戦後、国際的なイケバナ人気のなかで発表されたヘリゲル夫人の「生花の道(いけばなのみち、Blumenweg)」 はしがきと第一日目の稽古について
『華道と日本精神(初版は「生花の道」というタイトルだった)』1972年版から
戦前、第一次世界大戦後に敗戦し強烈なインフレになっていたドイツに日本人の学生が大挙して留学している。それは他の国々よりも圧倒的によい暮らしができたからだという(円の価値が高くなっていた)。のちに国内外で活躍する多くの学者や役人、軍人たちがこの時期にドイツで学んでいる。今回紹介するヘリゲル夫人の夫、オイリン・ヘリゲル氏は、こうした関係から日本に招かれ東北帝国大学の講師となって哲学を教えた。日本滞在時に弓道を学んだことをまとめた『弓と禅』は日本の精神文化を紹介する重要な著作、名著として知られる。ヘリゲル夫妻は、戦前にドイツに帰国するが、戦後、夫が亡くなってから日本での経験をまとめたものが『生花の道(再版時に「華道と日本精神」と改題)』である。単に華道の一般的な解説ではなく、いけばなの背景にある日本精神、日本文化について深くみつめた内容になっており、『弓と禅』のいけばな版と言ってもいい。
日本の武道や芸道のように「道」がついた活動は、禅の精神が根底にあり、文字やことばではなく、長い修練を経て体得するものであるという考えがある。こうした性質から、結果として未経験者や外国人には非常にわかりにくくなっている。いけばなも同様の部分があった。近代は、こうした説明しがたい精神の部分をばっさりと切り捨てて、植物を用いた「装飾」であるとか「造形活動」としてとらえなおすことによって、いけばなは蘇ったということもいえるだろう。それは逆に見れば、過去に伝えられてきた精神的な部分、思想が見えなくなってしまった、とも言える。そのように考えると、ヘリゲル夫人が外国人の目で見たこと、実際に師匠から教わったことを記録した、この本の価値は、いまあらためて見直しても非常に面白いところがあると思われる。
ヘリゲル夫人のこの著作以前には、明治期のジョサイア・コンドルによる『ザ・フローラル・アート・オブ・ジャパン』があり、この2作は、世界にいけばなを広めた影響力の大きな著作だとされている。また、ふたりとも、花だけでなく、絵を習っていた、というのも興味深い。とくにコンドルの絵は河鍋暁斎に師事しており、たいへんな腕前である。
ここでは、翻訳をした稲富栄次郎氏による解説と、本編の最初の部分を紹介する。
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ヘリゲル夫人と生花 ―訳者序― 稲富栄次郎
グスティ・L・ヘリゲル夫人は一九二四年から同二九年まで、御主人オイゲン・ヘリゲル博士が、東北帝国大学講師として在任中、日本に滞在せられた。その間日本芸道の精神を体得しようとして、ヘリゲル博士が阿波研造範士について弓道に精進せられたことはすでに有名であるが、夫人もまた日本の生花と墨絵とを学ばれ、何れも教授資格の免許をえて帰国せられたのである。
西洋人にとって、西洋のそれと全く異質的な日本芸道の精神を正しく理解し体得することは、まことに骨の折れる仕事である。それは厳密にいうと、生活態度もことごとく日本的に改造しなければできないことである。しかしヘリゲル博士夫妻は、日本滞在中終始並ならぬ熱意と忍耐とをもって、よくこの難関を克服し、日本人以上に日本精神の真髄を体得せられたのであった。そして博士の弓道修練の記録と体験とが名著”弓道における禅”(邦訳”弓と禅”)となって公にせられ、洛陽の紙価を高からしめたことは周知のところである。
これと共に、夫人の生花修業に関する体験の記録も、すでに久しくその出現を要望せられたところであった。それはもしもこの要望がみたされたならば、一は勇ましいますらおの道を通じて、他は優にやさしい花の道を通じて、そしてまた男性の眼と女性の眼とで見られた日本的芸道観には、それぞれ特色があって、関心深いものがあるであろうと考えられたからである。しかし本書の序文において夫人自から述べられたような理由により、その実現は延び延びになっていた。
