日本いけばな界 1952(昭和27)年の状況 勅使河原蒼風と小原豊雲の対談  『小原流挿花』1953年1月号から


『小原流挿花』1953(昭和8)年1月号の対談企画のページ


◎今回の対談の司会を努めた重森弘淹氏の父、重森三玲氏や勅使河原蒼風氏らが昭和8年に打ち出そうとしていた「新興いけばな宣言」は結局、発表されることなく消えてしまった。その理由はいったいどういうことであったのか。今回の対談でわかったのは、友人であった福沢一郎氏(日本にシュールレアリスム絵画を紹介した洋画家)が昭和16(1941)年の春に当局から拘束されたということである。先行するプロレタリア美術運動は改正治安維持法などを理由に警察から弾圧されるようになり、昭和9(1934)年に終息している。9年以降は、さまざまに研究は続けていたかもしれないが、実際に活動するのが難しかった状況があったと思われる。

●福沢一郎氏について(福沢一郎記念館のサイトから)

https://fukuzmm.wordpress.com/fukuz/

◎1952年、草月流家元、勅使河原蒼風は、アメリカへの旅(個展、デモンストレーション)を実施、たいへんな人気を得た。

◎同年、運営上の問題をかかえた「日花展」から草月流が脱退し、本展覧会はこの年の開催をもって事実上の終了となった。

◎新しいいけばな(前衛)とそれに異を唱える人々との論争は、前衛いけばなに軍配があがろうとしている。当時のいけばな人は、新しいものを打ち出すために日々研究し、活発な動きを見せていた。

◎この対談は、小原豊雲氏が勅使河原蒼風氏を迎え、司会に重森弘淹氏が立っている。また、工藤昌伸氏と鮫島守一郎氏(『小原流挿花』『草月人』編集長、流風社)が同席し話に加わっている。

◎細かいできごとや、感想、人名などが興味深い。


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思い出話

勅使河原蒼風さんの個展その他


重森 勅使河原先生は最近、久振りに個展をやられましたから、今回の対談はその辺から始めて頂いたらと思います。

小原 大休僕たちは、勅使河原さんの個展は如水会館で見たのが初めてなんですが、あれは戦前のいつ頃ですか。

勅使河原 私はうろ覚えですが、みんなの言う通りだとすると、今年で十二年目だと思います。

小 一番最初は昭和十七年ですか。

重 もっと前ですね。

小 スケッチが出たりしていましたね。

勅 満支旅行をテーマにしてやったのがおしまいで、それからはあすこが使えなくなって、もう人が寄るような気持もだんだんなくなりましたね。あの満支旅行をテーマにしたのは、十六年の秋だと思います。

重 それは小原先生はごらんになりましたか。

小 見ました。記憶があるのは、見せていただきに行ったら井上正夫が来ておって、勅使河原さんから紹介してもらって、写真をとったことを覚えています。(*俳優、映画監督、書家の井上正夫か)

勅 井上正夫は死にましたが。

小 やはり花をいける調子が舞台でやっているのと同じなので、やはりこの人は舞台と普通のときと同じだなあと思った記憶があります。

重 あの白及会はいっまで続いていましたか。

小 もう白及会はあのとき流れていましたネ。

勅 そのちよっと前の仕事だ。

小 なぜそういうことが言えるかというと、支那事変の始まる頃に上野の寛永寺で、あの境内の燈籠に火を入れて、白及会のメンバーで戦勝祈願のようなことをやった。そして上野の有名な貸席…

勅 梅川だ。

小 そこでちよっと花を並べて、休んでから、その晩みんなで一パイ飲んで、そのメンバーがどこかへ繰り込むというような珍趣好があった(笑)いいかえると、それがまあ解散式みたいのものであった。

重 ちよっと、やけくそ気味でしたね。そうすると十六年くらいが勅使河原先生の新しい仕事の終りですね。

勅 その頃、もうすでに何かこう戦争鼓吹みたような臭味を帯びていて、お花も大げさにやれなかった。そして白衣の勇土(*戦傷病者)を招待するということがなんの催しでもきまりになっておった。芝居でも、うちあたりでも、陸軍病院の白衣の勇士がずっと来て、みなうちの連中が送迎している記念写真がある。もうすでにそのときは活け方でもお花でも、軍国調だったね。

重 ぼくは勅使河原先生にお会いしたのは戦後ですが、いつも雑誌なんかで着物姿ばかりがぼくらの印象にあったものですから、初めてお会いしたときはビックリしました。

勅 あの頃までは着物生活だったから、やはりそういう意味で一般が何かにつけてあまり西洋くさいものを喜ばなかった。そのもう一つ前に個展をやったときは、かなり自分の考えを露骨に出した。そのとき福沢一郎氏(*洋画家、シュールレアリスムを日本に紹介)なんかが見に来てくれていろいろ話したのですが、福沢さんが、もう一息こういう方向に持って行ったら造型美術と言えるなあという話をした。その後福沢さんはつかまえられて牢へ入れられたから、もうそれからいけませんよ。(笑)(*1941年に美術評論家瀧口修造と福沢一郎の二人が検挙、約7カ月間の拘留を受けた) 何となく前衛なんというものは全部睨まれて、福沢さんは入っているし、福沢さんの友だちだといって調べられたこともあります。そういうときだから、シュールレアリズムなんといっていられない。(笑)その次に今の現地慰問と来た。この現地慰問というものがみな非常につらかった。それで汪精衛政権というか、中央政府が樹立して南京で祝賀会をやった。それに私は献花に行った。非常に国家的のもので、私は汪精衛の官邸で活けた。その活けた菊も百合も日本から持って来たものだと喜んだなんていうのだから、非常に八紘一宇的のところがあった。

