日露戦争直後の皇居における正月飾りのようす 松竹梅、寄植え、盛花、島台など

読売新聞 明治37(1904)年12月31日 *日露戦争直後の年末


読売新聞 明治37(1904)年12月31日 の記事に、皇室で宴会等の席に用意されるお祝いのミニアレンジメント、「島台」が5~600個も用意されていたことが書かれている(客の御膳にひとつづつ飾られていたと思われる)。

新年を迎えるに当たって、宮中各所に松竹梅の寄植えや盛花(アレンジメント)、挿花などが飾られている。正面玄関に当たる車寄せには大型の装飾が重点的に置かれていた。

正月用の花材の産地は有名な地域がよく知られていたようだ。面白いのは、孟宗竹の産地が目黒と大久保とあることだろう。目黒は特別な栽培をするタケノコの産地であった(戸越や碑文谷)。大久保はツツジを始めとする植木の古い産地であった。

https://karuchibe.jp/read/6371/

ちょうど、日露戦争が集結した年の年末で、いつもより盛大な装飾となっていたのかもしれない。皇室や富裕層の間では、冬でも温室栽培の花が利用できるくらいの商業栽培が展開してきていたようすがうかがえるが、価格はものすごく高価であったようだ。


●宮中新年のお飾花 (きゅうちゅうしんねんのおかざりばな)

*漢字や送り仮名を読みやすく改変し適宜句読点を追加してあります


九重の雲深く弥栄(いやさか)えます宮居(みやい)の中(うち)に用いさせたまう御盛花挿花(おんもりばなさしばな)の模様を漏れ承わるに大小の相違こそあれ多くは松竹梅を召させられ、

御車寄(みくるまよせ)には七宝焼の大花瓶(おおかびん)へ高さ一丈(*約3m)もありなん松竹梅一対と南天水仙等を挿せるもの一対及び牡丹、薔薇、西洋草花を七宝の花器に堆(うずた)かく盛られし大盛花一対を飾らせられ、

謁見の御間には同じく松竹梅一対蘭科植物を始め種々の草花の盛花一対、

豊明殿千種(ちぐさ)の御間には西洋花の盛花、

御座所大奥には松竹梅の挿花(さしばな)を用いさせたまい、

其他数十の御間にも多く松竹梅を飾らせらるよし。

女官方の部屋/\には例年の通り松竹梅を用いらるるが例なり。

此の御花(おんはな)の御用を承われる市内の花商より納むる梅と松は常陸産或いは相州三崎より出(いづ)るものにて孟宗竹は目黒大久保等より優れたるものを切り出し水仙は房州さんの本場(ほんば)、白玉椿は堀切産などにて何れも場違いものは一切に用いさせられず。

挿花(さしばな)用の寒菊は出来栄(できばえ)よけれども千両の作柄は本年面白からずと聞きぬ。

又盛花用の草花は重(おも)に温室物を用ふるはいうまでもなく一個の値(あたい)数十円するもあり。

なお、新年宴会の際に御使用の島台(しまだい)の松は生花を用いさせたまえど竹と梅とは造花(つくりはな)にてその数は五六百以上の御用を命ぜられ居るよしに聞こえぬ。

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