限界芸術論 鶴見俊輔
作業中
鶴見俊輔 『限界芸術論』1967(昭和42年)から「生花の位置」 について
●日本は男性と女性とで教養の格差(いわば教養の壁)がある。家の中、社会のそこここで、共通の言葉がないためにそれぞれ言葉以外の文化的表現をしている。
●日本舞踊―茶の湯―生花は、殊に女性の間で教養として身につけるべき活動としてのシステムができあがっている。いけばなは、日本舞踊、お茶と共通する女性の文化である。
●この教養は、木と紙でできた小さな家のなかでスムーズに暮らすための所作を身につけるために共通のルールが教えられている。
●この教養は、家と家のむすぶつきである、結婚、嫁入りの基本の条件となっているので、ほとんどの婦人が嫁入り修行として学ぶものである。
●男が中心の社会では女性の結婚はその後の経済的で幸福な生活が出来るかどうかの分かれ道になるので、より有利な条件で嫁入りできることは家族の願いであった。
●外国人からみれば、生花はうるわしい文化活動に見えるが、日本人として内部からみると、さきにあげたようなシステムにのっかって、高額な道具を買わせたり、免状に関する不当な謝礼金を取ったり、家元制度による封建的で家父長的な古い上下関係など、不明な点、改善されるべきところがたくさんある。これらを変えなければ、いけばなを日本の誇りとして海外に自慢することなどできないだろう。
『限界芸術論』 鶴見俊輔 講談社 (1991) ちくま学芸文庫 から
*********************************
生花の位置
彫刻にしろ、油絵にしろ、近くに眼をよせて見るとあらっぽい生地で美しくないのに、はなれて遠くから見ると美しく見える。日本の現代生活についても、その中に住んでいる私たちが見ると、みにくいものが多く見えるのだが、海をへだてて遠くから観察するものには、あんがい美しいものに見えるらしい。リ、チ、ブランデン、シュムペ、タ、、ダウトなど、その誠意をうたがうことのできない人が、現代日本文化について好意的な証言をしてくれている。日本の中にいて、日本文化の悪口ばかりいっている私たちは、考え直すべきであろうか。
占領軍の兵隊の奥さんの中には、日本舞踊をならいにくる人もいるし、お茶をならいにくる人もいる。許しをもらってアメリカで生花の先生をしている人も、わずか数年のあいだに、たくさんできたということだ。
日本舞踊―お茶―生花。それら、外国人が賞めてくれるものには、何かひとすじ共通のものがとおっている。そして、そのひとすじのものは、賞めている外国人には見えないで私たちだけに見える。
そのひとすじのものは、日本の社会に住みついて、自分たちの現在のくらしの中で日本舞踊―お茶―生花が、どんなはたらきをしているかを考えてみないと分らない。私たちのもつ遺産の中には、他にも興味あるものが多い。柔道―剣道などが体のたんれんの方法としての位置に満足せずに精神主義とむすびつき、やがて軍国主義とむすびついてゆき、いまもそんな関係をたっていないこと。歌舞伎や日本音楽が花柳界とそのお客を相手として成りたっており、芸者あそびという形での男女交際のありかたと固く結びついて互いにささえあっていること。俳句や和歌が日本人の無思想性をむしろ賞讃すべきものと考えさせてきたこと。これらのことには、今ここではふれないこととし、日本舞踊-茶の湯-生花についてだけ考えてみよう。
日本舞踊ー茶の湯―生花は、日本の男の生活とは、深い関係がない。男の人の場合これらと深い関係を持つのは、金と時間のゆとりのある者に限られている。女の人の場合には、これとちがって、(四十五の流派の中の一つの流派である池坊流にぞくするものだけでも全国で五万人いるというくらい)ひろくふかく入っている。
これらが若い女の人たちの嫁入り道具だという考えは今も残っている。日本舞踊はバレエなどとちがって、静かでやさしい動作だけから出来ているが、木と紙でできている小さな日本の家の中で、物にぶつからずにてきぱきと動くために、こういう動作が必要なのだ。外国で育った日本の子供たち、二世たちは、日本の家屋の中に入るとどたばたして、たたみにほこりをたて、老人に顔をしかめられる。舞踊と同じく、茶の湯にしても、生花にしても、木と紙の家の中での作法の体系をあたえるものだ。
舞踊も、茶の湯もそうだが、とくに生花は、無言の芸である。ものを言わぬ木や花を思うままにあしらって、部屋の一隅におく。
そこには、いつどんな時にでも、確実な平和がある。実際には、日本の家では、しゅうと夫婦と若夫婦、夫と妻、親と子、男の子と女の子とのあいだに教養の落差があり、たがいの心をつたえるのに共通の言葉がない。落差をうめるためには言葉をもってすることは望み得ない。そこで欧米の家族ならば言葉によって作るきずなをより多くの儀式化された行動で作ろうとする。今ではその儀式はややくずれているけれど、日本の家は今もなお、徳川時代以前の古風な家庭での行動形式へのあこがれをすてていない。
そういうふうに、一つには木と紙の小さな家の中に住むという貧困のために、またもう一つには、家族のメンバーのあいだに身分的区別があり共通の言葉がないという封建性のために、日本の家は、今もなお、日本舞踊や茶の湯や生花への郷愁をもっている。今ある形での日本の家に入るためには若い女の人たちは、ちょうど同年輩の男の学生たちが会社の就職試験で思想検査をうけるとおなじように、適格検査をうける。「この社をうけるまでに赤い思想に染まっていなかったかね。学生運動をやって、あばれていたのじゃないかね。」これに似た質問を、傾きかかりながらなお倒れずにいる日本の家の番人、全国のしゅうと、しゅうとめさんたちは、日本の若い女の人たちに向けている。家に入るための条件を候補者が満たしているかどうかについてしたしらべがなされる。この時、日本舞踊―茶の湯―生花など「日本趣味」をもつことがきめてになる。茶の湯、生花など習う志のある娘さんは、家の中に入ってもこの家を破壊したりすることはないだろうし、また、家庭生活の退屈に十分にたえてくれるだろう。
資本主義の社会にあっては、(この点ではアメリカもおなじことだが)女の人の結婚は、男の人の就職とおなじく、深刻な経済問題をはらんでいる。そして、アメリカなどの大資本主義国にくらべて、日本の社会では経済状況がさらにひどく行きづまっているため、行きづまりを打ち破る元気のある若い人たちへの警戒心はさらに強くなり、就職・結婚前の若い人にたいしてあたえられる踏み絵の条件は日常生活の隅々に及び、微細にわたるものとなっている。
かつて踏み絵として迫害のためにつかわれたキリスト像でさえも、その利害関係をはなれて博物館で見れば、面白い。しかし、博物館の訪問者にとって味わい深く思われるものも、博物館の番人や雑役婦にとっては別様に思われよう。日本文化の中のさまざまの珍奇なものにたいして、外国人が軽々しく賞讃をあたえてくれるのは、博物館の一時の訪問者としての興味の持ち方に由来する。博物館の中に住む七千万人の私たちは、博物館の訪問者とおなじ視角から日本文化を評価することはできない。
海をへだてて日本文化にあこがれ、日本の古いものについて多くの美しい文章を書いたラフカディオ・ハ、ンは、やがて日本に帰化し、日本人と結婚し、親類づきあいや近所づきあいの中にまきこまれ、日本に住む者として日本文化をまぢかに見るようになってからは、次のように書いた。
「私は、かつて日本人はみな天使であるかのように書いたことを思い出すと、気がくるいそうだ。」
まぢかに見るからといって、生花や茶の湯や日本舞踊が美しくなくなるわけはない。それらは、やはり美しい。
けれども、それらが今ある形のままで、それらをとうとぼうとすれば、どうしても古い日本の生き方にひきとめられがちになり、独立した市民として生きようという意志がすりへらされる。つまり、そこでは、日本趣味を身につけるか、市民としての生き方を身につけるかの、どちらか(*傍点あり)を選ばなければならないのか、二つとも選ぶのが本当ではないか。
ここで、貧困ということを考えてみなければならない。敗戦後の現在、大金持のくらしをしているものは実に少なくなってしまった。多くの人は、とぼしい收入ととぼしい手持時間の大部分を生きるための必要にあてねばならず、衣食住以外のことのためには、わずかのゆとりがのこっているばかりだ。このために、あれかこれかという二者選一に近い選択状況が生まれるのだ。だから西欧的・市民的教養か、日本古来の婦道か、という妙な二股道に立つことになってしまう。現実の例から見ても、『近代小説五十選』をそろえようとしている人、社会科学について何か知りたいと思って岩波文庫を休みの間によんでいる人は、お花のけいこ、お茶のけいこ、おどりのけいこに行かない。おどり、お茶、お花のけいこに行く人は、だんだんに、組合活動の目標を考えることからそらされ、そういう活動をしなくなっていく。
こういう二者選一、あれかこれかのどっちかを選ばなくてはいけないという状況それ自身が、打ちやぶられなくてはいけない。市民らしい考え方を持って人生についても社会問題についても自分の意見と行動とを用意することと、古くから日本人の見出した自然と生活の美しさを理解することが、たがいにさまたげあわないで交渉をもつ方法を工夫しなければならない。
そのためには、生花、茶の湯、その他さまざまの日本的な技法のささえとなっている形而上学(たとえば生花の天地人)が明るみに出され、考え直されることが必要であろう。それら日本的な技芸の社会学がくみたてられ、家元とか流派のあり方が考え直されねばなるまい。それら日本的な技芸の経済学が明らかにされ、家元や道具屋、こっとう屋の搾取的役割について新しく合理的な評価がなさるべきだ。日本的な技芸はすべて、今よりもずっと手軽に安く参加できるようにならなければいけない。こんなふうにしてはじめて、日本の「伝統」は、現代の日本人の生活の中に入って行くことになる。
*********************************
『限界芸術』 鶴見俊輔 講談社 (1976/8/1) 講談社学術文庫 から
*********************************
芸術の発展
一 限界芸術の理念
芸術とは、たのしい記号と言ってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである。もう少しむずかしく言いかえるならば、芸術とは、美的経験を直接的につくり出す記号であると言えよう。ここでさらに、美的経験とは何か、が問題になる。結論から先に言えば、美的経験とは、もっとも広くとれば、直接価値的経験(それじしんにおいて価値のある経験)とおなじひろがりをもつものと考えられる。一つの例をあげて言うと、直接価値的経験とは、労働をとおして食費をかせぐという間接価値的経験の結果えられた「食事をする」という経験である。そうして、あらゆる間接価値的経験が、何らかの直接価値的経験にむかってつがえられているとすれば、同じ意味で、美的価値は、あらゆる間接価値的経験の底に前提としてかくされている。
それにしても、飯を食うという行為は、美的経験だろうか。今までの論法でゆくと、生きるという経験全体が、美的経験によっておおわれてしまうことにならないか。潜在的にはそうだ、と考えてよいと思う。だが、すでにデューイの指摘しているように、毎日の経験の大部分は美的経験としてたかまってゆかない。このために、美的経験としてとくに高まってゆく経験だけを、狭い意味での美的経験と呼ぶことにする。どんな価値的経験もそれが価値的な経験として深く印象づけられ、それじしんとしての一種のまとまりをもっているようなものであれば、美的経験と言える。一本のベルトのように連続しているように見える毎日の経験の流れにたいして、句読点をうつようなしかたで働きかけ、単語の流れの中に独立した一個の文章を構成させるものが、美的経験である。
直接的価値とほとんど同義語のように見えるこの広い意味での美的経験が、もっと狭く美的経験にむかって高まってゆくためには、なおいくつかの条件を必要とする。一つは、プロールの指摘している尺度の問題である。経験は、尺度の成立におうじてはじめて、ゆたかなものとなる。尺度の成立しない領域では経験はめくらのままで終る。食べるという行為が人間にとって重大な価値的経験であるにもかかわらず(さっきのべたようにひろい意味での美的経験ではあるにしても)、狭い意味での美的経験となり得ないのは、味の経験に尺度がないことに由来する。甘さ、辛さ、すっぱさは、尺度をもたぬために精密に登記されることがないし、美的経験として高まってゆくことがない。においの場合も、ほとんどおなじなので、オルダス・ハックスリーが『すてきな新世界』で描いたようなにおいいりの芸術は、現在のままでの人間の構造がかわらぬうちは、成立しにくい。このように、味もにおいも、美的経験の要素ではあっても、それ自身としてまとまりのある美的経験をつくりにくい。触覚をもとにする性的な経験についても、同じことが言える。
