1968年(昭和43年)「アメリカ西海岸 花と種苗生産視察団報告記」を読む (2)参加者の感想、街の花、家庭の花

(2)-1 「参加者の感想」p60~71 

※この一連の画像の下にテキスト化したものを再録してあります。














p83 ↑

(2)-2 「街の花家庭の花」 植村猶行(誠文堂新光社)P57~59

現地の家庭でどんな植物が使われているかを調査した記事 




もういいと more eat

山田羊歯子


 キャンタベリーホテルの売店でも、どのホテルのオペレーターも、サクラメントの市庁舎でエレベーターを運転していたのも、みんな年をとった女性ばかりで、その中ではサンセットホテルの食堂のノッポさんがまア若い方だったでしょうか。

 注文しようと顔を上げると、視線が彼女のオヘソのあたりしかとどかず、私達はひそかに「ダチョウさん」とよんでおりました。「ミルク」と頼んでも、時たま独得の低音で「ビール?」と聞き返されてどういう訳で、ミルクがビールに聞えるのかと不思議でした。ディズニーランドでは、ようやく働いている若い女性の姿に接する事が出来、続いて訪れたゴーストタウンの食堂では、小柄な若い女性達に愛嬌よく迎えられて心和む思いでした。そのカワイコチャンの一人が、ナプキンに包んだパンのカゴを指して「モウイイ」と聞くのです。思わずモウイイと返事をすると、ほほえみながら、うなずいてカゴを持って行ってしまいました。私達は「ナアンだ。日本語が通じるんじゃないの」と感心しながらボリュームたっぷりの昼食に挑戦を続けていましたら、先程の彼女が再びあたためたパンをカゴにいっぱい入れて運んで来たではありませんか。私達が勝手に「モウイイ」と解釈したのは more eat のまちがいだった事がわかり、大笑いでした。

 そしてもう一度、エンシニタスの花屋さんを見学したとき、女性にはグラジオラスをプレゼントして下さるとのことで、冷凍室から出して選別している中から一本受け取った毋が、何か言われて「もういいです」と言ったのを相手は「モア」と感ちがいして、「もうけっこうけっこう」と言えば言うほど、「モアモア」、と思いちがえてどんどん手渡してくれるので毋は閉口していました。

  「ノーサンキュー」と言えばよかったのにねと気がついたのは後のまつりで、先を歩いていた私まで両手に余る程のグラジオラスを持たされてしまいました。

 ゴーストタウンのカワイコチャンをアメリカの旅の一つの想い出として忘れる事がないと共に、「もう」と「モア」ももうまちがえる事はないと思います。



ビヴァリー・ヒルズの印象

矢花利治


 五月三日、サンタバーバラから帰える途中、ビヴァリー・ヒルズを通ったので、農耕と園芸の矢冨編集長、坂田氏、平野氏、ミス牧子、僕の五人はバスから降ろして貰った。

 ビヴァリー・ヒルズはロスアンゼルスのハリウッドとサンタモニカとの間にある丘の上の高級住宅街である。アメリカに来て以来、日本も相当のものだなアと思っていたが、この高級住宅街をみてはショックを受けた。

 緑の芝生、色とりどりの花壇、樹間に見える青い水を湛えたプール、テニスコート、広い駐車場。道路は駐車させないので椰子の並木が実にすっきりと見える。石油成金や映画スターの邸宅が多いとのこと。

 早速、写真をとり始めたが、運悪るく一番うまいと自称する僕はカラーフィルムを切らしてしまい、六六版の矢冨編集長は、フイルムの巻取りがうまくゆかず、ミスタースパニッシュ(坂田氏)、ミスターベトナム(平野氏)では、どんな写真がとれたことやら。

 しかし、ビヴァリー・ヒルズの街はゆっくり歩いて見れば見る程美しく、下手な僕の文章では表現できない。ある邸の前を通るとライトバンの上に二~三才の男の子一人と女の子二人がふざけ合っていたが、写真をとるとにこにこ笑って手を上げていた。家の中から満一才位の女の子がはい出して来たのでミス牧子があやすと喜んでついて来た。又、三才位の女の子が後から出て来たので写真を写すとニッコリ笑ってポーズをとる。アメリカの白人は自信を持って居るというのかカメラに慣れて居る故か、写真を写そうとするとニッコリ笑って応じてくれるが、黒人を写そうとするとすぐかわされてしまってなかなか難かしい。

 時々、高級車が流れるように通り過ぎてゆくのみで、歩いて居るのは僕達だけだった。

 停留所でバスを待ったがなかなかこない。一五分位したら運よく黄色いタクシーが来たので、これに乗ってサンセット大通りのホテルに帰った。



アメリカとメキシコの印象

小杉 清


 いままでに、アメリカについては、いろいろの話を聞き、スライドも見ていますので、別に驚くことはないと思っていました。ところが、実際に行ってみますと、やはり実感というものは、違うものだと思いました。

 まず、羽田で一〇〇ドル紙幣二枚と、五〇ドル紙幣一枚を渡された時には、なんとお粗末なおさつだと驚きました。これはアメリカへ着いて、小銭と替えてもらって、ますますそのお粗末さに感心しました。二五セント銀貨といえば、日本の一〇〇円札に当たるわけでしょうが、アルミが両側から合わせてあって、合わせ目に銅が見えるのです。

