Rooted(植えられたもの) 根をおろす場所を求めて 難民キャンプの植物と人 ヘンク・ヴィルスフート Henk Wildschut 写真集『Rooted』2019年
Henk Wildschut 写真集『Rooted』2019年
本のカバーが大きな一枚の作品になっている
ブラヒムさんの赤いバラ
※Rooted 故郷を戦火に追われ難民キャンプに根を張った→そこから動けなくなった→行き場のない人たち。。。
もともと『植えられたもの』という意味だろう。
誰によって?
それは、住み慣れた土地を追われ、行き場のない難民キャンプで暮らす人たちである。
彼らは生活用品はもとより水すら乏しい場所でなぜ、植物を植え育てようとしているのだろうか?
※参考 「ヘンク・ヴィルスフートが難民や移民について扱ったものでは 3 作目となる、切迫した作品集だ」 ヴィジュアルアートブックフェアのサイトから
※参考 北米日本人収容所の園芸について
●難民には、心休まる居場所がない。ずっと暮らせる場所を求めている。彼らの現在は、まるで鉢に植えられた草花のようだ。
『Rooted』 根をおろす場所を求めて ヘンク・ヴィルスフート
※自動翻訳ソフトを使って、概要を日本語に訳してみました
ハヤト・アブー・ジャバおばあちゃん
レバノンのベッカー谷で2年以上、家族とともに暮らしているハヤト・アブー・ジャバおばあちゃん。シリアの自宅には庭があり、たくさんの花や植物が植えられていた。戦争が近づくと、彼女は子供や孫たちと一緒に庭を残して逃げ出した。仮設住宅が見つかると、ハヤトは新しい植物を育て始めた。それはすぐに彼女の日課となった。今では、鉢植えのゼラニウムが「前室」で繁茂し、外ではバラが色とりどりのディスプレイを披露している。
ハヤトさんの植物は、家族をつなぐ大切な存在なのだと、娘さんは教えてくれた。前室の緑が醸し出す心地よい雰囲気は、家族や友人が集い、くつろぐ中心的な場所となっている。ベッカーに移住して数年、ハヤトさんは挿し木をしてたくさんの苗木を育てた。彼女の植物は、家族や近所の人たちの間に広がっている。ハヤトさんは自分の楽しみのためにやっているのだと、彼女の娘は言う。外の土の中で育っているアマリリス。1本の茎に2つの花が咲くので、「ウェディング・プランツ」と呼ばれているそうだ。
パキスタンでの体験
2005年、パキスタン北部地震の被災地で取材をしていた私は、避難者のキャンプに新しく植えられた「マイクロガーデン」に初めて目を留めた。このような混沌とした状況の中で、ありふれたものを目にしたことは、予想外の出来事であり、強く心を動かされた。この小さな庭の存在は、私の被災者に対する見方を変えた。避難民を犠牲者としてではなく、たくましく生き抜く者として見るようになったのだ。このような考えから、私は研究を始めたのである。
2006年以降、フランス、カレーの難民問題を考えるようになった。ジャングルの仮設小屋やテントの外に、このような小さな庭が現れ始めたのは、2015年になってからだ。2015年に何千人もの移民が到着したことで、カレー港の厳しい警備体制に緊張が見られるようになった。キャンプの住人たちにとって、フランスの港であるカレーでの滞在が予定より長くなることは明らかだった。砂丘の移民たちは、この歓迎されない環境に小さな庭をつくり植物を植えることで、この状況に自分たちを適合させようと努力しているように見えた。植物をそばにおくことで家庭的な雰囲気が漂う。非公式キャンプの非人間性は薄れ、キャンプの住人は文字通り異国の地に根を下ろし始めたのだ。
難民キャンプの小さな庭
アムステルダムにいるとき、私はいつも近所の前庭に目を向けることなく、自転車で通り過ぎる。しかし、難民キャンプでは、庭を見る意味が急に違ってくる。庭が作られた状況が絶望的であればあるほど、庭のつくり手の意志の強さが強調される。しかし、カレーの砂丘やベッカー渓谷の砂漠の砂のような不快な状況にもかかわらず、作られた小さな庭は、何も新しいものではないことがわかった。
ケネス・ヘルファンドの著書『Defiant Garden』によると、 第一次世界大戦の塹壕の中で、農民出身の兵士たちが自分たちが食べるための野菜を栽培していたのである。植物が芽を出し、育っていく様子を見るのは、気晴らしになったことだろう。塹壕戦の厳しい現実の中で、兵士たちはつかの間の平凡な仕事に目を向けることができたのだ。
