掛物は主君、花は、けらい(家来)~いけばなと掛物の関係

 

「仙伝抄」 三幅対の飾り方ほか

いけばなと掛物 (『いけばな辞典」大井ミノブ編著 東京堂出版1976)

「仙伝抄」に、「絵をうけてたつ花の事」として観音に柳、天神に桜(異本に梅とあり)、虎に竹、竜に松云々」と。掛物といけばなとのとり合わせを具体的に示している。
このような関連は、室町時代、床の間の前身である押板の正面に仏画をかけ、その前の卓に三具足を供えたが、その一つとして花がたてられたことに始まる。
その後、仏画にかわって、墨跡や、山水花鳥画がかけられると、その内容や色調感とのつりあいから花にも種々の工夫が加えられ次第に装飾化していった。
それが発展して、「君台観左右帳記」にみるような掛物を中心とした書院飾りの方式がうまれた。
例えば、三幅対や、五幅対をかけたときは、三具足をおくこととか四幅対のときは、三具足を省略し、中央および、両脇に花瓶をおくことを定めている。
さらに、「一けんおしいたには、三幅一対の絵かかるべし。中に花瓶一つにてもくるしからず。一対花瓶もしかるべし。」と、将軍の御成りなどの公式の座敷飾りに三具足をおくことが基本として厳守されたが、その他の場合は、略式化されている。その際、香炉や、燭台などが不用として略されたにもかかわらず、立花のみは、いっそう飾りの主役の役割をおび、掛物と不可欠な関連を深めている。それは、文禄三年(一五九八)九月、豊臣秀吉が前田利家邸に臨場した際の座敷飾りの模様からうかがうことができる。「文禄三年前田第御成記」によると大広間の上段の床(とこ)に飾られた砂物大立花が、猿猴の掛物とみごとな調和をみせて、「池坊一代の出来物」といわれたが、それは立花に当たって掛物との関連を第一の心得とした創意工夫が賞賛をうけたのである。
貞享元年(一六八四)刊の「立華正道集」に、「先ずはなをたてんとおもはば、かねて懸物の様子をたづね、道具のこしらへ心得あるべし。」とあり、「もとより床の懸物、絵にても、墨跡にてもさしきらぬ様に、名印の所をさくかくさず、その上、懸物の絵、竹或は梅ならば、立花に竹、梅をつかふ事遠慮あるべし。」と立花をつくるに当たって、掛物に対する慎重な心得を説いている。
かかる配慮はすでに三具足の花が掛物のさまたげにならないように右長左短と規定され、そこに立花の基本的な形式が生まれたことからも知ることができる。
さらに、「立花大全」に、「床の花に直なる心を立る時は、かならず、かけ物を見切候事おほし、又、立花の姿を真といふ時ばかりはかたしとて、正心際を除て云々」と、掛物を見切らぬように、直心(すぐしん)から除心(のきしん)への花型の変化を考案したとのべている。
とくに、江戸中期、立花にかわって生花が台頭したが、それは、「生花は法式なくしては、床粧りとはなりがたし」(「生花枝折抄」)というように当初から床の間にふさわしい形式を意図して構成された典型的な床の花であった
半円状の不等辺三角様式、いわゆる天・地・人三才の生花様式は床の間を対象とし、掛物を念頭において構成された造形のいけばなである。
これについて、「席上譜首之巻」(文化七)は、「床粧りの花形は、懸物に准ずべし。是、床前の定式也。」とのべている。まさに、「兎角、かけものを君とし、花をけらいとこころゆる事習ひあり」(「生花独稽古」明和六)というように、主従のごとき関係にあった。それはまた、「掛物ほど第一の道具はなし。」といった「南坊録」のことばにもうかがわれる。
このように立花、さらに生花とは掛物と関連しながら、様式化し、定型化し、格花とよばれるに至った
これに対し、自由な表現を求める機運が明治以降次第に高まり、盛花、自由花(じゆうばな)の誕生を促した。
とくに、顕著となったのは、第二次世界大戦後で、前衛という画期的ないけばなの出現となった。それは、いけばなの床の間からの解放であり、それに生活様式の合理化が拍車をかけて、掛物との深い関連も自然と疎遠となった。
しかし、床の間を否定したもののそれに代わる生活空間をしかと見出しえない限り、従来からの掛物とのたち切りえない関連が習慣として残っている。また、それとは別に身近なこととして、室内の装飾的雰囲気を適宜に転換しうる床の間における掛物と、いけばなとのとり合わせは、規定としてではなく、むしろ、生活を豊かにしてきた日本人の知恵として、すてがたい伝統的な魅力なのである。(大井)




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