 アメリカでは何を買っても、税金を別に取られるということは、聞いてはいましたが、絵葉書一枚買っても、税金をちゃんと取るのには、いささかあきれました。その他、ホテルの自動販売機で切手を買うと、二五セント入れても二〇セントしか出てこないこと、花市場が全く、「セリ」をしないで、言い値で買って行くことなど、やはり驚く材料は豊富でした。

 また、カリフォルニアは全く不毛の地で、五月というのに山の草は茶色であるが、人間が水をやって植物を育てていることも驚きでした。

 さて、メキシコへ行って、買物をしてみて驚きました。七・五ドルの品物を、二つ買うから一〇ドルにするかといいますと、八ドルにするというのです。町の生活状態はかなり貧困です。四〇年くらい昔の自動車も走っています。

 アメリカとメキシコの気風を比較し、日本のことを考えてみますと、日本人はメキシコ人に近く、貧乏の点も近いようです。親しみ易くはあるが、経済観念に乏しいということでしょうか?。自分にガメツイだけでなく、他人の利益も認め、税金はきちんと支払う。これがアメリカ繁栄の原動力なのでしょう。



メキシコでの買物

佐藤望子


 マリアッチの歌とメキシコ料理のあと、買物に町に出る。ズラリとならんだ店、店、店。

 路傍の籠の中に埃まみれの簿汚い小財布がつんである。「いくら?」「六〇¢」「高いね、沢山買うから安くして」「ノウノウ」「ではいらぬ」店を出かかると「レディ、レディ四〇¢」「一〇コで三$にしたら」 「ノウ、ノウ」「では結構」店を出ようとすると「レディ、レディ三$五〇¢」「ノウ、ノウ」又出ようとすると「オーライ三$で一〇コ」――やっと手に入る。埃をふいてみがくとメキシコと書いたしっかりした皮財布。よいお土産が出来た。

 メキシコ人は面白い。メキシコ買物の秘訣は必ず一人の時買う事。他の客が入って来るともう知らん顔、次の客に愛想をふりまく。何回でも店を出るふりをするとその度に値が下がる。カウボーイの皮ジャンパーを甥の為に二枚。はじめは一枚二五年がいつの間にか二枚で二〇$、これは安いと思って次の店で聞いたら九$!とはどれが本当の値段でしょうか。

 一番気に入ったのは手作りの皮靴。店の隅から見つけて三$を二$にして買う。丈夫で軽くて穿き易く使っている内にツヤが出てピカピカ、とても二$の代物とは見えない!。

 最後の店。他には誰も居ない。しめたとひやかし始める。何回も店を出たり入ったり、気がついたら、いらぬものまで買わされてお土産は山一杯、仕方ない。メキシコ産の手提げかごまで買わされてえっこらさ。やはりメキシコ人は商売上手、我々の財布の紐をだんだん開いてしまうその手際の良さ。どちらが得をしているのか損をしているのか、さっばり分らぬ所が又妙!「高い高い」と連発した私に彼が教えてくれたのは「エスタカル」。日本語と、にているねと二コニコ「又いらっしゃい」――その時買わされた銀のブローチ、メキシコ織のクロス等、日本では仲々得がたいものばかり、よい買物をたのしんだという事である。



ビール会社のバードショー

井手三重子


 五月三日(金)

 サンタモニカの北、シャーマン・オークス近くのビールエ場と付属の公園を見る機会を得た。

 アメリカで四番目の生産規模だというそのビール会社は、大きな門を入って七○だか八〇セント払うと、ガラス張りのモノレールが待っていた。乗ったまま工場内の各行程を見学できるわけだ。ビールエ場見学ということは初めてなので日本とも比較のしようがないが、アメリカのビールは、ビン詰の場合普通サイズでも日本の小ビンくらいで、味も淡薄だ。

 工場内を一廻わりすると、すぐ裏手に公園が続いている。ちょうど新宿御苑くらいの広さで、ビール会社の所有だそうだ。

 中央に敷地の三分の一ほども占める大きな池があり、原色も鮮かなオームや水鳥が放飼いされている。芝生もペチュニア、マリゴールド、スミレなどの花壇もよく手入れされている。植込みのパピルス、モンステラ、ストレリッチアもみごとで大きい。淡いサーモンピンクのフラミンゴが群をなしてゆうゆうと水遊びをしている。ウイークデイだが割合に人出は多い。

 バードショーがちょうど始まるところで、子供連れのパパやママも、若い恋人たちも、お年寄もコンクリートの階段に坐りこんで待っている。舞台には小道具らしいブランコ、乳母車、シーソー、大砲、お城などが用意されている。

 まもなくボブ・マグラスに似たハンサムな青年が現われ、ショーが始まった。演ずるはブルー、赤、オレンジ、黄、白とはなばなしい色のオームたち十数羽。ジョンとかジョージ、リリー、マーガレット、プリンセスとそれぞれ名前を呼ばれて見物人に紹介された。綱渡りをしたり、でんぐりがえしをしたり、ブランコをこいだり、たいへんよく馴してある。子供たちは夢中になって歓声をあげる。

