いけばなの構成法を「格」の数で説明する 伊藤ていじ氏

 『日本の伝統1 いけばな』 伊藤ていじ・ドナルド・リチー 昭和42(1967)年 淡交社



日本人はなぜ永遠の宇宙を表現するのに、あっというまに枯れてしまう切り花を使っていけばなにその思想を映したのだろうか。


60年前の日本は右肩上がりの景気で、仕事も生涯雇用が当たり前だった。日本は平和である。今のような社会が来るとは思いもしなかった。

ただ、日本の歴史をながめると、こんなに平和だった時代もほかにない。とくに中世、戦国時代は人生、天寿をまっとうできる人がどれほどいただろうか。

いけばなは、そのような時代に現れた芸術である。

静的ではなく動的な世界観の時代にこそ花はいきる。


「日本の伝統1、いけばな」のなかで伊藤ていじ氏は次のように語っている。

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ひとくちにいえば中世人たちは、瞬間のなかに永遠の相をみたのであり、永遠とは変化のひとつのパターンにすぎなかった。

朝の紅顔夕の白骨となるのはこの世の常態であり、会者(えじゃ)はかならず別離し、盛者はかならず必衰するものであった。

平安末期の源平の動乱にひきつづいて、中世は変転きわまりなき無常末世の時代であった。

そこには、かつての王朝時代のような安定し固定した秩序というものはもはやない。

すべてはうつり、すべては変わる生死不定の時代であった。

それゆえに変化のなかにこそ、永遠の相をみつけたのは、ごく自然なことであった。

そしてうつり変わる四季こそ、流転と変化の、もっとも代表的なものであった。

その四季のもつ感覚――季節感を表示しうるものは植物よりほかにない。

それゆえにそのためには花でなければならないし、花はもろく儚いからよいのである。

池坊専応が「暫時頃刻の間に千変万化の佳興をもよほす」といったのは、まさにこのことをさしている。

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いけばなに禁忌や縁起担ぎが多いのは、いけばなと人々の生活が非常に密接に関係していたということの現れだという。

どんな花をいけるかによって、実際の生活によい影響も悪い影響のある、と信じられていた。それは、禍福があざなえる縄のように人々の上にふりかかってくる時代ゆえの思想であった。

そのため、人々は、人生のあらゆる場合に花をいけ、その花によって、幸福を呼び寄せ、不幸を遠ざけようとしたのである。

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P93  『日本の伝統1 いけばな』 伊藤ていじ・ドナルド・リチー 昭和42(1967)年 淡交社



花格で宇宙の秩序をあらわす

格を設定する

それゆえにいけばなのなかに式法を発見することは、宇宙の秩序を悟ることであった。そしてその宇宙の秩序は、花格をとおしていけばなのなかで具象化された。花格とは、現代風にいえばいけばなの構成様式といったらいいだろう。実際に私たちが眼でみることができるいけばなは、格を設定し、それらの格を一定の秩序の中に構成することによってつくりあげられた花である。格とは、具体的には道具または役枝といわれるものである。この格は、哲学的には眼にみえない宇宙の秩序と眼にみえるいけばなとをつなぐ媒体であるばかりでなく、常に定形というものをもたない各要素(枝)の調和を獲得する技法上のポイントでもあった。このふたつのことは重要である。なぜなら宇宙観が変われば、格の数と種類とその構成は変わることを意味し、格の操作を教えることがいけばなの技法を教えることであったからである。


立花は七格

格に関する記録はすでに、天文十一年(一五四二)の池坊専応口伝にでている。彼は、心(しん)、副(そえ)、心隠(しんかくし)、見越(みこし)、流(ながし)、前置(まえおき)、体(たい)、用(よう)の八格をあげている。天文五年(一五三六)の玉泉坊の口伝を伝えたものとする『立花初心抄』(延宝三年・一六七五刊)によれば、これもまた八格(真、正真、副、請、見越、控枝、流、前置)としている。これが次の池坊専栄となると、格の数はひとつ減って七格としている。心、副、心隠、副請(そえうけ)、見越、流、前置がそれである。前者の体、用がぬけて、かわりに副請がはいっている。いずれにせよ、たてばなの時代においては、七~八格が想定されていたことがわかる。