小 劇的の要素があったわけですね。

勅 軍部の調子がすごかったですよ。お花の先生でも何でもその方に使えというわけです。私らは行く先先連中の指図で司令部へ行って、そこで花を活けては傷病者慰問ということをやっておった。だから、もうちっとも気分も何も出たものじゃない。それこそ鉄兜に活けるということが褒められたんだから。(笑)

小 その当時萩 萩月あたりが、”火線の母”などでバリバリやったものだ(*萩 萩月の『火線の母』という陸軍の慰問団の様子を書いた作品名)。

工藤 (大原先生に話しかけて)主婦の友社で戦後すぐ勅使河原先生とやりましたね。戦後はあれが最初ですか。

勅 あれば非常によかった。がらりとそこで舞台が変ったわけです。なんにもない焼野原、そういうときに人々に活花のうるおいを与えてもらいたいと、主婦の友の石川武美(たけよし)社長が言って来た。あれは偉かった。

小 あれはたしかに主婦の友の傑作ですよ。あのときはなんにもありはしない。それで困ってあり合せのものでやりましたネ。それでもゾロゾロずしいぶん観に来ましたヨ。あの頃は痩せましたね。(笑)

勅 ぼくは痩せたがあなたも痩せた。

小 ぼくは国民服を着ておった。

勅 あのときあなたは十四貫か三貫くらい(*約52~49kg)になったのではないですか。

小 もっと少かったですよ。

勅 ぼくは一番痩せて十七貫いくら(*約64kg)で、ヒヨロットはしなかったが。

小 勅使河原さんは戦争中に木銃を持ってやったことはなかつたでしょうが、ぼくは年齢的に若いから、在郷軍人にひっぱり出された。だから痩せることはおびただしかった。

エ たいへんな被害でしたネ。

小 しかしあのときはちょっと楽しかったナ。あれがつまり東京の華道面に非常な刺激を与えた。これは大いにやれるというので、そういうチャンスを一般の人に与えた。

勅 その意味で二人展というのは、ほんとうに終戦後の華道界のために非常に功績がありますよ。

小 うちの国風会も、ちりぢりばらばらの会員とか教授者があの催しの打合せのために、初めて神田の龍名館に集まった。そのときに集まったものが四十人足らずですよ、そこから出発した。だからそれは小原流の東京復活に対して意義深い催しであった。

勅 まるで主婦の友を褒めているようだけれども、しかし石川さんという人は、やはりそういうところは先見の明がある人ですよ。ほかのたれもやらなかった。新聞社も何も手をつけなかったときに、このみんなのいらいらした、すさんだ気持ち対して、いけばなを見せたらどうかということは、ことに、女の人をこっちに向かせるのによい機会であったわけです。そういうことからポツポツまた方向が変って、それから今日のようなまったく自由な状態に戻って来たわけですね。戦争中は全然嘘の時間があったわけです。

重 さっきの支那の話ですが、国策協力ではあったのですが、中国をごらんになったことはずいぶん勉強になりましたか。

勅 なったね。

重 やはりあのオリエントという感覚が先生の作品に出ているのではないですか。

勅 ぼくはそれが出ているかどうかわからないが、私はそういろものに共感を持っものが非常に素質約にあるのでしょう。ですから私はアメリカヘ行ってちっとも、楽しいとか、感動するとかいうことをしなかった。しかし、焼けた南京、蘇州、その他新京にしても、ずいぶん支那では私は感動を受けた。だから私は日本人であり東洋人なんだね。それが全然無茶苦茶の状態のときだ。そのときスースーと私に響くものがあって、そういうものがこやしになっているのかもしれない。

小 実にそういう気がするネ。勅使河原さん自身そういうところに目を開かれておりますね。

勅 自分はこれを超脱しなければいけないという反面を持っております。そういったものは捨てようと思ってもくっっいているから、これはなるべく忘れよう、私の一部になっているので、今あなた方若い批判者に評価が悪いのは、そういう面ではないかと思う。(笑)それは覚悟していますよ。しかし私は隠居趣味やなんかじゃないつもりです。

小 それはそうですよ。ただ戦後の作品というので一般に新しいいけばなというものはできていると思いますが、つまりいけばなの古典から出発しているものは非常に大きいですね。勅使河原さんの中にも日本的のものもあるし、私の中にも日本的のものがあるのを認めます。が、やはり違うと思うんです。そういう新しいいけばな、勅使河原さんは漠然と新しいいけばなとして出発されたのですが、そこは私とは違う面があるのではないかと思います、私は前衛挿花といゝ、勅使河原さんは新しいいけばなといわれる。この漠然とした新しいいけばなという呼び方については、何か訳がおありなのですか。