 この日の呼物はミュージカルだった。お城の塔に閉込められているプリンセスを騎士が悪者と戦って助け出すというストーリーだ。もっとも騎士ジョージ君は飛乗るとカンシャク玉が破裂する大砲になかなか飛びつこうとしなかったが…

 ミュージカルが終わって「ジョージ君がかわいい皆さんにご挨拶したいそうです」とボブ・マグラス君がいうと、階段を歩くのがやっとの坊やも、おすましの女の子もジョージ君からほっぺにキスしてもらってうれしそうだ。恋人たちもお年寄も大喜びの一時間だった。

 バードショーが終わってから、さらに園内を廻わってみた。日本の小さな公園ほどもある和風のロックガーデンには形のよい松あり、滝あり、たいこ橋ありでやはり、かなりの手をかけているようだ。ところどころにビールスタンドがあり、無料で自由に飲めるようになっている。若者たちが紙コップ片手にブラブラしているのも、そのせいだろう。放飼のクジャクがその間をヒョコヒョコ歩く。

 ビール会社がなぜこのような公園をもっているのかわからないが、維持費はかなりかかるだろう。たいへんな公園好きだといわれるアメリカ人の消費者サービスの一つなのだろうか。いずれにしても、スケールといい、やることといい、金持なんですね、アメリカは……。



蝗く夜のサンフランシスコ

中村 満


 四月二十四日、上海楼での夕食の後、連れ立って支那人街を見物の途上で日本人経営の日本食事と土産品の店、「みどり」を見つけて、これからの土産品購入の参考にとはいる。結局、買物をしてあれこれ話を聞くうちに「飲みに行くならホテルのバーが安いし安心である。特に観光箇所としても良い所がある」と教えてくれたのが、フェアモントホテルのクラウンルームである。

 場所はノッブヒルの頂上、名物のケーブルカーの交叉点の真近くである。北海道からの只一人の同行、高田氏と共に折角の好意無駄にせずと、地図を書いてもらい、なに、近い近いと歩く。

 処があの上り坂、息を切らせてようやく近くまでたどりつき見上げれば二十階程のビルの側面に一本の光の柱が屋上まで立っている。成程これは素晴しい。一ブロックぐるりと廻ってやっと入口を見つけたが、我々の宿と格段の相異、詰めかける多くの車と、シャンデリアも明るいロビーにさんざめく外人の群に暫しためらったがここで引き返しては遠路来た甲斐なしと扉を押す。厚い絨緞に足が地に着かぬ感じ、長い廊下を通り抜けやっと先に見た光の柱即ちタワーエレベーターに乗る。動き出すと共に照明が消え最上階へ直行、背後を見るとガラス張りでベイブリッヂに面した街並みの夜景が昇るにつれて視角が変化して見られ、周囲から期せずして歓声がなる。

 やがて、照明がつき暃が開くと最上階のクラウンルーム、四方の窓から見える夜景は正に息を呑む程、宝石に取り囲まれた感じである。窓際はテーブル、中央一段高いフロアは円型のカウンター。

 処が未成年者に見られ、パスポートを示しながら必死に説明してやっとウイスキーが出る。取りなしてくれた支那人のバーテンは横浜にいた事があるとかで、マスターの目を盗みながら何かと好意を示してくれる。意外に効いた酒の酔いに滑り落ちそうな急坂を降り過ぎ、道に迷って近い筈の宿に帰り着いたのは十二時も真近かであった。



寝すごして得をした話

川村 章


 サンフランシスコに到着して一日目は午後から市内見学、そして二日目の事です。この日はデービスとバークレーにあるカリフォルニア大学植物園見学をする予定です。モーニングコールがあり、七時に起きなければならないのですが、目がさめた時は十一時を過ぎてしまっていました。

 もうデービスへ行っても間に合わないだろうから、バークレーへ先廻りしようと、売店のおばさんに行き方を教えてもらうことにした。バスターミナルへ行きバークレー行きに乗れば良いとの事。早速出発し、道々尋ねながらやっとバスターミナルまで辿り着き、ハスターミナル内の食堂で、朝食兼昼食を間に合わせ、五○セントでキップを買い乗り場まで行きました。

 迷子になってしまうとこまるので、ここの住所を調べておこうと思い、キップを買った時もらった紙を見たが分かりません。そこで前にいた二〇才前後の美しい女性に早速尋ねました。この女性はまだ学生のような感じです。ほおはカサカサですが、目の化粧と口紅をかわいらしく、とてもきれいにしてあるのが印象的でした。そこで会った時はアメリカの女の子を見馴れていたせいか、さほど美人とは思っていませんでしたが、日本へ帰って今考えてみると、やはりきれいだったなと思い、写真でも取ってくれば良かつたと、ただただ残念でなりません。

 バスを降り、バス乗り変え所で待っていると、隣にいたカリフォルニア大学の学生がにこやかに話しかけてきた。大学へ連れていってくれ、日本語の出来るイタリア人の学生に紹介してくれました。そのイタリア人は以前日本にいたことがあるそうです。ローマ古代の彫刻に出て来るような彫りの深い、まったくの美男子、あごに金髪のかっこよいひげをつけ、非常に感じの良い人でした。日本人のフィアンセがいて来年アメリカに来るのだそうです。七階に日本から来ている人がいるから紹介してやると言われ、行ったが不在で残念ながら会えませんでした。

