1994年、『表現者としてのいけばな』展 バブル経済末期における現代いけばな状況
会期/1994年8月16日(火)~22日(月)休館→28日(日)
会場/名古屋市民ギャラリー7階全室
主催/財団法人名古屋市文化振興事業団
「表現としてのいけばな」企画委員会
企画/石田秀翠、かとうさとる、三頭谷鷹史
名古屋市文化基金事業
展覧会図録 1995年3月発行
財団法人名古屋市文化振興事業団
エディトリアルデザイン 落合紀文
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1980年代から90年代のなかば頃まで日本経済は活況を呈し、バブルの絶頂にあった。
この頃、自治体や企業が持っているありあまる資金は、土地開発、街区の再開発、それにともなう巨大な高層建築物に注ぎ込まれることになった一方で、「メセナ」と呼ばれる活動も活発になり、さまざまな文化事業が展開されていた。
フラワーデザインでは、今まで費用のかかることで敬遠されてきたヨーロッパへの渡航が盛んになり多くのデザイナーがヨーロッパで学び、またかの地から数多くのトップデザイナーが来日してデモンストレーションが繰り返された。
いけばなでは、巨大な作品が数多く生まれた。新しくできた建築物や巨大なアルミとガラスでできた吹き抜けのエントランスに見合ったような作品が求められていたのだと思う。
戦後、床の間から抜け出したいけばなは、素材を疑い、表現を疑いながら芸術として成長し、さまざまな空間で試されるようになったが、植物を使った美術の側からのアプローチとどこが違ってどこが同じなのか、そのアイデンティティが問われるようになっていた。
ここで紹介する『表現者としてのいけばな』展は、この時代の状況を強く示す歴史的な展覧会だったといわれている。「現代いけばな」というものを考える上で避けて通ることのできない歴史的な展覧会の図録からこの展覧会を企画した3人の花人、評論家が書いたテキストを抄録する。
この時代に提起された「つくること」「いけること」にまつわる問題はどこかで解決されたのだろうか。
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「表現としてのいけばな」を企画して 石田秀翠
最近、流派の型にとらわれない現代いけばなの表現方法が論じられ、いけばな公募展、グループ作家展などが数多く催されている。
今回名古屋市民ギャラリーにて財団法人名古屋市文化振興事業団の主催で現在東西で活動中の十名の代表作家による「表現としてのいけばな展」-8月16日~28日(*1994年)が開催された。各作品1ブースごとの広い空間にいけばなインスタレーションが展開され、コンセプチュアル・アートの分野としての新しいいけばなの方向性を提言した。この形式の展示は全国的にもめずらしいもので新しい芸術文化にややもすると受身的な名古屋から全国的に発信するという話題を呼んだ。
現代いけばなの発生は意外と古い。 1930年代に第1次自由花運動が「新興いけばな宣言」(*1933年)として起こり、日中、太平洋戦争で中断。戦後、1945年秋には前衛いけばな運動が復活、中山文甫、小原豊雲、勅使河原蒼風らにより、いけばなオブジェが発表され、素材も非植物の鉄、石、そして流木などが使われるようになった。これにはアンフォルメルやシュールレアリズムの影響を強く受けている。
1950年(*年代?)の後半になると、床の間や花器からの解放運動が起こり、野外いけばな展や、都市環境とかかわるモニュメントといった新しい空間に対する挑戦が行なわれ、古木を組み合わせたり、着色したり、又、異質素材との合体による、木と石、木と鉄など表面加工の技術も現代彫刻と同じように導入されていった。
1960年代には流派を離れた個人作家として中川幸夫などにより植物の内在する生命の美の抽出表現を主体とする作品が次々と発表された。パフォーマンス的ないけばなとしてカーネーションや菊の花びらを発酵させたり、草木の染料による絵画的なドリッピングも表現方法として出て来た。また、日常性を非現実的に芸術化するヨーゼフ・ボイスや、ウォオホールなどのポップアートの思想も影響している。 1970~80年代にかけてデビッド・ナッシュなどによるエコロジカルアートやアースアートの考え方が自然物を素材として作品を即興的に組み合わせるという従来のいけばなの伝統的手法や、自然物に対するアニミズム性に共通点を見い出し、今日の表現としてのいけばなが成立して来た。今回の催しも日常的な会場空間を非現実的な異空間に変えるという大がかりないけばなインスタレーションといえる。