美的経験として高まってゆき、まとまりをもつということは、その過程において、その経験をもつ個人の日常的な利害を忘れさせ、日常的な世界の外につれてゆき、休息をあたえる。また、経験の持主の感情が、その鑑賞しつつある対象に移されて対象の中にあるかのように感じられる。サンタヤナの言葉で言えば、「美とはモノの形にかえられた快楽」ということになる。このような性格は、美的経験が日常経験一般と区別される特徴として、それじしんとしての「完結性」だけでなく日常経験からの「脱出性」をもつというふうに言いあらわせる。美的経験は、人間の経験一般の凝集であるとともに、経験一般からの離脱反逆でもあるわけだ。ここに、美的経験が、美的感動をともなわない他の経験とちがって。もっている一種の観念性がある。このゆえにクローチェは、美と直観の同一性を強調し、ランガーは、美的経験には幻影がつきものであることを指摘した。
こうして、ひろい意味での直接価値的経験としてまず美的経験をとらえ、次にいくつかの限定をくわえてみるとしても、依然として、美的経験は、かなりひろい領域をもっている。われわれの毎日のもつ美的経験の大部分は、芸術作品とは無関係にもたれるものと言ってよい。部屋の中を見るとか、町並を見るとか。空を見るとかによって生じる美的経験のほうが、展覧会に行って純枠に芸術作品と呼ばれる絵を見ることで生じる美的経験よりも大きい部分を占める。日本の家の構造ではラジオの流行歌やドラマがひっきりなしに入ってくるから、これらの大衆芸術作品による美的経験はかなり大きい部分を占めるとしても、やはり友人や同僚の声、の人の話などのほうがより大きな美的経験であろう。
これらの美的経験を思うままに自分のものにするためには、芸術よりもはるかにひろいさまざまの手段が必要である。テレビ塔とか、蓄音機とか、それらをもつことのできる資力とか。こういう他の手段と芸術とちがう点は、芸術が、それがつくろうとする美的経験を直接によびさます記号だということである。他の手段がくわわることを待ってはじめて美的経験が実現するというのとちがって、その記号そのものが直接的に(鑑賞者にとっての)美的経験となる。
経験全体の中にとけこむような仕方で美的経験があり、また美的経験の広大な領域の中のほんのわずかな部分として芸術がある。さらにその芸術という領域の中のほんの一部分としていわゆる「芸術」作品がある。いいかえれば、美が経験一般の中に深く根をもっていることと対応して、芸術もまた、生活そのもののなかに深く根をもっている。
「芸術」という言葉は、今わたしたちのつかっている日本語では、日比谷公会堂でコーガンによるベートーヴェンの作品の演奏会というような仕方でとらえられる。つまり、西欧文明の歴史のうえで権威づけられた作品の系列(権威の問題)を、先進国の名人によって複製してもらって(模倣性と受動性の問題)、日本の中心的都市である東京で少数の文化人がきく(地方文化にたいする東京中心文化の問題)、という三重の事柄の系列をふくんでいる。明治・大正・昭和をつらぬくこの「芸術」のとらえかたは、大東亜戦争のまっさい中だけはうしろにしりぞき、その点では非常に健全な考え方が戦中にあったわけだが、戦後には前の習慣がもう一度かえってきて、外貨の実に少ないなかで、海外演奏家にとって日本はもっとも有利な市場となっている。
このような「芸術」のとらえかたに、多くの利点があったことは明らかである。明治以後の百年間における急速な近代化が、感受性そのものの西欧化から出発しようとしたことは善いものを含んでいた。だが、このやり方は、悪いものをも多く含んでいた。その悪いものが何かを「芸術」という言葉の意味を手がかりとして、考えてゆくことができる。
今日の用語法で「芸術」とよばれている作品を、「純粋芸術」(Pure Art)とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術」(Popular Art)と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」(Marginal Art)と呼ぶことにして見よう。
純粋芸術は、専門的芸術家によってつくられ、それぞれの専門種目の作品の系列にたいして親しみをもつ専門的享受者をもつ。大衆芸術は、これもまた専門的芸術家によってつくられはするが、制作過程はむしろ企業家と専門的芸術家の合作の形をとり、その享受者としては大衆をもつ。限界芸術は、非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される。
芸術を、純粋芸術と大衆芸術とにするどくひきさく力は、二千年前のギリシアにおける専門的芸術家の誕生以来はたらいていたものではあるが、二十世紀に入ってマス・コミュニケーションの手段の発達、民主主義的政治・経済制度の世界的規模における成立とともに、純粋芸術と大衆芸術との分裂は決定的なものとなった。これらにくらべると、限界芸術は、五千年前のアルタミラの壁画以来、あまり進歩もなく今日まで続いてきている。これは、二十世紀の文明に残存している原始的なものと理解してよい。二十世紀に入ってマス・コミュニケーション時代の成立とともに新しく急激に進んできた純粋芸術・大衆芸術の分裂は、それにしんとしては五千年前とあまり変わりばえのしない状態に停滞している限界芸術を、新しい状況の脈絡の中におくことによってこれに新しい役割をおわしているように思える。
芸術の発展を考えるにさいして、まず限界芸術を考えることは、二重の意味で重要である。第一には、系統発生的に見て、芸術の根源が人間の歴史よりはるかに前からある遊びに発するものと考えることから、地上にあらわれた芸術の最初の形は、純粋芸術・大衆芸術を生む力をもつものとしての限界芸術であったと考えられるからである。
第二には、個体発生的に見て、われわれ今日の人間が芸術に接近する道も、最初には新聞紙でつくったカブトだとか、奴ダコやコマ、あめ屋の色どったおしんこ細工などのような限界芸術の諸ジャンルにあるからだ。
また、われわれのように、職業として芸術家になる道をとおらないで生きる大部分の人間にとって、積極的な仕方で参加する芸術のジャンルは、すべて限界芸術にぞくする。「すべての芸術家が特別の人間なのではない。それぞれの人間が特別の芸術家なのである」というクームラズワミの言葉は、芸術の意味を、純粋芸術・大衆芸術よりもひろく、人間生活の芸術的側面全体に解放するときに、はじめて重みをもってくる。そして、その時、生活の様式でありながら芸術の様式でもあるような両棲類的な位置をしめる限界芸術の諸種目が、重大な意味をもつことになる。
このような限界芸術のとらえかたは、二十世紀初頭のジョン・ラスキン、ウィリアム・モリス、エドワード・カーペンター、ハヴェロック・エリス、アナンダ・クームラズワミの著作に見られ、われわれと同時代の仕事としては、エリック・ギルやハーバート・リードの著作に見られるものであるが、日本においても独自の発展も見ている。海外の著作家の仕事の紹介から入るよりも、むしろわれわれの同時代の日本人の見方を整理することから、限界芸術にふれ、さらに限界芸術との出会いにおいて、純粋芸術・大衆芸術の諸ジャンルにふれるという書き方をとって見たい。
二 限界芸術の研究
限界芸術の問題に学問の立場から注目したものに、柳田国男の民俗学がある。柳田国男の著作は、限界芸術の考察に基礎をおいた一種の芸術論の体系であって、この考え方から力を得て、竹内勝太郎の『芸術民俗学研究』(一九三四年)、折口信夫の『日本芸能史六講』(一九四一年)などの系列の仕事があらわれた。やはり柳田国男仕事の刺激をうけて、昭和のはじめには『民俗芸術』という雑誌が出され、各地の盆踊りだとか、こけし人形のつくりかた、さらにいれずみの写真、などがあつかわれている。たしかに、限界芸術の種目をならべるとなると、盆踊りやこけし人形だけでなく、いれずみ、盆栽、箱庭から、しんこ細工。花火、草履の鼻緒のハナネジリ、角ムスビ、さらにはまた、米一粒の上にいろは歌を筆で書く細字芸術などもあげることが必要になり、こうした興味のもちかたが当然に、一部のモノズキな人だけのもちうる関心の形をとるようになってくる。限界芸術に対する興味のもちかたは、現代日本ではこのように好事家的興味、こっとう趣味によってささえられてきたと言ってよい。
柳田国男の民俗学そのものも、モノズキな人の仕事、こっとう蒐集家とおなじようなひま人のすることとして理解されていた時代がながく続いた。しかし、柳田の仕事、とくにその限界芸術の研究を、モノズキの研究にさせない力は、柳田国男が、限界芸術の諸様式を、民謡とか、盆踊りとかにきりはなさずに、それらを一つの体系として理解していることによる。盆栽が盆栽として、川柳が川柳として、民謡が民謡として、というよりはもっと細分化されて、都々逸とか端唄として孤立化され、断片化されて、固定的にとらえられるとき、これらは、モノズキな人、趣味人だけの関心のマトとなる。だが、柳田国男の学風は、これらの限界芸術の諸様式のどの一つをとりあげても、そこから別の様式にぬけてゆく共通地下道のようなものを同様に見つけてゆくことにあり、この共通の地下道は、日本人が各地各時代にもった具体的な集団生活の様式だった。
限界芸術の諸様式が。日本人のいつかどこかでした具体的な集団生活への手がかりとして位置づけられ、そこからするするとたぐりよせられて芸術様式の底から集団生活の実態がうきあがる。この手順を、柳田国男の著作から、いくつか例をとって考えて見よう。
民謡は、レコードの形で、また流行歌集のすみに残っている。昭和初期には野口雨情とか、西条八十のような流行歌の専門的作家が、地方にまねかれて行って、土地の有力者の求めるままにその土地の事情にあわせた「民謡」を書いてあたえる風習がかなりひろく行なわれたことがあった。柳田国男は、この種の大衆芸術としての流行歌から限界芸術としての民謡を区別するために、「民謡」を、いくらさかのぼってしらべて見ても、作者名の分らぬものと定義した。そして、民謡の発生にさいしては、おそらく最初の歌い手と作者とは同一人物だったのであろうと推定している。「東京音頭」や「桜音頭」の流行をまねて、全国各地でつくられた「○○音頭」が「民謡」としてとおるようになり。こうして民謡がマス・コミュニケーションの通路にのせられた大衆芸術として転生しつつあった昭和初期において、柳田国男の民謡の定義は、はっきりと限界芸術の一様式としてとらえることで、民謡をなしくずしに大衆芸術にとけこませることからふせいだ。
柳田は、全国で集めたほう大な民謡の中から、作者の明らかな疑似民謡をすべてのけてしまったうえで、さらにのこるものを、元歌と替え歌とに区別して整理する。この作業の中から、限界芸術としての民謡の発展の法則を説明する。
民謡においては、その最初の歌い手が同様にその作者である。その作者は、かならず実際的な関心をもった大人である。このために、民謡はいつも、意味のはっきりしないところはすてられ、言葉が古くなるごとにそれぞれの時代の現代語にうたいかえられて発展する。民謡に、古い歌の原型をとどめているもののないのはこのためである。民謡の同類異種である童謡、たとえば手まり唄などは、おなじく大人がつくったとしても歌い手は子供であるために、口調さえおもしろければまねをして歌いつぐ。また、意識的でなく、誤解したり、誤伝したり、この結果、ナンセンスな味の歌が生まれてくることになる。民謡はこれに反して、どんなに長く時代をへたものでも、どんな遠くの土地からはこんでこられたものでも、それぞれの土地の現代語に即座に翻訳されるために、つねに、平明である。
民謡は平明ではあるが、民謡に特有の多義性(あいまいさ)の生まれてくる余地がある。それは、民謡の使われる場が幾種類かあるとき、同し言葉が二つ以上の活動領域にひっかけて歌われることからも生じる。
ヨーロッパの民謡の分類と比較して、日本の民謡には、宗教歌、戦争歌、恋愛歌というような専門的な歌はなく、むしろ、だいたいの民謡の元唄は作業歌(労働歌)であり、作業歌であることをやめないままで、別の活動領域に転用されて二重、三重の意味をもつようになってくる。
君が田とわが田とならぶうれしさよ
わが田にかかれ君が田の水
これは、田植の作業から、恋愛歌への転用。
臼の軽さよ相手のよさよ
あいてかわるな あすの夜も
これは、臼挽きの作業歌から、恋愛歌への転用。
おれと行かぬか はてしの山へ
しだれ桜の枝折りに
これは、草刈りの作業歌から恋愛歌への転用である。
