日本の敗戦直後の人々とコスモス、ダリア  オイルショックで園芸がブームになった 江尻光一氏の思い出

 

EXPO90 第一回花の万博国際シンポジウム 『花と人』開隆堂出版 1988(昭和63)年

●江尻光一氏は、若い頃、永島四郎氏の薫陶を受けた。父、宗三郎氏と永島四郎氏はとても親しい間柄で、光一氏が結婚したときの真っ白いカトレアのブーケは永島氏が制作したものだったという。


1987年11月25・26日に行われた第一回花の万博国際シンポジウムにて

講演

家庭園芸で学ぶこと [花をめでる]

江尻光一 園芸研究家


えじり・こういち 1926年千葉県に生れる。東京農業大学農学部卒業。洋ランの生産・品種改良に従事する一方、蘭友会顧問。日本洋蘭農業協同組合理事等を務める。NHK「趣味の園芸」講師としても活躍中。


 今回このすばらしい国際シンポジウムにお招きくださいましたことを光栄に存じます。私自身はどちらかといいますと実務の方を仕事としている人問でございます。千葉県の市川というところに住んでおりまして、そこに小さな農園がございます。現在はカトレヤ、パフィオペディルムという洋蘭類の新しい品種を作る仕事をしておりますが、そのかたわら昭和35年からテレビの仕事が始まりました。その頃は、『季節のしおり』という番組でして、園芸は、全体の中のほんのわずかしかございませんでした。これが昭和41年の4月から『趣味の園芸』という番組に変わりまして、今日に至っております。この番組を時々お手伝いさせていただいておりますが、おかげさまで全国的に園芸の愛好家がたくさん増えまして現在では高現聴率をいただいているようです。

 私自身は品種改良ということと家庭の園芸をどうしたらよいかという二点のテーマを持っております。今日はその家庭園芸の分野からお話させていただこうと考えております。


荒廃のなかで花を求める心

 もともと私が家庭園芸に興味をもったのは古い話になります。いってみれば「花とひと」のテーマに出会ったのは昭和22~23年頃、ふとあることから考えつきました。その頃の日本は皆さまも御存じのようにたいへん荒れ果てておりました。その頃私は電車で東京まで通っていましたが、空襲で一面焼けただれた焼けあとにちょうどポカッとコスモスの咲く小さな場所がありました。両国の手前でした。本当にひどい焼野原の中でどなたが蒔いたのか、自然に種が飛んできたのか今でもわかりませんが、電車の中の多くの人の目は焼けただれた中のそのコスモスに注がれていました。あの頃は皆さんも御存じと思いますが、電車といっても今日のようなすばらしいものではなく、窓ガラスの半分近くは板切れが打ちつけてあるようなものでした。一面の焼野原で食べるものもなく、おそらくひもじかった方々が多かったと思います。多くの方々が非常に苦労なさっていたあの困難な時代、電車がそこを通るわずかの時間にじっとコスモスを見つめた人々のその目を、今でも忘れられないのです。おそらく心の中では食べものや着るもののことしか考えられなかったその時代に、ほんの一瞬だけみえるコスモスを、ぎしぎしいう木造の電車の窓からみつめる目をどうにも忘れられないのです。これが私が花に関心をひかれたといういちばん大きな動機だろうと思います。

 ふと40年前をふりかえってみますと、今のようなことが浮かび、今日再び私の心の中には「花とは何か」「人間にとって花とは何だろう」と自問せざるを得ないのです。この題を今回いただきましてまことに感慨無量ですし、またその価値がより深く大事な時代だということを心から痛感しております。