会場の作品群も正面からだけでなく、横からも後からも、また、観客は作品の周りを歩きながら鑑賞することができ、従来の正面性を作品の主体とする床の間のいけばなの考えを360度(*180度?)変えている。
しかしながら最近の造形美術の各ジャンルもミックスメディアの時代に入り、芸術表現の媒体を混用した枠組を越えた活動が多く見られる。モダンアート展などでは絵画・彫刻・陶芸・書道・伝統工芸といった従来の枠組を越えた新しいジャンルが構成されている。また、映像や各種のデザインや民芸クラフトの世界も製作活動の多面性が展開されている現状から、今回の出品作品群も決して目あたらしいものとは言えない。
今後の課題としてこれらの現代いけばながその分母である700年余の日本いけばな史観の中でかかわって来た有機性の植物観と、どのように位置づけて行くのか、そして、いけばなとしての主体性をどう理論体系の中で同調させていくのかが、問題である。単に造形面の意外性や他の造形分野との類似性で終らせないようにすることが最も重要な点である。それには自然を愛しその中に内在するイデアとしてのエロスの表現や感覚的世界の個物の原理としての自然観と人間との永遠不変のかかわりを持ち続けることがいけばなにとって大切なことである。これらを作者一人一人がどう真剣に作品の中に昇華させるかということが深く追究されない限り、この表現としてのいけばなも、単に流行の一過性として社会から認知されないままで消えてしまう恐れがあろう.
-『日本女性新聞』1994年9月15日号より転載
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現代いけばなの概況 かとうさとる
いけばなは自然を素材とした極めて日本的な造形であり、時間とともに消滅するため、表現としての芸術性が再評価されることは希でしかない。しかもジャーナルの不在はこれまでライブな評価すらなかったといってもいい。『表現としてのいけばな展』の会期中、現代いけばなが突然浮上したかのような一部の評価や戸惑いはもどかしかったがむべなるかなである。
さて、今回の企画展は石田秀翠、三頭谷鷹史、そして私かとうさとるの三名の共同企画ということで、カタログにおける私の役割は、現代いけばなの概況のまとめに関することと理解している。
いけばなは変化し発展する
現代いけばなについて、鑑賞レベルはもとよりいけばな内部での混乱のもとになっているものに、いけばなのモデルの問題がある。美術評論家の故赤津侃は『いけばな公募展』の展評(雑誌いけ花龍生)の中で、「いけばなは、植物を素材とした作品そのものの問題だけにとどまらない。生きた植物であれ、死んだ植物であれ、植物の不足のかたまりの断片から全体を想像させる。限定された素材で限りなく広がる自然のイメージを手ざわりで創り出す試みであり、作品をどのような場や状況で見せるかという方法論に問題の所在を発展させてきた。その結果、いけばなの現れ方も、空間掌握の方法論に従って変化し、発展する」と述べている。安直な引用で恐縮だが、赤津侃が指摘しているようにいけばなは「空間掌握の方法論に従って変化し、発展する」同時代性の表現であり、一般にモデルとされている類型のいけばなは、ある時代の成果ではあっても絶対的なものではないことをまず押さえておきたい。
現代いけばなの成り立ち
前置きが長くなったが、いけばなが手軽なカルチャーとして空前のブームに沸いていた、60年代の後半から70年代にかけて、東京を中心にいけばなの新しい試行がはじまった。勅使河原蒼風に代表される戦後の前衛いけばなが鉄や大谷石など無機質な素材を異質素材という名でクリアし、芸術志向を鮮明にしていったのに対して、この新しいいけばなは植物とナチュラルに向き合うネオ・アニミズムとも形容されるものだった。芥川賞の概念を一変させた三田誠広の『僕って何』がベストセラーになった背景を重ねあわせると、形式や秩序からの逃避願望のささやかな自由を求めた、このマイナー思考のいけばなが時代の感性と同時進行していたことに気がつく。