これらの歌の中で、(1)「田」「ならぶ」「かかれ」、(2)「臼」「相手」「よさ」、(3)「しだれ桜」「折る」などの言葉は、作業の脈絡から恋愛の脈絡へうつされ、風物の脈絡から人間関係の脈絡にうつされることによって、意味のあいまいさ(アムビギュイティー)を獲得している。このあいまいさのもつねうちに注目することは、限界芸術が純枠芸術・大衆芸術にまさる重大な意味をもつという認識の基礎になるもので、ある実際的活動、茶つみとか、臼俛きとか、木やり、草刈り、田植などを進めるために必要な相互連絡の言葉が、作業の必要上最小限の意味をこえて、少しばかりのゆとりをもつようになり、労働の言葉に託しながら、労働を快く進めるために遊びをまぜる習慣が生じた。こうして、作業歌の意味の中に、労働に対応する部分と、遊びに対応する部分との二重の意味の構造ができてくる。芸術は遊びに源をもつというのが、グローセ以来の説であるが、食物を獲得するとか、住居を作るとか、衣服をつくるとかの実際的な諸活動から切りはなされたものとしての純粋の遊びがあって、それが最古の芸術であったというのではない。衣食住を確保する実際的な諸活動(労働)の倍音として、それらをたのしいものにする活動(遊び)があり、労働の中にはっきりと遊びがあらわれるにしたがって、たとえば狩の目的物を魔術的によび出すための準備活動としてアルタミラの壁画があらわれるように限界芸術があらわれ、それらが、芸術の最古の形式となったと考えられる。
柳田国男は、明治・大正期までの国文学者によって研究されてきた上代の恋愛専門歌を分析して、たとえば『源氏物語』に見られるような恋愛専門歌は上流階級のみにしか見られぬもので、日本の恋愛歌の大部分は奈良朝・平安朝から今日に至るまで、作業歌に託して歌われてきたと言う。
「恋をする者は同時に働く者であった。そうして健気に面白そうに、よく慟くことによって愛されても居たのである。」
十五七が沢をのぼりにうどの芽かいた
うどの芽をくいそめた
このような草刈歌を遠くから歌うことは、男女が年頃になったというしらせの意味をも担わされていた。
「村の娘たちには斯ういう歌を聴く春が、二度か三度か繰返されるとやがて子持になってしまうのであった。若い人生に取っては是が何よりも大切な恋歌であった。数多い歌の中から一つの声を聞き定め、一つの文句を深く記憶して還って来ることが、単純なる彼等の婚約であって、夕と後朝(きぬぎぬ)の唄は寧ろ其後に続くのであった。」
このようにして、民謡の正統は、作業歌の形をとる。というのは、近代に入るまでの労働は、大部分が歌を伴うことでたのしくすることのできる性質のものであったことをもつたえる。明治以後の工場式の生産様式は、労働の性質をひとおもいにかえてしまい、労働から歌をうばい、たのしみをうばった。「そうして今日の労働には、歌を伴なうことがもう不可能になっているのである。歌そのものを労働として居る人は有るけれども。」この状況にたいする抗議が、やがて、労働者による歌ごえ運動を工場において生むようになる。だがこのときには、歌をうたうという行為が労働にさいしてなされるものでなく、休み時間を利用してなされるものとして、すでに労働とはいちおうきりはなされており、うたわれる歌もまた、純粋芸術として分化し、かきあげられた歌曲である。
民謡の正統としての作業歌からはなれて、二つの傍系の民謡ジャンルがある。その第一は、鼻唄である。鼻唄は、たくさんの人が一緒に作業をする場所でうたう作業歌とちがって、ひとりが、作業しながらでも、しながらでなくても、自分にむかってうたうものである。純粋芸術としての歌(和歌や俳句などまで含めて)は、このようにして鼻唄という限界芸術の様式から派生して発展してきたものとして、柳田国男によってとらえられている。
第二の傍系様式は、子供の遊びのあいのてにうたわれる歌で、ここでは大人のうたう民謡とちがって、意味のわからぬ文句が多く、また子供のもつ関心が非実際的なのに応じて、作風もまた超現実的である。子守唄が母や年長者が子供の身になって子供の言葉でうたってやるものであるのとちがって、手まり唄は、子守唄から派生して、今度は子供じしんを創作者として出現するさらに新しい様式とされる。
あれ見イやれむゥこう見ィやれ
六まい屏風にすうごろく
すごろォくに五ォばん負けて
ニィ度と打つまいかァまくら
鎌くゥらにまァいるみィちで
つゥばき一本見ィつけた
この手まり唄に出てくる「六まい屏風」、「すごろく」、「鎌倉」などは、とっぴょうしもないもので、すくなくともこの歌の文面の脈絡のなかでは無意味にちがいないが、この歌が揚げ毬(まり)という二つ三つの手まりを空にむかって投げてはうける遊びの相の手として用いられるという動作の脈絡の中にいれて考えられると、明碓な意味をもってくる。というのは、これらのとっぴょうしもない言葉は、まりのおちてくるのを眺めている子の注意を外にむけようという工夫なので、とっぴょうしもないものほど目的にかなっていたのである。「もとはそういう歌を傍の子供たちがうたって囃したりはぐらかそうとしたりしたらしいのだが、それには又、双六とか六枚屏風とかいう様な、珍らしいものの名を出すのがおかしかったものと思われる。」競技とか遊戯そのものは芸術ではないが、ある種の競技、ある種の遊戯は、競技あるいは遊戯であると同時に芸術であるような二重のはたらきをする限界芸術となる。遊びの相の手のような限界芸術が、やがて純粋芸術・大衆芸術におけるナンセンスな諸様式の母体となる。
民謡の傍系の第三は、宴会用の歌である。ここにも、作業歌の形を借りて転用した次のような歌もある。
わしは大阪船頭が娘
船も押します艪も押しまする
お前さんにも押しまする
この歌などでは、「船頭」「船」「艪」「押しまする」という一連の言葉が、(1)作業、(2)恋愛、(3)宴会での酒盃やりとりなど、三つの活動領域で転用されて、三重ねの意味をもっている。
このような作業歌の形をかりない宴会の専門歌も多くあらわれており、ここには、酒が入ってくるために、手まり歌などが子供のアナーキーな発想・連想を活用したものとまたちがって、酒の影響下にあるときの大人のアナーキーな発想・連想を活用した作風をつくりだした。たとえば、
咲いた桜になぜ駒つなぐ
駒がいさめば花が散る
これなどは、「酔人の半ば放心した繰返しの中から永い歳月を重ねて生れ出た」宴会歌中の傑作として柳田によって評価されている。この歌のなかで、「咲く」、「桜」、「花」、「散る」、「駒」、「つなぐ」など一連の言葉が何を意味するかは、連想領域のひろがり方によって、無限定に変化するので、これらの言葉のもつあいまいさは、ナンセンス文学特有のあいまいさに近く、特に何について語られているのかわからず、ばくぜんと愉快かつ悲壮である。
「察する所是はもと『さいた盃云々』という類の、さいたという語を初句にした出鱈目の歌が、五十も八十もあった中から、言わば怪我に出現した名吟であった故に、一種神話に近い幽玄味が感じられて、終に批評を絶した古典のような待遇を受けて居るのであろう。近世の流行歌の中でも、『小石小川のざくざく石は』というのや、『しんきしのまき云々』という歌などは、共に初の句のコイシやシンキという語の感じの為に、他の句はどうくっつけても面白がって聴かれて居た例であって、同じ勧酒の歌でも「飲めや歌えや」を以て始まるもの、もしくは相手の人がもう沢山だという趣意で、『酔うたよたよた云々』と歌うものなどは、大抵の場合にあとの文句は出放題である。東北地方でおたち歌と称して、御客が外に出てから追掛けて飲ませる時の歌にも、
又も来るから身を大切に
はやり風など引かぬよに
これなども初の一句だけが入用で、残りは口から出まかせだが、それでも永く通用して居るのである。酔人でなければ恐らくは許されぬことであろう。今でも酒の席では言葉がよく歌になり尻切れやまとまらずが却って面白がられて居ることが多い。盃の取遣りが重要であった頃には、さいた桜というような飄逸な歌の、ふいと生まれたのも不思議では無いのである。」
こうして宴会歌は、日本における酒ののみようの歴史をとおして発展し、また酒をとりもつ専門家としての遊女の歴史をとおして発展する。酒をのむことそのもの、遊女業そのものは、芸術ではないが、ある種の酒ののみ方、ある種の遊女の身のこなしかたは、限界芸術として成立し、これらとの交流において日本の中世以後の純粋芸術・大衆芸術の歌謡の諸様式は発展したのである。
古代からマス・コミユニケーションの諸機関の発達するついさいきんまで、一般市民にとっては、「芸術」(つまり純粋芸術とか大衆芸術の形における芸術)は縁のないもので、一般市民はただ限界芸術をとおしてのみ、芸術を享受しまたその創造に参加することができた。文芸についても、京都に在住の公卿の子弟は純粋芸術としての和歌をつくったり読んだりすることができたが、地方の人々にとっては、むしろ酒をのみ女性に接する手続きの一部分としてはじめて、歌や文学が身近なものとなるのであった。すべての子供は起きているあいだじゅう芸術家であるが、大人になると。酒をのんでいるあいだだけ芸術家になることにとどまる。酒をのんでいる時に男女のあいだでうたわれた歌が、一般市民にとっての文学であり、「凡人芸術」だと柳田国男は規定している。
「歌が男女の仲らいを和らげるものであったことは、古今集の序に於ても既に断定せられて居る。それが色紙や短冊の世の中になって、新たに始まった現象で無いことは、判り切ったことの様に私は思うのだが、今までは兎角文字の教育を受けた人ばかりに、そういう特権が有るように考えられがちであり、即ち口で歌って居た男女の仲は、和らげられずともよいかの如く、思って居た者も少々ならず有った。ところが現実はちょうど其反対で、上流の縁組には消息は夙(つと)に儀礼化し、又形式化してしまったに反して、俗衆はまさしく歌によって動かされて居たのである。町や港の容易なる道徳を持つ女等に、酒と歌との管理が移ってからも、この二つのものと婚姻との関係は密接であった。仮の一夜の伴侶を求むるにも、男は必ず此順序を履(ふ)もうとしたことは、彼等にも不似合いな律儀さであった。」
民謡、鼻唄、宴会歌、盆踊り歌など歌曲にぞくする限界芸術の他にも、柳田国男のとりあげた限界芸術の種類は多い。泣き方と笑い方の変遷の中に、それぞれの時代の物語芸術の様式をかえてゆく原動力をもとめた「涕泣史談」と「笑の本願」。また物語芸術の分子ともいうべきゴシップの形式過程をあとづけて、この中で、ぎっちょんさんのような全国的な英雄があらわれてきて、これがさらに、後代の物語作者によるこっけい話に影響をあたえる事情を明らかにした「吉右会記事」、ゴシップが物語芸術の分子にあたるとすれば、それを構成する原子とも言うべき最小粒子を単語にもとめて、モノの名前そのものが、物語性をはらんでいることをも柳田は明らかにしている。このような推理のあとを、部分的にひろって見よう。
まず、名前について、
「物の名即ち物の実体を表すといわれる名称が、すでに一つの言語芸術であることは明かであるが、外国の研究者は妙に是を軽視している。(略)命名というようなことは民族によって其技能に著しい差があり、且つ国際の関係が認められなかったのと、狭義の文芸の方には是と対比すべきものがなかった為に、歌謡や説話のように人の興味を引かなかったことは事実である。」
「命名者が多くは子供であったことは興味のあることである。多く採集して見ると、幼児に代って子守或は老人が附けたものも可なりにある。概して『あどけなき』ものが多く、そしてそれがよい名である。例えば東京でいう『アメンボー』の各地の方言を集めて見ると、子供が其命名者であったことは明かであって、殊に面白いのは其外形や歩く状態などでなく、此虫の持つ味や匂でもって名をつけていることである。『シホウリ』『シホウリタロー』『シホヤ』などというのは口に入れた時に塩っぽいところからつけた名で、『アメンボー』『アメウリ』『ギョーセン』などというのは、匂いが飴に似て居るからであろう。斯んな名を大人がつける気遣いはない。『水すまし』も子供らしい多くの方言を持った虫である。それがしかも大抵は、『カク』とか『スマス』とか、此虫の挙動によって附けて居るのが多いのである。『字書き虫』『いろは虫』『椀洗い』『御器洗い』の名が各地に飛々にあるのも注意すべきであろう。『カイモチカキ』の名などは、その右まわりの挙動によって附けられたものである。斯んな例はさがせばいくらでもある。」
「新語製作者の意識は歌を詠み、諺を作るのと共通であって、是を言語芸術の一項にすべきは当然である。(略)言語にももとより優勝劣敗はある。この群の感覚を自分が先ず感じて表わすことが、後の作者意識となり、是を用いて飯が食えるようになって、作者商売があらわれて来るとも言えるのである。以前は僅少の作者でなく、多くの命名者があったろうと考えられる。」
このように、近世の純粋芸術・大衆芸術の専門的作家は、もともと、新語の製作者としての無名の大衆から分化発展してできてきたという見方がたてられている。また、専門的作家たちは、その作品の素材となるそれぞれの時代の新語の採用にあたって、同時代の民衆の作った新しい言いまわしにたよらざるを得ず、こういう仕方で、現代においても、純粋芸術・大衆芸術の発展の契機は、限界芸術に求められる。言語を素材として使用するかぎり、言語による純粋芸術・大衆芸術の最小粒子は、民衆が毎日つくっている限界芸術なのである。