難民キャンプという混沌とした環境の中で、植物やミニチュアの庭は、庭の主だけでなく、そこに住む人たちの気分も明るくしてくれる。小さな庭を作ることで楽観的になり、キャンプの隣人たちもまた自分たちの小さな庭を作るようになる。私は一人の訪問者として、緑に注がれる愛情の深さを感じた。
草花は歓迎の意を表している。花畑の美しさに見とれていると、会話も弾む。にわか「庭師」たちの交流も深まり、彼らの経験をよりよく理解し、記録することができるようになった。
アブ・ハムジさん一家
ABU HAMZIさんとその家族は、シリアの戦争の惨禍を逃れ、2013年にヨルダンのザータリ難民キャンプに到着した。アブさんはダマスカスで園芸家として働いていたことがあり、低木の整形を得意としていた。彼は、キャンプ内の避難所の周りに、乾いた地面でもよく育つ花やたくさんの多肉植物を植え、美しい庭を作った。ストレスを感じると、彼はひとり庭にこもる。庭の手入れをすることは、彼の心にもよい影響を与えるのだという。
数週間前、彼は庭の奥で桃が芽吹いているのを発見した。おそらくゴミ捨て場で拾ってきたものを植えていたのだろう。アブさんは、その苗木を守るように木枠をかぶせた。「気をつけないと、子供たちに何でも引き抜かれてしまうから」だという。彼は、この苗木が立派な大木に成長し、日陰と果実を与えてくれることを期待している。
貴重な水
なぜかわからないが、キャンプでは洗濯物と植物が一緒に出てくることが多いのが気になった。やがて、その理由がわかった。水が不足しているところでは、一滴も無駄にしてはいけないのだ。そこで、洗濯ロープを地植えした植物の上に張ったり、洗濯ものの真下に鉢植えを置いたりして、濡れた衣服の恩恵を受けるようにしたのだ。このような習慣は、ヨルダンの砂漠にあるザータリ・キャンプで特に見受けられた。しかし、ベッカー難民キャンプでは、十分な水があるにもかかわらず、水の浪費を避けていた。私は、キャンプ内のあちこちで洗濯物干し竿の下に植物を置いているのを見た。
シリア難民のキャンプ地
ザータリ難民キャンプは、内戦で疲弊したシリアからの難民を受け入れるため、2012年に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によって開設された。人口は約9万人で、現在では世界最大級の難民キャンプとなっていう。ザータリは、乾燥した砂漠地帯にある。地面には塩分が多く含まれているため、使用することができない。
それでも、2014年に初めてキャンプを訪れた際には、人々が農作物を育てるための小さな野菜畑やハーブ畑、花畑をあちこちで見かけた。紛争になる前は、このキャンプの住人の多くは、水の豊富なシリア南部で農業を営んでいたのである。
「ストレスが溜まったら、植物でまたリラックスできる」そんな感想をよく耳にした。緑は安らぎを与えてくれる。だから、キャンプのマイクロガーデンのそばには、よく椅子が置かれているのだろう。
ジャスミンは故郷の香り
ザータリでは、ジャスミンを育てるのに十分な日照があるが、水不足が深刻な問題になっていた。レバノンの肥沃なベッカー谷のキャンプでは、水は十分にあるのだが、冬が寒すぎるため、ジャスミンの苗は容易に育たない。しかし、ジャスミンはいたるところで見ることができる。白い花は持ち主に愛され、特に夕方になると甘い香りを漂わせる。多くの難民にとって、この香りは故郷を思い起こさせる。ダマスカスは伝統的に「ジャスミンの町」と呼ばれていた。この植物がシリア難民の間で人気があるのは、当然のことだろう。
ライムの木
残念ながら、この苗木を植えた理由を聞こうとドアをノックしたが、持ち主は留守だった。難民キャンプの厳しい現実からこの木を守るための努力と配慮が感じられたので、この写真を撮った。
ザータリでは木は高価で栽培が難しいため、なかなか見かけない。この苗木は、大きく育って日陰を作ってくれることを願い、大切に保護されているのだ。この仮設住宅に住んでいる人は、すぐに家に帰れるとは思っていないようだ。残念ながら、このライムの木はヨルダンの砂漠の厳しい環境ではうまく育つことはないだろう。