勅 訳というほどの訳でなくても、ぼくはその当時、非常にいけばなというものは古いと思った。これはどうも男子一生の仕事とするに足らぬという感じはずいぶんしていた。それで私は草月流と名乗る前には、華道に対して嫌悪の感じが非常に強かったですね。どうかして花をやりたくない、何かほかのことで自分を生かしたいという気持があって、まあ一番親しんだのは絵でしょうが、そんなことにうき身をやつしている時分は、花に対して失望する面が多いからですが、ところがだんだんと時間が経って来て、その次の自分の覚醒は、そうでない。花というものはこのままにして置く必要がない。これはいくらでも新しくできるものだという気持に向って来たのです。これからはもう今まで自分が乗っていたものの方が従属的なものになって来て、専ら花をやりたいという気持になった。

小 それは結局一般的に勅使河原さんが花に失望しておられたというよりも、いけばな界に失望しておられたのではないですか。

勅 まあそうですネ。そして非常にお師匠さんというタイプに対していやな思いをしておったんですよ。

重 そういう点で、勅使河原先生の場合と違って家元を継がれたという立場で、小原先生は何かそういうことがありましたか。

小 ぼくは若い頃はあまり花をすかない、ということがあった。ところがすかないのはぼくの先代自身がそうだ。だからぼくが思うに、つまり勅使河原さんが華道界に対して感じられるようないやさを先代は非常に感じておった。だからせめてお花のお師匠さんらしいタイプでないように、お花のお師匠らしい仕事はしたくないということを非常に考えておった。ところが先代と勅使河原さんとはそこに違いがある。勅使河原さんはいやだと思って、そこに新しいものを考えようとなすったのは、やはり一つ時代が新しい。

勅 たしかに先代は違っていたよ。その話で思い出したのは、やはり、私なんかが日本の花で勇気を覚えたのは、ここにいる工藤君のお父さんの工藤光洲氏の存在であった。彼はもう絶対にお師匠さん型ではなかった。それはチャーミングなものでしたよ。それは非常に新風を放っておりましたね。東京の華道界にやはり新鮮なものを与えておった人としたら、工藤光洲氏ではないかね。そこへ持って来て小原光雲氏がドンドン後援しておったから、東京の華道界というものはどうしても新しいものに向わざるを得なかった。

重 男子一生の仕事にならないというのは、それからまた時代が下って、ぼくたちにもあったわけです。

勅 それとおもしろいことには、何かいけばなというのは魅力がある。たとえばぼくは水沢さんをひっぱり、土門さんをひっぱって来た。最初は決して本気ではなかった。それがだんだん抜けられなくなってしまった。それがこの頃は写真をとり出して、本気でやり出して来た。そして会があると何となく出て来て見るという気分が一般にずっと出て来ているのではないか。特に土門さん、水沢さんなんかが最近非常に中途半端なところへ入って行って、いつとなしに抜けられなくなる感じになった。

小 しかしいけばななんというものは、あやしき雰囲気を持っているね。(笑)ちょっとこれにだまされたら、そう簡単に元に還れませんよ。

勅 それは私はあやしきという言葉でもよいけれども、非常に盲点がある。これは今までの造形の現わし得ない世界をやっているのだから、たまらないですよ。

小 今のいけばなの新しい作家たちをみてると、若い世代一般にあるのかもしれないが、パイオニア、つまり、開拓者的な意欲がずっと高まっていますね。それだからこそ今いけばなは動いているのではないかナア。

勅 私の今度個展をやった目標は、一つはデパー卜でやったら、いくらやっても見る人がきまってしまう。デパートの花の会というのは、もう限界がきてしまっていると思うので、やはり個展をやって、振幅いっぱい見てもらいたい。そういうものが開催できる性質のものであるということになったら、そこからほんとうの批評が出て来るだろうと思った。今度も非常に世間も注目してくれている時だからちょうどよかった。ほかの芸術家や批評家で、観るのは初めてだといういろいろの人が見えましたヨ。(*1952年、如水会館)

重 あれがデパートであった場合は、案外人が来なかったのではないかと思いますネ。

勅 もっとよいことは、あれをやったために、今度のうちの流展(*1952年11月、銀座松坂屋)にそういう連中が特別出品をしようという気になった(*第28回流展における特別出品室)。それまで本腰でなかったのが、あれを見て、これならただちにやろうじゃないかということで、まああわただしい準備でもあれだけのことをやってくれた。まあわれわれから見て、ああいう他の芸術家の作品が出た、りっぱなものとは今のところ思えないけれども、ああいう人たちがともかくあすこまでやってくれたということは、ずっとこの次に期待するものができて、非常に希望が持てると思う。あれはよいことだ。

重 そういう意味では、逆にいえばいけばなの中によい意味の通俗性があるわけですね。つまり文学者が俳句をひねるという一つの傾向と似た面があって、やはり俳句というのは非常に広くやるものです。何かそういう点にずっと長い伝統の大衆性というものがいけばなの中にありますね。そういうところから全面的に新しいいけばなが離れてしまうことは考えものではないですか。やはりいけばなというものは、そういう非常に生活的の面とくっついて行った方が、伝統の正しい発展のさせ方になるのではないですか。