最小粒子を二つ三つくみあわせただけの単純な構造をもつ限界芸術に、「なぞなぞ」「ことわざ」なども加わり、これらについても、蒐集と分析がなされているが、これらははぶくこととして、もう少し複雑なゴシップという形式について見よう。
「大分県に成長した人ならば、名を聴いたのみで如何にもと合点せられることと思うが、先年来自分たちの集めて居る笑話の一団を、豊後では野津市の吉右衛門という人の逸話として伝承して居る。あの地方では実在の人物と信じて居る者が少なくないけれども、豊前に来ればそれが中津の吉吾であり、城井の山村などでも古五又は吉吾郎を以て知られ、其人の伝記の如くもてはやされる物語が、双方三方に共通であった。のみならず遠く離れた奥州の一部にも、又京都近くの或田舎でも、キチという滑稽人が居て、沢山の類似の話を遺して居る。何故に斯くの如く到る処に彼の名が吉であるかは、興味多き問題であるが、今はこれに触れない。兎に角に諸国の『きちよむ話』に附いてまわる一事は、彼が狡猾で能く人を騙すにも拘らず、自身も亦飛んでも無い馬鹿な事をして、結局は聴く人の頤(あご)を解くという以外に、何等一貫した目的は無くて生きて居たかとさえ考えられることである。(略)平たくいうならば馬鹿な話と馬鹿にした話とを、一人にして兼ね行ったというのである。そんな事の不可能なのは最初から判って居る。それが如何なる理由あって、こうして喜多八や吉五郎の徒についてのみ、その矛盾が認められるかというと、これは我々の大岡越前守に。あらゆる名裁判が帰属した如く、若しくは飄逸なる旅の探検が何でもかでも水戸黄門に託せられた如く、もっと古い所では仏本生譚が無数の異類説話を以て、悉く仏祖の前世の出来事なりと説こうとしたと同様に、笑話にも亦中古の結集があって、それには殊に中心の一人物を仮説して、すべての笑話をこれに託する習わしがあったことを、意味するものかと思う。
曾て自分はこの事実を以て、苔が古い石碑の表に茂り花咲くに譬えて見たことがある。天然と言わんよりも寧ろ年代の力であるが、人は無意識に又は半ば意識して、斯くの如く空間に浮遊するものの、来って附着してこの石と共に、与に永世に伝わることを得せしめたのである。しかも其植物の目に見えぬ胞子の、千差万別であったと同じく、説話の根原と種々の因子とには、分類整頓を必要とするそれぞれの由来と成長階段があったことは疑いが無いのである。」
こうして全国各地方をとおりすぎていったゴシップの通路に、吉右衛門、彦七などの英雄の口碑がたちならび、それらを原型として、曾呂利新左衛門、弥次喜多、水戸黄門、大岡越前守などの講談や大衆小説が生まれる。限界芸術が用意した下絵の上に、大衆芸術が生まれる過程を、分析したものと言える。
しかし、民謡にしろ、ゴシップにしろ、言語を用いるものであるが、言語を用いない感情表現の方法が、つい最近までの主要な方法であった。
「現今は言語の効用がやや不当と思われる程度にまで、重視せられている時代である。言葉さえあれば、人生のすべての用は足るという過信は行き渡り、人は一般に口達者になった。もとは百語と続けた話を、一生涯せずに終った人間が、総国民の九割以上も居て、今日謂う所の無口とは丸で程度を異にして居た。」
こうして、言葉なしの感情の表現に用いられるのは、身ぶりであり、えがおであり、泣くことであった。今日でもわれわれは、この人の微笑は、一つの芸術だと思うような例に出会うことがある。泣くことについては、明治以後に抑制する習慣が生じたが、江戸時代以前には、一つの芸術的行事であったことがあるそうである。酒ののみようだけでなく、笑い方、泣き方の歴史が、独自の限界芸術の歴史となる。
言語にかかわりのあるなしをとわず、あらゆる種類の限界芸術が、オール・スターキャストで出そろうのは、祭の時である。映画が総合的大衆芸術であるのと同じ意味で祭は総合的限界芸術である。そして、祭という儀式の形をかりた限界芸術が、それぞれの時代の芸術の総体を生んだ集団生活の実態の集約的表現なのである。
本来ならば、祭の日にのみ許されていた限界芸術の諸種目が、化粧にしろ、面つくりにしろ、かぐらにしろ、祭以外の平常日にもゆるされて、特別の専門家によって続けられることとなることによって、それぞれの限界芸術の様式がそれに対応する純粋芸術および大衆芸術の様式を生むようになる。こうして、柳田国男は、純粋芸術・大衆芸術をふくめて芸術一般の起源を限界芸術にもとめ、限界芸術の集大成を、それぞれの時代の祭に見た。祭は、集団全体が主体となって、みずからの集団生活を客体としてかえりみて、祝福することであり、平常はアクセントなく流れている集団生活が、このとき短い時間の中に凝集され、一つのモノの形をとる。
祭がつよく生きているかどうかは、それぞれの時代における限界芸術の創造性のバロメーターになる。その意味では、現代における祭は衰えてきたと言えるので、このことをうれえて、柳田は幾つもの文章を書いている。
「日本の祭の最も重要な一つの変り目は何だったか。一言でいうと見物と称する群の発生、即ち祭の参加者の中に、信仰を共にせざる人々、言わばただ審美的の立場から、この行事を観望する者の現われたことであろう。それが都会の生活を花やかにもすれば。我々の幼ない日の記念を楽しくもしたと共に、神社を中核とした信仰の統一はやや毀れ、しまいには村に住みながらも祭はただ眺めるものと、考えるような気風をも養ったのである。」
「次には之を以て神意を伺う手段とするオハライミクジの類、もしくはいわゆる神寄せの中座の手を持たせて、その御幣の動きゆれるのを、神の憑(うつ)りたまう兆候と解したこと、是も亦永年の経験に拠って、自然の効果を逆に手段とした例であって、私たちは之を以て日本の祭が、参詣と称する一つの新たなる信仰現象を分岐せしめた、重要なる段階として注意するのである。それよりも更に大きな変化は、この祭の木のミテグラが、次第に之を手に執る人を特殊の階級にしたことである。以前も一族門党の中で、其役に当る者はおのずから定まって居たろうが、それは其折毎の身分なり境遇なりによるので、言わば神意の顕われの如きものであった。最初はただこの執りものを手にするということが、人を特殊にする原因であったものが、後にはいつと無く特殊な人であるが故に、之を持って祭に仕えるのだというように逆になって来た。」
「一つの例を引けば所謂御幣の剪り方は、紙が普及してから後の事に相違ないのに、それが極度まで発達して、大夫か法印に頼まないと誰にも剪れないような、大事とか口伝とか名づけて常は隠して置くような、複雑きわまるものが世に現われた。今日それが再び簡素な形に復したけれども、我々が自ら神を祭ろうという心持は此為に阻まれ、又実際に甚だしく粗略になった。祭は本来国民に取って、特に高尚なる一つの消費生活であった。我々の生産活動は是あるが為に、単なる物質の営みに堕在することを免れたのであった。それが一つの収益中心と結び付くに至って、新たに生まれた問題は算え切れぬほどもある。そういう中でも反省して見なければならぬ点は、昔は全く見なかった個人祈願の盛んになったことである。」
大正・昭和期における祭の衰えは、祭が演じる者と見る者とに分離してしまったことからくる。この意味では、今日の観光客の間に有名になっているような大きな祭はすべてだめで、そういうものでなく村や町でその土地の人々だけを目あてにこっそり行なわれている小祭を大切にしなければならぬという。前者、つまり大祭は、ほとんどショウに近く、一種の大衆芸術となっており、小祭のみが、限界芸術としての働きを保っているのである。
こうした小祭復興方法によって、今日の日本の純粋芸術・大衆芸術全体をよみがえらせることができるか? 小祭の復興を提案するのは、保守主義者柳田国男として当然のことではあるが、江戸時代以前にあったような祭を昔のままに復活させることにどれほどの期待をかけることができようか。限界芸術の実態については、適切な分析を示しながら、この実態にはたらきかける処方箋としては柳田国男は必ずしも適切な提案をしていないのではないかと思われる。小祭を支えてきた国民的信仰が、すでに今日のわれわれの中に失われているとすれば、新しい仕方での国民的信仰をつくることと、新しい小祭をつくることは、同時にわれわれに課せられた義務となろう。
(I)柳田国男「鼻唄考」一九三二年。
(2)同右。
(3)同右。
(4)同『母の手毬歌』一九五〇年。
(5)同『民謡覚書(二)』一九三五年。
(6)同「酒の飲みやうの変遷」一九三九年。
(7)同「遊行女婦のこと」一九三四年。
(8)同「凡人文芸」一九三四年。
(9)同『民間伝承論』一九三四年。
(10)同「笑の文学の起原」一九二八年。
(11)同「涕泣史談」一九四一年。
(12)同「日本の祭」一九五二年。
三 限界芸術の批評
限界芸術の諸様式は、芸術としてのもっとも目だたぬ様式であり、芸術であるよりはむしろ他の活動様式にぞくしている。この特殊な位置のゆえに、限界芸術のことを考えることは、自然に、政治・労働・家族生活・社会生活・教育・宗教との関係において芸術を考えてゆく方法をとることとなる。
芸術を純粋芸術として考えてゆくことが、芸術を他の活動からきりはなして非社会化・非政治化してしまうのとちがい、また芸術を大衆芸術として考えてゆくことが、芸術を他の活動に従属し奉仕するものとして過度に社会化・政治化してゆくのともちがって、
芸術そのものの観点につきながら他の活動の中に入ってゆき、人間の活動全体を新しく見なおす方向をここから見出せるのではないかと思う。
限界芸術にかかわる現代日本人の主な発言をたどりなおすこのスケッチでは。限界芸術にアクセントをおいて芸術論を展開した人のすべてが、政治をもさけず、時局の問題にたいして積極的に発言を続け、既成の流派にとらわれない宗教的関心、既成の学校という形態にとじこめられない教育的関心をもっていたことに注目したい。
すでに、柳田国男の研究をとおして、芸術に生色をもたらす力が限界芸術にあること、限界芸術が集約的に表現されるのは宗教的行事であることを見た。限界芸術にたいする関心が、宗教とむすびついて発展するもう一つの例を、柳宗悦の思想に見ることができる。柳田国男が限界芸術の研究に一つの水準をつくったのとおなじように、柳宗悦は、限界芸術の批評に、一つの水準をつくった。彼の活動は、まず、朝鮮の首府京城の王宮の光化門が日本総督府の命令でとりこわされることになったことをきいて、門をいたむ文章を書いたことにはじまった。
「併し尚この題目が活々と読者に形ある姿を思い浮ばす事が出来ないなら、どうか次の様に想像して頂こう。仮りに今朝鮮が勃興し日本が衰頽し、遂に朝鮮に併合せられ、宮城が廃墟となり。代ってその位置に厖大な洋風な日本総督府の建築が建てられ、あの碧の堀を越えて遙かに仰がれた白壁の江戸城が毀(こわ)されるその光景を想像して下さい。否、もう鑿(のみ)の音を聞く日が迫ってきたと強く想像してみて下さい。私はあの江戸を記念すべき日本固有の建築の死を悼まずにはおられない。それをもう無用なものだと思って下さるな。実際美に於てより優れたものを今日の人は建てる事が出来ないではないか。(ああ、私は亡びてゆく国の苦痛に就いてここに新しく語る必要はないであろう。)必ずや日本の凡ての者はこの無謀な処置に憤りを感じるにちがいない。然し同じ事が現に今京城に於て、強いられている沈黙の中に起ろうとしているのである。」
前代から残っている門、橋、道などに、民族の心情の表現を見出し、これらを最も重要な芸術として考える見方は、昭和に入っては保田與重郎の『日本の橋』をとおして国粋主義・侵略主義の中に流れいるのであるが、この見方が、発生地点においては、柳宗悦のエッセイにおけるように国際主義的な脈絡におかれ日本の帝国主義を批判する役割をもっていたことを想い出されてよい。明治末年の日韓併合以後、朝鮮文化の自律性を日本の官僚が破壊してゆく作業に反発して、柳の民族芸術にたいする関心が芽生えたのである。柳が日本民芸館の創立(一九三六年)よりも先に朝鮮民族美術館の創立(一九二四年)に努力したことは意味がある。彼はおなじころ、朝鮮の陶磁器に関心をもつようになる。日本の茶道においてとうとまれる最高の器が、朝鮮の古い時代の無名の陶工たちのつくったものであることに興味をもつ。なぜ、教養もあり暇もある後代の日本の名匠たちが、無学無名の貧しい朝鮮の陶工以上の作品をつくれないのか? この問題が、柳の美学の中心的な課題となり、この問題についての柳の解答がその後の民芸運動を支える理念となる。柳がゆきあったのは、高い伝統に支えられる職人たちの無意識の手仕事は、個人的天才の仕事をはるかにこえるという理念である。