ベッカー谷
ベッカー谷はヨルダンの砂漠キャンプとは異なり、春は水不足に悩まされることはない。しかし、夏は非常に乾燥する。レバノンのガーズ村の郊外で、小屋の横に花のオアシスを発見した。バラ、キンギョソウ、ゼラニウムなどの花々が、それぞれの小屋を囲むように咲き乱れている。この庭の持ち主は、みんなアレッポのアブ・ハマドという人の親戚だった。アレッポの住民は花畑に夢中だと、アブが言っていた。大げさではない。ベッカー谷で見た10軒の花園のうち9軒は、アレッポからの難民の家族だった。アブさんの家族は、この花畑を誇りに思い、自尊心を取り戻していた。花々が美しく咲いているおかげで、悲惨な状況にもかかわらず、心豊かな生活を送っているとアブさんは話してくれた。
2019年、ガッゼに戻ると、状況は一変していた。すべての植物が消えていたのだ。キャンプの管理者は、庭園を水の無駄遣いと断定し、アブ一家が植物を植え続けることを禁じたのである。家族は、管理者が自分たちの美しい場所を妬み、ひどい目に遭わせようとしたのだと決めつけた。植物がなくなった今、アブと彼の家族は一刻も早くアレッポに戻りたいと願っている。
水の問題
ザータリでの庭の普及は、UNHCRにとって心配の種となっている。同キャンプの水の消費量は、同規模のヨルダンの都市の2倍に達するからだ。にもかかわらず、住民は水不足に絶えず不満を漏らす。利用可能な水の多くは、ほとんど何も育たないような小さな菜園の水やりに使われているのだ。
砂漠の多いこの国で、少ない水を「客人」のために使うのはおかしいと考えるヨルダン市民にとっても、このキャンプの水需要は悩みの種である。キャンプ当局は、ザータリでの水の使用量を制限することを決定し、各小屋に個別の水タンクを割り当てた。下水道も掘られた。それ以来、灌漑用水として再利用できる排水は少なくなってしまった。2018年の最後の訪問で、私はなによりも、菜園が減っていることに驚いた。水不足が原因だと住民は訴えていた。
ブラヒムさん
2013年にシリアで戦争が起こったとき、ブラヒムさんは家族とともにダラアからヨルダン北部、シリアとの国境にあるザータリ難民キャンプに逃れてきた。しばらくすると、ブラヒムは、キャンプの人々が植物や花に囲まれて楽しんでいることに気がついた。そこで彼は、お金を稼ぐ方法を思いつき、父親と一緒にキャンプ内に小さな花と植物の店を開いたのである。今のところ、この小さな店はうまくいっているようだ。ブラヒムの話では、一番売れているのは樹木類だそうだ。将来、日陰を作ってくれるからだ。クチナシもたくさん売っていた。個人的にはバラの香りがお気に入りだという。
鉢植えで植物を育てる理由
ザータリでも、ベッカー谷に点在する小さな野営地でも、ほとんどの人が植物を鉢や缶に植えていることに気づいた。その理由はあとで述べるが、いずれも現実的かつ感情的なものであった。
植物の世話をして、その成長を見守ることで、植物との絆が生まれる。植物は所有者のアイデンティティの一部となっている。その植物を所有する人は突然の引っ越しにより、植物を置き去りにしてしまうこともあるだろう。
つまり、鉢は彼らが異国の地に根を下ろすことへの抵抗のようなものなのではないか、と私は考えている。キャンプの住人の多くは、その場所での滞在が一時的なものであることを望んでいるのだ。
メリアムさんの白バラ
白いバラは、アレッポ出身のMERIAMが好きな花だ。彼女は、花のつぼみが開くたびに、生まれたての赤ちゃんに見えるのだそうだ。「朝起きて、新しい小さなバラが微笑んでいるのを見るのは素敵なことです」と彼女は教えてくれた。「ベッカー谷でのバラ栽培は、シリアよりも難しいんです」とメリアムは言う。ここでは頑張っても1株に4輪以上咲かせることはできなかった。故郷シリアの場合、土壌がバラに適しているからだろう、シリアでは1株に12本は咲かせることができたのに。
ヒンド・バッザージさん
ヒンド・バッザージさんに初めて会ったのは、サードネーの小さなキャンプだった。彼女はもう2年以上に住んでいる。自分が住んでいたホムスを思い出し、ダリアやオリーブの木がいっぱいある大きな庭を懐かしんでいた。ジャスミンは彼女の大好きな花だが、ヴァレーの冬の寒さはジャスミンには厳しすぎる。彼女は小屋の中に植木鉢を並べている。花は彼女を元気づけ、故郷のホムスを思い起こさせる。挿し木は、植物育種家である隣人から譲り受けたものだ。