たてばなが近世において完成した立花においても、格の数に関する限りはほとんど変わりない。奈良の井上友貞が享保十四年(一七二九)にあらわした『桐覆花談』では、心、見越、受、副、控、胴、流、前置の八格としており、富春軒仙渓が元禄元年(一六八八)に板行した『立華時勢粧(りっかいまようすがた)』は、心、正心、副、請、見越、流、前置の七格(七つ枝)としている。しかしこれが、十一屋太右衛門が天和三年(一六八三)にあらわした『立花大全』では、心、正心、副、請、流、控、胴作、前置、見越を主な格としてあげながらも、さらに補助的な格として、大葉(おおば)、繕の具(つくろいのぐ)、後囲(うしごがこい)の三格を加えている。近衛家熈(いえひろ)の『槐記』の享保十五年(一七三〇)一月二十一日の条によれば、立花は七つ道具(七格)が標準であって、これ以下の格数では立花とはいわれず、七格をこえるものはあしらい(補助的な格)とみなされていたことがわかる。彼がいう七格は、真、正真、請、控、あしらい、流、前置であり、見越は、あしらいのうちにいれている。いずれにせよ同じ七格でも、人によってかなり異なっていた。


生花は三格

しかし立花だけがすべてのいけばなではない。このほか生花と投入とがある。格数という点では、生花と投入はどう考えられていたのであろうか。生花それ自体は、元禄時代(十七世紀末期)にあらわれるが、立花の立場では立花の行(ぎょう)の形式と考えられ、したがって格数も立花よりは減らされて、はじめのうちは五格としていた。たとえば井上友貞がそれであり、五格として立枝、押枝、添枝、流葉(ながしば)、留花をあげている。立枝は立花の真に相当し、添枝は立花の控枝の機能をかねさせたもので、流枝は立花の受と添をかねさせたもので、留花は前置をかねたものと考えられていた。つまり格のうえでは立花の八格(彼は立花は八格と考えていた)のうちのいくつかを省略兼帯させることによって五格としたものが生花と考えられていたことがわかる。しかし生花をもって五格とするのは初期のみにみられるのであって、それから約一世紀へた十八世紀末においては、どの流派においても生花は三格としている。古流の五大坊〆友が天明五年(一七八五)にあらわした『草木出生伝』は両者の過渡的形式を示している。すなわち彼は、正花、令(あしらい)、通用、体(たい)、留(とめ)の五格をあげてはいるが、技法上は正花と令、通用、体と留の三グループにわけているので、実質的にはこれが遠州流の風鑑斉積水が寛正十年(一七九八)にあらわした『挿花秘伝図式』となると、天地人の三格に徹することになる。たとえいける枝の数が三本以上いく本になろうとも、それらはこの三格の花術の延長としてとらえられている。たとえば五本の枝がいけられた場合は、天の輔(たすけ)として二本の枝が加えられたとしている。なお遠州流では天地人のかわりに、心(真)、留、持出の名称を使うこともある。

未生流の祖・未生斎一甫が文化十三年(一八一六)に盲目になりながらも口授し、無角斎道甫に筆録させた『本朝挿花百錬』では、その三格を体、留、用としている。彼は三格ではなく三才といっているが、内容は同じである。体(高き枝)は天に、留(低き枝)は地に、用(中間の枝)は人に相当するとして、この三才(格)の位を備えれば、花の形格を整えることができるとした。彼の意見の要点のひとつは、生花を立花の行の形態、すなわち立花の省略したものとは考えず、この三格こそ宇宙のもっとも本質的な象徴であると考えた点にある。草木はすべて天地運行の所産にして、それぞれ出生(個性や固有な形態)をもっているけれど、三才の理論(花矩*読みは「はなかね」)によって調和をかちうることができると、彼は考えた。すなわち彼にとっては、生花は立花にとってかわって主流の位置を占めるべきものであった。なお池坊流が生花をとりあげたのは、のちのことであるが、ここでもやはり心、副、体の三格としている。