日本の陶磁器が朝鮮の陶磁器に及ばないとしてにも、日本は、日本としてかなり高い手仕事の伝統をもっているはずだ。こう考えて、柳は、日本の中での無名の工人の手仕事の伝統をさがしはじめる。こうして、全国各地で集められた日常雑器のコレクションを、帝室博物館に寄付して、民具の特別室をつくってもらおうとしたところ、拒絶されたので、ようやく、自分たちの力で、民芸の美術館をつくる運動をはじめ、大原孫三郎の寄付を得て、日本民芸館をつくった。この蒐集の美学的基準を、柳は次のように説明する。
「概して見るならば、美の歴史は下り坂であった。昔に競い得る新たなものは稀であろう。時代が下降するにつれて技巧は無益な煩雑を重ねた。手工はその重荷に悩んで、生気は次第に失せた。丹念とか精巧とか、それ等の特質はあるかもしれぬ。だが単純に包まれる美の本質は殺されて了った。自然への信頼は人為的作法に虐げられて、美には凋落の傾きが見える。だがこの悲しい歴史に交わって、ひとりこの流れに犯されなかったのは、実に雑器の類である。」
雑器の美とは、用途によくつかえるということによって生じる美であり、ここでは美は実用とむすびついて意味をあたえられる。美の発揮される場所も。本来は美術館ではなく、民衆の日常のくらしの中で雑器が見事に用いられる状態においてである。
「用いずば器(うつわ)は美しくならない。器は用いられて美しく、美しくなるが故に人は更にそれを用いる。人と器と、そこには主従の契(ちぎ)りがある。器は仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増すのである。
人はそれ等のものなくして毎日を過ごすことが出来ぬ。器具とはいうも日々の伴侶である。私達の生活を補佐する忠実な友達である。誰もそれ等に便りつつ一日を送る。その姿には誠実な美があるのではないか。謙譲の徳が現れているのではないか。凡てが病弱に流れがちな今日、彼等のうちに健康の美を見ることは、恵みであり悦びである。」
用いるということに中心をおく美学が、柳宗悦の美学をウィリアム・モリスらの美術中心的な、芸術至上主義的な美学から区別する。用の美学は、日本人のつくった美学としての茶道に一つの体系をもっている。だが、茶道が用の美学としてつくられ。用の美学からはなれていってしまったところに、柳宗悦の茶道批判の視点がある。
「茶道は器を見る道であり、兼て又用いる道である。誰でも日々器を用いて暮す。だが何を用いるかで分れ、どう用いるかで更に別れてしまう。」
茶道をつくった人々は、何を用いたのか。
「只使える物を使ったと云うのではない。今まで誰も用いなかった物まで用いたのである。時としてはそれが何のために作られたかをさえ知らなかったであろう。美しいが故に生活に取入れたかったのである。ここで使い方が生れたのである。そうして使える物にして了ったのである。遂にはそれ以外に使う物は無いと思える所まで進めたのである。」
「ではどう用いたのか。彼等の用い方は素晴らしかったのである。只うまく用いたというようなことではない。又用い方をよく心得ていたというぐらいのことでもない。用い方が法則にまで入ったのである。彼等が用いる如く用いずば、用いていると云えない迄にして了ったのである。誰が彼等を措いて彼等ほど深く物を用い得たであろう。物を正しく用いれば、誰でも彼等が用いたその用い方に帰るのを見出すであろう。彼等の用い方は只彼等だけの用い方ではない。用い方が彼等で型にまで高まったのである。個人を越えたのである。
法にまで徹したのである。物の見方や用い方を、法で示したことこそ、彼等の異常な功績と讃えてよい。
それも型を考えて、「茶」をそれに当て篏めたのではない。用うべき場所で、用うべき器物を、用うべき時に用いれば、自から法に帰ってゆく。一番無駄の無い用い方に落ちつく時、それが一定の型に入るのである。型は謂わば用い方の結晶した姿とも云える。煮つまる所まで煮つまった時、ものの精髄に達するのである。それが型であり道である。用い方をここ迄深めずば未だ用い足りないのである。」
安永年間に五百五十両の大金を支払われて雲州の松平不味公の手に入った「喜左衛門井戸」という大名物(だいめいぶつ)も、もとはと言えば、朝鮮の貧しい陶工がその日の生活を支えようという他に、美術的抱負もなく大量生産したがらくたの一つである。これを用いることにきめたという見心眼、これを見事な仕方で用いてきたという使用の歴史が、この一片のがらくたを、大名物にしたてた。このようにしたてなおすという歴史の根には。いんちき性がある。茶道に、それはつきものであること、茶道をつくった人にもそのいんちき性があることを、柳宗悦は見のがしていない。敗戦後になって、かつては帝室博物館からも拒絶された柳らの民芸運動も、世間的な権威をもつようになり、柳宗悦は現代の千利休であるなどと美術史家が言うようになったとき、自分は利休などとちがうと言って、ふんがいした文章を書いている。柳は、利休が豊臣秀吉のような権力者にむすびついたことをきらう。また利休以後の茶道が、用いることの美しさを説きながら、(裕福な人々の)茶室内だけで特定器物を使うことの美学となったことをきらう。茶室の外におけるあらゆる人間生活の側面における道具の用いかたについての美学を考えたいと柳は言う。また、茶道において珍重されるような名器は、注意してさがせば全国各地のがらくた屋で、二束三文で次々に見つけることができるはずだと考える。見る眼をもちさえすれば。そうして、みずからの見る眼を信用してつくったコレクションが日本民芸館となった。
雑器をよく見るということ、雑器をよく用いるということは、よく雑器をつくるということへのはたらきかけを当然にふくむこととなる。このことについての柳の努力は、いくらか成功し、いくらか失敗した。
成功した部分から言えば。大正期の日本に機械工業が十分に入っていなかったためになお地方にのこっていた手仕事の伝統をさぐりあて、一種の地理学をつくりあげ、よい手づくりの作品を一地方をこえて全国的に普及させる道をひらいたことである。これは、よい工芸品を見せる「日本民芸館」、よい工芸品についてしらせる「工芸」という雑誌、よい工芸品をうる民芸品販売店「たくみ」の三者の相互扶助による。失敗した部分とは、柳の提案にしたがってできた工芸家のギルドをつくる試みが、京都市下加茂ではじめられ、わずか二年で終ったことである。柳の批評にしげきされて、バーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司、棟方志功、芦沢圭介などのすぐれた個人作家の実作があったが、工芸ギルドを本当に成立させることのできる中世的な信仰と道徳なしには集団的制作は不可能であった。集団的制作が可能であるのは、むしろ、すぐれた個人作家をもたず、中世的思考・生活形態の残っている地方においてだった。
柳宗悦における中世的信仰への傾倒は、ある面では柳を近代日本を越えてさらに遠い未来を見とおす人とするとともに、またある面では近代日本に背をむけて近代以前のものにのみ固執する人としている。手仕事にたいする愛が、機械にたいする軽視とむすびつき、現代社会における限界芸術を機械的生産に反対する力としてのみ評価する結果となる。柳の考えた民芸は、日本に残るすぐれた中世の遺産としての手仕事の作品に限定して考えられるとしても、限界芸術は、柳の考えた民芸というわくをこえて、カメラとか、映画とか、あるいはまたアマチュア放送などを含むものとしてとらえられることがのぞましい。
限界芸術にむかう関心は、宗教哲学からはじまっており、柳の限界芸術観はつねに柳の宗教観に支えられ、それと構造的対応をなしている。柳ははじめキリスト教への関心をつよくもち、キリスト教の信仰についてのエッセイをかきつづけていたが、その関心は主として中世にむけられ、中世の神秘家にむけられた。中世的信仰によって個我の意識を越えることに、心をひかれたのである。彼は、キリスト教の教理を信仰するというのでなく、キリスト教をいとぐちとして普遍的信仰への道を求めようとする。後年には仏教をいとぐちとして普遍的信仰への道を求める。キリスト教への関心のつよくはたらいていた時代には、ウィリアム・ブレークの作品の研究があり、仏教への関心のつよくはたらいた時代には木食五行上人の作品の研究がある。ブレークの版画は、木食上人ののこした彫刻とよく似た性格のもので、純粋芸術・大衆芸術からほどとおい限界芸術的な作品である。中世の信仰生活への関心、ブレークへの関心、木食上人への関心は、やがて朝鮮の建築および陶磁器への関心と交錯することをきっかけとして、民芸への関心へとむかう。
仏教への関心は、妙好人への関心を中心とする。僧侶ではなく信心のあつい平信徒としての妙好人は、どんなあつかいを世間からうけてもよろこんでうけいれ、いつもたのしく毎日をくらしている。彼は、他人を批判する権利をすて、自分の個人的意志をはたらかすことのないような無心な生き方をしている。このような妙好人の信仰が、もっともすぐれた雑器を生みだす。すぐれた雑器をつくる職人たちについて書く文章は、妙好人について書く文章とほとんど同じことを言っている。
「彼等は多く作らねばならぬ。このことは仕事の限りなき繰返しを求める。同じ形。同じ模様、果しもないその反復。だがこの単調な仕事が、酬い(むくい)としてそれ等の作をいや美しくする。かかる反復は拙なき者にも、技術の完成を与える。長い労力の後には、どの職人とてもそれぞれに名工である。その味なき繰返しに於て、彼等は彼の技術すら越えた高い域に進む。彼等は何事をも忘れつつ作る。…そこに見られる美は驚くべき熟練の所産である。それを一日で醸(かも)された美と思ってはならぬ。あの粗末な色々な用具にも、その背後には多くの歳月と、飽くことなき労働と、味けなき反復とが潜んでいる。粗末に扱われる雑具にも、技術への全き支配と離脱とがある。。よき作が生れないわけにはゆかぬ。彼等の長い労働が美を確実に保障しているのである。」
柳の宗教心は、西洋の神学書をひろく読むことからはじまったが、やがて、物を愛すること、日常生活につかう道具を愛することをとおして、それが表現されるようになる。
「今まで物を讃えると、唯物主義と謗(そし)られたり、物を仰ぐと偶像だと貶されたりしたが、併しそれは唯心主義の行き過ぎで、「心」と「物」とをそんなに裂いて考えるのはおかしい。
心は物の裏附けがあって益ゝ確かな心となり、物も心の裏附けがあって、愈ゝ物たるのであって、之を厳しく二つに分けて考えるのは自然だとは云えぬ。物の中にも心を見ぬのは、物を見る眼の衰えを語るに過ぎない。唯物主義に陥ると、とかくそうなる。同じように心のみ認めて、物をさげすむのは心への見方の病いに由ろう。私は寧ろ心の具像としての物を大切に見たい。物に心が現れぬようなら、弱い心、片よった心の所為に過ぎぬ。それ故、『仏』というような心の言葉を、形のある『物』に即して見つめたい。物に仏の現れを見ないとか、仏に物の命を見ないとかいうのはおかしい。美しい物は仏に活きていることの証拠ではないか。」
こういう宗教心と美意識とは、日本の伝統の中に深く根ざすものと、柳は考える。日本の文化の特色の一つは、不完全にたいする宗教的寛容と美的鑑賞である。左右相称にきっちりとわりきれるような西洋の「偶数の美」の理念に対する日本の「奇数の美」。茶器などによくみられる、うっかりしてできてしまったゆがみへの愛好。西洋の近代美術は、幾何学的意識的統制をはなれてなんらかの破形をもとめるが、日本の美学はこの破形を数百年前から愛してきた。日本の文化のもう一つの特色は、なんでもないことを愛する精神である。味のないのが本当の味と言う。器や着物では無地のものを好む。「わび」、「さび」、「渋み」は、無味・無地の追求と言える。このような傾向は、日本の国民習慣の中にすでにひろくゆきわたっているもので、若い時には派手ごのみでも、やがて趣味がよくなってゆくとともに渋ごのみにゆくという、国民的な選択基準がある。「渋い」というような美への標準語をもっている国民は、東洋にも、他にないと言う。この美的な好みは、無事と未完成を愛する国民的哲学の伝統に根ざしている。
このような伝統に自信をもち。日本の眼によって世界を見ることで、世界の美しさを新しく発見して世界に示してゆくことを、柳は。すすめる。一方では、『茶道の改革』のような本を書いて、日本の伝統の現在の担い手としての千家の家元たちにたいするかしゃくなき批判を試み、一方では、日本の眼で整理した民芸美術館を欧米にたてたいと計画することで、日本の伝統をひっさげて世界に出てゆくことを説く柳宗悦の批評の視点は、日本の限界芸術についての論評を軸としてつくられた普遍的な美学の体系であると言えよう。
(1)柳宗悦「失はれんとする一朝鮮建築のために」一九二二年。
(2)同「雑器の美」一九二六年。
(3)同右。
(4)同「茶道を想ふ」一九三五年。
(5)同「工芸の協団に関する一提案」一九二七年。
(6)同「中世紀への弁護」一九二三年。
(7)同「ウィリアム・ブレーク」一九一四年。「木食五行上人之研究」一九二五年。
