玉川温室村に関する新聞記事など

 

1929年01月13日 朝日新聞夕刊

1929年06月29日 読売新聞

1935年02月16日 朝日新聞夕刊

1936年03月22日 朝日新聞

1936年12月25日 朝日新聞夕刊

1937年01月09日 読売新聞夕刊

1937年04月03日 読売新聞夕刊

1939年02月10日 読売新聞

1941年2月20日 読売新聞

1953年03月02日 読売新聞
1954年09月02日 毎日新聞都内中央版

1972年04月05日 朝日新聞

温室村

「大勢には勝てませんよ」。
世田谷区玉堤一ノ一五、間島五郎さん(六九)は、こういい切る。
多摩川沿いの大田、世田谷区にまたがる「温室村」はわが国温室園芸の発祥地として知られ、昭和十二、三年には、三十一戸の農家が延べ四万一千平方メートルの温室を経営していた。バラ、カーネーション、スイートピーなど洋花生産で、都内消費の実に七割を供給していた。
それが、現在はわずか六戸、温室面積三千平方メートル弱。しかも、ほとんどが兼業農家だ。間島さんもアパートを経営している。カーネーションだけは、都内生産の三分の一程度を占めるが、洋花全体では「微々たるもの」という。
ここ十数年来、花の生産地がぐんと広がってしまった。交通事情の変化がそうさせたのだ。加えて、大気は汚染し、日光の照射量が少なくなった。
在来種の生産が他産地でふえると、大輪のカーネーションを導入するなど、対策をたてて独自の地位を保っている。いまでも、地方から指導的立場にある人が時折り見学にくる。だが、いつまでつづくか。
間島さんは「行くところまで行くしかありませんよ」と、さばさばした表情だ。

カーネーション瞳曇りし人の前 哲人









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