 校内には日系人がちらほらいましたが、三世が多いので日本語を話せる人はいません。

 植物園へ案内してもらうことになりました。校庭には広いテニスコート、プールなどがあり、学生達はのんびりスポーツや日光浴を楽しんでいます。おごってもらったコーラを飲みながら、植物の話、フィアンセの話などをしながら行くと、偶然にもカクタス班のバスと出会い班の案内人の話によると、今日は花卉生産班は時間がないから、ここへ来ないかもしれないから、このバスで一緒に行こうと言われ、仕方なしにカクタス班と金門橋を見てホテルへ帰り、早々と部屋にとじこもりました。寝坊したおかけで他の人の味わえない楽しく有意義な一日を過ごせた事は、一生の思い出になると思っています。



海外で知る和食のおいしさ

武内卯兵衛


 僅か二週間のアメリカ旅行でありましたが、四月二十四日午前十時、羽田発、途中ハワイ経由サンフランシスコへ(時差の関係)同じく二十四日午前七時頃到着しました。

 早速、計画通り大学や各種苗会社ならびに農場、または花屋、青果市場などを毎日、大型バスで視察しましたが、大規模で想像にあまりあるものでありました。

 途中は大型バスでありますので、写真撮影やハミリでも撮りましたが、時速一二〇kmの速さでは上手な撮影もできかねました。なお、二時間内外の乗車で途中寸時の停車中「トイレ」さがしに苦労しました。

 なお、三度の食事が洋食ばかりで食えないので困っていましたが、小林団長と同室に泊っておりましたので、小林さんから梅干しやインスタント味噌汁、または日本茶を頂戴しまして、コップにいれて洗面所で温湯でとかし、飲んで初めて日本食の美味を痛感しました。

 幸い御一行様のお陰で、無事予定通り帰国できましたことを感謝しております。



横目でみた果物達

矢富良宗


 ロスアンゼルスのインペリアルホテルの一隅で戸定会有志によって行なわれた果物の試食会に、つぎのような品々が集まった。そのあらましについて説明しょう。

 ① アメリカアカミキイチゴ(American Red Raspberry)

 ジャムやジェリーの加工向きの赤味のキイチゴだが、生食しても結構おいしくいただげた。日本では東北、北海道で栽培される、

 私の家の庭先には、蔓性の黒実のキイチゴがあるが、これよりは大果で、酸味が強い。栽培は容易。

 ② オレンジ (Orange)

 ネーブルオレンジの一系統で、日本へはサンキストオレンジという名で輸入されている。本場ものを現地で味うのはさすがにうまかった。

 ③ グレープフルーツ (Grapefruit)

 西印度産の園芸品種で、これに白肉種と赤肉種とがある。マーシュという品種が一般的。日本へも輸入されているが、現地の乾いた空気の下で、肉食生活の朝食にはなくてはならない爽快な味。

 ④ ハネデューメロン

 メキシコからきていた露地栽培品だった。日本では岡山県下の温室内で栽培されている。甘いのが特徴。これも仲々おいしかった。

 ⑤ アボカード(Avocado, Aligator pear)

 熱帯アメリカ原産のクスノキ科の常緑果樹で、くだものには珍しく脂肪分が多く、栄養価が高い。俗に「森のバター」ともいわれサラダなどの料理用に使うと仲々オツな味となる。

 ⑥ チェリーモーヤ (Cherimoya)

 原産はペルー、エクアドルなどの高さ一、〇〇〇~二、〇〇〇mの高地 味は熱帯果樹中でも、もっともおいしいものの一つである。形は一定せず、果肉はアイスクリーム状で白色、追熟してから食べる。

 糖分と蛋白に富んでいる。

 ⑦ サボテンの果実

 ウチワサボテン(Opuntia)の仲間の果実で、生食できるがそれほどうまいものではない。多少の甘味と酸味を含み、こまかい種子がある、赤い果肉は、ちょうど天津モモのような感じ。



新たな決意で・・・

谷山 巌

 

 私は幼少の頃から花木、草花、宿根、キクなどすべての生花向の花栽培をしておる者ですが、年は老いておれども先進国の花作りと内地の花作りと如何程の差があるものかと何時も思いつつ生産しておりましたが、今度、業界の視察旅行に参加させて頂きまして非常に幸であったと喜んでおります。私が初め作っていた頃は非常に作り易く、花卉生産も非常に簡単でしたが、只今では病虫害や公害の為、努力しても容易に作り上げる事はで

きなくなっております。

 今回アメリカにいってサクラメントの方へ向った時、その道路も広く整地も行届いている広々と空気の爽かな場所を見て、古くより作っている経験上こんな所で花作りをすれば、昔の様に楽な花作りができるのではないかという様な気持になりましたが、彼此と方々を見学し、説明を聞せて貰らい見せて貰っている内に、どこで生産するのも同じ様に種々の悩みのある事が明かに自分には判りました。なお、視察地の大部分と私の地元の花作りとは違っておりまして、私の方は露地に積込んで生花向の切花を作るのですが、先方は花壇向や鉢物が多く、またフラワーマーケットにいって見ても、花木の生花向の少ないのが大阪方面と変わっていた所です。

