ある園芸中毒患者の手記 江尻宗三郎『洋ランを楽しむ』



江尻宗三郎氏は、NHKテレビ「趣味の園芸」等で活躍された日本を代表するランの大家、江尻光一氏の父親である。戦前からランの栽培に熱中し、戦後は生産者として事業を始めた。
その江尻宗三郎氏がランの入門書として書いた新書版の書籍が『洋ランを楽しむ』(主婦の友社、1965年)である。
この本の冒頭に、忙しいサラリーマンだった自分がどのようにして園芸にのめりこんでいったかが、たいへんにユーモアあふれる文章で記されている。
フラワー・デコレーターの永島四郎氏とはながい付き合いで、とても親しかったという。戦後、ランの花は進駐軍の需要でたいへんに人気で高価で取引された。昭和26年に創立の第一園芸とその関連会社である青山生花市場では江尻氏のランも取り扱われていた。
ランはその後、1950年に朝鮮半島で戦争が始まると進駐軍の需要が急速に減った。価格も大きく下落したという。ところが、その後の特需により、国内での需要が高まり、生産量も増えていった、今後は生産過剰、供給過剰に気をつけなければならない、というような話も江尻氏は書き残している。

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著者紹介 江尻宗三郎

明治二十五年千葉市生まれ。東京市私立麻布中学より、東京高商卒。銀行員から貿易商社員となり。大正七~九年ニューヨーク支店勤務。帰国後、織物輸入の貿易商社を設立、第二次大戦直前に廃業。大正十二年オランダの商客から、チューリップその他の球根をプレゼントされて以来、園芸に熱を入れ、終着点が洋ラン。「おランさま」と家族からニックネームを頂戴するほど洋ランに熱中して、以来四十余年。洋ランの大衆化をモットーに、業者に転向したのは終戦直後。
昭和二十年千葉県市川市須和田に須和田農園開設。日本洋蘭農業協同組合常務理事および審査員、(東京)蘭友会理事、全日本蘭協会理事および審査員、静岡蘭友会顧問など洋ラン界の長老。

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私の洋ラン作り
楽しさに魅入られてマニアになった私の体験

 いまでこそ、日本洋蘭農業協同組合の一員で、れっきとしたラン業者の仲問にはいっていますが、私はねっからの園芸人ではありません。趣味的に花を作りだしたのは、四十年近い昔からですが、それを職業として出発したのは、終戦の翌日からです。
 大正四年に神田一橋の東京高商(一橋大学の前身)を出て、銀行にまる一年、ついで織物輸入の貿易商社に七年ほどサラリ一マンとして勤め、それから小さな貿易会社を自分で作り、およそ二十年余の苦労を重ねたあげく、そこで第二次大戦にぶつかって廃業、敗戦、転向といった道をたどったわけです。