 さて現在、日本の家庭園芸がすっかり盛んになりましたが、これでいいのだろうかという面がずいぶん感じられるのです。どんなことかといいますと、昭和20年代の園芸というのはまことに淋しかったのです。食べるものが中心ですからサツマイモを植えたりジャガイモを作ったりのいわゆる蔬菜園芸が多く、その中で花というものが一部で非常に大事にされました。不思議なことですが東京は大正12年関東大震災という大災害がありました。あの関東大震災のあと、やはり人々は衣食住を求めたのですが、その他に金魚と花を求めたということをある先輩から教えていただきました。昭和20年代はまさにそのくり返しだったと思います。私の家にはちょっと道沿いに畑もありまして、そこで当時ダリアとか百日草など夏のものを一生懸命作っておりました。そうすると人々が買出しに行くかたわら立ち寄ってそこでだまって見ているのです。もちろんそこで会話が始まるということはなかったのですが、飢えた情況にあってもおそらく心が何かを求める、そんな時代だったと思います。非常に貴重な体験でした。


オイルショックで伸びた家庭園芸

 昭和20年代というのはそんな情況でした。やがて20年代の後半から30年代にかけて花壇の園芸というのが、少しずつ盛んになり出しました。当時はまだまだ植える場所があったからだと思います。穴を掘ってそこにパンジーの苗やキンセンカを植えてささやかな花園を心の慰めにしていた時代であったと思います。昭和30年代には次第に経済力もつきまして後半になりますと結婦式の会場のカーネーションの花束がバラに変わってくる。そしてフラワーデザインという新しい分野がその頃から確立されてきます。花というものがいろいろな面で多目的に登場してくるのがちょうど昭和30年後半だろうと思います。私はその頃初めてブラウン管におじゃましましたので、たいへんその感が強いわけです。ちなみに申しあげますと私が最初に登場した昭和35年の11月、最初の課題は何と堆肥の作り方でした。これでおわかりのように、そういうものを作って土に入れようというところから園芸は始まったようです。

 こうして昭和40年代だんだん盛んになった園芸はやがて鉢ものへと移ってまいります。シクラメンの生産増加からもそんな思いにかられます。昭和40年の終り、例のオイルショックがありました。これによってもう園芸はだめになるだろうと私たちは深い絶望感を持ったものですが、実は正反対でした。あのオイルショックで物価が高くなる、旅行へも行けなくなるというようなことで、逆に園芸が伸び始めました。当時はいろいろな野菜作りから始まっていったのですが、これは本当に不思議なことだと思います。実は『趣味の園芸』の視聴率はあの時期を境にして急速に伸び始め倍増しています。このことはあのオイルショックのあと、初めて植物とのつきあいを始めた人が増えたことを物語っております。その時ちょうど『趣味の園芸』という月刊誌が発行されたいへん多くの読者を得、それが今日も続いております。確かこれは昭和51年だったと思います。こうして今日の園芸ブームのスタートとなり現在はその頂点に達した、こんなふうにさえ思える時代です。

 こういう花の歩みというのは時々皆さんもお考えいただくとありがたいと思います。現在のように、暖衣飽食の時代にきれいな花を見て心安らぐというのは確かにわかります。が、もう一度物質的に貧しかった時代と花という原点にたちかえってそこから再び未来に向かって問わなければいけない、これがこの花の万博の使命であると私は考えております。あと100年、200年後に、この花の博覧会が私たちの日本にこんなに大きな影響を残したのかと、後世の人々に見ていただけるような大事な時が今来ていると思います。

 そこで今度は花博と花とのことであります。私にとりましていちばん大事なのは、皆さんが花博をどんなふうにとらえ、また実際どんなふうに家庭の園芸に活用してくださるかということなのです。あくまでも家庭の園芸にこだわるのは家庭園芸の愛好家の方々に何を訴えたらよいのか、私たちがどんなふうに対処したらよいのかということを、特に取りあげさせていただきたいからであります。