ワリード・メヘレさん
HINDさんの住まいからそう遠くないところに、まさに色彩のオアシスを発見した。花屋さんかと思うほど、たくさんの花が咲いている。調べてみると、この花の海はWALID MEHREという人の所有物であることがわかった。ご近所さんにプレゼントすることもあるそうだ。ワリードさんは、植物を自分の子供のように可愛がっているのだという。花を咲かせる植物は、世界でいちばん美しい。
毎朝、奥さんと一緒に庭でお茶を飲む。そして、水やりや剪定など、植物の世話に明け暮れる。ワリードさんは植物に語りかける。植物もそれに答えているようだ。植物を育てることは、彼が精神的に生きていくために不可欠なことだと感じている。悲惨な状況をしばし忘れさせてくれる気晴らしが必要なのだ。彼の周りにあるたくさんの植物は、彼が逃れてきた過去の惨状を裏付けている。
好きな花は何かと尋ねると、テントからクチナシを2本出してきた。直射日光が当たらないように室内に置いてあるのだそうだ。しかし、植物の話になると、少し目が輝いて見えるが、すぐにトラウマを抱えた男のようなうつろな視線に戻ってしまうことに気づいた。
ベッカー谷を訪れた後、ベイルート出身のレバノン人の友人にWALIDの話をした。彼は、彼らの花への愛情をよく知っていた。1975年から1990年までレバノンで繰り広げられた内戦の間、花は多くの人々にとって希望のシンボルだったのだ。激しい爆撃を受けたベイルートが一段落すると、真っ先にパン屋が再び店を開ける。そしてもうひとつは花屋である。荒廃した街の中で、美しく香る花の儚さが、戦争で疲弊した街の住民に新たな希望を与えた。
1年後、私がワリードさんを訪ねると、やはり彼は花を売っていた。奥さんが病気になり、治療費が必要だったのだ。特にアロエベラの苗がよく売れた。ワリードは、自分の植物で奥さんを助けられることを誇りに思っていた。売った花はすべて挿し木で育てたもので、元の花を引き抜いて犠牲にしたわけではない。
アハメド・サリム・アハメドさん
AHMED SALIM AHMEDさんの住居の横には芝生が広がっている。難民キャンプで芝生が生えているのを見たのは初めてだったので、驚いた。アハメッドさんは、自分も芝生が欲しいと思う隣人たちの羨望のまなざしをこう語る。「芝生が好きなのは、そこに座って楽しむことができるからだ」。そして、彼はそれを楽しんでいる。
毎朝、日の出とともに家族で芝生の上で朝食をとる。芝生は2週間に1度、近所の農家から借りた芝刈り機で刈る。刈りたての芝生の匂いは、彼をホムスでの過去に連れ戻す。芝生を刈っていると、家のそばの広い芝生がなんとなく身近に感じられる。しかし、ホムスの家と芝生に戻ることは不可能である。すべてが破壊されてしまったのだ。
難民の仕事
ベッカー谷に住む難民のほとんどは、周辺に多数ある農場で日雇い労働者として生計を立てている。UNHCRなどのNGOやレバノン政府による公式な難民キャンプは存在しない(非公式な居住地)。農家や地主が土地を借り、難民は地主のために働き、自分のためにも働かなければならない。そのためか、渓谷では観賞用の庭が中心で、家庭菜園はごくわずかだった。
カルディ・アムガハリドさん
2013年、夫と7人の子どもを連れてシリアからレバノンに逃れたカルディ・アムガハリドさんは、ベッカー谷のバー・エリアスという町の近くに土地を借りた。アムガハリドは、波板トタンの小屋の隣に大きな菜園を作った。庭の手入れは子どもたちと一緒にする。食べることができるのは、とても幸せなことだ。
自分たちの小さな土地で採れた農作物。キンギョソウは彼女の好きな花。毎年咲いてくれて、長く咲いてくれる。アムガハリドさんは、いつか故郷のシリアで再び庭仕事をすることを夢見るが、家も周りも破壊されてしまったので、しばらくは無理だろうと考えている。ベッカー谷の避難所は、破壊されたシリアの家と庭から、飛行機でわずか20キロしか離れていない。
ヌーラさん一家