エ それはあるでしょう。ただ俳句というような範疇になると困る。

重 俳句も新しくなろうとしている。これはいけばなと違ったもっと深い制約があるから…

小 それは文学的の面と造形芸衙の面の違いだね。しかしこっちは俳句的のものじゃないね。これこれのものだといって言い切ってしまえばおしまいだ。が、また取上げ方の場合に、ああいうような大衆性というものは似ているのではないか。

重 ぼくがそれを言うのは、通俗性という意味で取上げたけれども…。

勅 今度はここでとにかく村井青々君、本郷新君、佐田忠良君(*佐藤忠良氏ではないか?)、みないっぱしその道の達人だ。今の新しい方でわれわれの尊敬している人だ。その人たちが実際やってみて、おもしろい、これはたまらぬといっている。(笑)それと同時に、あっさりできると思ったが、できないといっている。これは一つよく聞いておいてもらいたい。今までいけばなの批評なんかを非常に簡単に片づけたが、やってみてょくわかった。おもしろさもわかった。何かあと、どうしてもやらずにいられなくなったと言う。

小 その点で今度の勅使河原さんの企画は非常によいことですね。たしかにそうだ。ああいうことによって、つまりもう一つにはいけばなの社会性というものをふっと身につけてくる機会が今度できたのではないかと思う。いつまでもデパートでやっても、こそこそやっているような感じで、若い人はお花を見に行くというと、何か変な感じがするのではないかという感じが先に立っていたようですからね。

勅 そんなことはなくなりますよ。

重 今は堂々と行ける。

勅 以前はもし相当な人の息子がお花の先生になりたいといったら、親は歓迎しなかった。画家になるといっても喜ばないけれども、お花の先生になりたいと息子が言い出したら、どこの家庭でもたいへんなことになる。この頃はあまりとんでもないと言わなくなった。ずいぶん若い人でも、お花の先生になりたいからよろしく願いますと、親がついて来て言うようになった。そういうような感じを持たすようになったことは私たちの努力した一つの結果の現われだと思います。

小 お互いにその功績は大きい。今の話は、大分古い時代に、大阪の三越ホールであなた方がいらしやって、そして中原華外なんかが何か夏季講座みたいのことをやった。そのときにまだ私のおやじなども元気であった。その時分に勅使河原さんが東京からわざわざ来て話をして、かなり関西華道人たちの間で話題になった。そのときに、これまでのいけばなは不具者か(笑)少し中性的なやつか、そういう者でなければお花はやらなかった。(*不適切な表現ですが、時代と資料性を考慮して、そのま転載しています)ところがこれからのいけばなは最も健康で、最も教養があって、よほどしつかりした精神を持っている者でなかったら華道をやってはいけないと思うと言われた。なんかぼくらは若気の至りであったが…

重 それは私どもの時代でも大インテリがやったわけですから、あれだけのものができたのだと思います。

小 そういう点で、まあ根本的に教養のあるしっかりした者が華道面の先頭に立って活躍していない限りやはりよい作品とか、よい仕事はできやしない。その点で現在はちよつとバリバリと少し揃っているところだ。

勅 他の芸術界、文化人一般がこれに興味をもって応授をして来るようにならなければいけない。これは別世界だとして行ったらだめです。また事実そういうふうになりつつある。

重 なって来ているのではないですか。


日花展について

(*前年に草月流は文部省主宰の第三回日花展を目前に脱退し、文部省主導の天下り的な運営が問題となっていた日花展はこれを最後に消滅した)

勅 私は今年は一番おもしろい年ではないかと思う。そして前衛いけばなのあまり意図的な県展やインチキ展がもう少し本格的に動いて行く年ではないかと思う。

小 しかし勅使河原さんの個展(1952年、如水会館)を見せてもらったときは、今話されるような心境で、新しい前衛的の作品の上にいわゆる日本的な深味や落ちつきというものを復活させなければいけないという兆しがぼくには感じられた。第一これまで最も積極的に、ラッカー吹きつけなんかを盛んにやって、豪華絢爛と見せた勅使河原さんの作品傾向が非常に渋く、素材の自然色の間におもしろさ、美しさを見せようとする努力が非常に見えて来た。私はその点如水館という会場においてやられる展覧会だから、もっとどぎつく、人工的な着色がもっと積極化されると思ったら、逆だったので、びっくりした。

勅 それは骨を折っては今でもやりますが、そういうことは私の今の仕事の中で大きい部分は占めていないのです。ああやってみると、そういうものもちっとはあるけれども、ほとんどはそういうものじゃないのです。やはり前衛というものはそんな何かわざとらしい、現代化というか、現代観というか、あるいは洋風化じゃないのではないかと思う。急いで洋風を装ったり、身にまとうみたいというととだけが大事なことじゃないと思いますね。だからといって、渋いといわれたがそこらはわざとでなく、自然にそういうことになっていますね。

重 それは新しきものに対するいろいろな批判があった。同時にそういうことはたとえば日花展なんかでも、非常にそういうものを攻撃して来たわけですね。当然そこで日花展なんかが問題になると思いますけれども、一足先に勅使河原先生が脱けられたわけですが、日展というものについての勅使河原先生の現在のお考えはどういうものですか。