第二の人生を植物とともに歩む

 実は最近園芸界がどうなっているか、私にとっての園芸界とは家庭園芸の中でございますが、それをいろいろな方面から調査した数字を参考にさせていただいたところ、ある二つのことに気づきました。それは『趣味の園芸』視聴率と新しい園芸愛好家です。先ほど申しあげましたように昭和51~52年から急速に視聴率が伸び今日までの10年間で従来の視聴率の約倍近くまで伸びています。この10年間急に視聴率が伸び、月刊誌が売れ出すその理由は何でしょうか。考えてみますと、どうやら新しい園芸愛好者、新しく植物を友だちとしてこれからの人生を過そうと考える方々が増えてきたという事実に出会います。ではそれはどういう方々でしょうか。先ほど申しあげたように昭和20~40年代は家庭の園芸といいまして、いわゆるお母さんの園芸でした。主婦の方が仕事のかたわら一生懸命水をやったり肥料をやったりするわけです。園芸の講習会等には、そういう方々がたくさんお集りくださいました。最近はちがいます。会場全体の約3割から4割は男性です。しかも60歳以上の方々が急速に増えました。それから従来見かけませんでした小さな子供の手をひいてくる若いお母さん方もたいへん多くなりました。ですから若いお母さん方、ずっと昔からの愛好者である中年の方々、そして新しく登場した男性の方々、こんなふうに色分けができるようになりました。園芸の未来を担っていただくのはこういう方々です。私ども園芸関係者はそういう方々に対して何をさしあげられるのか、そしてまたこの花博では何をみていただけるのか、このようなことがとても大事だろうと思います。私も60歳の年を越しましたからやはりそちらのほうから話をさせていただきたいと思います。

 一つの仕事を社会の中でなしとげ、そこから離れて第二の人生に向かう―――本当はそれがいちばん大事な人生だと思いますが―――、男性の方々は、植物というものに近づきたい、こんなふうに思って講習会に現れるのだろうと勝手に解釈しております。今までハサミを持ったこともない、種も蒔いたこともない、きれいな花を会社で仕事しながら外から見ていた、いつかそういうものにふれたい―――、こんなふうにお考えの男性というのは結構いらっしゃると思います。植物を育ててみてどうも自分があまりにもわがまますぎたことに気がついた、こういうことをおっしゃった方もいました。つまり長い間まったく無縁であった植物の世界に入りますと、最初の一年か二年は非常に戸惑われるようです。いつもきれいな花ばかりがあるわけじゃありません。根っこがあり、茎になり、長い間緑があり、そして初めて花が開くわけです。その途中経過の大事さということに初めて気がつく。これは男性にとってはやはり一つの驚異だろうと思います。そういう方々は自分のこれからの大事な残り少ない一生を、植物を友だちとして生きていこうとお考えのようです。この花博でそういう方々に植物と友だちになれる道、あるいは植物を友だちとしてこれだけ心が豊かになったという内容をぜひご展開いただき、何か心にとどまるものを作っていただけるとありがたい、とこれはお願いでございます。


植物から学ぶということ

 それから従来から園芸をやっていらっしゃる、いわぱ家庭園芸を支えてくださっている方々は経験年数も10年、30年と長く、たいへん造詣が深くて自分で工夫をされています。植物をいろいろに使い、生産者が考えもつかないようなことをなさっていらっしゃいます。たとえばクジャクシャボテン、月下美人などがそうですが、お店に出ますのは当然一つの形です。それを見て皆さんは「あ、こんな植物があった」と言ってお求めになるわけですが、それを自分のわきにおいて10年20年と過ごすうちに市販の株の姿とまったく植物が変わってきます。そういうすばらしい年月を経たものをお持ちの方というのはベテランの中年の女性の方なのです。この方々は植物と対話する術をお持ちなのです。ただ表面的な美しさだけではなくて、その内面的なものを探せる方々なのです。どちらかというと華麗なものよりは、自然の植物の美しさに目を向けられているようです。一年の間のたった2~3日しか咲かない、その咲いた時の美しさのためにその植物を作っているのです。こういう方々こそが園芸人囗のいちばんの支えだろうと思います。さてそれから第三グループ、小学校の低学年および幼稚園に通うお子さんを持っているお母さん、つまり若いお母さんです。おそらくご自身の人生経験の中であまり植物を作っていなかった方です。子供を育ててみて、きれいなものをいつもそぱにおきたいという動機からでしょうか、お子さんを連れて講習会にいらっしやいますが、これにはびっくりします。なかにはご主人と一緒にみえるというほほえましい方も最近ではずいぶん数多く見かけられます。そこで私はお願いするのです。「皆さんはまだ先が長い。ですからまず植物の育て方を自分で勉強してきれいな花を咲かせてくださいその次は咲かせるだけではだめです。植物から何かを学んでください」。こういうことを申しあげているのです。

