写真家、土門拳はいかにして いけばなの写真を撮っていたか 『小原流挿花』昭和28(1953)年2月号から
●戦前戦後の日本を代表する写真家、巨匠、土門拳は、いけばな作品を数多く撮影している。その多くは、小原豊雲氏や勅使河原蒼風氏のような家元クラスの作品や中川幸夫氏のように個人で活動した作家の作品集など現在でも重要な作品、記録となっている。
●その巨匠は、いかにいけばなをとらえ、作品の撮影に望んでいたのか、この対談から垣間見れるところがあり、非常に興味深い。戦後のいけばな界の状況も見て取れるのも興味深い記事である。
●いけばな作品は、時間とともに消えてしまうものであるがゆえに、写真に残しておくことは非常に重要であった。戦前にもいけばな作家でありながら自らカメラを所有し、撮影を行う作家も存在していた。小林鷺洲氏の立体写真や、本記事にもあるように中根翠堂氏、戦後の中川幸夫氏などが挙げられる。
*小林鷺洲のステレオ写真と中根翠堂の写真の見方
https://karuchibe.jp/read/16020/
●写真や画像として花は、記録であるとともに、作家を広く知らしめるためにビジネスにも必須のものであることは過去も現在もその価値は変わらない。現在ならこれに動画も加わっている。
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家元対談 (*大原流家元・小原豊雲氏と写真家・土門拳による対談)
土門拳氏とカメラ・アイを語る
所 大阪・某料亭 同席 重森弘滝氏
土門拳氏は仏像の写真を撮られるため下阪中、お忙しい中を、これはまた多忙の家元と、いけばな作品とカメラアイについての対談会であった。――編輯部ーー
述懐
重森 土門先生が小原流のいけばなを撮られたのは、工藤光園女史がはじめてでしたね。二十五年の春でしたか、日展への出品作を、勅使河原さんの作品と一緒に撮られたのが最初じゃありませんか。
土門 うんそう、木(ぼく)ね。杉と白樺の作品だったね。
小原 ああそれで思いだすのは、丁度その頃だった。あんたが(重森氏に向って)東京から帰って来てしきりに土門さんのことを私に話してたのは。それが土門さんがいけばな作品を撮られる様になった最初の機会だったわけですね。
重 その時はじめて土門さんを口説いたのでした。関西には小原さんという人がいると言って…。
小 あれは春でしたね。日花展は春でしたよ。それから二科展のとき、これはたしかその年の十二月だったか、中山さんと(文甫氏)私の作品を撮って下さった。
土 ああそうだった。二科展の作品を撮りに来た。十一月の終りだったか十二月でしたかね。あの時の先生の作品は何でしたかね。
小 はじめて枯木を使った作品でしたよ。枯木など大きなものはまだ使われない頃でね。あの木は能勢の山奥にまで花幸と一緒にいって取材して来た木(ぼく)でしたよ。私にしては思い出の深いものでそこですよ。鷹をいけどりにしたなどというエピソードがあったりしましてね。それもね、なにしろはじめての試みでしょう。岡本太郎さんの「森の掟」の作品の前にする作品でね。吉原治良君など二科の作品にあなたのだったらマッチするだろうなどといわれて、それでもはじめてのことだったので苦労しましたよ。中山さんは東郷青児の作品の前にやってましたね。
土 そんなことがあったのですか。それでも思い出しましたよ。枯木がたって、カラタチかなんかのあったやつでしたね。
小 土門さんが来るかどうか。どんな風に撮影するのだろうと大変期待してたんですよ。私のきいていたところではその頃だって大分僕等の写真に対する概念とちがうものを持っておられる様にきいていたものだから。
重 僕等も獲物をねらうように期待してたものでしたよ。
土 印象が深かった。弱ったよ。しっとりとしてましてね。中山さんもその頃はみづみづしくてね。その後作品が違って来たね。あの時どうやって撮るのかと思っておられたらしいが、私としてもはじめてだったしね。
小 会場作品。ことにね美術館でタブローの作品の展覧会と共になどというのははじめてだったし非常に興味があってね、アンビシャスになってましたね。この間秋の二科展にいけばなをという話が産業経済新聞社の方からあったのですが準備期間がなくてね。制作する時間がないので意欲的に盛りあがってくるものがなかったので断りました。