しかるに一九五五年博士が七十歳にして永眠せられるに及び、終始日本を愛し、日本の思想に傾倒して、その研究の途上に斃れられた博士の遺志をつぐべく、夫人はついに意を決して ″華道と日本精神″を公刊せられたのである。これは今は亡き博士にとって大きな喜びであるのはいうに及ばず、わが国を始め広く世界の読書界、思想界に対しても、多年の渇望を癒やすものとして慶賀にたえないところである。果せるかな本書が一度表われると、逸早くフランス語、英語などに翻訳せられ、”弓と褝” とならんで、読書界に特異の関心を捲き起している。
また著名な新聞や雑誌にして、本書を書評の材料として取上げたものも少くない。こうしてヘリゲル博士夫妻の努力により、日本の禅と花とは、広く有識者の世界的な話題となった感があるのである。
二
さてヘリゲル博士の”弓と褝”が、ただ単に末梢的なスポーツ技術習熟の過程を記述したものでなくて、その背後にある日本精神、とくに禅の精神と対決せられた血みどろの苦闘の記録であることは、同書を繙けば一見して明白なところである。G・L・ヘリゲル夫人の本書もこれと全く同様に、それは決して花を弄ぶ手先の技巧や、その熟達の過程を記録したものではない。日本の華道の背後には、日本人に固有の宇宙観、人生観があり、また宗教観がある。とくにそれは褝の思想と緊密に連関している。ヘリゲル夫人はどのような深い精神的根源を汲みつつ、その具現ともいうべき”形なき形”としての生花の道を修練し、体得せられたのであってその動機と目標とは”技のない技”によって無形の的を射ることに専念したヘリゲル博士と寸毫も異るところはないのである。
さてしからば日本華道の根源をなす宇宙観、世界観とはいかなるものであろうか。夫人の理解するところによれば、宇宙の本体は天・地・人三原理の調和によって象徴されるところの、分つべからざる全一体である。それは渾然たる絶対者、根源者であるから、いわば無にして全であり、全にして無である。そこにはもちろん、形式と内容、実と空などの別はない。いわば永遠の全一的躍動、あるいは万有の根源的動態であるが、また見方をかえるとそれは、永劫の静寂であるともいうことができる。日本の華道も要するにこのような宇宙精神の具現に外ならない。ゆえに植物の花と枝とによって生けられた水盤の生花は、そのまま全宇宙の象徴であり、生花の三枝は、とりもなおさず宇宙の根本原理たる天・地・人の象徴に外ならない。生花を修めるものがもしもこの宇宙的根源を忘れるならば、それはただ形ばかりのマンネリズムとなり、宇宙の道、人間の逆としての華道の冒涜以外の何ものでもないのである。
ゆえに先ず生花の師範たるものは、小に花を巧妙に処川するための指先の器用な人であってはならない。彼はまた単に知識や技能を教え授ける人であってもならない。この宇宙の本源を身をもって体得し、それと一体となり、一挙手、一投足ことごとくこの法に従って身を作する人でなければならない。すなわち師匠は自分の生活を通じて教えの意味と働きとを現実化しなければならない。また彼の人間として、芸術家としての生存を通じて、彼の教えに真理の封印をするものでなけれならない。ゆえに花を大切にすることは、人生のすべてを大切にすることであり、華道の極意に達することは、人間を全体として完成することでなければならない。このような境地に達してこそ、真に一代の名人ということができるのである。
したがってこれを学ぶ側から見ても、花を学ぶというのは夢にも手先の技巧に上達することではない。学ぶ我が宇宙の全体、すなわち天・地・人三原理の中に摂収せられてこれと一体になることが先決問題である。すなわちわが心をもって花の心と一体となり、さらにこの花の心をこえて万有の心と一体になるところがなければならない。さらに言いかえると、我が我の殼を脱け出でて植物と宇宙との本質共同体の中に生きることに外ならない。ここに生の最奥義があり、また人間の真の自由があるのである。したがって生花の修業をするというのは、決して人間の有意的努力、ことさらの作為によって花を弄ぶことをいうのではない。人が花を生けるのでなくて、宇宙の根本精神が自ら一瓶の花となって自己を顕現するのである。ゆえに真にこれを学ぶためには、自己を滅却してどの宇宙精神と合体し、その発動するままに身を任せる外はない。すなわち華道修練の極意は絶対無の自覚に基く無作為、無心に存しているのである。
