フラワーアーティストたちが語る 表現、仕事、経営 『フローリスト』1985年12月号
『フローリスト』1985年12月号
対談
花・感性と美学を語る 刈米義雄、つちやむねよし、萩駿介
つちやむねよし
つちやさん、雑誌、TV、ポスター、CF関係の花アルチザン。「一人前の花屋でなく、一流の花屋になれ」が自論。花はファッションだァーと東奔西走している。東京・六本木「ノンノ」のオーナー
刈米義雄
かりまいさん 魂もゆる大学時代に古流とぶつかり、花の魅力にとりつかれて、原宿に「花塾」を営む。従来の華道にあきたりない人、プロのフローリストが参集するユニークな現代の花アーチスト
萩 駿介
はぎさん 広告代理店のコピーライターから脱サラ、竹沢紀久子さんと麻布に最先端をいくフローリスト〈みずぐるま〉を開店。年一回、ロンドンで花のパフォーマンスを行う。フローリスト業界の論客。
本誌 萩さんは脱サラしてフローリストになったのですか。
萩 一五年ほど前からですか、私はものすごい花屋オンチで、オープンしてから仕入れ一年、生けたのも一年、あとはロンドンでパフォーマンスやる程度で、日本国内で花いじったことない。
この十数年間、花屋に対してものすごい酷薄な目でみているんです。というのは、業界全体が、これからどういうパイづくりをし、それに参入していくかということ。
もうひとつ。花売り業がやれ三千億、五千億とかいわれているけど。これも重なった数字なわけ。実際に三千億円のうち、何分の一が本当のGNPなのかわかっていない業界だと…。 例をあげれば、仕事花です。葬式がでますと、Aで受け、そこで受け切れないのをB、CDEと回していっちゃう。それがそれぞれ売り上げ計上されていくんです。だから、一〇〇万のものが、実際のGNPとしては三〇〇万とか五〇〇万になるというマジックが沢山あるわけ。実際にはそんな売上げないんじゃないかと思っているんです。
花屋として、うちの店では、ほとんどギフト、それから、生け込みというのは、ほんの一、二点しかないんです。というのは、こっちがうるさいんで、ほとんどクビになっちゃうんです。
刈米 うるさいというのは、どういうこと…。
萩 うちのパターンというものがないんです。お客さんの生活の場を知らない限り、花なんて生けられないはずなんです。それがうちのテーマになっている。 どうしてかといえば、刈米さん、土屋さんとちがって、うちはアーチストは竹沢を除いては一人もいない、しかも竹沢は店に立っていない。正直いって、私ができるのは演出でしかない。
技能では花をいけることができない
本誌 プロモーターやりたいわけですか…。先程、仕事がぼしゃるというのは…。
萩 クライアントの店のコンセプト理解なんです。そのお店の経営者の考え方というものを一番先につかみたいわけ。 フラワーデザイナーといっしょにいき打ち合わせする。そして企画書をだす。少なくとも年間やっていかないと、いいものができない…。OKがでて、当方としてはあくまで理解していただいたと思ってやっていると、そこでトラブルが起きるわけ。 なぜかというと。向うは、たかが花屋風情のくせに、エラそうなこというな…。コンセプトなんてわかるわけないと…。
土屋 ぼくが思うのは一般の花屋の体質以前の、花を習う人間のポリシーだとか、コンセプトだとか、情熱の不足が原因だと思うんです。
フラワーデザイン習えば、だれでも一人前になっちゃう。だけども、世の中が求めているのは、一流の人間なんですよ。一人前というのは、要するに年季だから、職人芸みたいなもんじゃないですか…。
萩 そこでタレントというのがでてくる…。それが社会の時流にぴったり合った場合、初めてそこでパフォーマンスアーチストの価値がでてくる。これは絶対に必要なことですよ。 フローリストというのは、あくまでも職人と私はとらえるわけです。つまり、アルチザンであって、アーチストではないと…。パフォーマンスアーチストはそういう技術は絶対に必要なんです。
土屋 それはわかる。
萩 絶対必要で、最低条件なんです。その世の中なり、ニーズなりをみて、どういう切り口をみつけたか、ということによって職人の親方になるか、アーチストになるか。そこの違いというのはすごく大きい。で、いわしてもらうと、労働省が技術屋さんに対して、技術認定をするという(最低何年の経験があるかという規定について)あの試験のやり方は、欧米にあるような職人のギルドとはまったくちがうわけ。 何年やったって、花の水揚げは一日でマスターできるわけ、頭で考えれば…。
うちに就職にくるのに何級認定とか、いろんな資格もってくるけど…。形つくるのは確かにうまいんですけど…。
刈米 ぼくにいわせると形もできないというのがありません?
