真珠湾攻撃の瞬間から敵国人となり大使館に閉じ込められた駐日アメリカ大使グルー氏と2鉢のラン

 


1941年12月8日、日本はとつぜんハワイ真珠湾を急襲し戦端が開かれた。

駐日アメリカ大使グルー夫妻と大使館スタッフあわせて十六名はこの日から1942年6月の日米交換船で帰国するまで、約半年間、先行きの見えないなかで、大使館内に閉じ込められることになった。

米大使館に勤める日本人スタッフは、勤続10年以上、なかには40年という老使丁長もおり、全員が大使館のみなさんが帰国するまでとどまってお世話をさせてくださいと申し出たという。しかし、当局はそれをゆるさず、やむなく全員が解雇となった。

グルー大使とアリス夫人は親日家としてしられ、日本国内には多くの友人がいた。彼らは、グルー夫妻の身を案じて、毎日のように花束を贈り、また食糧を支援した。敵国人に対する日本当局の圧力は凄まじいものがあったと想像する。それでも彼らは支援を続けた。

この間、グルー大使はクリスマスの贈物として妻に蘭の鉢を2鉢贈っている。日本人の親切な巡査に頼んで探してもらったものだった。巡査は東京中の花屋をめぐってようやく手に入れてくれたのだという。

※大使らが帰国した日米交換船のアメリカからの便には、鶴見和子・俊輔姉弟、現上皇陛下の皇太子時代の教育係ヴァイニング夫人の通訳を務めた松村たね(恵泉女学園)、同じく、恵泉女学園から園芸の勉強のために留学をし、帰国後に生活園芸科の教授となった山口美智子が乗っていた。

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『滞日十年』ジョセフ・C・グルー 石川欣一訳 毎日新聞社 1948年


クリスマスの晩とクリスマスの日

一九四一年十二月廿四、廿五両日

クリスマスの晩は忘れがたいものだつた。晩餐にジーン・ドウーマンは、何か特別な場合にと思つて大事にしていたヴァージニアの砂糖で保蔵したハムを、ネッド・クロッカアは一九三三年版の豊醇なバーンカスラァ・ドンクタア二瓶を提供した。スミス・ハットン夫婦、ミス・コールス、ウィリアムズ、ターナァ、ベニンホフ、ボーレン、クレスウェルも食事にきた。三鞭の抔をさゝげて私はアリスと私からの二つの挨拶をした。第一にわれわれが決して忘れぬであろうこの困難な時機に際して、彼らの素晴らしい組織力と自発力と思慮の深さと一般的助力を、私たちがどんなに感じているかを表示して、任官されたるとされざろとを間わず館員の健康を祝し、第二に米国にいる細君たちが近く彼らの夫と幸福に再会することを希望し、神が彼らを祝福せんことを祈つた。ドウーマンはこれに対して感動すべき答辞を述べた。

 数名の友人から花が送られ、フランス大使夫人ヨランド・アルセヌ・アンリからは美しい手紙と贈物がアリスに届けられた。また食事の前に西外務次官の夫人はアリス宛に七面鳥を二羽届けさせたが、これは西が個人的の友情を示したもので、このジェスチュアは大きに感銘が深かつた。なお全館員がアリスと私に花を贈つたが、何という館員たちだろう

 だがこの日の主要な出来ごとは食後三、四十人の館員が丘を登つて官邸にいる私たちを、クリスマスの讃美歌やカロルでもてなしてくれたことである。はじめ広間でアデステ・フィデレスを歌つた彼らは、ハイリゲ・ナハ卜を歌いながら、ゆつくりと回廊に出て行つた。これはまつたく自然発生的なので、彼らはたつた一度練習しただけだが、ベニンホフ指揮の合唱は本当に美しかつた。アリスと私は非常に感動し、アリスは可哀想にも声を立てて泣き、私も一生懸命に自制した。彼らはしばらく歌い続けたが、最後に再び「きよしこのよる」を最弱音で歌いながらゆつくりと官邸を立去り、そして「御民の王なる御子は」を歌つて坂を下りていつた。これは私たちがいつまでも記憶するであろう一晩であつた。その後館員は事務所の共用室で歌つたりピアノを弾いたりしていたが、今晩は確かに彼らの鬱積した感情と、その気がきびしく試練を受けている人達にとつて健全な捌け口をえたことと思う。


クリスマスの日


 晴れ渡った、ピリッとした、日のよくあたる日で、正午の日向は春みたいに暖かかつた。ここ数日間痛んだアリスの膝はよくなり、彼女は例の通りサーシャとミッキイの二匹をお伴にして芝生の散歩をたのしんだ。監禁生活十八日にして初めてジャパン・タイムズ・エンド・アドヴァタイザアが調達され、それを読むことは特別に楽しくもなかつたが、われわれは日本陸海軍成功の記事を相当割引して受入れる。私はいまだにドイツが早晩つぶれることを信じているが、一度ドイツ陸軍が分解し始めれば、それこそ終りの始りで、ドイツが退場し、どんどん強くなる一方の米英両国の海軍空軍の全力をあげて日本を攻撃することが出来るようになれば、生意気で凶悪な日本人でも、彼らの最後的破滅を明らかに知らざるをえまい。これはもちろん私の希望的考察だが、しかし私がドイツ人の性格をよく知つていることに立脚している。一九一八年に起つたことは恐らく再び起るであろうしヒットラーがソ連攻撃を開始した誤算は彼の没落である。歴史よ、ねがわくばこの予言を実証せよ。

 われわれの現状とそわが呼び起した公共精神は、クリスマスの晩と同じく、私たちがこの長い年月東京で経験したことのないクリスマスの日のお祝になつた。ミス・アーノルドとミセス・スコウランド、ミス・ガーディナア、ミセス・プレイフェア、ジョンソン、ステュワート両大尉を含む彼女の食卓仲間が官邸にきてカクテルを飮み、それに続いて私たちに西夫人の七面鳥と、火をつけたブランデーに泳ぐクロッカァ提供のブラム・プディングで素晴らしい正餐をとつた。それから贈物を交換したが、私は一人の友情的な巡査に頼んで鉢植の蘭を二鉢買い、アリスに贈つた。この巡査は東京中さがして歩いたらしい。

 午後四時私たちの召使、下田、深谷、船山、加藤の四人は彼らの家族が大使館構内に入ることを許されたと通告され、事務所の前で楽しそうな会見が行われた。われわれは非常に心を動かされたが、まつたく抑留が始つて以来、彼らは家族と話すことを禁じられていたのである。

 次が共同室でのクリスマス・トリイ(*ツリー)である。われわれは官邸とこの事務所の部屋とにそれぞれ一本ずつ立てたが、ジーン・ドウーマンが構内の下の方の塀に添つて繁り、家の日当りを悪くしている木を切ることを命じておいた。これら二本の木は数年前からの残り物できれいに飾られた。最初に副領事の一人のデーヴ・トマソンと私がピアノを弾き、次に一同そろつて讃美歌やカロルを歌い、最後にグールド大尉がサンタ・クロウズになつて現われ、ひとりひとりにしやれた面白い歌を読み上げて贈物をした。彼は非常にうまくやり、この会は大成功だつた。


外交官の交換 手配さる

一九四一年十二月卅日

 今日スイス公使がきて、日本政府はロレンソ・マルケス(*アフリカ大陸東岸、中立国ポルトガル領)で外交官交換を行うというわれわれの提案を受諾し、その細部に関する文書を現在フランス語に翻訳しているので、公使はすぐベルン経由でワシントンに打電するといつた。やつとのことで事態が動き出したらしい。

(以下略)

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