戦後の花、新しい花がいかに現れてきたか 小原豊雲「立華の新解釈」としての戦後の前衛いけばな
『花道周辺』小原豊雲 河原書店 1950年 から
新しい花
今日では、新しい花の作品が色々現れてゐるが、かうした事が起ってくる以前の事情を考へると、私の記憶に遣るものでは、今からザット二十年前、大阪の三越で、関西の名流諸家が中央会を組織して、その作品を展示したことがある。その時、私等が親しくしてゐる中山文甫さんが新しい傾向の花を生けた。
それまでの一般の概念としては、新しい花器を創作しこれに花を生けるという事はなかった。勿論在來のまゝの好みで、自分の趣味に合ふものを作ることはあったが、会場に用ゐる大掛りなものを用いたのは、恐らく文甫さんを初めとするのではなからうか。その時の材料は、シュロを主とし、夏のことであったので、グラジヲラスか何かを配したのであるが、それを非常に派手にいけられた。所が、これを見て、開西の一般家元は好意を寄せなかった。その理由をわかり易く云へば、カフヱの装飾の様だといふのだ。詰り、池坊の上野氏が嘗つての小原流の傾向を評し、女郎が長襦袢を着て寢そべってゐる様なものだと云った様な見方であった。所が、夊甫さんは周囲の批評を意に介さず、未生流の新花として、さうした創作的なものを続けてゐるのであって、その態度には、周囲の花道家として敬意を表さずには居られない。
その後に、東京において勅使河原氏が起ってきた。所が私等の考へからすると、中山さんは色彩的であり装飾的であるが、勅使河原氏は、感覚には一種の近代感があると共に、ロマンがある。そこに中山イズムとの相違があると思う。
私にはかう云ふ経験がある。勅使河原氏の作品を東京の朝日講堂で催された展覧会の時に見たのだが、シュロと藪椿を用いたもので、シュロの枯葉の間に、籔椿があり、その間に意識的にシュロの枯葉がブラ下ってゐる所に、従来に見られない自然の感覚があった。そこに詩があり、歌があり、ロマンがあり、仲々面白いと思った記憶がある。
その後、同氏のものは如水館で行はれた個展を見たが、新しい作家としては、「西に中山さんあり東に勅使河原氏あり」と云う感じであった。将来両氏がどう云ふ展開を見せるかを吾々は敬意をはらい興味をもってみてゐる。
所が、大きい戦争をくゞつて、日本にも敗戦後の戦後派が現れた。これには両氏の持たない面が現れてきている。その特徴は、実は従来のいけ花よりも、会場芸術としての作品を作ることである。解り昜く云へば、青龍展とか二科の大作の様なものである。従来はそんな大きい作品はながった。寧ろ過去の大住院あたりには、立華の大作があるが、それは寺院の中で試みたのであったが、さうした場所を離れる場合には、その影を潜めてゐた。それがデパートを会場として、戦後派がこの大作を試みたのである。それと共にテクニックではなく、テーマをもつ作品を作る様になったのも一つの傾向で、譬へば、河村氏の如是我観とか蛇体が現れると云ったテーマの作品の如きである。それが、戦後の現れとして、六陵会とが七星会に示され、前の中央会に匹敵すべき戦後派の張りをもって生れている。これは戦後花道の新しい傾向と云うべきであらう。
これらの作品にある根本的内容は、新しい事情に応じアメリカナイズされたものではない。過去の立華に新しい解釈を加えたとも云うべきものである。吾々はアメリカ的なフラワアアレンヂメントに媚びるのではなく、いけ花の世界での新古典派をねらっているのである。国敗れたりと雖も山河ありの言葉があるが、この山河に則するものこそがいけ花の道である。従来の解釈では、日本の文化は武張ったものの様に思はれていた。然し、この武張ったものが真の日本の文化ではなかった。成程武士が現れて世を支配する様になって以後は、さうしたものが表面に現れていたかも知れないが、それに対して勇気ある敢闘をして来たのも過去の花を生ける道である。野にある草をとって瓶に生ける芸術が国民の間にひろく行はれる様になったのは、凡そ地上にあるものの生命に愛情を注ぎ、その性格を生かさうとすることで、かの武張ったものが、常に他に圧制を加へていたとは、根本的に異る他面の心があったからである。それで、強き性格をもつものを一瓶の中心にすることについても重大な論議が加へられ、強きものが他を従へる形式よりも、草木の一種一種が「ありありと」あるようにと考へてきたのである。これが嘗ての立華に見る重要な精神であった。私は、新しい戦後派の傾向の中に、立華についての新解釈があると云ったが、それは古典としての立華の中に、この様な精神が盛られているからである。
それは、政治の面に現れている以外の国民の意志であったと云ってよいであらう。政治の上には、所謂武張ったものが出ていて、それのみが日本文化の姿と従来誤解されていたのであるが、今の時に新しく取上げてよいのは、その反面にあって、国民の意志を現していたものである。それは、前に云う強きものを中心にする代りに、直ぐなる若松を極真として用いる心である。伸びたった若松を中心にして、そのあたりに、他のものが「ありありと」ある形を定めるのは、平和に、素直に、正しい生活の表象である。
その様な理想をもち、この心による形式が吾々の先人によって既に完成されているのは、過去の時代における戦後派の至りついた結論である。その中にある純粋な意志は、今日にあっても顧みらるべきである。さうした日本文化の新しい開花を期待して、その方向に、新しい性格を定め、その発展を吾々は期している。
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池坊の生花の名手、師範(教授者)であった小原六合軒雲心が盛花のスタイルを完成させ、池坊のカリキュラムに採用を願い出るも、当時の花務課長、上野啓純に「このようの品格がない花は床の間にはふさわしくない」と却下されたため、生花は池坊のきまりで従来通り教えますが、盛花については小原式として教えていきたいと申し出て許された。
これが明治45年(明治の最後の年)のことだった(豊雲の記憶では明治30年以前となっているが、誤りではないかと推察されている)。45年には第一回の盛花大会も行われた。
雲心は大阪の池坊では采田容堂とならぶ有力者だった。このトラブルの内幕としては、当時池坊の花務課長になったばかりの啓純が古株の教授者たちの雲心とその盛花の批判を抑え込めなかったからだと推察されている。その証拠に、啓純の妻は盛花を習っており「啓純夫人の盛花研究グループ」というものもあった。啓純と雲心はその後も関係良好で、池坊の免状を取り次ぐとともに、小原式盛花については、弟子に免状を出すことをしなかったという。
雲心は池坊グループの作家として一級の評価を受けており、大正2年には昭憲皇太后の京都御所行啓のさいに御学問所に盛花、瓶花17瓶を生けるという光栄に浴したほどだった。それ以前にも各宮家の御前挿花を任されていた。
そのようなエースが盛花を旗として独立することになった。当時、雲心が花を教えていた上流階級、富裕層の婦人たちには盛花の人気が高く、東京での出張教授でも高い評価を受けていた。
『小原流の歴史』小原流編集室編2000