NURAと彼女の家族は2013年にシリア北西部のイドリブから、レバノンのベッカー谷のチャタウラ村の郊外にある小さな非公式の難民キャンプに逃れてきた。このキャンプは、彼女の夫が時々働いている工場の隣にある。
ヌーラは、シリアから苗木を持ち出した人から、海いちじく(Sea fig)の挿木枝をもらった。ベッカー渓谷では手に入らない。根が生えるようにと、水の入ったコップに挿し木をした。この海イチジク(多肉植物)は美しい花を咲かせ、自分の庭にあった海イチジクを思い出させるので、彼女はとても喜んでいる。
難民キャンプの冬の様子が気になり、3月上旬にベクア谷を再訪した。NURAと初めて会ってから、もう何年も経っている。海イチジクの挿し木は大きく育っていたが、まだ花は咲いていない。ヌーラは、咲かないかもしれないと思っている。シリアの戦争が落ち着いたと思われる今、私は彼女に帰国をどう考えているのか尋ねた。ヌーラは楽観的ではなかった。住んでいた地域は完全に破壊され、帰るべきところはどこにもない。
ペッカー谷の冬
平均標高1,000m、2つの山脈に挟まれたベッカー谷の冬は、寒くて過ごしにくい。私が到着したとき、数日続いた大雨で多くのキャンプ地が浸水していた。夏の水不足も困りものだが、洪水は本当に深刻な問題だ。キャンプ地の多くはリタニ川の氾濫原に建てられており、この川は毎年平均5回堤防を決壊させているのだ。
WALIDさんの自宅も、私が到着した前日には30cmの浸水が続いていた。しかし、彼は植木を危機から逃がすことに成功した。私はかつて一度訪ねたことのあるワリドさんの花屋を探すのに苦労した。ワリドの店は、キャンプ内の目印になっていたのだが、隣の建物が増築され、彼の店はすっかり見えなくなっていた。これでは商売にならないと、ワリドさんは言う。「見えないということは、商売はもう無理だということだよ」。大家さんは、賃貸住宅を増やしたいという思いがあり、増築を後押ししていた。
度重なる洪水を長期的に解決するため、ワリドさんたちキャンプ生活者は、下水道や排水を改善するための資金を集めていた。しかし、家主は彼らに協力する気はない。
あとがき
2019年4月25日に86歳で他界した亡き父に、本書を捧げたい。若い頃、家族旅行で、主に地中海沿岸の興味深い植物を探すのに同行したことがある。私たちは挿し木枝を採集し、慎重に荷物の中に隠した。家に帰ると、彼は、その挿し木を愛情たっぷりに育てていく。そして、その挿し木は、今もなお、私たちの楽しい旅の思い出として息づいている。親愛なる父へ、私は決してあなたを忘れません。
謝辞
まず最初に、自分の花壇や菜園について、惜しみなく、そしてしばしば情熱的に教えてくれたすべての人々に謝意を表したい。
私が出会った避難民の方々が、一日も早く故郷の地に戻り、もう一度根を下ろして、家族とともに平和に暮らせるようになることを心から願っています。
妻のイェツケ、子供たちのキースとグウス、彼らのサポートと愛情に感謝します。また、ケネス・ヘルファンド教授には、人々が植物を大切にする背景を探るために過去の『デファイアント・ガーデン』について、その知識の宝庫を分かち合っていただいたことに感謝しています。
また、以下の方々にも感謝の意を表します。ユニセフのAntoine Ghazaly氏には、Ramona Khawly氏とSlayman Jaber氏を紹介していただき、ベッカー谷を案内していただくとともに、多くの有益な背景情報を提供していただいた。谷を訪れた際に通訳をしてくれたClara KhjaddajとAndalib Alhalabi、ザータリ難民キャンプで素晴らしい通訳とガイドをしてくれたIhab MuhtasebとNashat Darwish。そして最後に、Robin Ulemanの鋭い観察眼と見事な画像編集により、これまでの出版物と同様、私の作品の質を大幅に向上させ、写真と文章に想像以上のインパクトを与えることができたと思う。
本書に登場する植物については、ウィキペディアに大変お世話になった。
このプロジェクトは、アン・コーネリス基金の資金援助なしには実現不可能であっただろう。この本を実現するための自由を与えてくれた。彼らの支援なしには、この本が今、皆さんの手元で開かれることはなかったでしょう。
c 2019 Henk Wildschut