(8)同「妙好人因幡の源左」一九五〇年。「妙好人の不信」一九五五年。「仏教と悪」一九五八年。
(9)同「工芸の美」一九二七年。
(10)同「蒐集の弁」一九五四年。
(11)同「日本の眼」一九五七年。
(12)同「茶道の改革」一九五八年。
四 限界芸術の創作
限界芸術の研究者としての柳田国男、限界芸術の批評家としての柳宗悦とともに、限界芸術の作家として宮沢賢治は、他の人によっておきかえにくい一つの位置をしめる。柳田国男の議論が、その実証主義の傾斜のゆえに日本の社会の現存価値を維持しようとする努力を主としており、また柳宗悦の批評があるていど傍観的に実作へのはげましを遠くから送ることを中心としており、研究と批評としてはそのゆえに見事な成果を生んだのではあるが、これらの人々の保守主義、現状維持主義、実証主義、傍観主義とはちがった地点から、変革的に新しい限界芸術への道をひらく努力は、かれらとはちがった姿勢をもつ実作者に待たねばならなかった。宮沢賢治の努力もまた、一つの挫折ではあるが、それらじしんとしてすでに高い柳田国男・柳宗悦の到達点よりもさらに高い達成を示しており、彼の挫折地点への道をたどることが前進への重要な足がかりになる。先に柳田国男における限界芸術復興の提案としての小祭への回帰、柳宗悦における京都の共同制作集団設立プログラムなどを見たが、現代の日本社会に限界芸術をいきかえらせる方法としては、望みのある方法と評価することはできなかった。羅須地人協会の設立を頂点とする宮沢賢治の提案と実践記録は、敗戦までの現代日本社会では柳田・柳の実践プログラムほどにも根をおろし得ないものに見えたが、今日から未来にかけての日本の状況に対しては力となるものではないだろうか。
宮沢賢治の芸術観は、(1)芸術をつくる状況、(2)芸術をつくる主体、(3)芸術による状況の変革、という三つのモメントについての彼らしい把握によって成りたつ。
(1)芸術をつくる状況
自分の今いる日常的な状況そのものから、芸術の創造がなされなくてはならない。
農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である
そは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする
そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし巨大な演劇舞踊として観照享受することを教える
そは人々の精神を交通せしめ、その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとする
芸術とは、主体となる個人あるいは集団にとって、それをとりまく日常的状況をより深く美しいものにむかって変革するという行為である。したがって、状況の内部のあらゆる事物が、新しい仕方でとらえられ価値づけられることをとおして、芸術の素材となる。毎日の出来事をはなす声音が音楽としてとらえられ、日常の身ぶりが演劇としてとらえられる。声とか身ぶりだけでなく、状況のあらゆる要素が、芸術の素材となるのだから。
準志は多く香味と触を伴えり
声語準志に基けば 演説 論文 教説をなす
光象生活準志によりて 建築及衣服をなす
光象各異の準志によりて 諸多の工芸美術をつくる
光象生産準志に合し 園芸営林土地設計を産む
香味光触生活準志に表現あれば 料理と生産とを生ず
行動準志と結合すれば 労働競技体操となる
宮沢賢治のもっともみがきあげられた作品も、日常的生活環境の中に深く根をもっている。宮沢賢治のおかれた状況が芸術的に改作される過程をよく示すものの一つは、彼の「修学旅行復命書」である。これは、一九二四年(大正十三)五月十五日から二十三日にかけて、農学校生徒を北海道につれて行った時の記録である。宮沢は途上、生徒の合唱を記録したり、生徒たちの夜の散歩、ボートをこぐありさま。北大総長から牛乳をごちそうになってよろこんでのむありさまをいきいきと記録している。何をどんなふうに見、どんなふうにそれについて話したりしたか。宮沢の生徒たちとの交流の仕方が目に見えるようである。北海道の何を見ても、それにひきくらべてうかんでくるのは故郷岩手県の風物であり、故郷における労働のありかたである。故郷での生活は、ここで新しくとらえられ、どういう方向に改作されるかを新しく摸索することをとおして、見なれた生活が対象によって新しい意味をもつようになる。
札幌市北大付属植物園――「植物園博物館、門前より既に旧北海道の黒く逞き楡の木立を見、園内に入れば美しく刈られたる苹果青の芝生に黒緑正円錐の独乙唐檜並列せり、下に学生士女三々五々読書談話等せり。歓喜声を発する生徒あり、我等亦郷里に斯る楽しき草地を作らんなど云うものあり。先ず博物館に入る。道産の大なる羆熊の剥製生徒等の注意を集む。されど本博物館は特に鳥類標本完備せるを以て特にその部を観察せしむ。その多くは亦岩手県に産するものにして既に形状習性を知れるもの茲に初めて学名を得たるなど効果大なりき。階上のアイヌに関する標本並に札幌附近雑草の標本亦よき教材なり。後者は、しらねあおい、ちごゆり、はくさんちどり等殆んど岩手山の二三合目の植物にして、実に之等二地が花巻と比較して年平均四度位低温なること及植物の垂直水平両分布を説明するものなり。芝生に出でて休息し更に観覧するものもあり。本日は前二夜車中に在りて疲労せるを以て更に多くを企てず夕刻まで茲に止まれり。園丁よりローンモアを借りて、交ゝ(こもごも)芝生を刈りて遊びなどす。閉園に近く去りて道庁構内を通り旅館に帰る。」
札幌麦酒会社ーー「案内によりて糖化室より参観す。糖化罐四、各六十石を容る。麦芽汁スティームによりて六十二度に保たれ二過程に糖化せらる。次に機関室を経て寒冷なるセメントの廊を後に醗酵室前に至り本醗酵を終れる液の並列せる小横樽中に貯せらるるを見る。次に瓶詰工場を視る。古き麦酒瓶数十の一列河水の流るるが如く機上を転じレッテルを剥離せられ磨洗水洗填充賦栓より新なるレッテルを得麦稈の衣を装い二打の木函に容められるるまでその巧妙なる機転驚嘆せざるなし。然れども斯の如き今日の工業中にありては実に稚態茶飯事に過ぎず。大約人類の苟も思想する処何事か成ぜざらん。”工業と云い農業と云う勢力と云い物質と呼ぶ何物か思想に非らんや”(*””内傍点鶴見)。唯複雑にして征服し難き農業諸因子の中に於てその進歩容易ならざるのみなり。夫、長方形密植機の如き太陽光線集中貯蔵の設備の如き成らんか今日の農民営々十一時間を労作し僅に食に充つるもの工業労働に比し数倍も楽しかるべき自然労働の中に於て之を享楽するの暇さえ無きもの将来の福祉極まり無からん。」(傍点―鶴見) 北海道帝国大学農学部温室ーー「温室中桃実熟し蕃茄胡瓜花謝して既に盛夏の情あり。特に温泉地方出身の生徒に温度湿度等を注意せしむ。温泉を利用しグラスハウスを設け斯の種促成栽培を行うこと浅虫の例もあればなり。」
中島公園植民館ーー「中に開墾順序の模型あり。陰惨荒涼たる林野先ず開拓使庁官によりて毎五町歩宛区画を設定せられ、当時内地敗残の移住民、各一戸宛此処に地を与えらる。然も初め呆然として為すなく、技術者来り教うるに及んで漸く起ちて斧刀を振い来耜を把る。近隣互に相励まして耕稼を行う。圃地次第に成り陽光漸く偏く交通開け学校起り遂に楽しき田園を形成するまで誰か涙なくして之を観るを得んや。恐らくは本模型の生徒将来に及ぼす影響極めて大なるべし。望むらくは本県亦物産館の中に理想的農民住居の模型数箇を備え将来の農民に楽しく明るき田園を形成せしむるの目標を与えられんことを。階上にては各種本道内に用いらるる農具陳列せらる。これ殆んど日本各地の旧農具の集成なり。他に本道物産を陳列するあり。中に諸種農産製造品及所謂名物に関して町出身の生徒に注意す。蓋し花巻に独創的産物なく然も近時温泉地方の発達に伴いてその需要大なるものあればなり。西伯利亜風の蜜漬の胡桃。みずの辛子漬、菊芋の富錦など製造さえ成らば販路更に大ならんのみ。植民館を辞し停車場に向う。途中北海道石灰会社 石灰岩抹を販るあり。これ酸性土壌地改良唯一の物なり。米国之を用うる既に年あり。内地未だ之を製せず。早くかの北上山地の一角を砕き来りて我が荒涼たる洪積不良土に施与し草地に自らなるクローバーとチモシイとの波を作り耕地に油々漸ゝたる禾穀を成ぜん。」
苫小牧に至る汽車旅行ーー「車窓見る処苗代稲苗漸く伸び直播又今正に行わる。本道独特の散点状村落並にその家屋の構造多少移住者の郷土を示すものあるを見る。而もその近時の築成に斯るものクレオソー卜を塗れる粗板二色の亜鉛板を用いて風致津々たるあり。早く我等が郷土新進の農村建築家を迎え、従来の不経済にして陰欝、採光通風一も佳なるなき住居をその破朽と共に葬らしめよ。車窓石狩川を見、次で落葉松と独乙唐桧との林地に入る。生徒等屡ゝ風景を賞す。蓋し旅中は心緒新鮮にして実際と離るるが故に審美容易に行わるるなり。若し生徒等この旅を終えて郷に帰るの日新に欧米の観光客の心地を以てその山川に臨まんか孰れかかの懐かしき広重北斎古版画の一片に非らんや。実に修練斯の如くならざるよりは田園の風と光とはその余りに鈍重なる労働の辛苦によりて影を失い、農業は傍観して神聖に自ら行いて苦痛なる一のSkimmed milkたるに過ぎず。且つや北海道の風景、その配合の純 調和の単 容易に之を知り得べきに対し、郷土古き陸奥の景象の如何に複雑に理解に難きや、暗くして深き赤松の並木と林、樹神を祀れる多くの古杉、楊柳と赤楊との群落、大なる藁屋根 檜の垣根、その配合余りに暗くして錯綜せり。而して之を救うもの僅に各戸白樺の数幹、正形の独乙唐檜、閃めくやまならし赤き鬼芥子の群等にて足れり。寔に田園を平和にするもの樹に超ゆるなし。」
この修学旅行に出るために生徒が父母にたいしてどれだけ遠慮し、費用のことで苦労したかについて、宮沢は、別に、生徒の立場にたった創作を残している。このような生徒の経済条件についての配慮。何を見せるかについてのプログラムの立案、旅行の目標の把握、生徒と一緒にする合唱、食事、散歩、雑談、それらをとおしてつくられる九日間(五日間の誤記とも言われる)の人間関係のドラマが、宮沢にとっての限界芸術であり、彼の狭義の「芸術作品」は、この広義の劇中の劇にすぎない。
宮沢賢治の作品のうち、晩年の文語詩に至る一連の難解な形而上学詩の系列は別として、それ以外のものの多くが農学校の生徒や遊びに来る友人や弟妹たちのために書かれている。彼の歌曲は、原始的だと言われ。柳田国男が鼻唄考にのべた歌曲の系統にぞくするものと見られる。「決して楽器にのらないような、勿論伴奏もついてはいけないような、始まって終るということのない、高潮することのない、からかうような、鼻唄のような、すこし自嘲的なような、決して感傷的でない、歌っている人の口の形まで感じさせる、癖の多い、一種の
無限旋律的な歌だ」という。その例としてあげられるのは、「イギリス海岸の歌」と「牧歌ーー種山ヶ原の夜の歌」である。「牧歌」は東北の方言を生かした民謡風のものであるが、一連だけ引用してみると、
種山ヶ原の 雲の中で刈った草は
どごさが置いだが 忘れだ 雨ぁふる
他に流行歌的鼻唄風のものに「大菩薩峠を読みて」という机竜之助をうたった歌がある。
日は沈み 鳥はねぐらにかえれども
ひとはかえらぬ 修羅の旅
その竜之助
宮沢はきまじめな人のようにもつたえられているけれども、当時のまげものベストセラーを読み、感興にのって、読後の感想を作詞作曲してたまたま遊びに来た友人の一人にうたってみせたりするのであった。他に、もっと直接的に学校と関係のあるものに「花巻農学校精神歌」、「応援歌」、「剣舞の歌」があり、子供と一緒に散歩するのにさいして調子をとる歌として、「黎明行進曲」、「角礫行進曲」、「星めぐりの歌」、「月夜のでんしんばしら」がある。
最後のものの歌詞をうつしておく。
ドッテテドッテテドッテテド
でんしんばしらのぐんたいは
はやさせかいにたぐいなし
ドッテテドッテテドッテテド
でんしんばしらのぐんたいは
きりつせかいにならびなし
ドッテテドッテテドッテテド
二本うで木の工兵隊
六本うで木の竜騎兵
ドッテテドッテテドッテテド
いちれつ一万五千人
はりがねきつくむすびたり
宮沢の授業は、授業中に歌をうたっり、レコードをきかせたり、おはなしをしたり、山野を一緒に歩いたり、という今日でさえ考えられぬ劇的な教育であったことが、生徒たちの回想録に見える。学校劇のために書きおろされた脚本の中から「植物医師」、「ポラノの広場」、「注文の多い料理店」、「饑餓陣営」が生まれたのである。
これらの脚本は、演じられる機会、場所、見物人の興味、役者のパースナリティに寸法をあわせて、むしろそれらを機縁としてつくられたもので。宮沢が自分の作を演じてくれた役者のひとりひとりのうちにひそむ演劇的可能性に個別的な興味をもっていたことはたしかである。たとえば、生徒をつれて遠足に行ったときの会話をスケッチした詩を見ると、
《手凍えだ》
《手凍えだ?
