昭和10年、東京の広尾(羽澤)に「種芸園」(市民農園)できる 大阪に次ぐクラインガルテン設備の始まりとなった
『実際園芸』第20巻第1号 昭和11(1936)年1月号
※大阪での取り組みに次いで、昭和10年に、東京でもクラインガルテン式の市民農園が解説された。場所は羽澤という地区で現在の広尾駅からすぐの場所にあった。
※明治以後、洋風のものが人気となったが、その後、日本風の巻き返し、再評価が起きている。ことに日本庭園は小面積の敷地において大きな効果を発揮するので、公私問わず、あらゆる場所で日本庭園風の手法が人気となっている。
※昭和の初めの経済恐慌を背景に花業界でも生産者、販売者ともに産業組合が結成された。そのうちの大日本花卉連盟では公園における「催物の舞台面に大規模な花卉装飾を施し」たりするなど、ソーシャルな活動に力を入れていることが記されている。
日本庭園趣味の勃興
林学博士・内務技師・帝大講師 田村 剛
明治初年と大正の初め頃との二回にわたって洋風趣味、文化が日本に紹介されたが、それは日本の一般の文化の傾向とも一致しているような点がある。即ち、洋服、洋食、洋館等の如く非常に強固な基礎を日本趣味の上に築き上げたものもあるが、只庭園だけはそれと平行して日本人の庭園趣味に大きな変化を生ぜしめるような事はなかった。そしてそればかりでなく昭和時代に入って却って日本庭園趣味が著しく勃興する気運さえ見え始めたのである。その理由はどうかと云うに、元来庭園は他のものと異って、どちらかと云えば実用よりも趣味に重きを置いて築造されるものであって、そのため洋風庭園の持つ色々の長所が日本人にぱそれ程有難く感ぜられないからである。特に日本人の長い生活上の習慣等が日本庭園に大なる愛着を持たせたのである。殊に又最近の我々の庭園はそんなに広い地所を持つものがなくなり、時としては数坪の小さな内庭、広くとも数十坪数百坪であって、そこには洋風庭園の広々とした芝生、花壇等を作る余裕がない。小さな地積を殊に日当りの悪いところまで利用し。庭を作るとすれば、日本庭園の方がピッタリと来る。こういうような事が日本庭園に好都合な条件であって、日本庭園趣味の勃興の一因と考へられる。
今一つ最近欧米の造園家が一斉に日本庭園に注意を向け、そのため昨年の如き米国のガーデンクラブの見学団がやって来る。そんな事からして今更らながら、日本人が日本庭園を見直して、その価値を評価するような真面目な考えに立戻った観がある。かくて日本庭園に対し、日本人が相当の自尊心を以て世界に誇るに足ると云う感を持つに至った。これも日本庭園趣味の勃興の一原因であると思う。
然しながら我々専門家として振りかえって見て、明治以後日本庭園がどれだけ発達したかと云う事に就いて考えて見る時に、自責の念に堪えないものがあるが、兎に角住宅なり、庭園以外のものに対する趣味、生活様式の変った今日、その新生活を盛るに足る容器をどんなにして、日本庭園趣味で仕上げるかが今日の日本造園界に負わされた大なる重みであるが、これは漸らく課するに時を以てしなければ、一朝一夕に新しい大きな創案を出せるものではないと思う。
東京市がやっている園芸施設
東京市保健局公園課長 井下 清
明治時代に欧州の趣味文化が日本に入って来て、殊に装飾的園芸は長足の発達をした。そして明治中期には家庭に小温室を作り、花卉を置く事が紳士としての趣味、たしなみとなり、岩崎、三井、大隈、酒井家は余りにも有名であるが、その他に著名なところでなくとも、大小共に同じ傾向があった。次いで蘭の栽培が始まり、極めて少数ではあるが、羊歯の栽培等の渋いところまで来て、かくて英仏の紳士の家庭を思わせる迄になった。