萩 あります。つまり、花を知らないんです。基本的に…。
土屋 ぼくは、お花の生け方とか形とか何も知る必要もなければ、いらないと思うわけ。
刈米 形なんか後からできるので充分なのね。形が後で自分の心を打ち、他人を打つんであったら、それが形といえるのであって、初めから形を目指しなさいという意味で修練するのは初歩なわけ。 最後に形になるというのは、心を打つだけの形ができるかできないのか…ということ。
萩 刈米さんこの話は、ものすごく厳しいと思う。
本誌 教室などで教える表面上のものなど全否定されるような感じだけれど…。
土屋 自分の内面とか情熱とかで表われる作品というのは、常に自分をうつす鏡だと思う。だから作品に自分が写ってなきゃ本来ウソだと思うけど…。
萩 それはそうでしょ。
土屋 フラワーデザインというのは、三角形、四角形とか基本的な形がみんな同じ…。一億総コピーみたいに感じるんです。 花に対するコンセプトがしっかりしていないんじゃないかと思うんです。それを打ち破るのが情熟だと思うんです。
萩 花を知らないデザイナーと称する人間が多いんですね…。
刈米 いいんじゃない、花を知らなくても。
本誌 刈米さんの所のお弟子さんはどんなココロザシをもっているのかしら…。
刈米 二〇年近くやってきているけれど、お見えになる方々はものすごく熱気がある。花症候群とでもいうのかな…。街をみていても、テクニックは上がっている なと…。前から比べればね。
ただ、作品とか、アーチストの何というか、それをかけての意味じゃなくて、目に毒でなく心地よいというのは、かなり上がってきているわけ。
さっきの土屋さんの話だけれど、一定の力量まで達しているけれども、一流を望んでいながら、その突破口が見出せないという人もいるわけ。少なくともぼくの方が少しでも上だとすると、どこを突いたら抜けでるかということがわかるわけね。それをお教えしている。
反対にお花を学ぶ人の中には甘さとか。アッション化している憧れとか、表面的に何年ぐらいすれば自分も仕事がもらえるのかという風潮は困ったもんだという感じは現実にもっていますけれど…。
土屋 今、お花生けている人達だけに要求してはかわいそうだと思う。 でも、花がそういう人達にとって、目先きの対象になり始めた時代になったのはわかる。 花の業界に活発な人材が入っているんじゃないかとぼくは思います。
萩 私もそういう実感ありますね。
刈米 ほかの業界と比べてみてはるかに突出した意識を持った男女が、一生のという言葉をかけて入ってくる度合が昔より、はるかに多いんじゃないかなと思います。
土屋 そういう情熱を持って白紙の状態で入ってくる人達が、一番最初に接するのが、いい色に染まるのだったらいいと思う。 しかし、業界全体の色というのは決していい色じゃないと思う。だから、若くて情熱を持った人達が、その思いを遂げられるようにならない…。プロセスが問題だから、この世界に失望して去っていくみたいなところがあるんですよ。
刈米 ぼくは業界の人でも、花屋でもスタッフでもないからすごく酷なこと、いっちゃうけど、それはそれでいいんじゃない。情熟のままぶつかって、志半ばで破れていくなんて、どこの世界でもある。その障害物を乗り越えた者だけが、ほんとに強い…。障害はあって当たり前。
萩 それは土屋さんもそうじゃないですか。
土屋 ぼくは十何年間ずっと広告の仕事をしてきたわけで、それが十年くらい前から、アシスタントにつきたいという子たちが増えだしたんです。 それは、花屋さんの業界に飽き足らなくて、ぼくらの方に目を向けていると思うんです。だから、花屋さんの業界が、もっと新しい感覚を求めるスタイルになればよいと思う。
