1930年代の神戸の洋花屋さんの状況 株)みなとフローリスト、細坪作次郎氏の回想 『フローラルアートの完成』から
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神戸に発祥した洋花店 『フローラルアートの完成』1980から
1930年代に横浜と並び称される洋花の発祥地、神戸には、この地に於て東との交流もなく独自の形態で栄えました。
当時から伝えられている花店の技術者として今も活躍されている(株)みなとフローリストの細坪作次郎氏に語っていただいた話をまとめたものです(*1980年当時の話です)。
当時神戸の山の手に花屋は四軒しかありませんでした。その他は、おばさん達が花をかついで売り歩いていました。
この(*4軒の)花屋は殆ど外人の需要を満たすためにあり結婚式、葬儀、クリスマス、誕生日等のプレゼントとして、贈り物の花籠が主でした。当時は花の種類も少< 小さな花をバスケットに挿していたのです。主にスズランとかバイオレット(*においスミレ)とか…。
冬にバイオレットをフレームで作っている人がおりまして、朝早く出掛けて取りに行ったのですが、雪が降ったりするとすぐダメになってしまうのです。これはリース等に使う"平戸つつじ"も同じでした。フレームで暖かく作られて花をつけた"つつじ"は、外に出されてパラパラと落ちてしまいます。花を挿す時には一輪もなかった等というのも今では、考えられない事です。
プレゼント用には、洋花の寄せ植も多<、ベゴニア、シクラメン、アジアンタム等が使われていました。寄せ植に梅を便う様になったのは、ある時、クリスマスプレゼント用に大量の注文が入りまして、材料が間に合わないので仕方な<松竹梅の寄せ植を買って来て、足元に少し花を入れたのが始まりでした。このベゴニアも、朝、配達用に持って出たのを一日中持ち歩くものですから、夕方の配達に当たるお客様の所へ着く頃には、雪が降ってしおれてしまい、又次の日、作り直したものです。
"ばら"は静岡のばら園が栽培の元祖と云えるでしょう。花丈50㎝位がー番良い品で、木の箱に入ったものを客車便で送って来ていました。"カーネーション"が手に入る様になってずい分変わりました。品種はエンチャントで花の大きさは現在のコーラル位です。昭和6~7年頃でした。神戸では、有田氏の所だけしか入りませんでした。横浜の磯子で大量に栽培していたものを3日毎に貨車で送られて来たのです。神戸でつくられていたカーネーションは少ししかありませんでしたので、朝早<買いに出掛けますが、早く着いた人から優先的に無理を言って、少しでも多く買おうとしたものです。ですから競争でした。
値段は、カーネーションが2銭~5銭、ばらが10銭位だったと思います。その他の材料としては、菊も使いましたが秋だけで.夏菊が出る様になったのは.昭和20年頃(*戦後)だったのです。それまで夏はダリアを使いました。当時ダリアの種類は多く、10種類位あった様に思いますが、今は他にどんなものを使ったのか記憶がありません。
リースや、クロスは、さざんか、千日香の白等を使いましたが、他には除虫菊(*マーガレットに近似)とか小さな菊でしたがクロスは、ブリキで台を作り、リースは針金で型を作り中に水苔をつめました。だんだん水苔では高くつくので、ムギワラを使う様になったのです.1回の葬儀で、30~40位は作りました。大きさは仕上りで、30cm~4 、50㎝位です。ベースには高いものでサツマスギ(*ヒムロ)、安いものはヒバを使いました。だいたい5円~10円位です。
花はやはりバイオレットとか、すずらん等でしたが、夜通し(注文が入ると)1本1本に水苔をつけたものです。その後ダリアを使う様になって、ずい分楽になりました。他にはアゼリア、マグノリア等です。平戸つつじは前記の様に苦労しました。
花をベタに挿したものの方が安かったのです。お客様から花の種類を指定されても花が無かったのですから、とにかく、有る物を使うと言う事です。
教会の装飾はあまり多くなかったのです。葬儀の時は植木を祭壇の左右に5はいずつ揃えて並べ、その前の床にリースやクロス・バスケットを置きました。結婚式は、よほどお金持ちの方の場合には、椅子に飾りつけをしましたが、めったにはなかったのです。神戸に住んでいた外人の数が少かったのですから度々はありません。スマイラックスがなかったら.結婚式は出来なかったのです。ブーケに使いました。リボンを沢山たらしたものでロンドンから取り寄せた古い本を見ながら作ったのです。
少い花材で水苔を使っていた時代から考えれば、今は楽です。しかしお客様の要望が生け花とはちがっていました。贈り物にしろその時が一番美しければ良いと言う感覚がありましたので、花を飾る意味が日本人とは違っていたのです。
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