いけばなと連歌  大井ミノブ編著『いけばな辞典』東京堂出版1976から


図は『挿花稽古百首』から

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 いけばなと連歌  大井ミノブ編著『いけばな辞典』東京堂出版1976


いけばなは、「目に訴える和歌である」


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【いけばなと和歌】

「仙伝抄」に、草のしんに木を添えるときは、「夏山の草葉のたけぞしられけるこそみし小松ひとしひかねば」の心持ちでたてなければと、藤原定家の和歌をあげている。また、同書の「草高く木のみじかき事」の条にも同じ和歌を引用している。

さらに、強きしんのときは、「武夫の矢並につくらふことのうへに霰あばしるなすの篠原」と「金塊集」にある源実朝の和歌をひいて、ぴんとはりつめた心持ちでたてることを説いている。

さらに、「古今和歌集」にある大江千里の和歌をひき、上の句「鶯の声なかりせは雪きえぬ」に対し、下の句「山さといかに春をしらまし」とつけたように、心にそえ草する心得をのべている。

江戸時代前期の「立花秘伝抄」はこの和歌のつけ工合を例示して、立花の心(しん)と六つの枝とのとり合わせの大事なことをのべている。

このように和歌に託して立花の心得をのべたのは、自然観照にあたって共通した心情があったからである

「仙伝抄」に、「四季のうつりの花の事、春は冬のうつりを立る。いずれも四季の心得かくのごとし」と、季節感を重視しているが、具体的に次のように示している。

「夏は松の枝をすかして、すずしき躰をたつべし。下草はむらによってしげらすべし。」とか、「秋は風しぐれむらさめさそひて物すごき躰にたてべし。」と、夏、秋の風情について四季折々の趣きを心(しん)に託して、それにふさわしい自然をたてるように教えている。

このような季節感覚は、四季の景観や景物を多分に題材にとり入れ、それに心情をよせた和歌にそのままみられるところで、むしろ、和歌に源泉があるというのが至当である。

いけばなの伝書の「はじめぐさ」に、「四季の移り行にしたがひ、其折々に咲き出る花の風情に感ずる故、おのづから和歌の本意にもかなふなり。これ生花の姿は無声の和歌といふの所以なり。」と、花の徳にふれながら、生花の姿を和歌のなかに見出して無声の和歌といっている。

また「生花正伝記」に、「夫、生花は和歌のごとく鬼神を官能あらしめ、たけき武士の心をも和らぐ成べし。」と、和歌にみるような功徳を生花についても強調している。このことばは、和歌の徳を説いた次の「古今和歌集」の序の文句を引用したことは、内容的にも明らかである。「ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をもあはれとおもほせ、をとこ女のなかをもやはらげ、たけきもののふのこころをもなぐさむるは歌なり。」という。これによっても、いけばながいかに和歌の流れをくみ、その影響をうけたか、その一端がうかがわれる。

また、安永四年(一七七五)刊の「挿花稽古百首」は、生花の入門指導書として、例えば、「挿花は草なるものと心得て、たゝ軽々と風情あるべし。」のように、心得や、さし方などを百首の和歌によみあげてといている。

さらに、安永六年刊の「挿花てことの清水」も、初心者のために七六首の和歌によみあげて解説している。このように和歌の形式をかりて、いけばなの手引としたのは、和歌が当時、一般的教養とされたこともあろうが、そこに、いけばなと和歌とのかかわりが見出される。

要するに、日本人の自然と一体となった心情の表現として和歌がよまれ、いけばながつくられたので、そこに切っても切れない関連が結ばれたのである。いけばなは、「目に訴える和歌である」といわれるゆえんはここにある。 (大井ミノブ)

*挿花稽古百首 国立国会図書館デジタルコレクション

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*挿花てことの清水 は、『続花道古書集成』に収められている