しかるにこれがためには先ず精神を集中し、宇宙の精神と一体となり、その永遠の静けさの中にやすらうことが第一の要件となる。精神の集中とは、我を滅却して宇宙の大精神と合一するの道に外ならない。ゆえにこの内面的集中がないならば、生花はその精神的根源から遊離し、ただ形だけの真似ごととなる。この内面的集中が時熟して、自から外面的な形をとって表現せられるのである。これが真の生花である。ゆえに生花における修練は、ひとえにただ内面的修練の結果にまたねばならない。内面的習熟の成果が自から表れて、宇宙の精神は水盤上に躍動するのである。その境地においては、弓道において”我が弓を射る”のでなくて”それが射る” のであるといわれるように、花が人為を離れて、自から形をとって表われるのである。これを形というならば、正しく”形なき形”であり、技というならば正しく”技のない技〃であるというの外はない。
以上がヘリゲル夫人の理解しようとした日本華道の根本原理であるが、このような立場から、夫人はまたわが国芸道の特色たる型や秘伝、空白などの問題に関しても、まことにうがった解釈を加えている。夫人によれば生花の型 (これは他の芸道においても同様であるが)は、単に我々の生命をその中に嵌入すべき外面的な技巧の枠ではない。むしろそれは宇宙的な原理の象徴であり、生花の内面的な形式である。いうならぱそれはギリシャ人のいわゆるエイドスであり。イデアであるといってもよいであろう。したがってそれは人間の自由な活動を束縛する桎梏ではなくて、むしろこれを通過することによって始めて真の自由と生命とが了得せられるもの、いわば創作への跳躍板である。すなわち自己を形式化し、固定するための外面的な型ではなくて、自己を解放するための本質的形相であるといわねばならない。ゆえにこれを正しい意味に理解すれば、型あっての日本芸道であり、型のない日本の芸道というようなものはありえない。けだしこれは日本芸道における型の解釈としてまことに当をえたものというべきであろう。
次にまたこのような生花の根本精神は、自己の作為をこえた宇宙精神にその根源があるから、我々の分別知や形式的な技巧によってこれを体得しうる性質のものではない。それは我の心と花の心、我の心と宇宙の心とが一体となり、直接身をもって体験すべきものなのである。体験が一切であり、体験なしには何ものでもありえない。ゆえにその教えはいわば書かれざる教えであって、その根本精神はこれを口に出して語り、あるいはこれを文字に記しうる性質のものではない。花の根本精神は絶対に分別知の対象とはならない。弟子をして身をもってこれを体得せしめる以外に伝えようのないものである。ここに必然的に東洋の神秘主義に対して依心伝心という特殊の伝達の方法が表われる所以があるのであってこれは華道の根本精神から見て当然そうあるべきことといわねばならない。
したがって華道の真の精神は、文字や知性によって表現しえないものとして、師匠の心底に生きた体験のまま秘蔵される。それは分別知をこえたもの、技巧の手の届かぬものであるから、弟子が精進の結果自から師匠の境地に達し、師の心をわが心とする以外に了得の道はない。これすなわち日本の芸道に依心伝心と共に、秘伝なるものの存在する所以である。免許とか皆伝とかいうのは、弟子が修業の結果、師匠の境地にまで到達して、その心をもって師匠の心を了得したこと、いいかえると弟子の心と師匠の心とが一体となったことの外面的な表示に外ならないのである。