 私は日本も将来はこの様に変わっていくのではないかという考えもでました。なお、内地とは違って大陸だけあってスケールの大きいのには感心致しました。しかし、内地の行き方と大陸の行き方と経営方針、生産計画、その他種々の点において変えなければならない事は充分に知ったのであります。

 また、視察した結果、考えた事は大陸での栽培と日本での栽培と生産面、消費面、用途面、または冷蔵処理等においても物資の豊富なアメリカと物資に乏しい日本と同じ様に思ってはならない事も充分に知ったのでありますが、今回の視察について如何なる場所へいっても研究と勤勉と忍耐とを三つ巳に組んで、今後も真面目に自分に与えられた職務に迷わず年は老いてもますます努力しなければならない事を痛切に感じました。


ワイキキの浜辺にて

相磯牧子


 ダイヤモンドヘッドが右手に見える。空は真青だ。足を下にのばすと海藻がわずかにからみつく。手足を思いきりのばして、ポカンと浮いていると、楽しかった日々が思い出される。もう帰るのかと思うと、泣きたい位だ。

 時間が短く、予定していた植物園にもいけずハワイは全くつまらなかった。だが、ワイキキの浜辺はうわさ通り素晴しかった。五月初旬、まだ日本は春だ。常夏の国ハワイは、もう海水浴や日光浴の人で浜辺はいろどられている。

 中年すぎのおじ様族から子どもに至るまで、思い思いのスタイルで浜辺に遊んでいる。女の人に囗を向けると、ビキニが圧倒的に多い。セパレーツが次いで多い。ワンピースの水着は大変に少ない。体格の良いスラッとした米国のお嬢さんにはビキニが素敵だ。色も原色が多く、いろどりが美しい。人はまだ多くなく快適だ。砂浜にはゴミがなく、日本との差を感じた。大変にきれいである。

 我々の団体でトップを切って泳いだ私は、いささか気おくれもしたが、二週間米国を見て、他人の目を気にせず、自分の意志で行動するんだという教訓を得て、恥しいなどといわずに二度と泳ぐ事がないかもしれないワイキキの水の中に飛びこんでいった。水は外気温に比べて暖かであった。適度な水温で快い。何故か日本よりも塩分が少ないように思えたそんなはずはないのに……。

 二日間ハワイにいたが、夕方から昼頃までという、短かさ、個人行動となるやいなや泳ぎ始めて、帰る前まで泳いだ。若いんだなあーと人に感心されたが…。

 ようやく泳ぐシーズンが日本にきた。水着をつけながら、ハワイのワイキキの浜辺を思いださずにはいられない。

 最後に唯一人学生として参加し、若さと体力で乗り切った二週間。右も左も先輩ばかり、教えていただく事が多く、本当にお世話になりました。文末をかりて御礼申し上げます。(昭和四十三年七月)



ロスアンゼルスの楽しい休日

志佐庸子


 自由行動の土曜日に私たちはユニバーサルスタジオ、フアーマースマーケット、サンタモニカの海岸を歴訪しました。

 スタジオはうしろに数多い丘を控えたアメリカ特有の荒野を思わせるような広い敷地で、今は観光用になっているスタジオで、可愛いいきれいな三両連結の電気自動車にのせられて一巡しました。

 西部劇で今にも馬が走りこんできそうなセット。物語りの主人公が顔をだしそうな古い家などがいくつも並んでいたりサンフランシスコの街や、ホンコンの港などの風景があちこちとつくられていてこれはなんという映画のセットだと説明

がつく。それらを子ども連れの三〇人余りの米人のグループにまざってハンサムなミスター・アーレンの説明を何か音楽でも聞くような気分で、うっとりと聞きながら、美しい調度品のならんだラナ・ターナのドレッシングルームをみたりあるセットでは、観光客のにわか俳優のテレビ演劇のひとこまを実演させ、それをテレビに写してもう一度みせて笑わせました。

 眼下にロスの緑ゆたかな郊外をみわたせる高い丘で一時停車して休み、特有の太い真赤なホットドッグをほうばったりして外人と一緒という気分を少しもおこさなかった。そのため旧型の自動車の展示の群の中に「安全第一」という文字板のついた車を指さされてもあたりまえのように思い、重ねて注意されてハット今は日本でないのだという妙な気分になりました。

 夕刻知人の車で、ロスのサンセットホテルからビバリーヒルの豪奢な住宅街を通って一時間のドライブでサンタモニカに着きました。広々とした太平洋の静かな海と空か美しく青くすみ、囗がさめるようでした。

 青い海にはカモメのむれがとび、夕暮のヨットハーバーを眺める丘に車をとめると眼の前で壮烈なダイビングによるペリカンの夕食が展開しているおまけもつきました。

 海辺のうっそうとした高いヤシの木の並木の美しい長い街路をもどると、毎年行なわれる映画人の関心の的のアカデミー受賞の会場が淋しく立っていましたが受賞の折は沢山の人と車で動けぬ風景や日本から出席した三船らのテレビでのシーンが頭の中をかけめぐりました。陽もとっぷりと落ちた頃、ロスの夜景をうっとりと眺めながらホテルに帰りましたが、サンタモニカの海辺の美しい印象がいつまでも心の中に残ることでしょう。


