作庭からいけばなが生まれた?~いけばなと庭園の歴史的関係
作庭(3点とも人倫訓蒙図彙から)
【いけばなと庭園】 (『いけばな辞典」大井ミノブ編著 東京堂出版1976)
この両者は自然を素材として、それを生活のなかにとりいれて、身近に楽しむ造形表現としたところに、共通した自然観の所産ということができる。千利休が満庭に咲く朝顔の美しさを、床に飾った一輪の朝顔によって象徴的に表したのを見て、豊臣秀吉がその意表をついた創意に感嘆したという話は有名である。その真偽は別として、これはいけばなと庭園との関連を端的に語った話として興味深い。
「宗清花伝書」に、前栽について、「此花は、庭などに花ある躰なり。にわをうけて立つべき花なり。」とのべているが、いけばなと庭園とは相互に規定しあって成立している。
とくに、寸庭に千山万岳を構築した枯山水の庭園は、一瓶のうちに大自然の美を抽象化した立花と、その象徴的手法において相通ずる関連がある。
作庭の伝書である「作庭記」に、「すべて、石ハ立る事はすくなく、臥ることおほし、しかれども石ぶせといはざるか、石をたつるにハやうやうあるべし。」と、庭に石組するにあたって、石をふせるとか、石をすえるとか、おくとかいわないで、すべて一括して、「石をたてる」といったとのべている。
いけばなの場合も同様に、「花をたてる」という言葉が、室町時代、立花の総称として使われている。立花は、花を花瓶にまっすぐにたてる供花的様式に起源するが、「仙伝抄」によると、いけるとか、なげるとか、いれるとかいうような種々の技法をふくめて、「花をたてる」といっている。
この「石をたてる」「花をたてる」といったことばからも、また、これに参加し活動した人物が同じ阿弥号をもつ人々であったことからも、その深い関連が観取されるが、それを、「遠碧軒記」は具体的に次のようにのべている。
「立花は本、作庭より出た事なり。相阿弥、東山雙林寺の内の文阿弥が庭をも作る。さて浄土寺の庭は、此、相阿弥なり。それより立花の事を工夫に始む。今の砂の物は島の心にて略なり。立花は山水をうつす。(中略)池の坊も相阿弥の伝にて庭と立花とをかねたり。」と、立花が作庭に起源をもつといい、さらに立花は山水をうつし、砂の物は庭を簡略化した姿とし、相阿弥は作庭の技術を立花に応用したと、庭園の影響を説いている。また、池坊が作庭とともに立花にも巧みであった事実をあげている。
「雍州府志」に、「立花もと仮山*より出ず」とあるが、「仙伝抄」にも、「草花瓶に木をたつる時は、庭に木をうゆるこころに、先ず、しんをたて、其後、然る可き下草さすべし。」と、草花瓶に木をたてるに当たり、作庭の心得を示しているが、両者の並々ならぬ関連を示したことばである。また同じ自然を素材としたところから、両者の調和に心をつかった。
*仮山(かざん) 庭園の築山のこと
「抛入花伝書」に次のようにのべている。「この庭にみる限りの花のたぐひは、その座敷に置くべからず。かかる時、わざとも草の青葉、笹、楓なんど抛入したるこころふかし。」ということばのとおり、床の間ばかりでなく、部屋全体、さらに庭園と周囲との調和均衡を何よりも、いけばなが大切な心得としたからである。
これは作庭にあたって、建物との調和、池や島、樹木などのつりあいを常に念頭において作意工夫されたのと同じ心である。そこに、自然と人工との調和的表現として庭園といけばなとの深い関連が見出される。(大井)