重 この前に僕等は純粋にいけばな作品だけの室をつくるべきだといったのですが。
土 それはいいことだよ。いまの花展という形式だけではね。もうあたりまえのことになってしまって、いきいきとした魅力がなくなってしまったのじゃないかな。
小 しかし現象的にいうとあの頃よりも見に集る人は多くはなってますよ。
戦争といけばな(*東西冷戦の緊張から芸術への傾倒)
重 これは考えてみなければならない。戦争の前夜にはいけばなが盛んになる…。
土 何時?今?ふうん――。
小 そうかなあ。
土 しかしそういう風な見方も成立つかもしれないが、(*戦争の前触れというよりも) 戦後先ずいけばなが卜ップを切ったのが普遍化し盛り返って来たのではないだろうか。写真の方でもそれは言えるけれどね。そう言った現象をすぐ地球不安とし恐怖をかきたてているのは結論的に早すぎるよ。十年近くの間に文化的なもの、平和的なものが抑えられたから、それらが今普遍化し、また盛んになったと思いたいね。
小 同感だね。そういうことは、土門さん、言えるよ。そういうことはね、大衆の生活状態、生活様式などと関連して言えることだね。
土 米ソの対立。世界二大勢力に対する不安はあるが、戦争はこりごりだということを日本国民は肝に銘じている。今のうちに平和を長く楽しみたいとね。
小 そういう大衆の願望がね。或意味では形を変えていけばなへ投入されていることは事実だね。
土 いけばなとか写真とか芸術的なものにね。
いけばなの場
重 お茶が変らないのに、いけばなが変って来たのは面白い現象ですね。本質的にはいけばなの方が生活芸術的傾向は強い。お茶はブルジョア趣味でね。花は一輪ざしにも普遍性があり造型芸術ではあるし、形式を離れても成り立ち得るから必然的に変り得たのかもしれませんね。
土 お茶とお花の共通してる場合も、してない場合もあるが、俗塵を逃避するというところだけは同じではないかな。お茶は室町時代から続いている日本の伝統的なものだが形式を抜きにした場合、ただビタミンCを多分に含んだ飲料水を飲むということだけになる。いけばなの場合、生活の逃避ということもあるがそれよりももっと楽しみたいという積極性がある。
小 それはあるね。
重 これはエピソードですが、小原先生でも勅使河原先生でもお茶は徹底的に嫌いなんですよ。先生(小原先生に向って)お茶の嫌いなわけは?
小 僕はお茶の精神というか。それそのものは嫌いなのではないんだよ。それから例えばね、お茶をやることによって物の鑑賞をするとか、庭園などその他綜合的な趣味性はまあ好きなんだが、流儀に拠る一つの流れ、形式的なもの、それには耐えられない反発を感ずる。非常に裏表があって真実性がない。例えば目の前ではお道具や何かをさかんに賞めておきながら裏ではくさしたりする。そんな口先だけのこと、それがね、大嫌いなんですよ。
土 鑑賞には違いないが批判性がなく全部お追従でね。
小 そうなんですよ、自主性がないんだ。しかもお茶では創作的な面がない。雰囲気は大切にされるんだが形而上的なものが強いね。
土 お茶の場合、かぼそいものを生かすということでしょう。
重 ほんとの近代人には拘束されるものから遠のきたい気持がある筈ですがね…。
小 いや方々に自由を求め乍ら又一方に拘束をのぞむ気持もあるんだがね。しかし茶人はいけばな人よりも多分にくせ(*くせに傍点)がありますね。話は変りますが、土門さん、あなたはいけばなとあなたの生活とが結びついているというようなことがあるのですか。
土 そうですね。僕の場合、床の間は戸棚の変型みたいなもので時には本棚になったりしているわけですが、一輪ざしとか浜田庄司さんの花瓶とか机の上において必ず花はおいてあったね。
小 先生のいわれる床の間や机の一輪ざしというのは茶花なんですよ。ところがいまではね、その花の美のよろこびを指導しないで、例えば冬は椿の一輪を、夏は一輪のてっせんをという風に押つけてしまうだけ。
重 つまり根拠を説明しないんですね。
