19世紀後半にウィーンの画家の王と称されたハンス・マカルトが花の流行に与えた影響について ウルズラ・ヴェゲナー氏の解説

 

皇帝夫妻の銀婚式祝祭行列の総合プロデューサーとしてマカルトがデザインしたパレードの衣装や装飾の原案の一部。当時はまだ高価だったヤシの葉が多用されている。(ハンス・マカルト「1879年の祝賀パレードのためのデザイン画」1879から)

 マカルトのアトリエを描いたもの(画家ルドルフ・フォン・アルトによる「グスハウス通りのハンス・マカルトのアトリエ」1885) 

オリエンタリズムやジャポニスムの影響、さまざまな民族文化が濃厚に入り混じった空間にも関わらず、芸術的な調和を見せている。多民族国家の中心地、世紀末ウィーンへと向かう空気を感じさせる独特な雰囲気の室内装飾だ。手前にも大きなヤシの鉢植えが描かれている点に注目。(ウルズラ・ヴェゲナー氏は、ネオ・バロックと呼んでいる。その一言でかたずけていいとは思えないが。。。)



上2点どちらもA.Blanc and J.H. McFarland、『Floral designs』1888年に掲載されたドライ素材の装飾。「マカルトブーケ」と呼ばれていた。ドイツ語圏だけでなくイギリスの園芸紙にも掲載されているということはかなり広く認知されていたということだろうか。


『花の基礎造形2』ウルズラ・ヴェゲナー 六耀社 2001年


ウルズラ・ヴェゲナー氏の書いた『花の基礎造形2』(六耀社2001)にマカルト・ブーケがビーダーマイヤー様式と同じくらいの比重で解説されている。重要な転換期の人物であると示すとともに時代を画すようなスタイルがマカルトにはあったということなのである。
画家マカルトが活躍した時代(19世紀後半~世紀末)は彼が早世してしまったために非常に短いが、当時の上流階級のサロンを主導するファッションリーダーでもあったために、彼の装飾スタイルは大きな流行を巻き起こしたという。
マカルトのあとを引き継ぐのはクリムトらの世代(20世紀初頭)となり、ユーゲントシュティール、分離派といった過去の伝統から決別した新しい芸術運動へと動き出していく。マカルトは生活の場に芸術を持ち込んだ。これはジャポニスムの影響もある。暮らしのなか(インテリア)に絵画やデザインの仕事が贅沢に行使される世界観をクリムトら分離派は実現しようと動きだしていた。
花のスタイルはそれまでワイヤーをかけて造形していたブーケがナチュラルステムのまま花やグリーンが美しく組み合わされ、束ねられ花瓶にいけるようなものへと変化していく、その起点にマカルトのブーケがある、という。ドイツ語圏の各地で花屋さんという職業が確立するのもこの時代であった。

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『花の基礎造形2』ウルズラ・ヴェゲナー 六耀社 2001年


●ハンス・マカルトは(*ビーダーマイヤー氏が架空の小市民的人物だったのに対して)実在の画家でした(1840-84、オーストリアの画家。ネオ・バロック風のマカルト様式を確立)。彼は華麗な色彩の堂々たる作品や歴史主義的絵画を創作しました。
●マカルトは記念碑的な壮大なもの、寓意的なもの、派手な色彩を好みました。今日、もし私たちが折に触れてバロック的な豊かさについて語るならば、マカルトとは比較しようもないでしょう。彼のアトリエ、アトリエの装飾、そして彼自身が、ネオバロックを演じていたのです。
●彼は、とりわけオーストリアでとても有名になり、マカルト帽やマカルトデコレーションがあったほどです。彼の装飾アイデアは、ウィーンやベルリンや他の大都市で台頭してきた「泡沫会社乱立時代(グリュンダーツァイト:1870-90年頃)」の好みにぴったりだったのです。
*1970~71年の普仏戦争勝利による賠償金で経済バブルがおき、そこで儲けた新興の富裕層の好みに合っていたということか。