勅 私は日展に対しては、今度は流全体が脱退を声明しているから、もちろん自分は日展に関係しないが、日展というのはやはり日展らしい形で、あれはやって行ったらよいものですね。

重 それはたしかにないよりあった方がよいと思いますね。

小 日花展というのはあってよいと思います。ただそれはそんなにいつも最高峯でいるみたいにしょうと思ったってできない。あれはあれで適当にお役所の仕事としてやって行った方がよいと思いますネ。

重 ですから、よい在野展ができてくれば、日花展の性格もおのずからきまってくるような感じがしますね。

勅 たとえば日本画なんかよい対象だと思うけれども、もう実際日本画なんというものは多少影響が薄いでしょう。これはすばらしい作家が出ればまた違うかもしれないが、作家が貧困のためもあるかもしれないが、日展を母胎として日花展というものが今存在している。あの性格というものはそんなにすばらしいものじゃないですよ。日展というものはそういったものをなんでも集めて、いつでも非常に通俗的にやって行くというような性格でよいのではないですか。工芸にしてもそうです。

重 だから美術の日展でも、なんとかかんとかいいながら続いておりますし、事実田舎の人なんかはああいうアカデミックなものを見て、それで美術的の目を開く。そういう意味では、啓蒙的でよいものですね。ですからいけばなの日展も、そういう啓蒙的の仕事のような存在にしろというので、そのようになり得るでしょうか。

勅 そういう社会的な業績というものをあれがはっきりと認識して来て、あれに同調することによって作家の創意を保存するみたいになってくればくるほど、多勢のうるさい華道界はみなこれに入って来る。そうすると総花的に教育的にしなければこれはきっと運行できない。だから水準を甘くして、たれでもがある程度あすこで仕事ができるように甘いものにして行かなければならない。日本画なんかでも、岡倉天心がいていろいろうまく指導していたときはすばらしいものだったが、その後その惰性で実際今ではきまりきったものになってしまった。それと同じだ。

重 つまり日展も必要であったわけですね。

勅 私は必要だと思ったから、小原さんも誘って、二人で夢中になってこしらえた。こうしてこしらえたものだから、私はうちのものに言って、こしらえなければいけないものだと説きつけて、なんでもよいからやってみてくれといってやってみた。だからこれは必要には違いない。このことだけはたしかだ。私はこれから先も必要だろうと思います。

小 無為無策の何か低調なものが、年一回でも開催されているということは、ぼくは出している華道家自身が惨めだと思いますね。

勅 それはよい。この間も中山さん(註・未生流新花家元 *中山文甫氏)が個展を見にきてくれて、汽車に乗るまで一時間くらい話したが、何か考えさせられるものがあったらしい。殊に日花展というものに対して流をあげて関係するかしないかということについては、自分なんかの責任は重大だ。やはりああいうようなものに入れば左右を見ながらちょうどよい仕事をして行かなければならぬ。これに流を結びつけてしまえば流の特徴がみなそこに行ってしまう。日花展というものに対しては大いに考えさせられるといって、おそらく中山君なんかでも出さないのではないですか。

小 中山さんも性格的に純粋だから、最も日花展に魅力を失っているでしょうね。

勅 そういうような人があってもよい。また違った方で活動する人もあってよい。日花展は日花展でやって行く。あなたの言われているようなものもあってよい。

小 しかし今年は何かいろいろな腐れ縁との総決算というような年だね。

重 だから戦後いろいろなものが出て来たやつが今年は一応整理されるというんでしょうね。

勅 落ちつくところに落ちつくという端緒を持つということになるかもしれない。

小 たしかにそういうことが言える。


今後のいけ花の在り方

勅 入場料をとってちゃんと見るようなものにしなければ、花道家は作品から生活の資を得る手段は発見できない。やはり人に教えるあの形態しかないことになる。しかも写真とか絵しか自分の作品というものは残らないとすれば、やはり演劇とか映画と同じように観賞してもらう人に払ってもらうよりほかない。どうしてもこれは展覧会に入場料をもらってやらなければならぬので、同時にそれによって生活ができるようになったら、そんなに教えることばかりに憂身をやつさぬから、いやな伝授形式みたいな変なことは大切じゃなくなってくる。今は何で暮らすかといったら教えて暮らさなければならぬ。教えれば、やはり有力な流名をどれか一つ持たなければならぬ。その流派に入ればその流儀の式にいろいろ縛られなければならぬということで、どうにもしようがない。これが今のところの状態です。だから大流はますます膨脹する。無名の流儀は商売ができないということになる。

小 この頃はそういうことが一部小流派というか、一部の花道人の間で話題になっていますね。

勅 私はむしろ重森君なんかがそういうところをにぎわしているのだろうと思う。前からでもあることだが、それで急にそうなったんじゃないか。(笑)