 植物というのは皆さんもご存じのように人間の力なんか借りなくても、自然の中で堂々と生きています。私は仕事の都合上、時たまそういうところを訪ねてまいります。去年は短期間でしたがシッキムに出かけ、先月はソロモン群島のブーゲンビル島をささやかながら歩いてまいりました。私自身の本職である蘭の自然に咲いている姿を求めたいので、毎年テーマを決めて出歩いております。自然の中の植物は、人里離れたまったくの山の中にあり人間と関係なく堂々と生きて立派な花を咲かせています。すると私はその前で腕を組んで考え込んでしまいます、私たちは自然の植物から学ばなければだめだと。それは植物のたくましさとそれから子孫を残すための仕組みです。植物のことゆえもちろん考える力はないでしょうが、ある一つの考えのもとにきちんとしたことをやっている、これが植物の姿だと思います。そういうものの前に立つと、私か通ってきた道はまちがっているのではないかとつくづく考えることもあります。もう一ぺん私も植物に学んでみたい、したがって若い皆さんも勉強してみてください。何を勉強するのかというと植物から親子のきずなという部分、これをもっともっと探り出してください。

 つまり将来の園芸は高齢者のための生きがいとしての園芸というタイプと、今の若い方々には夢を満たす部分を植物から学ぶという分野を進めていきたいと個人的には思っています。これは私からのお願いなのですが、未来の日本に非常に大きな影響力を残すこのたびの花博をそういう内容に盛りあげていただければありがたいと思っております。


植物と社会をつなぐ花の万博

 最後にまとめに入りますが、こういうことも考えてしまいます。日本の園芸といいますのは、たしかに生産量はたいへんなものです。オランダの市場を見てもたいていのものは日本にみなあります。また、鉢植えのものを比較しても日本のほうが作り方がずいぶんうまいと思うものがいっぱいあります。ですから質・量ともに世界に誇るべきものがありますが、それは本当かなと思うのです。なぜかというと私たちの園芸というのはある意味では自分だけのものではありませんか?・ 自分で育てて自分で咲かせ、たまには品評会に出していろいろな賞をいただく、こんなことで喜んでいる―――。つまりあくまでも個人レベルのことです。極端にいえば。個人主義的部分が多かったのではないかと、そんなこともちょっと気になるわけです。なぜヨーロッパでは花がきれいなのか、なぜ? と絶えず考えながら歩きます。「どんな花があったか」ではなく、「それがなぜそこに存在するのか」というのが気になる部分なのです。その気になるところをちょっとふれさせていただきたいのです。どうも日本には園芸というものと社会の結びつき、社会園芸学とか園芸社会学とかというのでしょうか、こういう部分がどうもなかったのではないか。できればそういう学問をこの際作っていただきまして、将来、花博の時にこの学問ができてそれから日本がこんなに変わったといえる部分もお願いできればと思っております。

 実際これはこわいことだと思います。私は勉強不足でよくわかりませんので、これから諸先生に教えていただきたいのですが、江戸時代は300年ありました。江戸時代に、日本には庶民が見る公園の歴史というのがあったのでしょうか。皆がそこで見て楽しむ場所、そこに緑があり、花があり、憩いと安らぎと自然、そしてそれらがかもしだす豊かさという、人間にとってなくてはならないはずのものがあの時代にあったのでしょうか。たしかに殿様が作られた立派なもので今日名園とよばれるものはたくさん残っています。これは本当に敬服いたしますが、では家庭園芸、庶民レベルでいいましてそういう部分がどうだったろうとたいへん疑問に思っています。イギリスなどでは非常に長い歴史があります。そこで私たちはそれを今後残すべきではないかと思うのです。今は国、県、市などが立派な公園を作ってくださますが、個人レベルでは自分の家の前を飾ろうともしません。これが本当の園芸の盛んな国かと自己反省も含めて述べさせていただいているわけです。こんなことで良いのだろうかと、時々ヨーロッパやアメリカの街の一角を歩きながらいつも心の中でつぶやいているのです。「人生にとって花とは何なのだろうか」。このテーマは再び私の心の中で猛烈な勢いで渦まいています。ですから重ねてお願いを申しあげると、「日本人にとって花博とは何か」をもう一度考え直していただきたいのであります。