俊夫ゆぐ凍ぇるな
こないだもボタンおれさ掛げらせだじちゃい》
俊夫というのはどっちだろう 川村だろうか
あの青ざめた喜劇の天才「植物医師」の一役者
わたしははね起きなければならない
《おお 俊夫てどっちの俊夫》
《川村》
やっぱりそうだ
月光は柏のむれをうきたたせ
かしわはいちめんさらさらと鳴る
宮沢賢治の詩の多くが心象スケッチとよばれ、外で出会った事物のひとつひとつを機縁として心中にうかんできた印象をかきとどめるという形をとったのと同じく、人についても彼は自分の出会う人それぞれをとおしてその個性の延長線上の交錯において架空の理想郷をくみたてた。シロウトをあつめて演劇を試みるという点ではロッセリーニに似ているが、ここでくわだてられるのはネオ・リアリズムではなく、ネオ・アイディアリズムの方法である。
このようにして、自分の今いる状況を理想化するという方向は、宮沢の作品の世界では、「イーハトーヴオ」というシンボリズムに結晶する。イーハトーヴオというのは、賢治たちの時代の貧しい現実の岩手県を機縁として、その個性的なマイナスをすべてプラスにかえてつくられた理想郷の姿であり、それは理想郷であるかぎり、時間も空間もこえ、あらゆる物、動物、人種がそこに来て住むことのできるような普遍性を獲得している。これが、宮沢賢治の郷土主義的にして回顧主義的な、現実描写をいとぐちとする理想主義的文学の理念であり、この理念に支えられる場、修学旅行もまた一つの限界芸術となったのだ。
(2) 芸術をつくる主体
宮沢賢治にとって、芸術をつくる主体は、芸術家ではないひとりひとりの個人、芸術家らしくないなんらかの生産的活動にしたがう個人であった。それでは芸術家の数が多くなりすぎて困るだろう。そのおびただしい数の芸術家の生活はいったい誰が保証するのか。こういう疑問に宮沢は次のようにこたえる。
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各ゝ止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自ずと集中される
そのとき恐らく人々はその生活を保証するだろう
創作止めば彼はふたたび土に起つ
ここには多くの解放された天才がある
個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる
個人の数だけの個性がある。オリジナリティということは、一万人にただ一人の長島の腕とかいうようにして珍しがられる才能を言うのではなく、ひとりひとりが当然にもっている個性を深めるということでしかない。人類二十七億には二十七億だけの個性の可能性があるわけだ。
ひとりが急に芸術家のやっているようなことをまねしてみたくなる。下手であっても、わらってはいけない。そばのみんなが助けてやるべきだ。そうして一生懸命練習している中で、彼が表現しようとしている別のより深い音楽をきいてやるのがよい。こうした見方、きき方、解釈の仕方をとおして、シロウト芸術もまた新しく変貌する。その消息をかいたものが、童話「セロ弾きのゴーシュ」である。町の映画館で楽隊と一緒にセロをひいているゴーシュはひどく下手なので馬鹿にされる。しょげて田舎のあばらやにかえり、そこにやってきた猫、かっこう鳥、狸の音やリズムにききいることから、音楽への新しいきっかけをつかみ、名人となる。
ゴーシュははじめはむしゃくしゃしていましたが、いつまでもつづけて弾いているうちにふっと何だかこれは鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかなという気がしてきました。
どうも弾けば弾くほどくゎくこうの方がいいような気がするのでした。
このようにシロウト趣味人が、限界芸術家に変貌するきっかけは、職業芸術家の模倣からはなれて、自分の身近にある環境そのものの中に芸術の手本を発見することからくる。しかし、こうしたシロウト芸術家になる努力もせず、ただ黙って働いている人がいる。こういう人の存在の形そのものが、もっとも深い意味であると宮沢は考えた。「気のいい火山弾」の中のベゴという丸い石は、このような「存在としての芸術」について宮沢のつくった最初の表象の一つである。
「ベゴさん。今日は。おなかの痛いのは、なおったかい。」
「ありがとう。僕は、おなかが痛くなかったよ。」とベゴ石は、霧の中でしずかに云いました。
「アァハハハハ。アァハハハハハ」稜のある石は、みんな一度に笑いました。
「ベゴさん。こんちは。ゆうべは、ふくろうがお前さんに、とうがらしを持って来てやったかい。」
「いいや、ふくろうは、昨夜、こっちへ来なかったようだよ。」
「アァハハハハ。アァハハハハハハ。」稜のある石は、もう大笑いです。
「ベゴさん。今日は。昨日の夕方、霧の中で、野馬がお前さんに小便をかけたろう。気の毒だったね。」
「ありがとう。おかけで、そんな目には、あわなかったよ。」
「アァハハハハ。アァハハハハハ。」みんな大笑いです。
「ベゴさん。今日は。今度新らしい法律が出てね、まるいものや、まるいようなものは、みんな卵のように、パチンと割ってしまうそうだよ。お前さんも早く逃げたらどうだい。」
「ありがとう。僕は、まんまる大将のお日さんと一しょに、パチンと割られるよ。」
「アァハハハハ。アァハハハハハ。どうも馬鹿で手がつけられない。」
山のモノ同士のかくし芸くらべなどでも、ベゴは実に下手なので馬鹿にされるが苦にしない。ところが、このベゴ石は火山弾の見本として立派だということが、探検家に見つけられ、他の友人たち(山の石たち)からひきさかれてひとりていねいに荷づくりされて都会におくられる。
火山弾はからだを、ていねいに、きれいな藁や、むしろに包まれながら、云いました。
「みなさん。ながながお世話でした。苔さん、さよなら。さっきの歌、あとで一ペんでも、うたって下さい。私の行くところは、このように明るい楽しいところではありません。けれども、私共は、みんな、自分でできることをしなければなりません。さよなら。みなさん。」
「東京帝国大学校地質学教室行」と書いた大きな札がつけられました。
純粋の存在としてはベゴ石のような無機物がもっとも適当な表象であろうが「オッペルと象」に出てくる、働きもののチエなしの白象もまた、一存在としての芸術の形を表現しているものと考えられている。
オッペルは頭のいい有能な資本家。チエを働かして監獄部屋みたいな作業場をつくり百姓たちを働かせている。そこに気のいい白い象がまぎれこんでくる。オッペルは白象にここで働いたらどうかと頼むと 白象は働くことは大好きだからとひきうける。白象の労働契約は自発的である。「どうだ、そうしてこの象は、もうオッペルの財産だ。」それからオッペルは象の足にくさりをつけ、済まないが税金も高いから、今日はすこし、川から水を汲んでくれ。」
とたのむ。「ああ、ぼく水を汲んで来よう。もう何ばいでも汲んでやるよ。」象は眼を細くして喜んで五十ぱいも水をくんでから夕方の食事をしながら「ああ、稼ぐのは愉快だねえ、さっぱりするねえ。」と三日月にむかって言ってよろこんでいた。次の日オッペル氏は、税金があがったからと言って、たきぎはこびを命じた。
そのひるすぎの半日に、象は九百把たきぎを運び、眼を細くしてよろこんだ。
晩方象は小屋に居て、八把の藁をたべながら、西の四日の月を見て、
「ああ、せいせいした、サンタマリア。」と斯うひとりごとしたそうだ。
その次の日だ。
「済まないが、税金が五倍になった、今日は少うし鍛冶場へ行って、炭火を吹いてくれないか。」
「ああ吹いてやろう。本気でやったら、ぼく、もう、息で石もなげとばせるよ。」
オッペルはまたどきっとしたが、気を落ちつけてわらっていた。象はのそのそ鍛冶場へ行ってべたんと肢を折って座り、ふいごの代りに半日炭を吹いたのだ。
その晩、象は象小屋で、七把の藁をたべながら、空の五日の月を見て、
「ああつかれたな、うれしいな、サンタマリア。」と斯う言った。
しかしオッベル氏は白象をはたらかせすぎた。ある晩、象はわずか三把にへらされた藁をたべながら、月をあおいで「苦しいです。サンタマリア。」と言った。それからまたある晩、もう藁をぜんぜんたべないで、月を見て、「もう、さようなら、サンタマリア。」と言って地べたにすわった。月はわらって、「いくじのない奴だな。仲間へ手紙を書けばいいのだよ。」と言うと、白象は「お筆も紙もありませんよう。」と細い声でしくしく泣いた。月は哀れんで硯と紙とを手配してやり、白象の手紙を象の仲間のいる山にとどける。山の象たちは大挙して資本家オッペルをおそい、ふみころし、白象を解放する。「ああ。ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」と白象はさびしくわらうばかりだった。
善意だけしかもてない白象はこのように無力だった。ひといきで石だってふきとばせるほどの力をもちながら、自分を苦しめる資本家ひとりに反抗するだけの寛容をもちえず、人に助けてもらわなければ自分ひとりさえ生きてゆけない。宮沢はこの白象のような存在の形を第一の芸術と考え、白象を助ける革命的な象仲間のような存在の形を(すくなくとも白象よりやや低い)第二の芸術と考えた。第一と第二とはたがいに相補う関係に「オッベルと象」の時代にはたつわけだし、同じくみあわせの表象が羅須地人協会の時代には実践のしるべとして働いたのであった。だが、病を得て、国家と商業資本の手から農民を守る運動を退かざるを得なくなったとき、前の順序のつけかたの第二はここでは捨てられて、白象の理想だけが病者の前にのこる。こうして、晩年の詩「雨ニモ負ケズ」においては、白象は「デクノボー」として新しく形象化される。
「ベゴ石」、「白象」、「デクノボー」。こうした一連のシンボルは、宮沢賢治のより難解な、より形而上学的、宗教的な詩の中では、法華経の用語をとって、「微塵」と呼ばれたりしている。細かい塵の一つとして、他のものにすぐれたところなど何一つないながらも、しかも、他の何ものにも似ていない独自の塵なのである。
まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう
しかもわれらは各ゝ感じ 各別各異に生きている
小さな塵の一点の中に、他の塵によっては到底理解しつくされない独自の魂がひそみ、その独自の魂は世界に背をむけ、世界から孤立していることをにくみ、のろっている。怒ったり、のろったりすることのないデクノボーになりたいと願っているのだが。
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
ここには、生きているあいだは到底芸術そのものにはなり得ない、そのゆえに芸術をつくる主体となり得る精神の動きがある。
まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる
修羅は一瞬一瞬の中にひそむ私の中のもっとも私的な分身であり、それはみずからの言葉をもたず(というのは言葉は社会的なものだから)、ただ言葉をつくるもとの力でしかない。それは徹頭徹尾私的なものであり、私的であることによってくりかえし、新しく社会化への努力へと個人をかりたてる。
だがデクノボーにも、白象にも、ベゴ石にもなりきれぬこの「修羅」が、自分の力でデクノボー、白象、べゴ石にむかっての道すじをきりひらいてゆくことの中に、政治があり、宗教があり、政治とも宗教ともみまがうような形での限界芸術の活動としての宮沢賢治の芸術が成立する。
(3) 芸術による状況の変革
宮沢賢治においては、芸術とは、それぞれの個人が自分の本来の要求にそうて、状況を変革してゆく行為としてとらえられている。その変革がそれぞれの個人にとってしぜんな要求にそうているという意味で、この変革の行為は、よろこびをともなっており強制された労働でもなく、自己強制された無理な倫理的行為でもない。
世界に対する大なる希願をまず起せ
この大いなる希願にてらして自分の現在の努力を見ることによって、努力が芸術的制作となる。老年に至り、また死に近づくにしたがって、われわれは、それまでの人生を全体として一つの芸術品として見ることをまなぶ。老年そのものに至らずとも、われわれは想像の翼をかりてつねに死んだあとの視点、実人生外の視点にたって、人生を見ることができる。この視点に達するものは、宇宙を自在に旅行してまわることができる。「銀河鉄道の夜」のジョバンニが、死んだ友人カムパネルラとともに宇宙を旅行して歩けるのは、この想像力によってである。
こうして宮沢賢治の芸術観には想像と行動の二つのモメントがあるが、どれか一方の極において芸術が純粋に成立することはありにくい。芸術とは本質的に、ヴィジョンによって明るくされた行動なのである。
……おお朋(とも)だちよ いっしよに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか……
この努力が宮沢の生涯でもっとも明らかな形をとったのは、一九二六年八月~一九二八年八月の羅須地人協会の活動である。この時代に、宮沢は、農学校の教師をやめて、ひとりの農夫としてくらし、余った時間を使って無料で肥料設計相談に応じた。一九二七年には六月までに、かれの肥料設計書は二千枚に及んだという。また、寒害、水害、風害、旱魃、病虫害の予想あるごとに、盛岡測候所や水沢天文台をおとずれて早目に確実な情報を手にして、対策を工夫し、近くの農村をめぐって対策をひろめた。この期間に宮沢の書いた肥料設計書、花壇設計書、講義録、集会案内などは、かざりのない見事な文体で書かれている。「農民芸術概論」も、この時期の講義草案であり、彼の活動のプログラムであった。この時期に彼は、技術者として活動することにおいて芸術家だったのであり、この意味で、彼の限界芸術は、主として技術であってしかも副次的に芸術であるような種類のものだった。彼がこの時期に自分で入るのに先だって、この時期の活動のヴィジョンを描いた作品に、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」(一九二〇年)、「植物医師」(一九二三年)、「バナナン大将」(一九二三年)、「饑餓陣営」(一九二四年)、「ポランの広場」(一九二四年)があり、この時期の活動をあとからふりかえって形象化した仕事に「グスコーブドリの伝記」(一九三二年)がある。「饑餓陣営」は、作戦つたなく荒野に道を失った一軍団の物語で、全軍団中生き残っているものわずかに十六名、それも空腹。そこに、ただひとり食糧をたらふくとっているバナナン大将登場。彼の勲章はうまそうな果実と菓子とでできている。この時、忠勇なる下士官は兵のためにたって、軍司令官の勲章をうばって兵にわかちあたえようとする。
曹 長 (低く)「大将の勲章は実に甘そうだなあ。」
特務曹長 「それは甘そうだ。」
曹 長 「食べるというわけには行かないものでありますか。」
特務曹長 「それは蓋しいかない。軍人が名誉ある勲章を食ってしまうという前例はない。」
曹 長 「食ったらどうなるのでありますか。」
特務曹長 「軍法会議だ。それから銃殺にきまっている。」間、兵卒一同再び倒る。
曹 長 (面をあぐ)「上官。私は決心いたしました。この饑餓陣営の中に於きましては最早私共の運命は定まってあります。戦争の為にでなく饑餓の為に全滅するばかりであります。かの巨大なるバナナン軍団のただ十六人の生存者われわれもまた死ぬばかりであります。この際私が将軍の勲章とエポレットとを盗み、これを食しますれば私共は死ななくても済みます。そして私はその責任を負って軍法会議にかかり。また銃殺されようと思います。」
特務曹長 「曹長、よく云って呉れた。貴様だけは殺さない。おれもきっと一緒に行くぞ。十の生命の代りに二人の命を投げ出そう。よし。さあやろう。集まれっ。気を付けっ。右いおい。直れっ。番号。」
兵 士 「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一。」
特務曹長 「よし。閣下はまだおやすみだ。いいか。われわれは軍律上少しく変則ではあるが、これから食事を始める。」兵士悦ぶ。
曹 長 (一足進む)「盗みましょうか。」