小 最近そうなりつつありますね。ことに生活問題ですから、切実なんでしよう。

勅 それなんです。これは一番大事な問題です。とりあえずこれで暮らせるようにしなければ勉強もできないし、そうするとやはり通りのよい流儀を選ぶようになる。

重 だからそういう人たちを集めて座談会をやりましても、作品のことについては何ら言わない。そういうことについてだけ饒舌になる。

勅 それは一番大切な問題だからだ。

小 そうすると、勅使河原さんやわれわれが槍玉にあげられる。

勅 それはあげられるネ。(笑)

重 それから大流は年に何回か大きな展覧会をやるが、小流はそれができない。

勅 うちなんかでも、ある全体の流儀の人が門下をそっくり率いて草月流に転向して来たというのがある。つまり小流が進んで合併してくる。それを少しこっちは再教育する。

小 そういうことはあるね。

重 全体の問題として、いけばな界がよくなって行くという方向にあれば、それでよいわけですね。

小 その方向には向いているわけだ。

勅 あなたがやられる仕事はずいぶん華道界のために役立っている。私はどうも地方にあまり行かないで評判が悪いのですが、あなたはよく出られるのでそのために、あなたの方は地方のみんなが非常に喜んで、力強く思っていますね。うちの師範の会をこの間地方から来た人たちも入ってやったが、そのときに小原先生はちゃんとおいでになる。こちらの方は肩身が狭い、どうして呉れると大分やられたヨ。これはやはりいけないことだ。これはあとがうまく行かない。この間初めて北海道へ行って、喜ばれましたよ。

小 家元が地方を廻ると流内教授者は非常に喜ぶ。私が身軽く廻っていることはやはりぼくが三代目であるというわけだ。(笑)今日私が廻るというのは、つまり初代、二代以来の地方の教授者がいる。この者に対するやはり習慣だ。そういう人たちに会って、健在かということをいわざるを得ないような三代目という…

勅 特徴ですか。

小 そういうものがあるのだね。

勅 じゃ私は行かなくてもよい。(笑)それを言えばよかったかもしれない。散々やっつけられた。(笑)それなら東京はよいでしょう、東京を偏重し過ぎるというのです。しかし地方のものをどうしてくれるのですかという調子になって、ずいぶんやられちゃった。(笑)

重 それと、やはり地方で新しい仕事をやって行くということが、ほんとうによいことですね。

勅 そうすると地方の文化人たちがおとなしくな

る。弟子なり何なりがちょっとあやしげなまねくらいしたのは、一ぺんに一掃されてしまう。だからこれに先生のすごいのができて、この何人かしっかりしたのが講演と花くらいで地方を廻ったら、これはすごくなってしまう。変てこな作品じゃない、おも立ったところがときどき行って、その人たちの優秀な作品を見せる。それから講演をやり、それこそ入場料制の展覧会をやる。それをずっとやるようになったら、ほんとうの進歩があると思う。

小 地方といえばあの県展なんというものは、あまりよいことじゃないね。

勅 これは土地によってよいところがあるけれども県の指導者のやり方が悪いために、ずいぶん悪影響を及ぼしているものもある。これはあまりいつまでも平気で放置しておいてはいけない。

小 その地方の水準が上らない。

勅 県展では下積みにされても、今の別の形式で推薦された人が出て来なければならない。その式をやりたいと思う。

重 どうもまだ県展なんかはずいぶん盛んですね。

勅 地方のボスが自分の生命を保持してゆくためには、県展をやるからだめだ。

小 そうなって行く傾向が強いネ。それのための展覧会のような慣例になっている。だからそのボスがよいボスならよいが、悪いボスならちっとも伸びないですね。今年なんかは、そういう意味で、さっきいったグループ展なんかで地方を廻るとおもしろいね。

勅 だんだんそういうことができたらおもしろい。しかしもう何とかかんとかしても、たとえば正調派みたいなのができて、そしてわれ/\の作品をあれはいけばなではないといって、これを何とかしてもみ消そうみたいの意味でやっても、やはりそんなことも一つの現われでやむを得ないと思っていたが、結局なんの力もなかったでしょう。もう見る方も、あるいは習う方も覚醒してしまった。正調派の言うああいう花が過去のものである。現代を離れたものであるということは、見る方、習う方がわかって、たとい稚拙のもので

も、現代の方向に向っているものが喜ばれるということになって来たではないですか。だから古典を誇っておった流儀もみなやり方を改めて、変えて来た。

*正調派:戦後の前衛的ないけばなに異を唱え「いけばなを床の間に返せ」という運動を展開した。運動の会長には戦時中に文部大臣をやっていた政治家がまつりあげられ、社会問題化の様相があったという(『創造の森 草月1927-1980』1981)

小 この間の汎いけばな展にはそれがあるだろうね。

エ もっとも保守的のものであったのが、実に古い生花が一品か二品であったというのはふしぎです。

小 関西の正調派だとはっきり言っているものが出したものが前衛模倣です。色も塗れば非常に自然を否定したような傾向のものを出している。そうなって来ると、時代が成長というものの明白なものをおのずからよく知っているわけだ。