萩 現状ではすごく難しいと思うんです よそれは。 ほとんどの花屋は、進む方向が二極化しているんです。ひとつは両光生の生けた花の模倣に走る…。 もう一方は、作品じゃない商品生産。どう商品化するか、花屋の経済ってきびしいから、それがわからないと、花屋として残っていられない…という感じがするんです。 だから、作品で食っていける人達に対しては、ひじょうにジェラシーを感じますね。
自分のコンセプトを持て
土屋 ぽくは自分でアーチストだと思ったことはない。花を生けることはファッションだと思っています。 その時代の流れに自分がくっついていけるかいけないかが、プロのわかれ目だと思う。芸術家じゃなく、花を生けるプロだと自分は思っている。
萩 ということは、作品だとは思ってい ない…。
土屋 あまり思っていない。常に多様なニーズがあって暖かい美しさ、シャープな美しさ、無気味な美しさ、セクシーな美しさ、陰微な笑しさを求められた時、自分のパターンを持たないことなんですよ。ブロフェッショナルというのは…。
萩 そう、パターンをもってはいけないと思う。
土屋 パターンじゃなくて、不変のスタイルを持つのがアーチストだと思うけれど…。
刈米 ちょっと違うんだな、自分の花に刈米義雄のというネーミングがつかない花というのはぼくは許せない。生けていて、これは刈米義雄の花という、他人からみても、自分のスタイルを持ちたいと思う。
土屋 評価というのは、常に他人にゆだねるわけでしょう。
刈米 でも自分の気持の中でそもそもあるわけでしょう。
萩 アイデンティティーの問題でしょう。
刈米 意識だと思う。ぼくは。
土屋 やればやるだけ、どこかで納得しなきゃいけない。満足するんじゃなくて。
刈米 満足こそすべてよ。
土屋 そうかな、自分でやる仕事に、例えば一〇〇仕事をするとしたら、ほとんど満足してだします?
刈米 なるたけ近いように努力する。
土屋 ぼくはいつも満たされない気分で…。
刈米 満たされる満たされないは時の運不運があって、自分でもね、これはとても悲しい出来事で、力量が及ばないっていうことも…。
萩 それ、あると思う。ね、それが作家のエネルギーじゃないかと思う。
土屋 ひとつのフラストレーションがない限り、どんな仕事であれ、納得し、満足し、成し終えて、この仕事は作品自体も充分自信持てるしみたいな意識で常に新しいことができるかというと、無理だと思うぼくは。 自分の仕事はファッションだと、常に時代があって、そのニーズに応えられるように自分を磨くしかない…。せめて生活を広くしようと、自分の専門を深くしようというのが、自分の花を生けるためのコンセブトなんですよ。
刈米 自分の花をファッションだと思おうとすることが実際のフラストレーション…。現実に自分とかかわりなく流動していく世の中と、自分がファッションでありたい、なりたいという意識の相克が、強くでてくるわけよね。それによってでてくるフラストレーションじゃありませんか。花云々よりも、違う?。
花というのは、生ける人の各々でいいのよ。ファッションというのは、その各各とは全くかかわりなく、時代がそこのところを通過していくときに生じる現象なわけ。
もちろん、それに乗りたい人もいるし、うまくそれをクリエイトして先頭に立つ人もいるだろうけど。でもそんなものに関係なく、個人のマイナーな花をシコシコやっている人だっているんじゃないかと思うけど…。
土屋 その話は否定しませんけれど、ぼくらはギャラもらって仕事するわけ。お金を得るということは、常に評価を受けきゃいけない立場にあるわけです。
萩 ということと、社会ニーズを満足させるということがありますね。
