山本晃氏が語る「永島四郎先生」のこと マミ川崎氏との対談 1982年
『フラワーデザインライフ』1982年10月号から
※この対談記事で、マミ川崎氏が生前の永島四郎氏に会ったことがあることがわかった。1963(昭和38)年6月20日に刊行のマミ川崎氏最初の著作『花(フラワー)をデザインする』(当時の価格は250円)のゲラができたときにそれを見せたという。昭和38年9月10日に永島氏は亡くなっているので、38年の前半のことだったのではないかと思われる。場所はホテルオークラだったとここに書かれている。マミ川崎氏は、永島氏から直接花のレッスンを受けるようなことはなかったようだ。あとにもさきにも、そのときが一度きりの対面だったと思われる。永島氏が亡くなられた時、葬儀場所の教会にはたくさんの花が届けられたが、マミ川崎氏も自宅に庭のツタを使ってつくったリースを届けたと述べている。
永島氏や若き江尻光一氏らが中心となって青山市場で勉強会をしていたフラワーデコレーターズクラブ(FDC)は数年間しか行なわれていないがその影響力は大きかった。永島氏は、「弟子」というものを意識して育てようとは考えていなかったが、山本氏はもっとも近くで永島氏の教えをうけた一人である。照明関係が専門だったというが、永島氏は1962年5月のホテルオークラの開業にむけて、先に営業をしていた福岡の帝国ホテル内に入っている花屋さんに出向させて業務全般を学ばせている。山本氏は第一園芸でホテルオークラ内の花装飾を行なう仕事をチーフとして長く担い、のちにテクノ・ホルティ園芸専門学校で講師を務めた。
対談
山本晃氏とマミ川崎氏
第一園芸チーフデザイナー
きびしかった永島先生
●心の恩師
マミ
私の心の恩師である永島四郎先生のことをうかがわせてください。
山本
長い間、教えを受けたのではないのですが、私の知る限りの永島先生のことをお話いたします。
マミ
何かグループをおつくりになって指導なさっていたと聞いておりますが。
山本
フラワーデコレーターズクラブと呼んでいました。
マミ
外部の方にも声をかけて積極的に人集めをするというのではなかったようですが、永島先生の身近かにいらっしゃった有志の方だけにご指導なさっていたんですか?
山本
おそらくそうだったと思います。私も先生のおすすめで途中から入ったようなものですので。
マミ
第一園芸の中で行われていたのですか?
山本
その当時、青山生花市場が第一園芸の裏の方につながってありまして、夜そこを借りてやっていたんです。
マミ
そうしますと黒板、机があってという教室ではなかったわけですね。
山本
昼間セリ台に使っていた所を机にしまして、花を並べていろいろ作って見せてくれたんです。
マミ
永島先生が亡くなられてからそのフラワーデコレーターズクラブの存在を知りましたの。山本さんはいつその会にお入りになられたのですか?
山本
昭和32年(1957年)です。永島先生が亡くなられたのが昭和38年(1963年)です。
マミ
そうしますと約6年間教えを受けられたわけですね。最初に“私の心の恩師”と申しましたのは、生前に1度だけですけれどお目にかかったことがありますの。それは、私が初めて本を出すことになりまして(昭和38年、主婦と生活社から「花をデザインする」を出版)その本のゲラ刷りを見ていただくために、ホテルオークラに行って、こんな感じですがよろしいでしょうかとうかがいましたら、“とって良い本になりそうですね。あなたのように若い女の方がフラワーデザインをなさるのは楽しみです”とおっしゃってくださいましたのよ。
山本
ホテルオークラに第一園芸の店がオープンしたのが昭和37年ですので、ちょうどオープン間もない頃でしょうね。
マミ
“頑張ってください”と激励されましたの。これが最初で最後でしたの。その後はご本を参考にさせていただいて、ずいぶん教えていただきました。
山本
私は昭和29年だと思いますがある本で“装飾としてのらん花”という永島先生のお書きになったのを読んだのがきっかけですから大変に影響を受けた方なのです。
マミ
先生が亡くなられた時に、庭のツタを使ってデザインしたリースを捧げましたのをよく覚えていますわ。
『洋ランー作り方の手引』1959 誠文堂新光社 (園芸手帖) ※1954年より後に出た記事 永島四郎
●古さを感じさせない
マミ
永島先生はきびしい方でしたの?