勅 もうだめです。それに、同時にそういう並んでいるものを見たら、そんなものは影が薄いのではないですか。まったくあわれな感じしかしない。昨日も建築家の吉田五十八さんが来て、三越のうちの幹部展を見て、そしてこの間私の個展を見てくれたが、こういううちの陝流儀についてはまだ経験の浅い人ですが、それを見て、もうこれは私は床の間をつくってはいられないといった。新興数寄屋の、日本建築の新しい方であった吉田五十八さんが、床の間をつくってはいられないといっている。もうお花の方を床の間に合せてつくってくれとはいえない。あれだけの人がああいうことを言っている。あれを見ても、あれを置くのは床の間ではいけない。これは私ども建築の方が歩み寄らなくてはいけないと言った。硝子の岩田藤七氏が「あたりまえだよ、おれは前から言っている。とにかく六尺だの、九尺だのという寸法をきめて、そこにあてはめてものをつくっている、そんなばかげた話があるか。床の間だって四尺でも七尺でも、いろいろな高さがあってよい。いつまで経っても変っていないではないか。実際建築屋が一番いけないのだ」といっている。おも

しろい話になったが、もう今生けている若い人たちは、床の間なんかは、絶対に念頭に入れていないでいけているのだから、床の間の方が悪いと、はっきりして来た。いけばなを展示する場というものは、おのずから改められなければいけない。今後の若い人たちは、うちをつくるときはおそらくそういう家をつくろうとするだろうと思う。しかし個々の人たちには、建築を改良するというととは一番できない仕事ですよ。ですからごらんなさい。一番早く進歩したのが服装だ。服装は女の人が今日しようと思えば今日からできる。それか

ら髮のゆい方にっいても、この頃では全部改めているけど、部屋を直すとか家を建てるとかはできない。これだけは残念ながら妥協して、今のところはその矛盾に悩んでいる。これは女の人たちの風俗、教養が進めば当然なんで、生活している場の方でもし調和されるべきものであるなら、こんな情ない状熊はないと思う。花もそうです。今日いける人たちの花は今日の花がいかる。別に過去の場所に合せなくてもよい。

小 たしかに新しいいけばなに対しては、昔のように年功を積んだ人でなくても、勅使河原さんやわれわれの方に入った人は、自分の最も現代的の考えでやって、廻りの取合せも考えなければ、まねるとともせず自由にいけられるという喜びから、それに対して非常に積極的だし、喜んでやっていますネ。

勅 だから嫁入り前のお稽古事として習うべきいけばなが、今は自分の造形意欲というか、自己を造形によって解放するというその喜びで立ち上って来ています。だから教える方もそれをよく心得て指導し協力しなければいけない。おそらくそういう指導者でなかったら、門下を持つことはできなくなるでしょう。

小 そうなるですね。

勅 相手が一つですから。

エ 向うが変って来ているから、今花をいけている女の人たちの態度は、実際造形による解放それしかないと思います。

小 そういうことは、実際身近く、非常にたやすくやれる。ちょっと絵を描くといっても、自分が満足するように描くことはたいへんですが、いけばなはそういうことがたやすくできる。やり出せぼ発表意欲があるし、どうしても展覧会に出したいという気持になるから、そういう意味では今までの流展なら流展という性格でも内容はやはり変って来ていますね。個人個人がやはり作品を発表したいということで結集して来ているようだね。

勅 今度もそうなっていますね。

重 ですから小原先生に言うのですが、若々しさがありますね。

勅 まだちょっとあやしげなところが多いかもしれないが、ともかくも自分の作品だ。そこに雑然と並んでおってもそれが気にならない。というのは、個々の作品は独立しているからです。今までみたいに、こう並べるという式では独立できない。こっちの枝がこう来たな、こっちの葉はこうおけというのでは、そこに不純のものが出て来る。


美術人のいけばな

重 それはぼくらが会場をぶらつくと、草月流のあの展覧会に出した人ですね。特別出品室の作品がありますね。あの先生達の作品みたいのものより、私の方がうまいという人が相当いた。(笑)つまり、そこに並んでしまえば同じようなレヴェルのような気になるし、またあれよりも自分の方がうまくできるというようなうれしさみたいのものがあるのですね。

小 ぼくらの方でもそういうように言えるという

気持自体が尊いね。

重 それと岡本太郎なら太郎のああいう花を見ましても、あの人の絵はちよっとわからないという感じを持っている人でも、あれがいけばなとして出されるとあすこがよくないのではないかということができる。

小 岡本太郎氏の作品はおもしろかったね。

勅 まず岡本太郎は、自分の絵画と今度つくったいけばなが、ちゃんとうまく並行した水準の結びつきがあるが、あとの人はみな自分の本業の方がずっとよい次元だ。こっちはずっと低くして、何か低いテーマ性におぼれている。われわれから見ると、ちよっと却って幼稚な低い感じがする。

重 それはたしかにあります。

勅 あれはお客さんだからという意味で調子を下げたのではなくて、ああいう人たちがあんなことをすると、案外あんなものになってしまう。

小 しかしはっきりそういう面を暴露している。あれはたしかに見てもおもしろい。

勅 あまり世の中の人たちは、そんなに程度の高い者ばかりを相手にしていない。(笑)意外なものもやはり妙味を持っている。

小 その点では華道人は非常に幅の広い、非常によい消化力を持っている。僕はそう思う。

勅 たとえば長唄なら長唄というものは、これを稽古して素人が一緒に出る。これはたしかに先生なり、あるいは長いことやった方が慣れておって、急にやったやつは下手だ。ところがああいう作品になって来ると、まあ形のきまっているものをつくるなら、まだ年期を入れていないから下手だということはあるが、その人の性格というか、何か芸術の次元みたいのものはどんなに下手な人でもちゃんと出て来る。それがとてもおもしろいと思う。長唄の習い立てで下手なのと、何か違うその人のものをつかまえることができる。それはだんだんやってくるからよくなるといろものではない。その人たちの発想の仕方がどっか違ったところがある。