投入は二格

それでは最後に、茶室のいけばなとしてはじまった投入は、何格に数えていたのであろうか。まえに述べた井上友貞は、生花の五格のうち立枝、押枝、添枝を省略して、流葉と留花のみにしたものとし、千葉一流も『抛入花薄』(明和四年・一七六七)のなかで、体と添の二格のみとしている。しかし投入に格の発想が加わったのは、十七世紀末期以後のことで、それ以前のもっぱら茶室におけるいけばなであった時代には、むしろ格なきを特色としていた。たとえば、貞享元年(一六八四)の『抛入花伝書』では、単に色の変わりたる二種の花をよしとするのみで格をうたわない。また元禄七年(一六九四)の『当流茶之湯流伝集』巻三をみると、茶室のいけばなは次第(法)なくうちまぜたものとしている。それどころか立花師よりみれば、茶花は法なきゆえに客人に対して失礼なものとされ、投入は打込(うちこみ)ともいわれて立花界からはひどくさげすまされていたことを知る。しかし客観的にみれば、投入の花矩を支えていたのは、本来は立花とは無関係であったはずの茶の湯の発想であり美意識であった。


因襲化の要因となる

いずれにせよ立花、生花、投入の技法は、格を通じて位置づけされていたことになる。しかし私たちは、ここでひとつの重要な問題に逢着する。なるほど使われている花の種類の相違によって外観において多少の変化はできたとしても、宇宙観を定型化した格(役枝)の配置によって表現しようとする以上、いけばなの典型は、所詮はひとつのものであった。いまもむかしも変わらないいけばなにおける基本的姿勢は、ひとつのこの典型にむけて、いかに忠実にアプローチするかということであった。したがっていけばなは、時が変わり材料が変わっても、外見的にはひとつの形式のくりかえしにすぎない。西欧にみられないいけばなのユニークさも、現代の多くの人びとにとってのつまらなさやあきたらなさの理由のひとつは、ここから出発している。

その形式のなかに仏教の心や儒教の徳義を発見し、その形式のくりかえしのなかに精神的修練ということがたとえ含まれて花道と称されようと、つまるところはマンネリズムにおちいる危険を常にもっていたことになる。家元制度といわれる封建的組織は、まさにこのようなひとつの典型にむかって接近しなければならない基本的な姿勢の上にのっかっていたといわなければならない。典型は抽象的に存在するのではない。家元がいけたいけばなの形式こそが、あるいはかつて名匠がいけた名花こそが、弟子たちがめざさなければならない典型であった。それゆえに、まえに述べたように宇宙の象徴の発見が、いけばなの理念上の出発点であるとしたら、それこそが同時にいけばなの因襲化と形式化の要因であった。因襲化こそ、いけばなの独特な哲学に潜在するいまわしき他の顔であり、当然の帰結でもあった。

もしこの因襲化を救うものがあったとしたら、それは何であったろうか。そのひとつはいけばなの出発点を否定すること――いけばなを宇宙の象徴としてみないことである。しかしそれはいけばなの伝統の否定でもある。しかしこの日は、江戸時代はおろか明治になってもやってこなかった。昭和のはじめになってやっとはじめて、やるせなき欲求不満の若者たちによって、その否定が試みられた。いまは老大家となった中山文甫、勅使河原蒼風、桑原専渓らが、その勇敢な若者たちである。彼らにとっていけばなは、宇宙の表現ではなくして、自己の表現であり、自己認識の手段であった。因襲化を救う第二の道は、いけばなの輪郭に枠をはめている流派に固有な花形を変えることであった。生花において池坊は円形を、古流は半月形を、未生流は二等辺直角三角形を生花の標準花形として採用していたが、これらの標準花形を変えることが、新しい様式のいけばなを生みだす他のひとつの手段であった。

もちろん自己認識または自己表現としてのいけばなの誕生は、まさに革命的なものであり、それはたぶん、いけばなの芸術的色彩への指向であったかもしれない。しかしここで重要なことが、彼らは伝統的いけばなを否定しない。それどころか、伝統的いけばなの継承をうたう。これは奇妙なことである。そこには否定もなければ対決もない。現代いけばなに内在するこの自己矛盾こそ、現代に生きる実に巧妙な生活技術のよりどころになっていることは否定できない。この自己矛盾を理論的に正当化するのではなくして、無意識に無視することによって、戦前、戦中、戦後の三時代を通じて、いけばなは変幻自在に、その席をまっとうしてきた事実は注目してよい。

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メモ

自己表現としての花=主観的客観(モノとしての花を利用した自己表現)の作品、すなわち、主客未分の表現といえる。





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