かくの如く園芸全盛時代でも東京市から見れば、大した施設もなく、明治三十六年始めて日比谷公園が出来、日本最初の欧風公園として、洋風花壇とか大温室の設立が叫ばれる様になった。幸にも公会堂の敷地が日比谷見付外(みつけがい)に設けられてあったので、それを洋風庭圍にする事にして花壇を約千坪作ったのである。花壇の設計は福羽逸人博士の指導の下に出来たのであるが、実地の方面は当時日比谷公園の監督であった白石信栄氏の努力であって、氏は新宿御苑の練習生として通って、花壇に関する短期指導を受けて作った訳で、全く材料その他一切は新宿御苑に負うところが多かったのである。
かくて作られた欧風花壇は市民の人気を最も受けた。それは上流社会では紳士のたしなみとして自家に小温室とか、小花壇を設けていたのであるが、一般社会は花に接する機会がなかったからで、その当時の雑踏振りは実にすばらしいもので、そのために設計を変えて交通路を直す等して、雑踏を緩和した位であった。
次いで新宿御苑の指導の下に菊を作った。当時は中菊全盛時代であったので、一時日比谷公園でも中菊の千輪咲を二十株も仕立て、その他大菊、嵯峨菊、若干の小菊も作ったのである。その後明治三十九年頃から営業政策として菊花大会を催す事になり公園の菊栽培は大馬力を掛ける様になった。
その後欧風趣味が減退し、上流社会の花卉園芸の没落となり、一般大衆もこれに対して冷淡となり、寧ろ庭園的風致に興味を持つ様になり、そして運動、娯楽に熱中する様になった。現在公園の面積は当時の数倍になったにも拘らず、花壇としては当時と大差なく、運動娯楽の設備の方は当時夢想だにしなかった位に発達して来た。それは切花園芸或は大衆花卉が普及したため、公園に求めなくとも、自家の小規模な花檀に依って、或は花屋から数輪を買って来て、テーブルに置くことに依って、自由に花を求め、花に接する機会が多くなったからである。一方公園でも洋風式のものにすれば大面積を必要とするから、寧ろ旧来の日本庭園式のものが好まれるに至り、日本花卉の方が歓迎される様な現状になった。その他特殊な都市園芸としては震災前に街路樹を植えたが、これが統制された街路風景を作った最初でもあって、多くの経費を要するために、一時余り進捗しなかったけれども、その後再び復活すると共に、最近では街路広場に例えば赤坂見附とか黒紋(※黒門町?)の広場の様に花を植える様になって来た。これは広場の増加と共に次第に多くなって行く事と思うが、これが順調に発達すれば、恐らくパリー、ベルリンの都市を彷彿させる事であろう。
それから全く方面の変った園芸としては、昭和十年の春から、羽根澤(※羽澤)に独逸のクライネ・ガルテン式の種芸園と云うものを開設した事である。これは一人当り三十平方米を貸与して、公園で作られている花を見るのでなくして自ら花を作り、それを味わうと云う労作、保護、慰楽のための小規模な種芸園であって、十一月に植物の品評会を行ったが、最初の試みとしては大成功であった。これが将来相当の熱を以って持続するならば、他日面白いものになると思う。
公園では其の他色々の催しを行い、その場合大日本花卉連盟の援助の下に催物の舞台面に大規模な花卉装飾を施しているが、それが又大歓迎を受けている。これは確かに将来大流行して行くものと思う。その他東京市としては名木保存のために大変努力をしているが、これは園芸とは関係がないから、省略する事にする。
『園藝探偵』(2)2017から
広尾駅前の市民分区農園~人々に花と空気と日光を与えよ~
駅前菜園をはじめよう
現在の東京都渋谷区、広尾駅のすぐ近くには、広大な市民農園があった。場所はちょうど、区立広尾中学・高等学校のあるところである。この農園の名前は 「羽澤分区種芸園(はねざわぶんくしゅげいえん)」。一九三五(昭和一〇)年にできた。当時の住所は、東京市渋谷区若木町一二番地。まだ地下鉄はなく、アクセスは、省線恵比寿駅から徒歩一二分。市電なら南町六丁目から徒歩一二分。玉川線では渋谷区役所前停車場から徒歩五分という立地だった。