オランダからのプレゼント
 大正十二年というと、いまから四十年余も昔のことになりますが、その夏のある夜、勤め先の商社が、オランダからの客数人を柳橋の柳光亭(りゅうこうてい)に招待したことがあり、私もその末席に加えられました。その席上、私に「園芸に趣味をお持ちですか」と質問したF氏は、当時オランダでも名の通った種苗会社パン・ウァヴェルンの重役でした。
 当時の若かった私は、ほとんど園芸にたずさわっている暇がないくらい多忙でしたが、園芸好きの父の影響を受けて、趣味はじゅうぶんにもっていたうえ、かにしろ日本人のことですから、即座に「イェース」と答えてしまいました。するとF氏は、わが意を得たりとばかり、「それはいい。それなら、私か帰国したら、ダッチ・バルブといって、恥ずかしくないチューリップの球根を少々お送りしましょう。もっとも、私の帰国は二、三ヵ月後になるはずだが」と、思いがけないプレゼントの約束をしてくれました。
 それからひと月とたたないうちに、例の関東大震災が起き、勤め先の商社も、柳光亭もきれいサッパリと焼けてしまいました。幸い住まいのほうは助かったものの、私の生活は根底からゆさぶられ、その後の日々は全力をあげて仕事の挽回につとめなければならず、もちろんF氏の約束などは完全に忘れ去っていました。
 ところが、その翌月でした。思いもかけない外国小包みが、三つほど私宅に配達されたのです。見るとヒレゴム・ホーランドとあったので、フッと先々月のF氏の約束を思い出し、大急ぎで開いてみたところ、実にみごとなチューリップやヒヤシンス、アネモネなどの球根が、はいっていました。いわゆる卜ップ・サイズという一等球で、まったくほれぼれするほどりっぱなものばかりでした。
 当時日本の園芸店には、貧弱な品物だけしか売っていなかったので、驚喜した私は、さっそく参考書を買い入れるやら、植木屋さんを呼ぶやらして、庭じゅうでいちばん条件の
いいところを選んで植えこんだのです。
 翌春まず、ヒヤシンスの芽が、いっせいにとがった頭を出してきましたが、そのときのうれしさはいまだに忘れられません。やがてそのうちの太いものは、直径5cmも6cmもあるたくましい花穂(かすい)をあげ、そのみごとさに驚かされましたが、それがいよいよ開花したときには、さらに驚き入りました。「ブルー・ダニューブ」という淡紫色の品種などは、茎の全長25cm、花穂だけでも18cmというすばらしい大きさで、見る人のだれもが、おおぎょうな驚き方をするありさまでした。
 ついで、早咲き、五月咲き、トライアンフ、ダーウィン、パーロットなどのチューリップ
や、ちょっと類のないくらいあざやかな色をもった単弁、複弁のアネモネなどが、次々と花をあげ、完全に私をのぼせ上がらせてしまいました。
 やがて私は、会う人ごとに花を説き、暇さえあれば庭の改造を考え、しだいに園芸中毒症状を強く起こしていったのです。私はまず「実際園芸」や「農業世界」の月ぎめ購読者となり、毎週一度や二度は、必ず日本橋三越デパートの七階や銀座千疋屋、ときには遠く横浜植木株式会社や横浜郊外の坂田種苗商会などにまで出向いて、興味をおぼえたものは手あたりしだいに買ってくるというしまつとなりました。

フレームから温室へ
 こうした結果、たちまちにしておき場所に窮したり、時間が足りないことなどで、なかなか思うようにゆかなくなりましたが、もちろんそんな支障くらいで、園芸熱が冷えるものではありません。
 そのうちに、どうしてもフレームか小温室がほしくなって、さっそく標準型のフレームを一つ作りましたが、しかしこれは失敗で、半年とたたないうちに、いやきがさしてきました。フレームでは、たいした楽しみが得られない割りに、あんがい手がかかるのです。そのうえ冬、ムシロなどをかけるのは、なんとなく貧乏くさくてやりきれません。
 やはりどうしても小温室がほしくなり、とどのつまりは、だいじな柿の木二本を切り払いヽ2.7m(九尺)に5.5m(三間)、つまり15㎡弱(四坪半)の小温室を作りあげ、暖房には練炭ボイラーを使うことにしたのでした。
 さてそこへ、手あたりしだいに、寒がりやの植物を入れたしました。まったく、むちゃくちゃな雑居ぶりです。もちろん、園芸書は見ていましたから、あまり極端な雑居がよくないことは百も承知なのですが、なんとしても、見ればほしくなり、なんとかなるだろうでおしまくったのですから、栽培としては、いまからかえりみるとまったく支離滅裂のありさまでした。
 いうまでもなく、これは大失敗を招き、シャボテンやメセン頽のごときは、たちまちのうちに全部マクラを並べて打ち死にというしまつです。しかし、ケンチャヤシやフェニックスなどは、(当然のことながら)いよいよ元気でのさばりますので、室内はしだいに日照不足のきみとなり、フリージヤやベゴニヤなどは、どう見ても徒長ぎみになって、おもしろくありま世ん。

