南向の山があり、急傾斜地ではあるが、温室を建てる場所としては非常に適した所だと私は思った。階段を上るように進んで行くと門があり事務所がある。門を入って左側の段道を上って行くと左側に温室があった。此の温室は地面を約一丈も掘り下げて建てられたものであり、大きさは三坪位であったと覚えている。これは冬期の保温とか或は地勢の関係で、こうした建築をされたものであろうと思う。此の室(へや)には主として羊歯類が入れてあり、多少の蘭科植物も在った様である。
この温室を出て更に上に登ると、別棟の温室がある。此の温室は細長く途中で屈曲して居た様である。西洋草花が主として栽培されて居り、その外種々の木物もあった。余り大きい温室ではなかったが、グロキシニア、プリムラ類、シネラリア等も作られていた様である。此処を出て最初の所に戻り、今度は真っ直ぐに行くと大温室がある。確かなことは分らないが五十坪もあっただろう。此の温室が現在横浜植木会社にあり、植替室か何かに使用されている筈である。温室内には種々な熱帯植物があったが、特に蘭が多く集められていた。デンドロビューム・フアメリー、ヴァンダ・サンデリアナ等を私は此処の店から買ったものである。蘭の主なるものは前記のデンドロビューム、エリデス、セロジネ、ファレノプシス、シプリベヂウム・サッコラビウム、ヴァンダ等の各種が、収容されていたのを覚えている。ボーマ商会へは私はその後も度々訪れたが、世界大戦の時に帰国されて仕舞って、今ではその影もないが、その当時の植物を取扱う店としては相当なものであったと思う。なお氏は独逸に帰えられてからも園芸をやって居られるとほのかに聞いている。
2020年のボーマー商会跡地
日当たりのよい宅地として分譲されている
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地蔵坂を登り切った上の直ぐ左にホテルのようなものがあったが、此処にも温室があった。此の温室には大したものがなかったが、一寸した草花類があった。これは外国人の持つ趣味温室ではないかと思う。私は前述のボーマ商会を訪ねる毎に坂の下から見上げて通ったもので、今でも記憶に残っている一つである。
坂の上の道を左へ進んで行くと、左側にフレーザ商会の相当な温室があった。古い温室ではあったが、私の記憶に残っているのはオドントグロサムの或品種であった。長さ五、六尺位の花茎を出して、色彩の面白い花を開いていたし、またカトレア・トリアニー・アルバの大株物が見事に咲いていたのも今なお忘れられない印象である。その他シプリペデユームも相当あったし、ファレノプシスもなかなか見られたもので有った。カトレア・トリアニー・アルバは、かの大震災でなくなってしまったが、それ以前に株分されたものが現在、相馬子爵の所に残っている。それはなかなか見事な花が咲く。
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前号にも一寸述べたが、北方(きたがた)には二、三軒の植木屋があった。桃太郎(※斎藤桃太郎)と云ふのがその中の一軒であって、此処の主人は此処から程遠くないデニスデンと云う外国人の所で、園丁をして居り、止(よ)してからもなお出入していた人であるが、当人はその関係で蘭を集めて商売をしていたのである。私は酒井伯からその話を聞いてよく蘭を買いに行ったものである。
此の植木屋の温室と云うのは至極く粗末なもので、今から考えると話しにならない様なものであった。持っていた蘭は主としてシプリペデューム・インシグネが多く、同種の変種も多少持っていたようである。その他ヴアンダ・トリカラー、セロジネ、・スペシオサ、オンシデューム等もあり、蘭以外に多少の西洋草花も栽培されていたが、此処十数年どうなったか聞いて居らない。
デニスデン氏の温室は、キリン・ビールの附近にあったが、私は桃太郎氏の案内で見物に行った。温室は相当大きく、此処からは新宿御苑に行った蘭が相当ある筈である。此の温室ではヴァンダ・ギガンテアの大きな葉が見事であったのを覚えている。温室は南を受けて鍵の手に作られて居り、大体四十坪位もあったかと思う。殆んど蘭が詰められて居た、特に忘れられないのはシプリペデュームの花が真盛りで、恰も花の土手を見るようで、その美しき印象は今でも忘れられないでいる。
※斎藤桃太郎氏について
大場ラン園 大場良一氏のボーマー商会に関する資料によると、「斎藤桃太郎氏はボーマー商会の温室を担当していた人物で、宮内省の御用をしていた。大正11年80余歳でなくなった」人だそうである。詳細は不明。ここでは、デニスデン氏のところで園丁をしていたことになっている。
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以上述べたように、横浜にはこうした温室があり、いろいろな園芸植物が栽培されていたのであるが、その当時は現在の横浜植木会社では余り蘭を取扱って居らず、漸くポツポツ始めた位のものであり、今なお健在で居られる水田岩次郎氏等は此の頃盛んに蘭に対する研究をされていたのである。
その後椎野氏が(絹布商)蘭の栽培を始められ、三、四十坪位の温宝を建てられた。そして外国から蘭を直接取り寄せて居られたが、当時私がお訪ねした時に驚いたのは、スワン・オーキッド(シクノチス)と云う純白な巨大花であった。此れも記憶に深い一つである。