今回の出品者の一人である大坪光泉は『龍生展のゴミ1/5』(1971年)という作品を発表しているが、この作品は前衛いけばなの方法論でも、伝統的いけばなの方法論でもなく、初めて設置すること、関係を提示することで作品を成立させた。つまり、つくることからも、いけることからも、自由をえた画期的なものであった。
雑誌『いけばな批評』(1973年~76年)をとおして、こうしたいけばなは”現代いけばな”の名称で全国に発信され、76年にはアンデパンダン形式の『いけばな公募展』に発展していった。余談にそれるが、当時地方で同時進行しながらも手だてのなかった私にとって、このメッセージはまさに地獄の池におりてきた”カンダタの蜘蛛の糸”だった。幸か不幸かこの糸は、いまだ切れていない。
それから1/4世紀が経過した。この間、”植物たちの生”という言葉に象徴される『70年代いけばな』、現代社会の狭間に有機的な空間を仮設した『80年代いけばな』と連続的様式の展開があったはずなのに、その存在さえ知る人ぞ知る域をでていない。
しかし、ここにきて時代の巡りあわせか、ようやくというべきか、100周年を迎えるヴェネツィア・ビエンナーレのコミッショナー指名コンペの試案で、水戸芸術館現代美術センター美術監督の清水敏男がいけばな作家の中川幸夫を推薦するなど、現代いけばなが確かなものとして顕在化しはじめてきた。
清水敏男はコンペの試案のなかで、西欧モダニズムを乗り越えるための提案として、「いたずらにそして表面的に文化を撹拌するのではなく、より深いところで内部変革をとげつつある文化を提示すべきである。そうすることによりはじめて破壊でない創造の時代の方向を示すことができるのだ」と述べ、「中川幸夫はヴェネツィア・ビエンナーレという場に最も外部からアプローチする作家であり、同時に最も内部の深いところで影響力を行使する作家である」と結んでいる。まさに毒をもって毒を制す、この試案が日の目を見なかったのはかえすがえすも残念でならない。
真摯な議論を深めたい
ざっと現代いけばなの成り立ちと現状について述べてみたが、『表現としてのいけばな展』を終えたいまも、現代いけばなには危うさがつきまとうという指摘が一部にある。現代陶芸が土、成型、焼くという出目(*出自?)をどこかで矜持しているのに対して、現代いけばなはそのアイデンティティーをどこに求めるのかという指摘である。自然との関係の修復が求められているいま、植物という命のある素材に目を閉ざすことは自殺行為にしかず、という声も聞こえてくる。
耳の痛い指摘である。私は退廃や終末や死といった、ありふれた世紀末のイメージが社会全般を覆っているいまほど、表層的なナショナリズムではなく、真の伝統の在り方が問われているときはないと思っている。いけばなも例外ではない。名目論ではなく素材と手法の関係など真摯な議論を深めたいものだ。
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現代と文化水脈 三頭谷鷹史
今回の企画展の焦点の一つは、いけばなのアイデンティティーをめぐるものであったように思う。表現方法や素材の激しい変容が、いやおうなく「いけばなとは何か」という問題を投げかけてくるからである。会期中に開催されたシンポジウムでもこの問題で熱い議論がなされたが、一方、こうした議論は20年前、30年前から変わっていないといった感想をいけばな関係者から聞いた。 しかし、従来のいけばなとの比較による「これでもいけばなか?」といった時代は終わっている。
むしろ隣接ジャンル、とくに現代美術に驚くほど接近している現実を踏まえた思考と議論が必要な段階にきているのではないか。出品作家の展覧会歴を見れば一目瞭然だが、かなりの作家(*いけばなの作家)が美術画廊での個展に相当のエネルギーを割いている。 1980年代に入ってから、目立って見られる動きであり、展覧会手法や場における現代美術との接近を意味しているが、現代いけばなの作品展開にも影響を与えたであろう動きである。
こうした流れを受けた今回の企画展では、一作家一ブースの個展形式をとり、ポスターやチラシでも美術展的手法に準じ、ただ、展覧会タイトル「表現としてのいけばな」の「いけばな」四文字のみで美術展との差別化を図った。そのためだと思うが会場を訪れた美術関係者の疑問もこの四文字に集中したようだ。「いけばな作品と呼ばなくてもいいのでは」、「タイトルにいけばながなかったら美術展として見ただろう」というのが、最大公約数的な意見であったように思う。