重 ちよっと、何か勢いがあまったという感じですね。(笑)

勅 よい意味にも悪い意味にも…。

小 ある程度組し易しと思って、一つみんなにおれの手本を示してやろうということでやったようですね。

勅 土門さんは、いけばなの人は、まねてやるというので、とにかく悪口を言っておったのが、まったく喧嘩みたいのものをいけちゃった。まん中に鉄の棒を曲げて立てて、その上にやさしい花が強いものにしめられているという作品を作った。あの人の現代の思想を背景に持っている。その狙っていることはたいへんです。奥さんなどは実際協力して、疲れきっちゃった。

重 昨日作品をとるときに、おれのを雑誌に載せろといって、とにかく七枚くらい写真をとりましたね。

小 写真になって出たときの方がよいのではない

か。(笑)

勅 けれどもあれはだんだんむだをとってやっていたが、やはり土門さんの方はしっかりしている方です。あの作品は何かよいところがあります。あれはよくできているし、これは水沢さんがいけたらおもしろいと思う。いけたらあとはなんとも言えなくなる。さすがにいけない。あの人がいけちゃったら、あんなしゃれたことは言っていられない。

小 それがよいのです。批評家だからやっちゃいけないのです。それは水沢さんは知っている。しかし批評家がいけて、そしてまったく専門家くらいの、あるいは以上のものをいけたりするようだったら、なおすばらしいが、そういうことはできないと思う。それだったら初めから作家になっている。大抵絵でも文学でもそうですが、作家になれなくて批評家になった人が多いようだ。だからそういうことにもっと自分が自信があれば、作家になってしまったんじやないかと思う。

勅 とにかく批評家というのはむずかしい。大体褒めた言葉をいっておって、終り頃に来てちょっといやらしいことを言う。安心をして七分目ぐらいまで読んでいると、終りにちょっといやらしいことを言う。初めから悪くは言わない。おしまいに「しかし…とは思えない」 (笑)いやなやつだと思う。よいところまででよしたらよいのに「しかし」といろようなことを言う。あれがおかしくてしょうがない。

重 それはアリストテレス以来のレトリック(修辞)というやつです。(みんな大笑い)

勅 私の今度の個展の批評を読んでも、何か定義があるね。ずっと褒めたのがない。あまり褒めると、これは八百長と思われるといけないという意味のものもあるかもしれない。それを裏返したやっは特に気の毒だ。七分目くらいまで悪口をいっておって、もうやがて終り頃に「だが」とちょっと褒めてやる。今度個展でいろいろの批評を書いてもらってょくわかったが、批評家というのはそういう根性を持っている。それで商売になるのですね。(笑)

重 そうしないと商売にならないというのは、資本主義が悪いのでしょうね。ソビエトなら、そういうものはボンボンやられる。

勅 だから、逆に絶えず批評されておどおどするような感じになるが、批評家だってもそれで飯を食わなければならない。しかし特にそれがいけばな界でははげしかった。しかしそういう遠慮がだんだんなくなって来た。あなたを前においてなんだが、いけばな芸術以外に、華道雑誌はいらないよ。あとはつまらない。流誌は別ですよ。これは必要だ。もう今に美術雑誌その他の雑誌でいけばなをドンドン取上げるようになったら、一般の華道雑誌はほんとうにいらなくなる。今までの華道雑誌は、お茶を出したりお菓子を出したりすると少し書くくらいの変な因果の関係があったが、今の華道雑誌はまごまごしていればだめになる。

重 だからうちなんかは、いけばなを中心にした美術雑誌ということで行きたい。

小 そうなって行くよ。

勅 それでこそ華道を啓蒙することになる。

小 そういう行き方で流誌は鮫島先生にやっていただきたいと思う。

鮫 流誌は機関誌ですから。

勅 これは世間で知ってもらうために役に立つ。

小 鮫島先生は非常に堅実ですね。

勅 間違いがないということですネ。

鮫 その代り融通がきかない。フフ…

勅 堅実というのは、融通がきかないということになるんですヨ。

重 ではこの辺で――どうもいろ/\有難うございました。


後記

この対談会はあらゆるジャンルの権威ある人々を

家元がゲストとして招かれて対談されるという形式をとってすすめてゆきたいと思います。今回は個展、流展とお忙しい勅使河原蒼風氏をお願いしてお話を聞かれたわけです。この会談の後で、食事をなさりながらのお二人の対話の中には含蓄に富んだ面白いお話しがあったのですが、速記の関係で掲載出来ませんでした。残念なことでした。尚次回のゲストとしては、現代写真界の第一人者である土門拳氏を予定して居ります。 ―係

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