ギャンブルで素寒貧

安西正憲


 ラスベガスヘバス(所要時間五時間、料金一三ドル強)で出かける連中は、比較的所得の低い階層の人である。バスには冷房が効いているにもかかわらず、連中が賭の話に花を咲かせているので、何となく熱気があふれているという感がある。

 隣席の老婆も私に、明日行なわれるケンタッキーダービーの予想を得々と述べ単調な砂漠の景色をみあきた私も、彼女に煽られて賭博への興味と期待で、胸がわくわくと躍る。そして、バスはラスベガスへ到着する。

 私は郊外で降りて、スターダストホテルにはいる。週末のせいか人が多く、やっとのことでディナーショーの席をとることができた(部屋を予約してあったので)。落付く間もなくホテルのカジノへ。

 まず、小手調べにスロットマシンをやる。暫くやってみるが、パチンコのように指で加減することができないので、思うようにはいかない。しかし、このゲームは現金がでてくるので、仲々面白いものである。アメリカの御婦人連は、特にこのゲームを好むようである。

 それから一時間後上衣をつけて食事、でっかいステーキを食べながら上品なムードのショーをみる。レストランシアターとしての設備も豪華でよく整っているし、バリー直輸入をうたっているショー Le Lide 華麗なものであるが言葉(特に唄の文句)がわからないので視覚的なものしか理解できないという点で、かなり割引きされるけれども、確かに素晴しいものといえる。

 さて、ショーをエンジョイしてから、ダウンタウンにでかける。ダウンタウンまでの道中には、結婚式場などがやたらと目につく、そしてダウンタウン。ここはまさしく不夜城であり、街路は昼より一層明るい程の照明が輝き、カジノが軒を並べている。

 私は賭博のハシゴをやることに決めるこの辺りは賭金の最低が安く、ブラックジャックでも二五セント位からできる。二、三軒回わってビンゴー、ルーレットダイス(クリーなど)をやった後、カジノゴールデンナットへいく。

 ここで一杯飲みながらルーレットをやる。意外について、そばにいる連中が、‘O, Boy'と盛んにほめる。そうなるとそこは素人の哀しさ、嬉しくなって、続けていると、段々チップが少なくなってくる。やっとの事で四〇ドル近く勝って引きあげる。

 ホテルに帰ると十二時半位であるが、ここのカジノにも人は溢れている。それをみると、また、ムラムラと気がおきてクリーをはじめる。ここで二〇ドル程まけたので熱くなって、次にルーレットにのりかわる。一時をすぎると最低の賭金が二ドルから三ドルに上がる。ここで五〇ドル程まけて、熱のさめた冷静な目であたりを見回わすと、賭博をやっているのは、うまい連中ばかりで、一時頃までいた夫婦連れ達は全くいないし、また、バンカーの態度も人の多くいる時とはずいぶん違っているのに気がつく。そこで同じ賭けかたをするのは不可能と思いブラックジャックにかわって、暫く勝ったり負けたりする。やはりツキがない。ふと気付き庭にもどるともう空も白みかかっているので朝食後ベッドにもぐりこむ。

 帰りのバスもかなり混んでいる。だがまるでお通夜のようだ。もっともみんな明らかに負けた組であるのだから……。

 ラスベガスでの散財のため、羽田税関で「土産も現金もないのはおかしい。賭博で負けたといっても、実際そうだったものはない…」などと税関吏にさんざんこずき回されたのである。



アメリカのシャクナゲをみて

原田昭和


 アメリカでは公園または一般庭園などで、たくさんシャクナゲを見る事ができその壮観さは非常に見事であった。サンフランシスコ市内のゴールデンゲイトパークにしても、ロスアンゼルスあたりの一般庭園にしても各戸数本は必ずといってよいほど、シャクナゲが植込んであり生育も非常に旺盛なものである。日本においても、充分な生育ができるシャクナゲの作出を期待し、早くこの様な見事な花が、どこでも楽しめる事を夢見る一人である。

 シャクナゲは Rhododendron hybrida Hort. の学名をもち、ギリシア語で、赤い木の意味であり、北半球に広く原産地が分布していて、一〇〇〇種近くの属であり、アメリカでは二〇種、日本においても三一種ある。その自生種はホソバシャクナゲ(R.makinoi)、ツクシシャクナゲ(R.metternichii)、ハクサンシャクナゲ(R. rachycarpum)、キバナシャクナゲ (R. aureum)、その他で、ツクシシャクナゲは、キョウマルシャクナゲ(var. kyomaruense)、シャクナゲ(var. pentamerum)、ヤクシマシャクナゲ(var. yakushimanum)、のバラエテーがある。また、アメリカの自生種には R. viscosum 、R. canescens 、R. nudiflorum 等がある。英国で交配育種された品種が、アメリカに導入され、現在ではアメリカにおいても盛んに育種されて、多くの品種が日本にも導入されている。わが国では横浜のオレゴン農機KKの和田弘一郎氏によって交配育種されている。

 ちなみに、日本でよく生育し、栽培も可能であろう外国種を鈴木吉五郎氏(※春及園)が挙げているので参考にされたい。

 アルボレウム(R. arboreum)