ニックネームは「おランの方」
 いい遅れましたが、コレクションのうちには、もちろん洋ランも数種はいっていたのです。カトレヤ、シップ、デンドロ、オンシジューム、セロジネに、台湾の胡蝶蘭(ファレノプシス)、および一、二のシンビといったところでしたが、翌年になってみると、これらマラソン選手の優者、劣者の大きな差が現われだしてきました。
 まず日照の多いことを好むもの、乾燥を好むものが、ずっと引きはなされたのに反し、頑健な観葉物と、シップ類などの大部分が、非常に調子よく光りだしています。ことに、難物視されていた胡蝶蘭や、斑入り葉のシップがまことに調子よく、つやつやした葉だけを見ても、本職の観葉植物をグンと追い越す美しさでした。これがやがて花穂を見せはじめ、スクスク(といっても非常なスローモーションで)と伸びてゆき、ついにみごとな花を咲かせるに至ったときには、からだじゅうがゾクゾクするほどのうれしさでした。
 こうなっては、もうだれがなんといおうと手がつけられないくらい夢中になってしまいました。暇さえあれば温室へはいりこみ、霧水をかけてやったり葉をふいてやったり、たいしたかわいがりようです。家の者たちは、やれ「おランの方」だの、「おランさま」などといって、暗に私を非難するのですが、のぼせきった私にはいっこうこたえません。
 そのころの私は、まだ若くもあり、世間なみの仕事をしていましたし、そうした関係から、帰りのおそい夜が多かったのです。冬の夜ふけ、郊外の寒駅から600~700mの凍りついた道を、強いこがらしにさらされて帰ってくると、からだのシンまで冷えこんでしまいます。こんなとき、まず私は門をはいるなり、駆けるようにして温室に飛びこむのでした。そこの暖かさは、オフィスや石炭ストーブで作りだされた暖かさとは、まったく異質のものです。いかにもしっとりと柔らかで、まるで五月の夜のように好もしく、ときにはほのかな香気さえ漂ってきます。
 ことに月の明るい夜の温室を、私はこの上なく好みました。冬の月明(げつめい)は、そのままではややドギツすぎます。しかしそれがヨシズをもれて落ちてくると、すっかり柔らげられ、ひどくロマンチックな、美しい明暗を生みだすのです。
 またその青白い縞の中には、大小さまざまな形の葉や鉢が、実に複雑な影や明るさを作りだし、さらにそこここにボーッと灰青色の花が浮かび出て……それはあまりにもファンタスティックであり、エキゾティックで、ちょっと現実の姿とは思われず、いま通ってきた、さびしくて寒々とした田舎町を思うと、自分は夢を見ているのではないかと、疑いたくなるしまつです。そして、こうしたぶんいきの中に、ジーッと暖まっていると、音楽好きな私には幻聴に似たものが起きてくるのでした。まるで美しいピアノの夜曲―ショパンのノクターンかバラードでも聞いているような陶酔に包まれ、まったく深夜の時間を忘れてしまうことさえたびたびありました。
 ほんのわずかな費用と、少しばかりの労力(といっても、実際に練炭を入れたり、ヨシズの上げ下げをするのは、家の者だったのですが……)とで、これだけ大きな、そして深い慰めが与えられようとはまったく思いもよらなかったところで、私は温室を作ったことの大成功に、有頂天となってしまいました。と同時に、いかにも温室というものに、ピッタリうつる洋ランに、いよいよ強くひきつけられてゆくのでした。
 毎朝、出勤前のせわしい中でも、三分、五分をさいて、必ず温室へおまいりをするのです。まだ植えかえ、株分けなどの仕事についても、ランを扱っているときの楽しさは格別でした。その理由を、当時の私は、よくわからないながら、たぶんほかの花に見られない気品や、珍しい形や、複雑な美しさをもつ色調や、つやなどのせいだろうぐらいに考えていたのです。が、しかし一、二年あとになって、ようやくわかってきました。それは、そうした単純な理由だけによるものではなく、もっとずっと深い、そして複雑な理由によるものであることが……