その後年月の移り変ると同時に、園芸界も変り、現在では横浜植木会社、横浜ガーデン等が横浜に於ける蘭を取扱う代表的なものとなっているのである。
◇ 東京方面に於ける園芸家
東京方面では趣味の園芸家が有ったが、その他商売として蘭を取扱っていた人には、前号で述べた巣鴨の某植木屋(巣鴨橋から半丁位行って左側に入ったところ、此の方は現在は地主になっていられるかと思う)さんがある。此の人は独逸の公使館に出入をしていたが、後に蘭を集めて商売をした。温室は不完全なものであったが、色々な蘭が割合と良く出来ていた。
本郷動坂上には「ばら新」と云う植木屋があったが、此処でも蘭を取扱って居り、シプリペデューム、オンシデューム、ヴァンダ、カトレア、レリア等があったが、何れも非常に高価であったと覚えている。またその南側には美香園と云うのがあって、矢張り蘭を取扱っていたが、持っているものは前者と変りがなく、値段は前のばら新より割合に安かったと思う。此処では蘭ばかりでなく、西洋草花も相当持っていたように記憶している。それから前号に述べた入谷の植宗がある。
※ばら新と美香園は親戚関係(『青いバラ』最相葉月2001)
以上は蘭を商売として取扱っていた人々であるが、次に本問題である趣味栽培家の話しに移ることにしよう。
帝国愛蘭会の発起人としての一人である神木氏がある。氏は吾妻橋の近くの花川戸に住まわれていたが、何分下町のことであるので、地所が狭く庭と云うものがほとんどないので、御自分の住居の屋根を取り去って、その上に板(トタンかと思う)を張り、更にコンクリートの床を造り、その上に温室を建築されたのである。これは氏の熱心なる愛蘭趣味が、かくさせたものであるが、敬服すべき事であろうと思う。温室は二棟あった様に覚えている。そして下の座敷から階段を上って温室に出入することが出来るようになっていた。つまり分り易く云うと、一般の住居の二階が温室となっていたわけである。そして隣室には主として蘭を作って居られたのである、二、三年後かと思うが、蘭の買入れの相談に私の所へ良く来訪されたものである。その後知り合いとなったのである。
神木氏の温室を思い出す時に、忘れることの出来ないのは、此処に働いて居られた女中さんのお定さんである。神木氏も非常な熱心家であったことは間違いないが、お定さんの熱心さも忘れることの出来ないものがある。
温室内には種々の蘭科植物があったが、セロジネ、カトレア、ヴァンダ、シプリペデューム(パフィオペディラム)は別として、今なお不思議に思っているのは、あの温室でコチリオダ・ノエヅリアナが非常に見事に咲いていたことである。コチリオダ・ノエヅリアナはスカーレット色の花で、現在のオドンティオダの元である。オドンティオダはオドントグロサムにコチリオダを交配して作出されたものである。しかして前記のコチリオダの真っ赤な花が細い花茎に十四五輪も着いて綺麗に咲いていたのが、今でも記憶に鮮やかで忘れることの出来ぬものである。そして温室の暖房は瓦斯(ガス)を使用されていた。その後氏は動坂の方に移転されたが、此の頃は盛んにファレノプシスを栽培されていた。その後更に団子坂に移転されたが、此の時代が神木氏の盛んな時代であって、温室も六、七十坪位あったと思う。そして温室の蘭は何れも上々な出来栄えであったが、特にシプリペデュームの出来が良かったと思ってゐる。その他デンドロビューム、マスデバリア等種々栽培されていた。氏は非常な熱心家であったことは前述の通りであるが、その一例を云うと、例えばシプリペデュームを植えるのに用いる土を、わざわざ英国から取寄せて、夫れを研究されそれに似た土を東京で発見され、シプリペデュームを非常に良く作られたようなことがある。その土の名はニワサクというのだと話されたのを覚えて居る。
此の頃もお定さんが相変わらず熱心に蘭の栽培に対して手伝いをし、灌水は云うまでもなく、植替から葉拭き、鉢の掃除或はボイラ焚きまで受持って居られたのである。何しろ神木氏の熱心とお定さんの熱心は常に栽培されている蘭の上に見られるのである。つまり葉の生き生きとした艶、株が勢よく繁茂して居る事、或はその他の種々な点に於てそれを感ずることが出来たのである。事実自分達が現在蘭を多少なり栽培しているが、怠けると直ぐ目立って勢が悪くなって来るし、熱心にやればどんどん良く育ち立派な花が咲くことをしばしば経験しているのである。このことは単に蘭に限ったことではなく、何れのものにも当てはまる事であろうと思う。とにかく好きでなければ熟心にやれないと私はつくづく思うのである。所謂お役目的な仕事の仕方では到底満足なものが出来よう筈がないのである。
此のように熱心家であられる神木氏とお定さんが居られたので、此の温室のものは常に良く出来ていたのであろうと思う。エリデス・ローレンシーの花弁の先端が鮮かな紅紫色に染った大輪の花や、或はソフロニティス・グランヂフロラの大輪花の群落、将又(はたまた)二尺位の鉢に一杯に育っていたシュビデューム(※シンビ)・トランシアナム等未だに忘れることの出来ぬものである。その他前にも述べたが、セロヂネ・クリスタタ・アルバの尺二寸のバスケットとか、ソブラリア・マクランサ・アルバの大株等カトレア等と共に何れも上々の出来栄であったし、特にシプリペヂュームは図抜けて良く作られていたのである。であるから冬から春にかけての花盛りの頃には、一鉢に四五輪ずつ咲いた鉢が三百鉢近くも並んでいる有様は、何んとも云えぬ美観であって、当時にあっては、他に余り見ることの出来ない景況であったのである。