最後に日本芸道の空白に関してもまた、夫人の理解は、きわめて正鵠をえたものがある。夫人は生花と共に、日本画の修業にも精進しているから、とくにその理解が深いように思われる。すなわち夫人によれば、生花にせよ墨絵にせよ、日本の芸道には必ず描かれざる部分、充されざる部分、すなわち空白が存在するが、それは決して単的の虚無ではない。それはむしろ形に表われた線や色と同様、全体構成の積極的な一要素である。ゆえに全体の中において持つその意味の重要なことは、天・地・人の三原理と毫も異るところがない。それは言い表しえないもの、表現しえないもの、言葉なき沈黙として、かえって一切の言葉と表現とを支えるもの、意味づけるものであって、いわば言説の極致としての沈黙、存在のきわまったものとしての無であるということができる。ゆえに日本芸道の空白は空間の無用の浪費、あるいは放擲であるはおろか、これがなくなれば日本芸道はその生命を失って単なる外面的な形式、あるいは小細工となる外はないのである。
夫人は本書において、この外様々の日本文化の問題に触れているが、その根本的な立場は、以上述べたところによって十分に明白であろう。そしてその中には日本人及び日本の文化を過当に高く評価し、日本の芸道及びその師匠をいささか偶像化したのではないかと思われる節もなくはない。またその論述の中には、理解の不足に基くと思われる点もあれば、それがために用いた資料には不備な点も少くないようである。しかしこれを全体として概観すれば、このような瑕疵にもかかわらず、その解釈は決して的を外れたものとは考えられない。そしてそれが夫人の日本文化に対する深い理解と体験との表われであることは言うまでもないところである。しかもその根本的な立場がヘリゲル博士の弓道に対する理解及び体験の態度と全く一致していることは、両者を併せ読まれるならば自から明白なところであろう。実に博士が弓道を通じて無形の的を射たものとすれば、夫人は華道を通じて無形の形に透徹したものということができるであろう。
三
以上は本書を通じてヘリゲル夫人の日本華道観、あるいは華道哲学の概略を述べたものであるが、翻って考えると、日本は弓道の本場でありながら、ヘリゲル博士ほど深刻に弓道の哲理を究明した人はないと同様に、またヘリゲル夫人ほど真剣に、日本華道の精神と取り組んだ人も少いであろう。とくにその理論的基礎付けに至っては、哲学の国に育ったドイツ人にして始めて可能であると思われる点が多々あるのである。そしてこのことはたしかに我々日本人に対して、深い示唆と反省とをうながさずにはやまないであろう。
というのは、花の国日本では、もちろん古来生花はきわめて盛んである。しかしそれがあまりにも広く民衆に滲透して、いわゆる日常性の中に頽落した結果は、かえって華道の真精神から逸脱し、単に伝統的な花嫁修業の一科目、日本婦人の外面的なアクセサリーに堕落した観があるのである。したがって何々流何々流という流派や家元が末梢的な技術の独占を企図しつつ、おのおの封鎖的に割拠して、全くその真の生命を失ってしまった感さえなくはない。
このような華道のマンネリズム、封鎖的な割拠主義に対しては、戦前からも勿論これが革新の動きはあったが、第二次大戦後民主主義の時代が到来すると共に、とくにその運動が活発となり、日本の華道史に一大転機を画した観がある。すなわちそれは伝統的な形式主義、尚古主義から、奔放な創造主義、革新主義への転換であって、今日の前衛的作品は、ヘリゲル夫人が学ばれた三十年前の華道とは全く隔世の感があり、ある作品においては、本来の生け花というよりは昔と全く似た形もなくなり、むしろ現代シュールレアリズムの彫刻や絵画を連想せしめるものさえあるのである。そして我々はそこに解放された日本人の逞しい創造的意欲と卓越した幻想力とを目撃することができる。戦後の日本生花はまことに世界の一大偉観であるというの外はない。
しかしこのような日本華道の戦後的現実に対しては、全く反省の余地はないものであろうか。文化が飛躍的な発展をとげるために、過去の伝統やマンネリズムを惜しげもなく一擲するの勇気はこれを十分に賞讃しなければならない。そして我々はそこにこそ日本人の若々しい生の躍動をみるのである。しかしまた真の発展のためには、その正しい根源にかえり、これを十分に体得すると共に、その将来に対して正しい洞察を持つこともその必須な要件である。さもなくば手綱をたちきられた奔馬のように、暴走して帰趨する所を知らないであろう。この意味において日本華道の根本精神を把握した本書は、いかなる流派にもせよ、花に志すものの必ず先ず熟読すべき名著であろう。とりわけその論理に透徹したドイツ人的解釈には、我々の大いに学ぶべきものがあるであろう。そしてこのことは、今日が日本華道の一大転換期であるがゆえにこそ、なおさら切実であるといわねばならない。