当時の面積は一万一、六二三平方メートル(三、五〇〇坪)で、そのうち、六〇〇平方メートルを児童遊園とするほかは、すべて種芸園に当てられた。種芸園ぱ、全区域を二〇四に分け、一区画
三〇平方メートルにつき月一円五〇銭、一年一括払いなら一五円であった(白米一〇キログラムが二円五〇銭の時代)※1。
東京の都心に、なぜそのような用地を確保できたのか。土地の変遷を追ってみると、
一、幕末期。牧野家・金森家の邸宅があった。
二、明治維新後。田んぼだった。
三、明治中期。東京市営墓地の候補地。
四、一九〇六(明治三九)年。市営苗圃。
五、一九三二(昭和七)年。付近の住宅が過密となり、公園転用の要望が高まった。
こうして、一九三五年に羽澤公園の分区種芸園ができた。
一九三六(昭和一一)年当時の利用状況は、教育関係(小学校、女学校、幼稚園各校)が、麻布で八校、渋谷で一八校、赤坂で七校となっている。また一般使用者は一二九世帯が利用したようだ。作業は利用者がそれぞれ行うが、農具は貸出しがあり、指導者も配置され、種苗もその場で提供されていた。草取りなども施設側が行った。
利用する学校では、この農園で教材用の植物を作った。都市の子どもたちに、教科書に出てくる草花や野菜の成育する姿を実際に見せるためだった。各校一人ずつの担当が集まって新年度にどの植物がどのくらい必要かを検討し、栽培計画を立てていた。園では授業の三〇分から一時間前に電話をもらえば、必要な教材を学校へと届けていたという。遠足や野外教場、作業の場でもあった。「自分たちの教材は自分たちでつくる」のだ※2。
市民農園のなりたち
一九二〇~三〇年代にかけて、欧州の市民農園が日本でも数多く紹介され、導入の可能性が検討された。
それを受けて最初にできたのが、一九二六(大正一五)年の大阪だ。「自然を都会に引きつけよ、家庭に田園を創造せよ、人々に花と空気と日光を与えよ」という掛け声により、大阪市農会によって湯里農園(住吉区湯ノ里町)、山口農園(東淀川区山口町一崇禅寺馬場)の二つが開設された。その後、農会の解散により大阪市公園課に引き継がれ、一九三四年に城北(しろきた)公園が完成すると、その一角に市民農園が設けられた。
東京では、一九三三(昭和八)年に東京市農会によって板橋区(現練馬区)に大泉市民農園が設けられ、続く一九三五(昭和一〇)年に前述の羽澤分区種芸園が開園した。
各農園の利用状況だが、当時の新聞記事を見る限り、大阪の湯里・山口と、東京の大泉は中心地から遠く、不便だったようだ。城北ができると、湯里・山口の農園は閉鎖された。大阪・城北と東京・羽澤は市民にも認知されていたが、これ以降、市民農園は広がらなかった。
一九三七年に日中戦争がはじまると、農村が疲弊し、全国的な食糧不足が生じた。建設予定地や休耕地、防空緑地などのありとあらゆる空地(空閑地)での作物自給を奨励する国家的な菜園化運動も起こった。ところが、種苗がない。肥料も農薬もない。断水や給水制限に悩まされる。といった状況のなかで、人々は生きるために精一杯の努力をした。
一九四九年頃に食糧難の時代がようやく終わり、空閑地利用は急速に消滅した。城北、練馬、羽澤の三つの農園も戦後、廃止されるのだった。
※1「値段史年表」朝日新聞社 一九八八
※2『公園緑地』第二巻第二号「羽澤分区種芸園に就て」 平田理 一九三八より引用
※『実際園芸』第二〇巻四号 一九三六
※「わが国における市民農園の史的展開とその公共性」工藤豊 二〇〇九
※『家事と衛生』第三巻五号「新しき試み―市民農園」大阪市産業部長 矢柴匡雄 家事衛生研究会 一九二七
※『日産農園』一一月号「羽澤分区種芸園を訪ねて」 一九三九