【いけばなと連歌】

七夕法楽の花合わせといい、法楽連歌といい、その寄合的な、また、神仏とともに楽しむという中性的な性格からも、さらに連歌十徳、立花十徳と、現実的な功徳をといた言葉からも、共通した関連がうかがわれる

「池坊専好口伝」に、「飛花落葉の風のまへにかゝるさとりの種をうることもや侍らん」とのべたいけばなの飛花落葉の無常観はまた連歌の精神であった。そこに共通した仏教的な自然観があった。

それを具体的に「仙伝抄」は、「連歌の花は発句を聞たらば、その躰にたがはざるていにたつべし。若し、きかずば、松をしんにたて下草に当季のものを用ゆ、すがた異曲なるよろしからず」とのべている。連歌の発句は季題的な役割から、連歌の席上の花は発句の心をうけて、それにふさわしい季節の花をたてることを心得とした。しかし、発句をきいて当意即妙に、「その躰にたがわざるてい」に花をいけるには、連歌の心得とともに、いけばなにもよほどの修練がなされていなければならなかった

それを代表した人物に室町時代、池坊専順がいる。この専順について、後世のものであるが、宝永二年(1705)刊の「山城名勝志」に、「六角堂執行也。代々立花を業となす。就中、専順法師連歌の達人なり。」とある。

いけばなと、連歌との関連は、とくに応仁の乱以後、禁裏はもちろんのこと、将軍周辺、守護大名に至るまで普及し、顕著となった。禁裏や、殿中(将軍家)では、連歌の会が年中行事として恒例化され、その席上、さかんに花がたてられている

「山科家礼記」に、「御会御立花」「御会式」とあるように、立花は連歌の席の不可欠な飾りとなった。また、「花たての連歌」(「御湯殿上日記」明応九年二月三日)「花の連歌」(同記・同年正月二三日・二月九日)とあるように立花を鑑賞の中心とした連歌が催されている。それを、「応仁以来殿中規式」(宮内庁書陵部所蔵)は如実に言っている。すなわち、「御連歌の御会などの時、御座敷に花など被立候事、前々の御会には見申候ハず候。然二月二五日於細川右京大夫宅之御会にて候に、亦々花をいかにもかうさう(豪壮)に立なし候間、御前にても勿論の御事候、然は葉阿に立させられ候へき御事候、代々役々と存候」と、応仁の乱以後、月次(つきなみ)連歌が、二月二五日、室町将軍臨場のもとに、細川右京大夫邸で催されたのを画期として連歌の席に立花を飾ることを殿中規式として定めたとのべ、応仁の乱以前には先例がないとしている。これは立花が公式に連歌の会の座敷飾りとされた規定として注目される

このように、立花が格式化されるにともなって、それにふさわしい形式をそなえてきた。「いかにもかうそう(豪壮)」といった大振りの花形からも、また、その御用をつとめたのが葉阿のような同朋衆であったことからも観収できる。

このようにいけばなは、連歌との関連や、影響をうけつつ成長をとげ、立花として自立したが、それにつれて、その関連も自然と清算され、形式化されていった。

天文一一年(一五四二)の「池坊専応口伝」の「連歌などの花にも、名号或は神体をかけたる右のかたに花を用ふべし。心づかいは、祝儀いずれも同前たるべし。」といった規定のうちにうかがうことができる。それは、「仙伝抄」の発句を聞いたらばという即興的な花ではなくて、神前や祈祷の花と同様な格調の高い三具足の花で、天神名号の供花として儀式化されている。

それはまた、文政元年(一八一八)刊の「挿花初学養種」に、「連歌席花の事」として、「其席のたて句の品を挿(いけ)ず。花を先に挿て、あとよりの句の出来たるは構なし。」とあるように、生花が連歌とは関連なしにその席を飾る花としていけられたことからも理解される。

このように、いけばなと連歌とは中世的所産としていきいきとした交流をもって結ばれてきたが、いけばなの成立、連歌の完成とともに、自然に形骸化され、その関連も失われていった。(大井)

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