四
翻って思うに、夫人が日本の華道に関してこのような理解を持つことができたのは、ひとえに師にその人をえたことによるということができるであろう。それは博士の弓における阿波研造範士の場合と同様である。夫人が師事せられた武田朴陽師の人柄や華道師範としての力量声望については、本書中に見る夫人の叙述以外に知る由もない。おそらく師は普く日本の華道界に名をなすといったような人ではなかったであろう。しかし夫人の叙述によって考えるとまことに華道一途に生き抜いた芸人肌の人格者であったことが想像される。私は昨年の夏仙台に武田未亡人を訪れて、ありし日の朴陽師の面影についてたずねたが、それによると氏はもと遠州流に属していたが、後自から本源流という一派を創設して生涯弟子の指導に専念せられたということである。また花の外に絵をよくし、自分で生けた花を写生して二巻の画集を出版せられたことは、ヘリゲル夫人の叙述の中にも見える通りである。何れにしても師が遠州流にあきたらずして本源流という一派を創設したことから考えると、生花の根本精神すなわち本源を忘れずどの精神の確立宣揚をもってその使命とされたものと見て差支えないであろう。ヘリゲル夫人が生花を単なる手先の技巧として修練せずに、常にその根本精神の把握究明に心血を注がれたのは、全くこの朴陽師の本源流の精神に負う所が多大ではないであろうか。
しかし氏の逝去と共にこの本源流もとだえて今日ではもはやこれを継ぐ師匠も弟子もほとんどないということであるが、このことがもし武田師の本源流のみならず、日本華道そのものの本源の枯渇を意味しないならば幸である。なぜならば奔放なる発展飛躍の根底にはこれを支えるものとして常に本源への復帰がなければならないからである。何れにしてもヘリゲル博士には、一代の名範士阿波研造師があり、ヘリゲル夫人には、本源流の創設者武田朴陽師があって、日本芸道の精神は深くまた正しく異国の地に根を卸したといってよいであろう。
最後に私は畏友上田武君と共に、さきには恩師ヘリゲル博士の名著″弓と禅″を翻訳し、今また同君と共に、その文字通りの姉妹篇ともいうべき夫人の”華道と日本精神”を訳出して、若干の感慨なきをえないものである。そして再びここにもはや三十年の昔、仙台においてヘリゲル博士に学んだ当時を想い起さずにはいられない。ヘリゲル博士の学問と人格とについては ″弓と禅″の序文に述べたから、ここにはこれを省略する。しかし夫人については、親しく接触する機会に恵まれなかった私には、多くを語る資格がない。ただ今なお忘れることができないのは、ヘリゲル博士の講義には、夫人も必ず出席して、いつも熱心にこれを傍聴しておられたということである。
博士の講義は大てい仙台ではもう暗くなった最後の時間(四時から五時半まで)であった。しかも常にドイツ語で行われたから、それが障害となって聴講者は余り多くはなかった。いつも精々十人内外であったと記憶する。しかし夫人は雨の日も風の日も、一日も欠かさずこの講義に出席せられた。冬の寒い日など、厚い外套に身を包んで最後列の机でじっと耳を傾けられていた夫人の姿は、今もなお忘れがたい印象として残っている。もちろん夫の講義を妻が傍聴するというのは、外国人としてはとくに珍しいことではないかも分らない。しかし夫人の傍聴はただ単に夫に対する形式的なエチケットやジェスチャーではなかった。その真けんな態度から察すると、夫人は真に博士の思想に共鳴し、毎週出席してその講義を聴くことを、大きな楽しみにしておられたように思われる。