土 僕の親父の時代には床の間がありましてね。青磁の花瓶があったりしてね。僕みたいな貧乏な庶民の生活では床の間や前栽をあそばせない。そして花の世界ではね、いま小原さんが一輪ざしをいわれたが、その一輪ざしから盛花になった。われわれはまだ一輪ざしだよ。しかし小原さん、この戦災後は一般に床の間への概念が稀薄になったのではないですか。
小 確かにそうですね。私もね、床の間という旧来の概念をのみ墨守することよりも、もっとそれを発展させるべきだと考えてますよ。これはわれわれはもとより建築家の人々にも考えてもらわなければならないんですが、私などはね、いつか新しく建増しをした客間の床にね、何号だったか、油絵をかけて暫くたのしんでました。旧い考え方からすればおかしいのですが、私は私なりにそれで結構楽しかったのですよ。
土 よくいわれますが、戦前のいけ花は床の間芸術で戦後のいけばなは床の間から完全に開放されてますね。
重 いけばなが床の間をはなれてデパートに展示されるということについては、意識の奥にある本来の気楽さというようなものが大衆の前に出て来たといえますね。
小 戦前の花展では床の間のものを拝借した形式だったのですが戦後はそうでなくなりました。デパートでやるにしても全く新しい場を設定してしまいましたよ。かなりの展覧会でもね、私がみているとデパートでやっているというだけであの二尺何寸かという花席はまあ床の間の延長ですからね。だから私などは床から直接天井にとどくものをして花席を否定したりいろいろと新しいものをしてみているのですがね。しかし大衆は迷いがちですね。
土 新しい花にですか?
小 いや、やはり旧床の間的な場のみがいけばなの場だと思っているのでしょう。
重 大衆に対する啓発が足らなかったともいえますね。
土 しかし小原さんの前衛挿花に対する大衆の理解とか関心は割に早かったのではないですか。
小 私達の考えていたよりも早かったですね。
重 いけばなと写真と、戦前はこんなつながりはなかったのでしょう。
土 なかったね。
いけばなと写真
重 いけばなは作品が残らないからどうしても写真でなければならないのですが、かつてはいけばな人は写真のメカニズムに気がつかなかった。
小 関東では勅使河原さん、関西では山根翠堂さんが写真には熱心だった。山根さんのは美しいポーズだけだったが、カメラ・アイにピタッと合ったのは勅使河原さんでしたね。
土 しかしね。勅使河原さんの場合、婦人雑誌の解説のページとして撮ったんだからこれは当然なことで、ジャーナリズムが挿絵的にとりあげる前に、写真の魔力性といけばなの多面性を結びつけて考える人があるんじゃないかと思うんだがな。自分の花を写真にとって残すという人はなければならないね。
小 絵や彫刻とちがってその点いけばなははかないらね。私なども写真をとるためというと、もっともこれは作品というよりお弟子さん達に指導するためのものだけれども、そうした習作だね。そんな時には自分でもカメラをのぞいてどうしても作品を比較的平面的な構成にしてしまいますよ。土鬥さん、あなたの場合作品をねらわれる時に、よく作品を部分的にキャッチされる場合があるでしょう。はじめはね、なかなかあれが、つらくってならなかったのです。 が、この頃ではその部分的なものにかえって魅力がありますね。土門さんのカメラ・アイで捉えられた作品はね、或場合には作品そのものよりもカメラ作品の方が人に訴える場合が多いですよ。
土 小原さんがそう思って居られる頃には私の方が変って来てね、この頃では全体を撮りたいと考えてる。例えばいけばなの作品生命は花器から上にあって、次に葉とか、枝だから中心的な生命をとればよいと思ったが、どこまでも全体を撮らねばならないと思うようになった。
小 しかし僕はその部分にこそカメラ・アイから見ての良さを発見されたら、部分でよいのじやないかと思うけどな。
土 これは全体か部分か…小原さんのお話は結構ですが、両方の良さを生かすという意味で優秀なところとか、部分を両方から撮り全体の構成を見るために単純な組写真を利用したらよいですね。カメラはモチーフを捉えねばならないのですが、たとえば花をやわらかい木と撮る場合、マチェールの味が出ない。近よって手にさわった質感で判断します。