 バルバートゥム(R. barbatum)

 カルリーモルフム(R. callimorphum)

 カローフィトゥム(R. calophytum)

 ディスコロール(R. discolor)

 グリーソニアーヌム(R. Griesonianum)

の外に一四~一五種ほど選択している。



肌理のこまかい育種は日本が上

坂田 毅


 出発の二週間前にようやく旅券が降りるという飛び込みの参加でしたが、単独の旅行と違い、穂坂、志佐両先生等と同行の機を得たこと、生涯を通じても得難い経験となると思えるカリフォルニア大学に於ける受講、研究設備の見学、朝寝坊のため機会の少なかった花、野菜市場の見学、その他夜の見学等かなり幅広く見聞を得る事の出来ました事を感謝しております。実務経験者や諸先生がおられますので、花の種苗についての印象を書いてみたいと思います。

 国土緑化で目についたものは、フリーウェイ、ハイウェイに見られるカリステモン、エニシダ、その緑地帯のシバは勿論の事、アイビー、メッセンブリアンセマム、ゼラニウム等の植込みは実に素晴しく、そのスケールとワイルド(野生)的な利用は大いに学ぶべきと痛感致しました。また、ビバリーヒルの特色ある建築とお互に自慢し合っておるかの様な植込み、ブロードウェイの各ビルの前の花壇などが印象に残りました。

 花の育種についてみると、フェリモース社のスイートピー・ニ一ハイ、ゼラニウム・ニタニーライオンとその組合わせはやはり良いものと思いますが、その他のパンジー、ジニア、アゲラタム、マリゴールド、インパチエンス等の品質規模を見ますと意外な感もしないではありません。アメリカの育種はマリゴールドのペタルレス利用のF1に見られる様に生産性の向上に重点をおき、また、ゼラニウム、フリージア等の多年性の育種等々我々の大いに学ぶべき面はありますが、キメ細かな育種は日本がすぐれ、今後、オールアメリカン等の入賞は益々有利になると感じました。

 最後に種苗会社の規模は非公表のノースラップキングは別としても、アスグロー、フェリモース等の売上げを見まして、フィールドシードを除くと日本の種苗会社は、トップクラスにランクされ、他産業同様、日本の力を再認識した次第です。ただロンボックにいけなかった事が残念でありました。



一段と勝れている日本の切花

今枝智恵子


 花に関係ある方々が訪米される度毎に種々聞き及んで居りましたアメリカ西部の花卉園芸の情況を、この度、西海岸園芸視察団に加わり実際に見学する事の出来得たことを喜んでおります。

 十五日間の旅行は本当に楽しい日々のあけくれでございましたが、この様な旅が出来得たのは団員のほとんどの方が、花に関係のある方々のみで、お互に旧知のようにうちとけあう事が出来たからであり、私はどなたにも遠慮なくお世話様になりました。

 アメリカの花卉園芸、これは未知の世界に対してのあこがれの的でありました。

 このあこがれの国を知る事の出来る喜びに大きな期待を持って訪米した私は、現実を見て、いささか失望を感じました。

 スケールの大きな温室が、設備の合理化と時間と労力をたくみに使い、大量の花が生産されているのには驚きましたが、ロスアンゼルスやサンフランシスコの市場に出回わっている花は、美しい花でもなければ、また、上質のものでもありませんでした。私共が毎日取扱っている国内の花の方が、一段と優れておりまして、量産主義のアメリカと、量より質本位の国内の品との差をはっきりと感じました。

 しかしながら、言葉の通じない私か隕られた日数で見たアメリカの花卉園芸、それは一部のうわべに過ぎないのでありまして、今後、日本の花卉園芸界がおおいに見習い、採り入れなければならない事も多々あると思いました。



南モハべ砂漠

南 義雄


 今回のアメリカ旅行で一番の思い出といえば、ロスアンゼルス東部に拡がるハイデサート(モハベ砂漠)をおす。砂漢といっても砂丘ではなく動物も植物もいる変化にとんだ野放図に大きい荒削りの大平原である。その神秘さ、その雄大さ、その静寂さ、その異様さは全くすばらしい。走る道路以外には人工的なものは何一つ見かけない。断層が見え岩床が露出し、山も野も無限に拡がる大自然。所によっては洪水が土に古木に鮮明な爪あとを残したままの姿。

 海は埋められ、山は削られて静かな天然が急速に失われる日本では、考えも及ばぬ大自然の雄姿、苛酷な環境に生きる動植物の生態。これらはおざなりの観光ルートなどでは、到底味えぬ貴重な体験だった。

 車とも滅多にあわない人影ないハイウェイを、時速一三〇km程度で走る解放感は何とすばらしいことか。

 車窓からは白い葉っぱのセージブラッシュや名も知れぬ小灌木の間に、大型の赤い花をつけたエビサボテンの群生が点在して、その所在を示してくれる。山肌にはモハベ砂漠特有のユッカの白い花が、乾燥した岩間に潤をそえている。ユッカを更に大きくしたジョシアツリの林。バーレルカクタスと呼ばれる真赤なサボテン鯱頭の自生地を通して、遥かにそびえるサンヤシント山のいただきには、平地の強光をよそに、今なお白雪が見える。極度の乾燥で灰色に見える幾百かの裸の山をとおして、かすかにコロラド河をのぞむサルトンビューの絶景など思いはつきない。