また私は時々博士を官舎に訪問したのであるが、その時はいつも玄関に夫人の手になる生花が飾ってあった。また室には夫人自筆の墨絵もかざってあった。哲学に関する話が一わたりすむと、博士はいつも博士のいわゆる”驚くべき技術”ともいうべき日本弓道の話をされたのであるが、この背後にはいつも夫人の生花と墨絵とが飾られていたのである。博士と夫人とはいわば全く同じ道に志す同志同行の士であった。ゆえに博士の弓に関する深い理解が、夫人の花に対する深い体験と不可分のものであったことはいうまでもない。また逆に夫人の花に対する理解と体験とは、博士の哲学に裏づけられるところが多大であったであろう。博士の弓も夫人の花も、共に日本滞在中における御夫妻の精神的合作であったというの外はないのである。
一九五三年の十月、私はガルミッシュに隠棲中の博士御夫妻を訪うたのであるが、その時博士は、”目下自分の学問的興味の中心は日本の禅である”といわれ、病中にもかかわらず、”すぐに元気になってこれからまた大いにやるのだ”と意気ごんでおられたが、十分にその志をとげずして翌年逝去せられたのであった。博士の生前沈黙を続けられていた夫人が、今日本書を公にせられたのは、おそらく同志同行として幾分でも博士の遺志をつごうとする誠意の表われであり、妻としては亡き博士に対する愛情の表われであったと見るべきではないであろうか。この意味において夫人の本書はもちろん夫人の独創的な独立の著作ではあるが、それと共にいなそれにもまして、博士の名著 ″弓と禅″の精神を拡充し深化して、一層その輝きを大にしたものということもできるであろう。夫人が最近博士の遺稿中から十数篇を選んで″禅の道”(Der ZenWeg)を刊行せられたのもまた同一の趣旨からでたものに外ならないであろう。
昨夏私が仙台で武田朴陽氏の旧宅を訪れたとき、未亡人はヘリゲル夫人の手になる墨絵の掛軸を示されたが、それには筆で次のような讃が記されていた。
Länder, welche die Meere trennen, vereint der Blumenweg.
海原に隔てられたる国々を、一つに結ぶ挿し花の道(筆者訳)
この歌に示されている通り、仙台とガルミッシュと、いな日本とドイツ、或いは東洋と西洋と、海山遠くへだててその道は甚だ遠い。この意味においていつまでも”東は東、西は西”であるともいいうるであろう。しかし優にやさしい花の道は、東西のかけ橋となって、人と人との心を固く結びつけているのである。そしてこの花の道は、ヘリゲル博士の弓の道と同様に、ヘリゲル夫人によって始めて開拓せられたのであった。今は亡き博士も博士が熱愛して死んでいかれた日本と祖国との間に、博士自身の手によって開かれた弓の道の外に、今やさらに今一つ、花の道が開拓せられて、彼我の交流が一層緊密になったことに対し、草葉の蔭でさぞかし満足の笑みをもらしておられることであろう。
附記 本書の初版においては、原語のBlumenwegをそのまま記して「生花の道」としたのであるが再版はこれを「華道と日本精神」と改めた。それは本書の内容が生花という言葉からややもすれば連想し勝ちな、婦女子の手先の技巧ではなくて、終始日本精神の真髄に触れたものであるからである。
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はしがき
もうずっと以前一九三〇年の晩夏、私どもが日本から帰国いたしました時以来 ―それまで六ヵ年私の夫が東北大学で教鞭をとっている間仙台に滞在していましたが― 私は再三日本で広く行われている生花芸術について何か発表するようにという依頼をうけました。長い間私はこれを承諾する決心がつきませんでした。私が躊躇した理由は、何はさておき、この芸術を畏れ敬う心にありました。この心は、積極的な力の泉としての沈黙にも、同じくまた知識とはならない不可思議な世界での体験にもふさわしいものなのであります。”本当のこと”は結局ただ書き換えられるだけで、いい表わすことのできないものでありますから、”生花の道”に言葉の衣をきせようとするのは、つじつまのあわぬ無鉄砲な企てと思われるかも知れないのであります。なおまた私は、生花にはどの文化領域の異国的な、それゆえにこそ魅力のあるものめずらしさがありますので、いま活発になってきたこの道への関心は、恐らく根気よく辛抱してこの教えの本当の深い意味をつきとめたいという願いからおこったものではなくて、むしろ一時的な興味本位の好奇心によってめざまされたのではないかと考えたので私の沈黙の態度はますます強められていきました。