では「いけばな」の四文字を消滅させた方がいいのかどうか。なるほど現代いけばなが現代美術に接近したというだけでなく、現代美術の方にも自然素材に取り組む作家が登場することで、いけばな的世界を共有するようになってきている。美術関係者が今回の作品を美術作品として認知する背景には、現代美術における素材と表現方法の拡張があるからなのである。また、美術側からの一本釣り、特定の作家を現代美術展へ招待するといった現象は増えていくかもしれない。悪い現象ではないが、いけばな作品から美術作品への転用で、あまりにも一方的であり、いけばなと美術の対等な議論には行き着かないように思える。四文字の消滅を急ぐことはできない。
今回の企画展を細密に見ていくなら、いわゆる美術展との差異は様々にある。彫刻的マッスといったものを感じさせない作品傾向。線的世界への関心。植物素材ではなく、例えば針金などを使用した場合でも、枝ぶり的といってもいいような有機的造形が強く見られること。出品作のすべてがインスタレーションであったのは、美術より徹底しているし、おそらく、現代いけばな固有の歴史が反映しているのだろう。美術から見れば特殊な要素だが、これらの特殊を組織的に議論のまな板にのせ、洗い直すべきだと思う。アイデンティティーは求めてえられるものではないが、現象している様々な要素を検討し、アピールしていく必要はある。美術側が美術史や理論、学校教育、美術館や画廊といった美術システムを総動員して新たな美術動向の社会的アピールや定着を押し進めるのに比べて、いけばな側か何もなしえていないことが問題なのである。
別の角度から考えてみよう。いけばなのアイデンティティーが問われることがあっても、美術のアイデンティティーが疑問視されることは、めったにない。美術には無自覚な美術中心主義があるというほかないのである。しかし、美術の成立根拠がそれほど確かというわけでもない。
明治以降の急速な近代化を背景に、西洋美術に規範を求める形でわが国の文化が再編されたが、欧化と国粋の抗争をへて、日本画と洋画の二大勢力が共存するという奇妙な分断現象が定着した。さらに、書や工芸、いけばな、茶道などを美術の周辺に遠心分離させることで、美術の純粋化と求心力を獲得するようになった。日本美術の近代的な枠組みは、異文化の急激な流入による文化崩壊をさけるための妥協策によるものであったと考えられないだろうか。
やむをえない妥協策だったとはいえ、このことで、複数の文化水脈がぶつかり合い、融合し、新たな水脈をつくるといった文化のダイナミズムが失われた。例えば、日本画は洋画と競合することで革新を果たしたが、新日本画が成立、安定した以後は停滞し、新たな動きを本格的には生み出しえないでいる。飛躍的な変化を見せたのは現代美術である。ただし、洋画と西洋彫刻から展開したのが現代美術で、今日でさえその宿命を背負っているかのように、海外からの波や刺激がないと国内も活性化しないという弱点を抱えている。本来なら現代美術の中に脈打っているはずの自前の水脈が、分断と分離によってせき止められてしまったからだと私は考えているが、現代いけばなの問題は文化水脈の問題と重なり、現代美術の課題とも重なるはずなのである。
出品作が高い水準を維持した展覧会であったと思う。個々の作品について論じたいと思いながらも、今回はあえて企画展全体について述べさせてもらった。現代いけばなと美術の現在位置についての議論を提起したかったからである。しかし、この現代いけばな、いけばな領域以外の人々の目に、まだ見えていないのではないか。名古屋では、今回の展覧会に訪れた美術関係者や美術愛好家のほとんどが、現代いけばなに初めて触れることになったというのが現実である。美術その他の、可能なかぎり広範囲の人々を巻き込む企画展や議論を展開すべきだと思うのだ。内側にだけ向いた組織、展覧会、議論は面白くないというだけでなく、いずれ衰弱するからである。
『日本女性新聞』1994年9月15日号より転載
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