山本
表面よりは内実がきびしい方だったと思います。
マミ
たとえばどんなこと?
山本
常にご自身がパイオニアであったので、問題が持ち上がっても自分で解決なさる。あれがないから、これがないからできないとはおっしゃらなかった。ですから花卉装飾をしたいのですがと相談に行くと、なぜあんなことを聞きにくる、やりたかったらどんどん自分でしていけばいいのに、などとよく言ってました。
マミ
永島先生が初めてアメリカで花卉装飾の指導を受けたのはいつごろですか。
山本
大正11年(1923年)です。
マミ
ロスアンゼルスのお花屋さんでしたかしら。
山本
サンフランシスコのペリカノ・ローシイという花屋でした。
マミ
その当時の日本では思いもよらない花の扱い方でしたでしょうね。
山本
アメリカのをそのまま日本に持ってくるのではなくて、習慣がちがうので、自己ナイズしたものを発表していたようです。
マミ
本で拝見していましても古くないですね。今、見ても。コロニアルのボケーでも花冠を切らないでナチュラルスタイル(自然を茎を生かして束ねたボケー)ですね。私達は今、ナチュラルスタイルの方が花が長もちするし日本人の感覚に合いますよと言っているんです。
山本
その後先生は昭和8年(1933年)に銀座に「婦人公論花の店」を開いて、アメリカで得た知識に日本の民芸品、古くからある花材を使って日本の花を表現しようとなさいました。リボンとかバスケットも日本の技術を使って改良することに苦労なさいました。(※正しくは昭和10年開店)
マミ
あの何といいましたっけ、バスケットを作る方?
山本
深見さんですか?
(※西神田の大沼商店とともに竹製品の製造卸で有名な深見商店。竹製品、かごの専門店で現在もいけばな作家や花店からなくてはならないお店として頼られている。当時から住所は港区南青山2-13-14で今も同じ場所にある第一園芸本店からはすぐの場所だった。大沼商店は現在はありません)
マミ
そう、そう、その方。ご苦労なさったでしょうね。ああでもない、こうでもないと注文が多くて。
山本
今でもご健在ですよ。
マミ
「新しい日本の花卉装飾」が2冊目のご本で、完成前に亡くなられましたんでしょう。
山本
ほとんど完成していまして、写真の編集などを私がすこし手がけた程度です。
マミ
永島先生の精神というか、基礎は今も第一園芸さんに残っていますか。
山本
残っている面もあります。
マミ
どんな所に?
山本
花の扱い方、花に対する考え方、これは一種の精神訓話だと言ってましたが、抽象的な面ですが、具体的には色の組み合わせ方なので、たとえば赤と黄色は組み合わせないようにして、できるだけ淡い色の組み合わせをするように心がけているというようなところでしょうか。
マミ
造花でシルクフラワーというのかしらすごく流行していますが、山本さん個人としてはどうお考えですか。
山本
なまの花を持ち込めないようなディスプレイの時などはかまわないと思いますが、色の取り合わせに注意したいですね。
マミ
ドライフラワーは?
山本
自然に近い色ならばいいのではないですか。
マミ
そのへんは永島先生の影響がしっかり残っていますね。今年の夏アメリカに行ってとっても驚いたことですが、中流のかなりの家でもシルクフラワーでデザインしたものばかりですのよ。なまの花を飾ることがとてもすくないようです。
山本
永島先生がご覧になったらびっくりするでしょうね。
マミ
永島先生の前にも多くの方がたが苦労して日本に紹介した花卉装飾も70~80年の歴史があるのにまだあまりよく知られていないことに対して今の世代の私としては(※責任を)感じますの。定着するのにはまだまだかなりの時間がかかると思います。山本さん協力して定着させましょうね。これからもどうぞよろしく。
●永島四郎氏 日本のフラワーデザインのパイオニア。著書に「花のデザイン」「新しい日本の花卉装飾」がある。1963年9月逝去。