しかしながらその後も相変らず、私のところに度々の依頼がまいりました。そしてそれは、真面目にこの道にたずさわりたいという心を私に認めさせたのであります。そこで私はとうとう決心して、生花の精神についていささかのことを申しのべ、この芸術の本当は言い表わせないもの、不思議なことを、簡単な言葉で捕えようとする試みを企てたのであります。
ところでこの道の伝統の中にそれを全く分りきったこととして暮している人々(*多くの日本人がそうである)は、自分の認識や体験について頭を働かしてあれこれ理由づけをする必要もなければまたその事由(わけ)もないのであります。ですから今までは他の側からこの芸術の深い意味と精神について立入って書こうとする試みはなされなかったのです。この試みの妨げとなった理由はまたどの道について何ごとかを開明してくれそうな少数の古文書が、その表現の仕方や文字の書き方が難しいために、これを解読したり、解釈したりするのが容易でないという点にもあるのですが。
なおまた外国人で、この古い伝統を守っている師匠のところで、長年の間指導をうけ、従って個人的な伝授や、自分自身の経験に基いて、独自の判断を下すことができるような人は殆んど皆無といってもよいでしょう。
ところが私は何年もの修練をつんでこの芸術を習得し一九二九年には武田朴陽師の下で公やけに教授の資格試験に合格したので、僭越ながらこの極めて稀な外国人の一人だと公言することができるのであります。
古来の慣例に従って、私はその際おごそかに、師匠から師匠の紋を白く染め抜いてある黒の羽織を頂戴しました。墨痕あざやかに書かれた免許状の中で、私に”昇月”という芸名が与えられました。私が日本で書いた日記帳を入れておいたトランクが、その後ドイツで戦災(*第二次世界大戦)にあい、一切の家財道具とともに失なわれてしまいました。それで私は何ひとつ証拠とするものもなしに、すべてのことを新しくよみがえらせようと努める次第であります。
教授(*教え授けることの意味)
挨拶
私は日本語ができませんので、どうしても先ず個人教授を受けねばなりませんでしたが、武田朴陽師はこれを快諾して下さいました。そこである日の午後師匠は、英語の上手な大学の付属植物研究所の助手を連れて、私共のところへお茶にお出でになりました。このようにして始められた私宅での個人教授には、私の夫も同席することができましたが、これは特別よろこばしいことでした。時には心理学の教授千葉(* 胤成か)博士や、青野学士もお見えになりました。稽古は私どもの洋間で行われました。日本で普通行われているように、平たい座布団の上に長時間坐っているのでしたら、私どもには可成りの苦しい努力が必要であったことでしょう。
有名な武田朴陽師の風采はというと、丈の高い人で、地味な絹の着物に、両袖に家の紋を染め抜いた普通の短かい羽織を羽織り、手には質素ではあるが印象的な絵を描いた扇を持っていました。いくつかの儀礼的なお辞儀と挨拶の言葉がかわされた後、みんな席につきました。師匠は心のやさしい人で、私どもが長い間低い座布団に坐ることがいらないように、高いテーブルの前に座を占められました。頃合いを見て行儀のよい少年給仕が竹細工に入れた蒸しタオルをもってきました。これで暑い時に顔や手を拭うと大へん気持のよいものであります。つづいて普段用の、大変さっぱりした番茶を、上品な模様の湯呑でいただき、のみなれた煙草の敷島をふかしました。
