第一園芸株式会社本店(青山生花市場)は、渋谷区渋谷一丁目一番地に所在した

 


田渕清作氏は青山生花市場と他の卸売会社数社が合併して2001年にできた東京都中央卸売市場世田谷市場花き部で卸売をおこなう世田谷花きの社長を務められた人物。

『世田谷の園芸を築き上げた人々」1970のp62によると当時、新倉花店(新倉園芸の関係か?)にいた田渕氏が抜擢され、当時、佐藤農園の佐藤享氏がやっていたセリ台を引き継いたという。

○青山市場時代に「研究会」という生産者と花屋が一緒になった勉強会が開かれていた。生産と利用を一緒になって考えて今後必要となる素材を流通させようという意欲的な目的をもった会だったようだ。これと同じような勉強会が2001年にできた世田谷市場でも「世田谷花卉研究会」へと引き継がれている。

○三軒茶屋の世田谷警察署の土地は、おそらく、有島武郎の実弟、佐藤隆三がやっていた農園(生産販売)があった場所ではないか?(未確認)、のち、大正5年ころにできた東洋園芸株式会社の農場(場長は石井勇義氏)、というような由来のある土地だったのではないかと思う。世田谷花市場がそこにあったのもなにかの関係ではなかったか。

○青山生花市場はそれ以前に蘭業組合の市場であった(進駐軍向けの高級花は真っ先に求められていたから)昭和26年より前から営業していたということか。


青山生花市場、第一園芸株式会社本店の住所は当時、「上通り1-8」のちに「渋谷区渋谷1丁目1番●●」となった。

【青山生花市場沿革】

昭和26年 1951年  渋谷区渋谷1丁目1番地にて創業  21年間

昭和47年  1972年  世田谷区粕谷に仮移転  4年間

昭和51年  1976年  世田谷区上用賀に移転  25年間

平成13年  2001年  他の卸会社と合併し世田谷花きとして世田谷市場でスタート 21年目

●ちなみに、戸越農園は、世田谷区用賀1-1という住所だった。

○戦前、この青山市場があるとても近い場所に東京興農園本店があった。住所は「上通り2丁目」となっている。元こどもの城があったところは、電車の車庫だったので、現在の国連大学の付近と思われる。


画像は、「渡瀬寅次郎伝」から

○東京興農園は、もともと赤坂溜池に明治27(1884)年に創業された種苗会社。創設者は渡瀬寅次郎(梨の二十世紀を命名したと言われる人物)である。

○上通2丁目には、札幌農学校第一期生、渡瀬寅次郎が赤坂溜池につくった「東京興農園」の分店として渋谷店があった(現在の元こどもの城から国連大学、旧電車車庫に隣接か)。のちに関東大震災で崩壊した本店を廃止し、渋谷が本店となる。アメリカから帰国した池上順一氏はここに席を置いた。

○フラワーデコレーター 池上順一氏

戦前、ニューヨーク、シカゴ等で花屋を経営、最後にロスアンゼルスで花卉装飾専門のU・Sフローリストを経営された池上順一氏は1934年(昭9)に帰国し渋谷興農園に勤務のかたわら、各所の学校に花卉装飾講座を設け、その普及に尽力した。興農園では種苗の輸出入の仕事をされていたのではなかったか、装飾の仕事があったのだろうか?氏はまもなく渋谷駅前にU・Sフローリストを開店した。

その後、東京府立園芸学校(現在の東京都立園芸高校)で園芸と装飾を教えた。ただ、残念なことにその後何年もしないうちに早世されたという。

○青山花茂の創業も明治だから、興農園の近くの花屋だったことになる

○FDC(フラワーデコレーターズクラブ)の勉強会

昭和30年。戦争が終わって10年という記念すべき年になにかを新しく始めようという機運は日本のあちこちに充満していたのではないか。

フローラルデコレーターズクラブ(FDC)はこの年から始まり、数年間の活動をおこなった。この花卉装飾の勉強会の発起人は、千葉大園芸学部の卒業生、江尻光一青年だった。会誌「Bulletin」もつくっていて、その編集に武田和子さんがついた。先生はもちろん、永島四郎さんだ。(坂田種苗で活躍した武田和男氏と和子夫妻はのちにハワイのマウイ島で園チャンティングフローラルガーデンという有名な植物園を経営した。)

武田和子さんによると、実際は昭和27年か28年ころから始まり、なんと毎週金曜日の午後6時から渋谷の青山市場を借りて講義と実技をやったということでした。

「ブレティン」というのは、まさに会報という意味。ガリ版刷り。四郎さんも寄稿した。


『戸越農園のあゆみ』1994 から

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青山生花市場と私と戸越農園

田渕清作

 戸越農園との最初の関わりは、昭和23年の春であったと記憶している。当時は終戦後の著しい食糧難の時代でもあり、花どころではない世相の下ながら、私は近隣の生花商の皆さんの奨めもあって三軒茶屋町に現存する世田谷警察署の以前の敷地にオープンした世田谷生花市場の職員として就職した。そして切花の集荷のため、田園調布の温室村をはじめ、上野毛や玉川から砧地区等の農園を巡回した後、戸越農園にも立ち寄ったものだった。

 月に3日の休業日以外の日は、ノーパンクの自転車リヤカーで、カーネーションやばら、ダリア、その他切り花類を集荷させていただきながら、当時駆け出しで花に対する知識不足の私は、栽培責任老の大野さん(故人)をはじめ皆さんに、切り花のいろはから教わったことなど、それは懐かしい思い出である。しかも、その後の昭和26年3月に発足した花卉総合商社第一園芸と全く同時期に、洋蘭生産者による蘭業市場から新しい組織に変わった青山生花市場に、戸越農園出身者の佐藤享氏(故人)の強力な後押しもあって、3月に転職入社した。新市場の集荷等も前職に引き続く形ながら、石山孝四郎前社長との関連から、戸越農園には、それまで以上に親身の感覚で対応していただいた。

 青山生花市場に急増する入荷量のため、戸越農園所有のオープンカーや自動三輪車、時には虎模様塗装のフォードなどを約1年半借用し、市場で車を購入した後も、農園の車庫を、昭和47年1月に青山生花市場が渋谷の第一園芸本店裏から世田谷区の粕谷に移転するまでの20年近く使用させていただくなど、市場と戸越農園との関わりは深く長い。

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