土屋 すごいお金もらうんだから、自己満足しないで、他人に評価をゆだねるべきだと思う。それが、もういいよという時代がきたら、潔よく見切りをつけたいと思う。本誌 依頼された仕事でもやりたくないと思うことありますか。
土屋 ほとんど全部プレゼンテーションがある訳だから、その時点で判断します。
どうしてもこれは自分のスタイルじゃないという時は、花を生ける人はほかにいっぱいいるんだから。刈米さん向きなら、ぼくは刈米さんに依頼しなさいというでしょうね。二、三の人を除いて、お花の表現が似ちゃっているんです。刈米さんが先程いわれた、刈米義雄というネーミングの花がなさすぎるんです。
本誌 没個性的になってるわけ?。フラワーデザインスクールで習った、そのままの…。
土屋 フラワーデザインスクールの花が流行すれば、一億それに行っちゃう。刈米流があればそっちへいっちゃう。〈みずぐるま〉風アレンジが流行れば、みんな右へならえ…。自分自身のコンセプトを持っていないんじゃないか。
萩 今、いったような個性ある人は十指に満たないと思う。
つぎにランクされる人達を対象にいうのは、プロセスとして、まだ少し早過ぎると思うけど……。
刈米 プロセスとして、早過ぎるということはないと思う。早くても、遅くても、でる人はでちゃうんです。
萩 底辺が末広がりなのかも知れないけれど、そのピラミッドが正角形でなく、底辺の長い頂点だけが突出しているようなオッパイ形の形でしかない。
だから、ここの頂点にいる土屋さんに仕事が入ると…オレ向きじゃないと判断する。その読み取りができるのは、頂点にいる人が十指いないということなんです。
土屋 そう、読み取りができるのは、人数は少ないですね。
萩 困ったことにね。広告代理店から依頼がくるとね、受けた人が、これなら刈米スタイル、あれなら土屋スタイルでいこうという花屋が多過ぎるんですよ。
それに、ちょっと見のよい花屋に飛び込む代理店があるのも事実なんだけれども…
刈米 でもさ、ちょっと見によい花屋って、何かあるよ。やっぱり。
本誌 みる目が確かなんでしょ。
萩 そうですよ。
土屋 刈米さんの素敵な店とぽくのいう素敵な店とはちがうと思うんだけど…。
萩 うん、花を握った人とそうでない人では素敵さがちがう。
刈米 ぼく割合とミーハーだよ。
土屋 ぼくも同じ感じがする。今ね、勉強してるなっていう花屋さんが多くなってきた。
萩 そう、そんな店が増えてきているのは事実ですね。
ただ、花屋くらい店舗使いの下手な店はない。今まで仏花しか作ったことのない花屋が現在流行のカフェバースタイルのものに変身しちゃったのがある。
刈米さんの感度からいったら、その店ダサイ。入らないと思う。
刈米 店ってさ、人間と同じ呼吸しているんだから、開店当時だけが評価の対象になるわけじゃないでしょう。六ヵ月、一年、二年後にいたるまで評価を常に受けるでしょ。
ぼくは、いつ通っててもそこに存在感のある店で…。
萩 それを信用するんですよ。
刈米 ぼくにとっては、心地良げな視線 を、お花が送っているお店というのは当たり外れがないような気がする。
土屋 素敵な花屋って、店の大きさで決まるんじゃなくて、花で決まるんだから…。刈米 その通り、花と売り手ね。ぼくとかかわりあってくれるスタッフの方々、包装紙、リボンなどといって、輸入リボンがあるからといって、とくに偉いわけじゃない。
これは美学の問題で、包むときの手先のニュアンス、心地よいスピード感、会話。人間はフッとこの花屋さんに託してもいいかなって気になるんです。
萩 いや、それが生命です。花屋としては…。