小 それは絶対必要です。昔は形態第一主義でしたが、今はマチェールが重要なのですから‥。今全体を撮りたいと言われたのはいけばなに対する同情的な見方ですか。
重 いや僕はカメラに対して忠実になったと思いたい。カメラという機械に対して慢心があったのではないか、年老った故かねえ。昔のはパチッとしたデフォルマシオンの強いものだった。
土 僕は写真家として対象そのものを尊敬しようと思うようになったんだよ。
重 後退したのではないですか。
土 いや決して後退したのではない。私は前進だと思うね、ただね、どうしたらよく撮れるか、一体バックをどうしよう、光をどうしようか等々大した問題だ。写真を撮る時バックには実際悩むよ。
小 話はもどりますが、土門さんがいけばなを撮すときいた時には非常に興味が湧いたものでしたよ。僕の友達に和井田友助という友達がありましてね。アマチュアだけど写真がうまくてね。三越で写真展をやったり、室生寺やあちこちで写真撮ったり、異色作家でね。これがずっと前、今人に知られていないが土門拳という人があります。これは今に日本一の写真家になりますよ、と言った言葉を、その時思い出しましてね。
重 余談ですがこの和井田氏は井上覚造氏と住んでいる人です。
土 うん。うん。花屋勘兵衛、中山岩太など面白いセンスのある男だがねえ。
重 僕が先生の名前をきいたのは森融からです。
土 僕は二十五位から、すぐに色んな人から眼をつけられた。僕は写真界ということを考えずにいきなり社会にとびこんだ。写真界はいけばなの世界のようにせまい世界だからね。社会に出て画家や文学者に支持された。それはその頃の生き方としてはいい方なんだ。悧巧な方法でしょう、その世界でまごまごするよりも社会的に足場を築くというととが――。
重 小原先生、これからは社会的にもっと動いてもらいたいと思いますね。いけばな全体を社会的な巾を持っていく事のために、問題をどんどん打出す時ではないでしょうか。
小 そういう意味で今年は頑張るし、またそれには土門さんにも協力してもらいたいと思います。
土 小原さんのいけばなは割に撮り難いのですよ。しかしエスプリ、アイデァを持っているでしょう。だから小原さんの作品では嫌いなものはありません。東京では工藤さんのが撮りにくい。ポジションとアングルに固定したものがない。つまりここからというものがない。デパートの壁をバックにおいた時に一八〇度の半日の角度からでもいいのに、ここというところが掴めない。或る葉と葉は重っていてはまづい。或葉の重なりは美しいという風にいけばなとしては正しい立体的空間的な存在だが視点が一つしかないのは撮りにくい。
小 偶然だが光園さんのもそうだとすれば小原流のカラーがあるんだね。
土 一つのものをカタマリとして見る観念がなければならない。
重 中身の大きいことはたしかに言えますね。
土 光園女史がね、椰子の葉をね、二本つきだしたね。花器は石膏でね。その他そんなに沢山の作品を具体的に知ってはいないが腹の中では舌巻いています。小原さんもそうです。「森の掟」でも、そうでしたよ。
小 撮して貰うのだからという考えや当てこみが僕にはないね。
土 写真家は非常に人のいい立場です。その人をけなす立場では撮れない。必ずそのよさを伝えるためにカメラを扱います。警察の犯罪写真は例外ですが、すべて賞め讃える善意に出発しています。僕にいわせれば写真家は死後、神の座の隣りに来いといわれると思います。こんな善意に満ち満ちた気の好いものはありませんよ。また僕はね、人間の文化的な活動としてどんな下手な花でもまごころこめて写真撮ってるよ。
小原・重森 アッハッハ…(笑)
小 僕達も花をいける場合、どんな素材でもいいものをもっている。それをつかみ出し生かしたいと植物の美しさを表現することに努力する。僕達も神の座にすわれる筈ですよ。
土 いやそれはわからないよ。植物は神のつくったもの。それを賞めたたえ、神の作った美しさの発見、力強さの発見が芸術の生命だと思うのに、大方のいけばな作家は神のつくったものを美しく引立てるどころか醜悪にしている。
小 アッハッハ、これはなかなか手きびしいね。
重 ではこの辺で。