明治末期のフラワーアレンジメント制作法 前田曙山『曙山園芸』1911(明治44)年

前田曙山 「盛花」の話

 

曙山園芸  前田曙山 聚精堂  明44.5(1911)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/840166


明治の後半から旧来の切り花に加えて、いわゆる「洋花」が鉢植えを中心に少しずつ出回りはじめ、温室栽培の商業生産も始まる(たとえばカーネーションは明治42/1909年に東京中野の澤田氏が木造温室をたて、米国シアトルから持ち帰った苗を植えて栽培を始めたのが創始だという[土倉・犬塚「カーネーションの研究」1936年(昭和11年)])。

西洋式の花卉装飾で葬儀用のリース=「花環」や贈答用のバスケットフラワーが「盛花」の呼び名で富裕層を中心に広まっていく。当初はミズゴケを多用したが、のちにはオトシにスギ類を入れて花を「挿す」ようになっていった。
















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