手始めにこうして一服すると、師匠は淀みなく話を続けました。それは生々として、信念にみちた話し振りで、いろいろ麗わしいことや、心暖たまることが、次々と話されました。おしまいには、いわば錦上花を添えるように、謡の一節を朗々とうたわれましたが、それは全く誰も及ばぬような見事なものでした。というのは師匠はこの方面でも霊感にとんだ達人だったからです。しかし師匠はたんに芸術家としてばかりでなく、社交上においても上品な気風の立派な代表者として有名でありました。師にがとくに重きをおかれたのは、心情や性格の陶冶と、日常生活を清らかにしてつつましやかに営み、しかも正直であることでした。教授の謝礼については師匠は別に立ち入った話はしませんでした。これは年末になって始めて収り決められる習わしですから。謝礼は、もっぱらそのために作られた祝儀袋に紙幣を封じ、特に趣きふかく水引をかけて手渡されます。その額は弟子の財力に応じて、弟子自身が定めるのです。
稽古第一時間
師匠が始めて訪ねてこられてから、二三日たって稽古が始まりました。師匠からは前もって必要な品々が全部私のところへ届けられていました。
それで一束の長い柳の枝が、細長い桶に入れてありました。自然の色そのままの竹筒が、黒い漆塗りの台座に用意されていました。私どもの目には、ちょっと不格好に見えますが、よく切れる花鋏と小さな鋸、これらのものを拭くための縁のついた天竺木綿の手布、こういったものがすべて側においてありました。生け終った木の枝を元気づけるためにふりかける、手桶一杯の水も忘れてはならないものでした。
いよいよ枝を縛っている麻紐を解くのですが、それには鋏をつかいません。またひきちぎったり、切り刻んだり、あわてたり、乱雑になったりしてはいけません。その紐はていねいに指にまいてまるめ、小卓の上に置きます。すべてのことが悠々とした静けさの中に進められます。どの所作も静々と音もなく行われます。ここでもう、本来の仕事に向う精神集中が始まっているのです。
花器の中に立てる枝を支えるために、まげ易い木から三叉が適当に切りとられます。生ける枝の強さに応じて切りとられたこの木(くばりとよばれます)は、花器の中央およそ一、二センチの深さのところに固定されます。
続いて個々ばらばらの枝を、心をしずめてじっと眺めます。ひとつひとつの枝が、その枝振りに応じて愛情をこめて眺められ見きわめられるのです。このようにして師匠の眼前には、やがて組み立てらるべき形像が浮び上ります。そこで始めて枝に念入りに手を触れて、どこかしこそのしなやかさを探って見て、どうすれば、できるだけ枝をいたわりながら苦労も少なく、望み通りの適当な形にその枝を整えることができるかが見出されるのです。このためには、その枝が具体的に主枝のどれを現わすか、どの枝を表にまわし、どの枝を裹にまわすべきかということをよく考えねばなりません。どうすればその枝が一番おとなしくこちらのいうことをきいてくれるかを感じとること、すなわちその枝と内面的な緊張関係には入っていくことが大切であります。枝のしなやかさはそれぞれ異なっています。只これらすべてのことがうまく行った場合にだけ、その枝が、全く無理強いをしたり、生けた後で矯正したりすることなしに、まるでひとりでにそうなったかのように、その形を保つのです。こういう正しい感覚をもつことができて、形を作ることがきわめて微妙な芸術であるという見識を得るまでには、相当な修練が必要でありますが、こういう工合にここかしこで枝にそっと手を触れてゆっくり軽くおさえ、うまい工合に曲げたり、形に合せて短かく切ったりいたします。そのさい植物には少しの苦痛も与えてはいけないといわれていますが、それ程用心深く取り扱われますので、おしまいにはその植物が望み通りの形に耐えるようになるのです。
最初にはただ三本の主枝が立てられますが、これは上中下の三段の枝から成っております。各々の枝の端が互いに三角形を描くようにせねばなりません。三本の枝が正しい仕方で立てられると、それらは、それぞれ違った方向に伸びている一本の枝のような感じを与えます。
花器に水をみたしてから、やや大き目の台の上にのせて、これを部屋の中の静かな、邪魔物のない上等の場所に置きます。ここは日本風の家では床の間でありまして、とくべつにそのために作られてある壁の凹みであります。
次回の課題が与えられてから、後片付をいたしました。これで第一時間目が終りました。もう一度熱い茶をいただき、敷島をふかして別れの挨拶をいたしました。