 そして私にいただいた題は”めでる”というたいへんエレガントなものです。ですけれど抽象的な”めでる″ということでは言いつくせないほど、その内容はきびしくもあり、こわいとも思います。特に物質が先行して物がたくさんあることが豊かさだと思っていた時代はもう去ろうとしています。そしてこわいことにそういう物質の中でしか生活できない子供たちがたくさん存在しています。ファミコンだのパソコンをうまく操り、自分だけ音楽を楽しんだらよいと耳にイヤホーンを当て、バタンとドアを閉めてしまえば自分だけの世界になれる自動車なんかにのみ興味をもつ若者が目立ちます。こういう方々にとっては公園の花もいらないのかもしれない、いや、そうではなくてだからこそ緑と花は必要なのだと、こんな思いが行ったり来たりするのです。私たちの生活は植物の恩恵にあずかっているわけですから、もう一度どんな心がまえで緑を眺め、どのように緑の芙しさを出せるのか、こんなことを皆さんとともに今後とも考えてまいりたいと思います。

 最後にもう一つお願いしてみたいのです。私は植物を見ているとその未来、植物たちが子孫を残そうと努力しているところにばかり目がいってしまうのです。この花博はきれいなものをパチパチ写真を撮ってお帰りになって、それでよしとするものではないと思います。たった一輪のものを見てもそれが心の中で大きくふくらんで、花は目で見るものではなしに心で眺めるもの、それが″めでる″だと私は思っています。そういう方向のものを作っていただければと思いますし、また先ほど申しあげましたように50年後、100年後にこの花博をふり返り「ああそうか、ああいう習慣が今あるのはあの時から始まったのか」とこういうものしていただくことが本当に大事だろうと思います。再び申しあげますが、植物と社会とのつながりをこれからはぜひ表に出していただくこと、そして子供たちのために何が必要なのか考えていただくことを特に申しあげたいのです。

 最後に、私は字が下手なのですが、何か書けとおっしゃる方がいらした時、おこがましいのですが、「花は見るものではなく、看るものである」と書かせていただいています。みるものという文字を二つ使いましたが、一つは見物の見という字です。もう一つの看るという字は看護婦さんの看という字です。両方とも「みる」と読みます。この漢字をよく見ますと見物の見は目があって下に人がいます。人間が腕を組んで何かを第三者として見ている姿です。次の看という字は目の上に手があります。目の上に手、つまりそこに誰かが横たわっていたとしましょう。その相手の目の上に手をかざす、これが看るだと思います。相手と一緒になって、という意味です。ですから植物に接する時は第三者として「まあきれいだわ」とパチパチ写真を撮るだけでは困ります。その植物が自分の心の中に入りそれが再び次の代につながっていく、そういうものをこの際ぜひとも私たちは残すべきだと思います。昭和のあの大戦が終ってからもう40年が過ぎました。今こそ次の世代のためにすばらしい習慣や物を見つめる本当の目、本物を見るということを残していきたいと思います。自然のものというのは今失なわれつつあります。しかし花の色は自然そのものです。その花の色を見つめ、それから空の色も子供たちに見てほしいと思います。日本はかつて山紫水明の国といわれていました。日本文化はその自然の美しさの中ではぐくまれてきたのです。この自然の中の素直な植物を見つめ、本当の色を知り、そして植物から学びこれを残していく、このような花博であっていただければと思います。そしてまた多くの人に感動を与えていただきたいと思います。どうも今日はありがとうございました。


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