刈米 一番大切なことは、つっけんどんな店員使っていたら、オシマイ。どんな場末の店だって、かわいいお嬢さんが、にっこり、親切な応対してくれたら、そっちへいくというのが購買者の心理と思いませんが…。
本誌 素人とちがって、刈米さんのお花屋さん利用法、好きな店っていうのは?。
売れ筋じゃない花を持っている店が好き
刈米 売れ筋じゃない花を持っている店。こんなもの買ってきちゃって…なんて不満もってるオカミさんのいるようなお店って、魅力的…。
土屋 ぼくも花屋さんに買いに行くことあるよ。市場にいって仕入れするけど…。
もうひとつ、そんなお店でみるのね。いつも思うのは、主役が決まっているのね。アレンジでも、フラワーストッカ-でも。このお店の主役は○○。脇役は△△とか。
刈米 アレンジもそうね。
土屋 ほとんどのお店でさ、主役みたいな花がメインの所でふんぞり返って飾られている。でいつもそれが主役。
光っている脇役をメインに使おうってしているお店が少ないですね。
萩 それやると、儲からないことも、ご存知でしょう。
土屋 確かに現実は無理できませんけれど、ぼく達の仕事はどこかに夢を持っていながら、現実からドロップアウトしたりするみたいな思いがあっていいんじゃない。 ただ単に、今日いくら売れた、明日はいくら売れるみたいなスタイルじゃなくて…。
萩 確かにそれは花屋のショップコンセプトが固まっていないからですが、やっぱり、四大花(キク、バラ、カーネーション、洋ラン)扱っていないと売り上げがね…。
土屋 ぼくは、よほどのことがない限り、そういう花は使いません。仕事の中で、バラが沢山とか、ランが沢山入っているというのは、十何年間お花を生けてても一度もない。
だから、自分の感性とか技術以前にお花屋さんのドアを開けて、閉めた時点で、もう自分の作品は九〇%できあがっている。だから、自分が手を加えるのは一〇%あるかないか、すべて材料にかかっている。
刈米 花集めの段階で、だいたい作品というのは決まってしまう。
土屋 さっき、自分の感性とか生活感の中から花を生けなさいというようなこといったけど、材料が、ぼくにとっては一番ウエイトが重い。自分の技術で自分の思い通りに花を動かそうなんて、おそろしいことなんです。自分がたずさわれる部分というのは、ひじょうに少ないんです。
刈米 事前に絵コンテみちゃって、バラはこの位置、蔓はこの位置にと思っていても、現実は絵柄通りではない植物というのがほとんどでね。どれもこれも未知の形熊に満ち満ちているのに、バラだからここに入れる、蔓はここなんて…。悲しいです。 花集めの時点ではほとんど決まるとぼくも思う。
こだわりを持って売る花を選べ
本誌 海外の花屋さんて、どうなんですか。
土屋 日本のお花屋さん、進んでいると思う。世界的なレベルだと思うけれど。
萩 レベルからいうと卜ップだと思うけど、企業からいえばトップじゃないとは思うけど。
刈米 そう、それこそバターン化した花ばっかりおいてあるよね。あれはなんなのだろう。
土屋 それで、日本の下町のお花屋さんスタイルが多い。
刈米 そうですね。
萩 どうしてかというと、とくにアメリカの花屋では、アレンジやってるのがギフト屋。それが、マニュアル化したギフトだから、もう陳腐なバターンなわけ。
刈米 それは、もらいたくない。ぼくはすぐ壊してしまうだろうね。きっと。
萩 基本的には、海外のそういうの、ディストリビューター(※卸業者がやる仕事)なんです。
土屋 ニューヨークの店なんてそう。ハワイアンフラワーだけしか扱ってないとか、だいたい材料として。アンスリウムだけとか、ヘリコニアとか。バナナの葉っぱとか、とにかく、売るものに「こだわり」をもっているんです。
本誌 日本でのこだわりは四大花って感じですが、それは生産者が多いから…。