洋ランの魅力は
①その複雑多様さが生む奥行きの深さや幅の広さが、ほかの植物から、ず抜けている
 まったく、ランという植物の複雑さは無類で、ほかの植物はその比を見ません。ランは、だんぜん他を引きはなしていて、花、樹姿、生態(芽や葉の出方、伸び方、花のあがり方)などの点で、非常に大きな特徴や異色をもっております。とくにその一つ一つの生き方(これがとりもなおさず栽培の対象となります)の複雑なことも、とうていほかの植物の比でなく、その奥行きの深さや幅の広さは、十年やそこらの習練では、会得できないほどで、ここにも大きな魅力がひそんでいるものと考えられます。

②組み合わせさえ適当であれば、一年間を通じて花をながめることができる
 季節によって花の咲く「属」がいろいろあるので、これをうまく組み合わせて持てば、年間を通じて絶えず花が見られるというわけです。一年じゅう咲かせることは、特別にいろいろな「属」を組み合わせなくても、しようと思えばカトレヤだけでもできなくはありません。私の知っているあるお医者さんは、わずか13㎡(四坪)くらいの温室に、百鉢に満たないカトレヤを持っているだけですが、いついっても花が咲いていないことはありません。
 この人は株を集めるとき、花あがりの時期のことを実に丹念に調べて集められたからこそ、豪華なカトレヤの花を、年じゅう見ていられるわけです。こんなことのできる植物がほかにあるでしょうか。

③奥行きの深い栽培
 次に、その栽培ですが、これがまたかぎりない楽しみを提供してくれます。
 プロ、アマを問わず、ラン作りを批判する人たちには二つのグループがあるようです。その一つは――「ランなどは、シャボテンについで作りやすい」とする人々であり、もう一方の人は――「ランを育てることは、実にむずかしい。何年やっても、ほんとうのところはわからない」と嘆きます。まるで正反対ですが、いったい、そのどちらが正しいのでしょうか。
 私は思います。それは考え方の相違からくる違いで、どちらも半ば正しく、半ば違っているといえそうです。ランを単に生かしてゆき、自然に花の咲くのを待つというのなら、前者のことばが正しいといえましょう。しかし、ほんとうによい花(その株としての最高の花―これを業者は「満作咲き」などと呼んでいます)を、年々同じように咲かせるということになると、なかなか容易なわざではありません。とくにカトレヤやシンビについては、その困難さは少なくありません。
 しろうとが見て、きれいだの、りっぱだのとほめてくれる程度の花は、少しなれた栽培者には、らくに作れるでしょうが、売れるような花、それも花市場へ出して相当の値で売れるものをとなると、そう簡単にはできません。ここにも、ラン栽培の深い魅力があるものと思われます。

④花期の抑制と促成が魅力ある課題
 現在のところ大部分の洋ランには、ほんとうに有効な抑制も促成も実施できません。三年ほど前の米国雑誌を見ると、クリスマスの需要に備えて、すばらしい数のカトレヤ・ラビアタの花が、いっせいに咲きそろっている写真が出ていました。これはもちろん、抑制か促成によるものと推察されます。しかし私は、年末の洋ランに対する旺盛な需要に応ずることができるように、なんとかして十二月の中、下旬に、シンビの花をたくさんに咲かせてみようと、ここ数年間苦心さんたんしていますが、全然だめです。
 まだ、毎年五月から六月へかけては、結婚式などの関係からか、洋ランの需要ははなはだ活発なのですが、花のほうはあまり咲かない季節となります。これに反して三月、四月は、花の供給が非常に豊富で、需要をずっと上回ります。
 この過剰のときの花を、一ヵ月ないし二ヵ月遅らせることがでさたら、実にたいしたことなのですが、日本ではまだ何人も成功をみていないようです。このことは、アマ、プロを問わず洋ラン栽培上の大きな課題であり、ぜひ真剣に取り組んで研究してほしいことなのです。
 今日、少し野心をもつ人ならば、すぐ実生によってすばらしい新品種を生み出そうという夢をいだきがちです。それも確かに洋ラン栽培上の大きな魅力に違いありませんが、しかし私は、それよりもやや可能性が大きく、しかも切実な問題である抑制、促成の研究に打ちこんでもらいたいものと、心から願うしだいです。
 ラン栽培の魅力は、このようにきわまるところを知りません。もっとも私自身が、この道のマニアであるからかもしれませんが……

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