 苛酷なまでに乾燥しきった静かなこの砂漠にも、自然の息吹は身近に感じられる。あわてて道を横ぎる兎やネズミ。ジャンピングコーラという金色燦然とした強刺サボテンの刺間に作られた小鳥の巣。そこには可愛いヒナが巣立ちを前に元気に育っていた。オコチョーの真紅の花さきに舞う蝶のような蜂鳥。夜気迫る夕空にはばたくコウモリの群など。

 こうした大自然の美しさは、生きもの、特に植物を愛する一人として、こよない感激である。かつては白人がインディアンと血醒い闘争をくり拡げたと思われる大荒野が、数多くの歴史を秘めたまま、無気味な静寂さの中に今なお生きている感じである。

 狼のような遠声に肝をひやした砂漠の肌寒い夜。学校も勤めも休んで家ぐるみの歓待を尽してくれたツェンテイナインの人々。昼食が奇縁で自ら案内役にたたれた善意のアメリカンレディ。ボッブキャットという慣れにくい砂漠産の山猫を飼っていた女子大生の浴衣姿。日本の実情を聞いてライフルを射たしてくれた同好者。蛇と亀が好きという可憐な少女。朝食のために特別の便宜を計られた名も知れぬレストラン主。珍客として迎え大きく報道下さったザ・デザート・トライル、ハイ・デザート・スター、デザート・テレグラムなど新聞社の方々。写真帳を見、スライドを写して見ると思い出は走馬燈の如くはてしがない。二日がかりで駈け回わったモハベ。それは世界地図の上では、鉛筆のさきほどにも満たぬ小地域かもしれないが、私には心の奥深く決して消えない感銘である。

 二度とは行けぬだろうモハベ砂漢。その片すみで流麗な花を咲かして、私たちを迎えてくれた幾多のサボテンの上に、幸多かれと切に祈る。

 最後にこの砂漠行の原動力ともいうべき、案内役ミナモトさんの御労苦に対し、また、意義深い旅行を企画願った内外航空に、クラブを代表して心からの感謝を申し上げる。



アメリカの旅アラカルト

滝川辰造


 夜十二時、ハワイ空港から米大陸に向って飛立った私たちを乗せた日航機は、朝五時過ぎに東の空が白みはじめた。

 何千米?下の白い綿を敷きつめた様な雲が段々と茜色に色付き始めるその美しさ、私が若い頃、富士山の頂上から見た御来光と一緒だと思った。飛行機が太陽に向って直進しているので、太陽の登る姿が見えないのが残念であったが、雲の切れ目から海岸線にそう陸地を見た時、やっと米大陸にきた実感がわいた。

 とても長い橋が見えた、音に聞く世界最長一万三千mのベイブリッジである事が地図を見て分った。桑港の町が箱庭の槎に見えた時、金門橋のつり橋の上部だけ赤い塔が立っている様に見え、橋は深い霧で見えなかった。空港に着陸、ハワイで入国手続を済まして来たので直ちにバスで出発。

 以下黒い目に映った私の印象。

 カリフォルニア大学での研究発表はカラースライドを使っての講義で仲々参考になった。ガーベラの美事な大輪とポインセチアの美葉には感心した。カトレヤおよびシンビの生長点培養は研究中との事であったが(サンタバーバラの花園で同じ方法で増加培養されたものがフラスコ入で販売されていた)、私がバラの卜ゲをなくする研究をされていますかとの質問に対し、教授はバラのトゲを取ったら売れませんと申されたのには苦笑した。

 ユーモアの積りで冗談を申されたものと善意に解釈したが(バラのトゲをなくする研究は英仏を始め日本でも相当研究されています)、在米二世、三世の活躍振りはすさまじく心強い限りであった。

 白人や黒人を百七十人も使用して何万エーカーの土地で米国でも有数の花園を経営されている二世、その苦心談を話される白髪頭のお母様のお話しには思わず頭が下がった。

 各地の花園の規模の広大な事、作業のオートメ式な事、とても日本では無理だし、また、同じ様な事を日本でやるとすれば、生産過剰で市場は混乱し、市価の暴落と業者の共倒れに終わるだろう。霧につつまれた金門橋、ビバリーヒルズの美しさ、リトル東京での御茶漬の味と買物の楽しさ、広大なメキシコのシャボテンの原野、ハワイの日本人戦死者の墓地…。

 私は業者ではない。

 花、その他に対するくわしい意見や研究は専門家に委せて、一人のアマチュアとして思ったままの事を言った。目を閉じて瞼に映る楽しかった今回の旅行のひとこまを。



花と若者  田囗道江 (詩)

   

花の頭飾顫

音楽にアイデアのせた

構成の デザイン輝く

ヘッド ドレスボーン


ポピーの花よ 私の命

お前は私の花

真紅の花よ ポピーの花よ

ロスアンゼルスの 空一面

染める 夕日の沈む如く

一つになって散りましょう


若者

のんびりと テキーラをのみていし

若者 吾に花束なげる

日やけした 若者が ソンブレロ

大きくゆらせ 花束なげる

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