特務曹長 「いや、盗むというのはいかん。もっと正々堂々とやらなくちやいけない。いいか・おれがやろう。」
そして、曹長のやることは、実質的には革命なのだが、ぬすむというのでなく、だますのである。曹長は司令官をおだて、勲章を見せてもらいたいと言い、一つ一つをこっそりと部下にわたして食べさせてしまう。司令官が気がつくと、曹長は部下全体のために責任をとって自決しようとする。この時、司令官の心に啓示がひらめき、従来の不生産的体操をやめて生産的体操にかえ、果樹整枝法の訓練を長々ほどこし、またたくまに宝石にもまさる果実を得る。このあたりは、バレーのような舞踊形式が劇の中にとりいれられ、果樹整枝法の基本型が体操の形で教えられる。
大 将 「前列二歩前へおいっ。偶数一歩前へおいっ。」
大 将 「よろしいか。これから生産体操をはじめる。第一果樹整枝法、わかったか。三番。」
兵卒三 「わかりました。果樹整枝法であります。」
大 将 「よろしい。果樹整枝法、その一、ピラミッド、一の号令で斯の形をつくる。二で直る、いいか。」大将両腕を上げ整枝法のピラミッド形をつくる。
大 将 「いいか。果樹整枝法、その一ピラミッド。一、よろし。二、よろし、一、二、-、二、一、やめい。」
大 将 「いいか次はベース。ベース、一、の号令でこの形をつくる。二で直る。いいか。わかったか。五番。」
兵卒五 「はいっわかりました。ベース。盃状仕立であります。」
大 将 「よろしい。果樹整枝法その二、ベース一。」
兵 卒 「一、」
大 将 「二、一、二、一、二、一、二、やめい。」
大 将 「次は果樹整枝法その三、カンデラーブル。ここでは二枝カンデラーブル、U字形をつくる。この時には両肩と両腕とでUの字になることが要領じゃ。徒にここが直角になることは血液循環の上からも又樹液運行の上からも必要としない。この形になることが要領じゃ。わかったか。六番。」
兵卒六 「わかりました。カンデラーブル、U字形であります。」
大 将 「よろしい。果樹整枝法その三、カンデラーブル、はじめつ、一、二、一、二、一、二、一、二、やめい。」
大 将 「次は果樹整枝法、その四、その又一、水平ゴルドン。これは実は頭部が邪魔なのだ。頭部があると実はパルメットになるじゃ。けれども名誉ある軍人が体操の際に頭を落すというわけにはいかんじゃ。で、仕方ないからなるべく自分の頭を見えないようにするんじゃ。こう云う工合だ。いいか。わかったか。七番。」
兵卒七 「わかりましたっ。果樹整枝法その四、又その一、水平ゴルドンであります。」
この劇は、「オッペルと象」が資本主義の正面からの攻撃であったと同じように、軍国主義にたいする正面からの攻撃である。中国にたいする侵略政策を風刺したり、不生産的な演習を山村開発にきりかえて食糧を増してゆくという考えは米国のニューディール時代のCCC(山村開発だけのために用いられる軍隊式の青少年組織)を思わせる。後には父親に屈服し一切の闘争を放棄してしまう宮沢賢治も、この頃は、家からはなれてひとりで自炊し、資本主義にたいしても、軍隊組織にたいしても、まったく革命的な立場をとっている。しかし、宮沢によって構想された革命的行動のプログラムが、「饑餓陣営」におけるように、つねにユーモアにみち、相手に反省の余地をあたえるものであったという意味で、それはきわめて政治的であるとともに芸術的でもあった。羅須地人協会時代の活動は、「饑餓陣営」の構想の実現と見てよいが、このような極限化された活動は長つづきしにくく、二年ほどのうちに宮沢は肋膜炎をやみ、ふたたび両親の家にもどって病をやしなうこととなる。
宮沢において技術および科学が、限界芸術としてどんな仕方で生かされるかは、「饑餓陣営」の果樹整枝法に示されている。果樹整枝法にしても、土地改良法にしても、それらについての宮沢のあたえる処方箋においては、科学あるいは技術が芸術として生かされている。科学的知識あるいは技術的知識に転化する力が、宮沢の言葉でいえば「修羅」なのである。「修羅」とは、各個人の中にある外面化されない分身であって、これが各個人を底のほうからつきうごかして彼を現状に満足させず、彼をして、未来への彼なりのヴィジョンを投影させる。科学的組織・技術的行動形式が、修羅に動かされて各個人の未来のヴィジョンを表現する道具とされる時、科学者・技術者は科学者・技術者であるがままに、芸術家となる。土性に関する知識が、美しい生活環境をつくるために用いられたとき、地質学はそのまま芸術の一部となる。
今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われわれの祖先乃至はわれわれに至るまで
すべての信仰や徳性は
ただ誤解から生じたとさえ見え
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ
むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ
諸君よ
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山嶽でなければならぬ
宇宙は絶えずわれらによって変化する
誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言っているひまがあるか
新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ
新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系統を解き放て
衝動のようにさえ行われる
すべての農業労働を
冷く透明な解析によって
その藍いろの影といっしよに
舞踊の範囲にまで高めよ
新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴しく美しい構成に変えよ
芸術とはヴィジョンによって明るくされた行動であり、このような行動が科学的計画性と技術性とをもつことを必要とするかぎり、科学も技術も、この中にとりこまれなければならぬ。これは労働ではあるが、ヴィジョンによって明るくされているために、どんなに苦しくとも苦役ではない。
このような考え方は、人生をそのまま芸術と見る見方に近い。しかし、各人の人生が一挙手一投足すべてそのまま芸術だという考え方には、宮沢はたたなかったようである。芸術の素材としては、どんな行為でもかまわないが、ヴァイオリンの代りにスキやクワ、カンヴァスの代りに大地を使うとしても、行為そのものは芸術としてみがかれ高まってゆくものでなくてはならぬ。それでは、行為をみがきあげることによってある人の人生がまったき芸術として完成するということはあるか。このことは、宮沢賢治の死後。彼の崇拝者が彼を聖者として考える方向をとったこととむすびあわせて理解できる。私も、宮沢賢治が聖者であったと思うのだが、宮沢が聖者の生涯においてのみ人生全体が芸術になるという見方をとっていたとも思われない。この問題についての宮沢の見解は、第一に、どんな行為も芸術として成立し得るということであり、第二に、見方をふかめてゆくことによってどんな人生も芸術として見ることができるということである。まさにこのために、死に近づくにしたがって、人は自分の人生を死後の視点から見ることを学び、つまり芸術として見るようになり、また一度自分の人生を芸術として見るようになると、(たとえ自己だけが観客であるとしてもその観客にたいして)自分の行動に今まで以上の表現力をもたそうとする。かくて、「芸術としての人生は老年期中に完成する」が「永久の未完成これ完成なのである」のであって、それはある人の人生が完全な人生の域に達するというのでなく、自分の生前死後もふくめて宇宙史の立場から見るとすれば、自分の人生もまた芸術作品として眺めることができるという意味で芸術なのである。
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであろう
人生ので一こま(行動)を芸術にたかめるものは、宇宙全休についてのヴィジョンである。このヴィジョンのことを宮沢は、「未来圏から吹いてくる風」と言ったり、「銀河鉄道」と言ったり、また法華経のお経の言葉を借りて「ナムサダルマプフンダリカサスートラ」と言ったりした。
宮沢の最もすぐれた作品の一つは、一九二三年に前年の妹の死にふれて書いて知人に送った手紙であるが、この中には、自分にとってもっとも私的な出来事について手紙という私的通信手段によって表現しながら、しかももっとも私性から遠い価値について語っているという意味で、宮沢のつくりあげた限界芸術の性格を示している。
わたくしはあるひとから云いつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんとうにどうなったか、知っているかたはありませんか。
チュンセがさっぱりごはんもたべないで毎日考えてばかりいるのです。
ポーセはチュンセの小さな妹ですが、チュンセはいつもいじ悪ばかりしました。ポーセがせっかく植えて、水をかけた小さな桃の木になめくじをたけて置いたり、ポーセの靴に甲虫(かぶとむし)を飼って、二月もそれをかくして置いたりしました。ある日などはチュンセがくるみの木にのぼって青い実を落していましたら、ポーセが小さな卵形のあたまをぬれたハンケチで包んで、「兄さん、くるみちょうだい。」なんて云いながら大へんよろこんで出て来ましたのに、チュンセは、「そら、とってごらん。」とまるで怒ったような声で云ってわざと頭に実を投げつけるようにして泣かせて帰しました。
それからしばらくしてポーセは病気になって死ぬ。死後のある日、チュンセは、土の中から出て来た一匹のうすい緑色の小さな蛙をころした。
それからひるすぎ、枯れ草の中でチュンセがとろとろやすんでいましたら、いつかチュンセはぼおっと黄いろな野原のようなところを歩いて行くようにおもいました。すると向うにポーセがしもやけのある小さな手で眼をこすりながら立っていてぼんやりチュンセに云いました。
「兄さんなぜあたいの青いおべべ裂いたの。」チュンセはびっくりしてはね起きて一生けん命そこらをさがしたり考えたりしてみましたがなんにもわからないのです。
どなたかポーセを知っているかたはないでしょうか。けれども私にこの手紙を云いつけたひとが云っていました。
「チュンセがポーセをたずねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また。はたけではたらいているひとでも、汽車の中で苹果(りんご)をたべているひとでも、また歌う鳥や歌わない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがいのきょうだいなのだから。チュンセがもしもポーセをほんとうにかわいそうにおもうなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんとうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラというものである。チュンセがもし勇気のあるほんとうの男の子なら、なぜまっしぐらにそれに向って進まないか。」
それからこのひとはまた云いました。
「チュンセはいいこどもだ。さアおまえはチュンセやポーセやみんなのために、ポーセをたずねる手紙を出すがいい。」そこで私はいまこれをあなたに送るのです。
この手紙は、近親の死後一周忌に故人の思い出を書いて知人に送るというような儀式に近い機能をもつものであろう。実際に、明治・大正から昭和において、日本の中産階級は、実に多くの追悼文集を印刷配布することをした。宮沢のこの手紙も、これら厖大な追悼文学の中の一つの例にすぎないが、このような儀式の機会を、真の芸術に高めたことに、限界芸術の作家としての宮沢の特色があると思う。すでに見てきた柳田国男の小祭の復興という理念は、ここに見事に生かされているのではないか。柳田・柳両氏に見られる復古主義的心情は、宮沢においては、遠い未来のほうをむく新しい革新的意思によっておきかえられている。
近代科学の実証と求道者(くどうしゃ)たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索(たず)ねよう 求道すでに道である。
(1)宮沢賢治『農民芸術概論』一九二六年。
(2)同書。
(3)同「修学旅行復命書」一九二四年。これについては、小沢俊郎の研究「北海道修学旅行」(「四次元」一九五九年)がある。
(4)同「或る農学生の日誌」一九二四年。
(5)本郷隆「宮沢賢治の『音楽』と歌曲について」草野心平編「宮沢賢治研究」(筑摩寄居、一九五八年、一五六頁)。
(6)童話「月夜のでんしんばしら」一九二二年に付した歌曲。「イギリス海岸の歌」および「牧歌―種山ヶ原の夜の歌」の作詞作曲はあくる年の一九二三年。
(7)宮沢賢治「風林」一九二三年。
(8)同『農民芸術概論』。
(9)同「セロ弾きのゴーシュ」一九二四年。
(10)同「気のいい火山弾」一九一八年。
(11)同右。
(12)同「オッペルと象」一九二六年。
(13)この時代に宮沢賢治の後退を指摘したものに、中村稔「宮沢賢治」(ユリイカ、一九五二年がある。この本に教えられた。
(14)宮沢賢治『農民芸術概論』。
(15)同「春と修羅」一九二二年。
(16)同『農民芸術概論』。
(17)同「銀河鉄道の夜」一九二六年。
(18)同『農民芸術概論』。
(19)同「饑餓陣営」一九二四年。
(20)同右。
(21)同「生徒諸君に寄せる」一九二六年。岩波文庫「宮沢賢治詩集」。
(22)同「農民芸術概論」。
(23)同「手紙」一九二三年。
(24)同『農民芸術概論』。
この小論では『農民芸術概論』についての注釈の形をとった。概論のソースとして宮沢はみずからトルストイ、ウィリアム・モリス、エマースン、ロマン・ロラン、ワーグナー、オスカー・ワイルド、トロツキー、カーペンター、ビュヒナー、デフォー、シュペングラー、プラトン、ウィンケルマン、カント、シラー、ショーペンハウエル、フェヒネル、ハルトマン、フォルケルト、リップス、コーエン、クローチェをあげているが、これらの人々の思想は、宮沢の理論の中に独自の仕方で要約され、新しく生かされている。宮沢は他にハヴェロック・エリスの「性心理学」六巻を私蔵していたそうで、人にわたしてしまったそうだが、エリスの影響も明らかに見られる。エリスの「生の舞踏」をも、読んでいたのではないかと思われる。柳宗悦、柳田国男の影響もあるものと推定される。柳田の「遠野物語」は読んでおり、この中のざしきわらしなどは宮沢の創作の踏板として用いられている。『幽学全書』も蔵書中にあるので。大原幽学の影響もあると言われる。石川三四郎の「非進化論と人生」も私蔵しており、石川の社会美学としての無政府主義の考え方がここにうけつがれている。クロポトキンの影響も見られる。また高畠素之訳のマルクスの「資本論」も蔵書中にそろっており、ブハーリンの「唯物史観」、ディーツゲンの「無産階級の哲学」ももっていた。マルクスについても、宮沢独自の積極的解釈があったと思われる。宮沢を当時の無政府主義、共産主義、唯物論からひきはなして理解しようとする見方は戦争中に生じたものであり、宮沢熱が満洲事変――太平洋戦争時代におこったことと考えれば偶然ではない。この期間に、宮沢の遺稿がよく保存されてとおりぬけたことは、宮沢の家族および郷土の友人の援助なくしてはあり得ず、このことは。宮沢が一九三一~四五年の日本における支配的イデオロギーにひきよせて理解されることなしには不可能であった。「家長制度」批判で生涯の創作活動をふみだした宮沢が何度も家からの離脱を計って果さず家への依存状態において死亡したことが、かえって、彼の遺稿の保存を助け死後の影響力の源となったことは一つのアイロニーである。宮沢の蔵書については、小倉豊文『賢治の読んだ本』、宮沢賢治全集目録によった。
次にマス・コミュニケーションと限界芸術、サークルと限界芸術、日本の伝統と限界芸術の三章を書く予定だったが、これ以上書けなくなった。次頁の表は、書くつもりだったことのおぼえがきである。
一九六〇年七月、『講座現代芸術』勁草書房、第一巻「芸術とは何か」に発表。『限界芸術論』勁草書房、に収録)