萩 花屋で、四大花が生きてるというのもそこなんです。基本になっているのは、冠婚葬祭のうちの葬の方というか、それがひじょうに多い。
本誌 多くの場合、キクは市場のプライスリーダーでしょう。
萩 いや、意外とね。パチンコ屋の開店にも使いますから。
花でない業界からものすごい花のアーチストが出る予感
本誌 日本と海外との花の感性のちがいっていうか、そこら辺は……。
刈米 花の様料(※誤植?材料か)さえあれば、ニューヨークのフローリスト達とか、フラワーアーチストと向うで呼ばれているアレンジャー達ぐらいの花を生ける人達は日本にゴマンといると思う。チャンスがあって、あの程度の形にまとめなさい、というんであればぼくはできると思う。
土屋 視点がちがうと思う。ぼくらは常に技術に裏打ちされた感性なわけよ。基本が常にある。
刈米 基本的にこだわる所はありますね。土屋 で、ぼくが向うにいって感じたのは、アーチストなんかみてると、まるっきりの白紙なのね。だから、とんでもないことやっている。
刈米 それが一番こわい。自分達のライバルはそういう所からでてくると思う。
土屋 でも、日本ではそういう土壌がないんだとみている。ほんとに、とんでもない花の使い方とかディスプレイの仕方をするわけ。まるっきりアート。
本誌 さっき、まるっきり白紙といったけど、FTDコンテストでのグランプリは、花に関係がないっていっていいほどの彫刻家とか。西ドイツの。
刈米 あるんだよな。花のテクニックとかを求めている時代よりも、発想そのものが求められる時代だと思うの。
発想ってもの、過去に訓練された人とか、基本を学んだとかそんなの、全然関係ないことなの。
土屋 だから、これからデビューするんだったら、もの凄いセンセーショナルになると思う。
刈米 多分、土屋さんの花も、ぼくの花も、みずぐるまさんのプレゼンテーションの花も、糞くらえというすごい勢いがあるのかも、それ、ぼく見届けたい。
土屋 ほんと新しいブームみたいなものがあるとしたら、俗にいうアーチスチックな発想じゃないかと思うけど…。
本誌 日本では、生け花とか、フラワーデザインとか形にはめるものがあるから伸びない…。
刈米 そうです。
萩 白紙じゃないから困るんです。われわれの中に、流派というものがどこかに入ってきているわけですよ。あるメディアからね。ただし、クライアントという、ここから依頼があったとき。そこでの阻止力はすごいと思う。
刈米 でもね。そんなの一年でくつがえされるよ、スターがでてしまえば。クライアントが営々二〇年も築いてきた発想というものが、一夜で逆転する。その日はきっと近いと思う。花の世界ででも。
本誌 Xデイですね。
刈米 そう、Xデイは近い。ぼく達がやってきたものと、まるで違う人が、でてくるものと思う。
土屋 お花の業界とは違う業界からでてくると思いますね。
皆で花屋を楽しもう
本誌 花屋ってキレイなの!
萩 外見からすれば、キレイでいい商売だといわれる。その反而、思っている程度楽じゃない、美しくもない、本当に、憧れて入ってきた人の気持ちを一八〇度裏切るくらいつらい仕事というのは、皆さんご存知ない。
土屋 ぼくはそう思わない。花を扱う仕事の中で、そんなもの僅か…。気持ちのもち方、情熱のあり方で、みんな楽しんでやっている。
刈米 そうだろうね。ぼくもそう思う。花が好きなら当然の仕事なのだもの…。
土屋 仕事をする辛さよりも、それを打ち消すぐらいの喜びがある職業だと思うのね。ぼくたちの花の世界は。
刈米 そこまでいけばよい。ぼくの所では、花屋づとめ希望の人、仇やおろそかには紹介しない。こわいもんね。
--どうもどうも。