●そして今まであったサロンブーケは、新しいものへと変化しました。マカルトブーケが登場したのです。
●これには、ヤシ科植物の羽状複葉、パンパスグラス、他の草や木の葉、さらに自然のままのものと着色したものなど、多数の材料が使われていました。現在のようなアクセサリーもすでにありましたが、挿したり刺繍したものではなく、クジャクの羽やチョウ、剥製の鳥が使われたのでした。
●ブーケは、長さがあり左右対称形で、片面の背面があるものと四方見の背面のないものが作られました。この時代にはもっぱら部屋の装飾用として大小のサイズがありました。
おそらく、この形態が、生の花の束ねたもの(ゲビンデ)の手本になったのでしょう。形態は類似していますが、大きさは少し小さくなっています。
●世紀が変わってユーゲントシュティール(青春様式。ドイツ、オーストリアなどドイツ語圏におけるアール・ヌーヴォー様式の呼称。1896年創刊の雑誌「ユーゲント(青春)」に由来)が現れ、俗物趣味的な装飾過多なものは嫌われ、マカルトシュトラウスもすたれてしまいました
もはや、このサロンデコレーションを欲する人は誰もいませんでした。

●今日、過去の形態やモードが復活してきているので、いろいろな過去の理念を振り返って、時代のさまざまなことに目を向けることは意味のあることです。
●一部は、全く無意識な折衷主義的な視点で、不思議な回り道によって生まれるのです。もちろん専門的な歴史的興味からともいえます。
●その時々のモードを今日では“トレンド”と呼びます。これが今年のトレンド、そしてこれが来年のトレンドなどといいます。もちろんそんなに急にうまくいくものではありません。当時も今日も同じです。トレンドは当時もおそらくそうであったように、たった一つの小さなグループや人が作るものではありません。それはむしろ回り道をしながら、すぐに陽の目を見るようなことはなく、長い間、その気配を大事に保ち続けているのです。ただ誰がいち早くその臭いを嗅ぎつけるかなのです。
●あの装飾過多のハンス・マカルトのようではないトレンドメーカーや仕掛け人であってほしいと思います。
●ほとんど刺激的で革新的な様式を創りだすことなく、マカルトはあっという間に忘れ去られてしまいました。彼のものはすべて美術館で埃をかぶり、観客の目に触れない、誰ものぞかない倉庫にあるという具合なのです。
もちろん価値がないのではなくて、一つの決定なのです。たくさんの“ネオ(新)”がある時代には起こりうるかもしれません。

*ウルズラ氏が真似るべきではないとしたマカルトブーケ的なスタイルが、シャンペトルやスワッグの形態に乗り移るかのように2000年代以降の世界のフラワーシーンを席巻していることが非常に興味深い。

●ネオ・バロックはすでに1870年に存在し、その後ネオ・ネオ・バロック、新歴史主義、新古典主義、40、50、60年代の様式があります。
つまり創造的なものは、それほど多くはないのです。または全く反対なのかもしれないのですが、それはあとになってわかることでしょう。

●もう一度、ビーダーマイヤーとマカルトに目を向けてみましょう。
マイホーム主義、狭量さ、寛大さ、けばけばしさ、退廃(特に19世紀末のデカダンス)、新しい概念と内容と並んで、私たちの時代の指標、画期的なものが存在しました。
●二人の時代にほとんど前後する二三の名前をあげてみましょう。エアンゼルム・フフォイアバッハ(1829-80年、ドイツの画家。理想主義的ドイツ後期ロマン派の巨匠)、カスパル・ダーヴィト・フリードリヒ(1774-1840年、ドイツの画家。ドイツ・ロマン派の代表的画家)、フランクフルトのパウル教会での第一回ドイツ国民会議、ハインリッヒ・ハイネ(1797-1856年、ドイツ・ロマン派の詩人)など。
●マカルトが表現力の乏しい見せかけの美しさに溺れていたとき、アントニオ・ガウディ(1852-1926年、スペインの建築家)はバルセロナにサクラダ・ファミリアを建築し、リヒャルト・ワグナー(1813-1883年、ドイツの作曲家。オペラの作曲で有名)は“トリスタンとイゾルデ”を書き、リープクネヒトとベーベルは社会民主労働党を設立したのです。何という世界の違い、そして何という刺激でしょう。
そしてこの時代に、私たちの最初の花屋が職業として確立したのです。なんと素晴らしいことではありませんか。

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